第二部。繋がる命のカルテと、双子のワルツ。第28 話。はじめての『言葉』と、パパの大パニック。
50年目の恋文 〜神様の決めた許嫁と歩む、半世紀のカルテ
〜第二部。繋がる命のカルテと、双子のワルツ~
第28話。はじめての『言葉』と、パパの大パニック
完璧な離乳食のフォームと、小さなおててでの見事なメンタルケアを披露してから、さらに数ヶ月の月日が流れた。
私たちは無事に一歳の誕生日を迎え、私たちの世界のカルテには、ついに『言葉(お喋り)』という最も新しく、そして最も危険なページが追加されようとしていた。
(……美琴ちゃん。聞こえるかい? 陽太パパたち、ようやく眠りについたみたいだよ)
深夜。
しんと静まり返った子供部屋のベビーベッドの中で、お隣の布団から千秋先生(一歳の男の子)の魂の声が私の頭の中に響いた。
私はぷくぷくの手足を動かして、ベッドの柵にちいさなおでこを押し当てながら、先生の方を向いた。
(はい、千秋先生。……今日も陽太パパ、私たちの誕生日に『大きくなったなぁ』って、ケーキを食べる前から大号泣していましたね)
(あはは、本当に僕たちの息子は涙腺がゆるくて困るよ。……さあ、美琴ちゃん。今夜も『あれ』の発声練習を始めようか。早く人間の言葉を喋れるようにならないと、君の名前を口に出して愛を囁くこともできないからね)
千秋先生の一歳児らしからぬ大人のセリフに、私のちいさな胸がドクンと激しく跳ねる。
そうなのだ。
中身がベテラン夫婦である私たちは、お互いに「美琴ちゃん」「千秋先生」と呼び合いたくて仕方がなかった。
けれど、一歳の赤ちゃんの声帯は、まだ大人の言葉をうまく発音できない。
だから私たちは、夜な夜なこっそりと発声練習を重ねていたのだ。
「ち……ちあ……ちあき、あぶぅ」
私が一生懸命に舌を動かして声を出すと、千秋先生も「フンス、フンス」と真剣な目をして口を動かした。
(おしいよ、美琴ちゃん。大人の医学的にはね、一歳児のファーストワード(最初の言葉)は『マンマ』や『パパ』が一般的なんだ。でも、僕たちの愛の力なら、その常識を容易に覆せるはずさ。さあ、僕の真似をしてごらん。……み、こ、と)
「み……み、こ……うーっ!」
最後がどうしても赤ちゃん言葉になってしまい、悔しくて私がベッドの上でゴロンと転がった、その時だった。
「おいおい、夜中にずいぶんと熱烈な恋文を交わしているな、ちびっこたち」
ざあっと、閉まっているはずの窓から心地よい秋の風が吹き抜け、月明かりの差し込む窓辺に、あの銀髪の神様がふわりと腰掛けていた。
手には、陽太パパが私たちのために買っておいてくれた、お祝いの可愛いキャラクタークッキーをポリポリと美味しそうに盗み食いしている。
「か、神様……っ!」
私が心の中で叫ぶと、神様はクッキーを飲み込んでお茶目ににやりと笑った。
「一歳にして大人の言葉を喋ろうとするとは、相変わらず生き急ぐ双子め。……ほれ、あまり焦って大人の言葉を喋ると、パパになった陽太がショックで本当にひっくり返ってしまうぞ」
神様は最後の一枚をパクリと平らげると、パチンと綺麗に指を鳴らした。
その瞬間、私の薬指の(目には見えないけれど確かにある)水晶の指輪が、キラリと優しい黄金色の光を放ち、私たちのちいさな喉の奥に、じんわりと温かい新しい力が満ち溢れていく。
「これは私からの誕生日のおまけだ。明日の朝、とびきりのカルテをお見舞いしてやるがいい」
神様は白い羽を大きく羽ばたかせると、夜空の向こうへと消えていった。
そして、翌朝のことだった。
「さあ〜! 一歳になった可愛い千秋くん、みことちゃん! 陽太パパと一緒に、お喋りの練習をしてみようねぇ〜!」
診療所の白衣を着た陽太パパが、大きな絵本を両手に持って、デレデレの笑顔で私たちの前にしゃがみ込んだ。
「ほら、パ・パ、だよ! パパって言ってごらん!」
千秋先生(一歳の男の子)は、その陽太の顔をじっと見つめると、神様のおまけの力で滑らかになった喉を使い、実にはっきりとした声で言葉を発した。
「パ……パ。……よちよち(よくやった)」
「ええええっ!? 今、パパのあとに『よくやった』って言わなかった!? なんかもの凄い上司の目線で褒められた気がするんだけどぉぉぉ!!」
陽太パパが早くも大パニックを起こして頭を抱えている。
それを見ていたおっとり天然な私は、嬉しくなって千秋先生を指差し、大好きなあの人の名前を、なんの疑いもなく口に出してしまった。
「ちあき、せんせっ!」
静まり返るリビング。
陽太パパは完全に石のようにカチコチに固まり、手に持っていた絵本を床へとポロリと落とした。
隣にいた千秋先生も、さすがに
(あちゃあ、美琴ちゃん、うっかり本音が出ちゃったね)
という顔をしてちいさな手を額に当てている。
「……ま、ママァァァーーッ!! 大変だ、大変だよぉぉぉっ!!」
陽太パパは、目から滝のような大粒の涙をボロボロと流しながら、キッチンにいる奥さんに向かって絶叫した。
「み、みことちゃんが……! まだ一歳なのに、千秋くんを指差して『千秋先生』って、完璧な発音で喋ったんだよぉぉぉっ!! 医学の限界を超えてるよ、僕の大好きなお父さんの名前を呼んだんだよぉぉぉっ!!」
陽太パパがパジャマの袖(白衣の袖)をびしょ濡れにして大号泣し、奥さんが「はいはい、陽太さんの幻聴ね」と呆れてお皿を洗っている姿を見て、私は生まれつき涙もろい目のまま、あぅあぅと幸せいっぱいの声を上げた。
難しい医学の教科書も、大病院の権力も、今の私たちのちいさな手のひらには何もない。
けれど、こうしてうっかり大人の言葉を喋ってパパを大パニックに陥れ、千秋先生とちいさな手をぎゅっと繋ぎながら笑い合う毎日は、五十年の遠回りなんて一瞬で吹き飛んでしまうほど、きらきらとした最高の愛に満ち溢れていた。
神様がくれた、生まれ変わりの処方箋。
私たちの双子のワルツは、陽太パパの賑やかな絶叫と街の秋風に乗って、ここからさらに温かく、誰も見たことのない新しい愛のページをめくっていくのだった。
(第28話・了。第29話へつづく)




