第二部。繋がる命のカルテと、双子のワルツ。第27話。離乳食のカルテと、小さなおてて。
50年目の恋文 〜神様の決めた許嫁と歩む、半世紀のカルテ
〜第二部。繋がる命のカルテと、双子のワルツ~
第27話。離乳食のカルテと、小さなおてて
完璧なハイハイを披露して陽太パパを腰が抜けるほど大号泣させてから、さらに数ヶ月。 私たちの世界のカルテには、ついに『離乳食(ご飯の練習)』という新しいページが追加されていた。
「さあ、千秋くん、みことちゃん! 陽太パパが栄養バランスを完璧に計算して作った、特製のすりおろし野菜だよ〜! あーんしてごらん!」
お昼休みのリビング。
診療所の白衣を着たままの陽太パパが、小さなスプーンを両手に持って、デレデレの笑顔で私たちの前に座っていた。
小さなベビーチェアに並んで座る私たち。
中身が六十七歳のベテラン医師である千秋先生は、スプーンに載った緑色のドロドロを見つめながら、心の中で冷静に分析していた。
(ほう。ほうれん草と小松菜、それに少しのリンゴですりおろしてあるね。鉄分とビタミンの配合が完璧だ。新米パパの小児科医としては、なかなかに優秀なカルテだよ、陽太先生)
千秋先生(男の子の赤ちゃん)は、心の中で息子を大絶賛しながら、「コクコク」と実に綺麗なフォームで離乳食を平らげていく。
さすが元院長、赤ちゃんの体でもお行儀が良い。
「お兄ちゃん、本当に偉いねぇ! じゃあ、次は涙もろくて可愛いみことちゃんだよ〜、あーん」
スプーンが私の前にやってきた。
おっとり天然な私は、嬉しくなって小さな手足をバタバタと動かした。
「あぅ、あぶぅ!」
勢いよく口を開けた瞬間、天然の不器用さが大爆発してしまい、小さな手がスプーンにパシッと当たってしまった。
緑色のドロドロが宙を舞い、私の顔中と、陽太パパの白衣の胸元に、ズサーッと綺麗に飛び散る。
「ひゃああっ!? み、みことちゃん、お顔が緑色の怪獣さんになっちゃったぁぁ!」
陽太パパが慌ててティッシュを引っこ抜いて大騒ぎする中、隣の席の千秋先生が、(あはは、美琴ちゃん、赤ちゃんになってもその天然なドタバタは健在だね。とっても可愛いよ)と、本当に愛おしそうに心の中でクスクスと大笑いしていた。
そんな賑やかなお昼休みが終わり、診療所の午後外来が始まった時のことだった。
受付の椅子に、生後間もない小さな赤ちゃんを抱っこした、一人の若いお母さんがぽつんと座っていた。
その顔はひどく真っ白で、目の下には濃いクマができている。
「あの……陽太先生。うちの子、全然おっぱいを飲んでくれなくて……。私の育て方が悪いのかなって、夜中にこの子の寝顔を見ていると、涙が止まらなくなっちゃって……」
お母さんの震える声が、待合室のベビーサークルの中で大人しく座っていた私の胸に、チクリと突き刺さる。
ああ、分かる。お産を終えたばかりの、あの孤独な恐怖。
他人の痛みに敏感な私は、目から、一瞬でポロポロと大粒の涙が溢れ出し、「ふえぇぇん」と一緒になって泣き出してしまった。
「おや、みことちゃん、どうして君が真っ先に泣いちゃうんだい」
陽太パパが慌てて私を抱き上げる。
陽太は新米医師として一生懸命にお母さんにアドバイスをしていた。
「お母さん、おっぱいを飲む量には個人差がありますから、そこまで悩まなくても大丈夫ですよ。お薬を出すほどでは――」
陽太の言葉は正論だった。
けれど、心に深い傷を負っているお母さんの顔は、ちっとも晴れなかった。
数字や医学の正論だけでは、お母さんの孤独な涙は拭えないのだ。
その時、ベビーサークルの中から、信じられないハイスピードのハイハイで、千秋先生の赤ちゃんがズサササッとお母さんの足元まで這い寄ってきた。
「あぅ、うー!」
千秋先生は、驚くお母さんの膝の上に小さな両手を置くと、一生懸命に背伸びをして、お母さんの指を自分のぷくぷくとした、ちいさなおててでぎゅっと、強く握りしめたのだ。
そして、その丸い知的な瞳で、真っ直ぐにお母さんの顔を見つめて、ふにゃりと目元のシワを寄せるようにして優しく微笑んだ。
(お母さん。機械の数字なんて気にしなくていい。君の手のひらの温もりがあれば、赤ちゃんはそれだけで世界一幸せなんだよ。だから、もう一人で泣かないでおくれ)
言葉にはならない。
けれど、千秋先生の纏う圧倒的な『医は仁術』の温かいオーラが、その小さな手を通じて、お母さんの心へと真っ直ぐに染み渡っていった。
「あ……。温かい……」 お母さんの目から、今度は安心の涙がぽろぽろと流れ落ちた。
千秋先生の小さな手に触れた瞬間、張り詰めていた心のカルテが、すうっと元気になるのが分かったのだ。
ざあっと、診療所の窓から心地よい秋の風が吹き抜けた。
見上げると、待合室の天井の照明の陰から、あの銀髪の神様がひょっこり顔を出して、お茶目におにぎりをモグモグしながらウィンクをしてみせた。
神様がパチンと指を鳴らした瞬間、私の薬指の(目には見えないけれど確かにある)水晶の指輪がキラリと輝き、お母さんの腕の中の赤ちゃんが、まるで「ママ、大好き」と言うように、ふにゃあと言葉にならない可愛い声を上げた。
「あはは、本当だ。お母さん、赤ちゃん、今笑いましたよ!」
陽太パパが白衣の袖で自分の涙を拭いながら、嬉しそうに叫んだ。
「僕、まだまだ勉強不足でした。千秋くん、みことちゃん、二人にまた『本物の医療の心』を教えられちゃったな」
お母さんは、千秋先生を愛おしそうに見つめて「ありがとうございます、先生」と頭を下げて、見違えるような最高の笑顔で帰っていった。
大病院の権力も、難しい医学の言葉も、今の私たちのちいさな手のひらには何もない。
けれど、こうして顔中を離乳食でドロドロにしながらパパを困らせ、千秋先生のちいさなおててで街の人々の心を救っていく毎日は、どんな最先端の病院よりも、きらきらとした最高の愛に満ち溢れていた。
神様がくれた、生まれ変わりの処方箋。
私たちの双子のワルツは、陽太パパのデレデレな笑顔と、新しく救われたお母さんの足音に乗って、ここからさらに温かく、未来への新しいページをめくっていくのだった。
(第27話・了。第28話へつづく)




