第4章。嵐の夜の包囲網と、命のカルテ。第22話。ネットの泥沼と、立ち上がるカルテ。
50年目の恋文 〜神様の決めた許嫁と歩む、半世紀のカルテ
〜第4章。嵐の夜の包囲網と、命のカルテ~
第22話。ネットの泥濘と、立ち上がるカルテ
来週に迫った医療財団の裏の黒幕たちによる『大合併の調印式』。
そこへ乗り込んで不正を暴くという秘密の作戦を決めてから、私たちは叔父さんが命がけで持ち出してくれた内部データの分析と、あの五十年前の神様の予言カルテを抱えて、静かに決戦の時を待っていた。
けれど、ただの金儲けのためにこの街の医療を乗っ取ろうとする黒幕たちは、私たちの想像以上に汚く、卑劣な手段を仕掛けてきたのだ。
「お父さん、お母さん! 大変だ、ネットの掲示板やSNSが、大変なことになってる……っ!」
ある日の朝、診療所の受付に息子の陽太がスマホを片手に飛び込んできた。
画面を見ると、そこには私たちの小さな診療所に対する、悪意に満ちたデタラメな書き込みが無数に並んでいた。
『千秋地域診療所は、大停電の中でお産を強行した危険な闇医者だ』
『最新の設備もないのに妊婦を囲い込み、赤ちゃんの命を危険に晒している』
『院長は過去に離婚騒動を起こした、倫理観のない男だ』
「なっ……何ですかこれ……っ! 全部、真っ赤な嘘です……っ!」
生まれつき涙もろい美琴は、ネットの画面に並ぶ心ない言葉の暴力に、一瞬で大粒の涙を流して悔しさに体を震わせた。
千秋先生がどれだけ寝る間も惜しんで子供たちの命と向き合ってきたか。
陽太がどれだけ真面目に新米医師として頑張っているか。
それをこんな汚い言葉で汚されるなんて、他人の痛みに敏感な美琴の胸が、張り裂けそうに痛む。
「美琴ちゃん、泣かないでおくれ。ネットの泥濘に、君の綺麗な涙を落とす必要はないよ」
診察室から出てきた千秋先生は、上品な白髪を少し揺らしながら、静かに私の涙をあの清洁なハンカチで拭ってくれた。
けれど、先生の深く刻まれた目元のシワの奥にある瞳は、冷たく透き通っていた。
「奴らは調印式の前に、僕たちの評判を完全に地に落として、街の人々から診療所を孤立させるつもりだね。医療を数字とイメージでしか操れない奴らが、よく使う安易な手法さ。……でもね、陽太先生、美琴ちゃん。僕たちがこれまで書き溜めてきたカルテは、ネットの文字なんかよりも、ずっと強いんだ」
千秋先生の凛とした声に救われるように、私たちは診察を始めようとした。
けれど、ネットの噂の恐怖は凄まじかった。
いつもなら朝から子供たちの元気な声で賑わう待合室に、お昼を過ぎても、患者さんが一人も来ないのだ。
静まり返った診療所に、時計の秒針の音だけが寂しく響く。
「やっぱり、みんなネットの噂を信じちゃったのかな……」
陽太がぽつりと肩を落とした、その時だった。
カランカラン、
と診療所の受付の鈴が、勢いよく鳴り響いた。
「千秋先生! 美琴さん! 陽太先生!」
ドアを押し開けて入ってきたのは、あの台風の夜に停電の中で無事に赤ちゃんを産んだ、結衣さんだった。
腕には、すやすやと眠る可愛い赤ちゃんの姿。
さらに結衣さんの後ろには、以前千秋先生に盲腸の手術をしてもらった男の子の親御さんや、診療所に通うたくさんの街のお母さん、お父さんたちが、怒った顔をして次々と診療所に入ってきたのだ。
「結衣さん……! みなさん、どうして……っ?」
私があわあわと声を上げると、結衣さんは私の手をぎゅっと強く握りしめ、真っ直ぐな目で言った。
「ネットの酷い噂を見ました! あんなの絶対に許せません! 台風の夜、電気もない中で、私たちの命を命がけで救ってくれたのは、美琴さんたちのこの温かい手のひらです! 機械の数字しか見ない大病院なんかより、私たちは、この千秋診療所を信じてるんです!」
「そうです! 千秋先生に子供の命を救ってもらった私たちが、黙っているわけにはいきません!」
待合室を埋め尽くした街の人々が、口々に熱い声を上げてくれた。
他人の優しさに誰よりも弱い美琴の目から、今度は嬉しさと感動で、堰を切ったようにボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
「う、うわぁぁん……っ、みなさん、ありがとうございます……ありがとうございます……っ」
私が大号泣するものだから、陽太も白衣の袖で目を真っ赤にして
「僕も、もっと良い医者になりますぅ……っ」と一緒になって泣きじゃくっている。
千秋先生はそんな私たちを見て、本当に嬉しそうに目元のシワを深くして微笑んでいた。
その時、診療所の天井から、ざあっと心地よい風が吹き抜けた。
見上げると、受付のカウンターの上に、あの銀髪の神様がひょっこり現れて、私たちが作ったお茶菓子を勝手にポリポリと食べながら、お茶目ににやりと笑った。
「人間の悪意も大したものだが、お前たちが紡いできた『愛のカルテ』の力は、それを遥かに上回るな。……ほれ、ちびっこたち。街の人々がな、来週の調印式の会場の周りで、この診療所を守るための大きなデモ(応援)を起こす準備を始めているぞ。影が濃くなれば、光はもっと強く輝く。神の私が保証してやろう」
神様がパチンと指を鳴らした瞬間、私の右手の薬指の水晶の指輪が、これまでにないほど黄金色に神々しく輝き、診療所全体を温かい光で包み込んだ。
「ありがとう、神様。……よし、みんな、僕たちの後ろにはこんなに心強い『主治医(街の味方)』たちがついている。来週の調印式、あの黒幕たちの真っ黒なカルテを、僕たちの本物の医療の力で真っ白に書き換えてやろう!」
千秋先生の力強い宣言に、待合室の人々が「おおおっ!」と大きな歓声をあげた。
難しい医学の知識なんて、やっぱり私にはまだ全然分からない。
けれど、泥まみれの嫌がらせを受けても、私にはこの大好きな家族がいて、守りくれる街の人々がいて、破天荒だけど優しい神様がいる。
この街のすべての命と未来を守るために、いよいよ来週、巨大なホールのステージで行われる『大調印式』という名の最終決戦へ向けて、私たちの命を懸けたカルテが、最高に熱く動き出そうとしていた。
(第22話・了。第23話へとつづく)




