第4章。嵐の夜の包囲網と、命のカルテ。第19話。真っ暗闇とカルテと、嵐のなかの悲鳴。
50年目の恋文 〜神様の決めた許嫁と歩む、半世紀のカルテ
〜第4章。嵐の夜の包囲網と、命のカルテ~
第19話。真っ暗闇のカルテと、嵐のなかの悲鳴
神様が告げた『命の最大の試練』という言葉の通り、その日の深夜、私たちの診療所は世界の終わりかと思うほどの激しい恐怖に包まれていた。
ゴオォォォ、
と地鳴りのような音を立てて暴れる猛台風。
叩きつける豪雨が窓ガラスを激しく叩き、診療所の建物全体がミシミシと不気味に揺れている。
テレビのニュースでは
「外へ出るのは命の危険があります。避難を……」
とアナウンサーが緊迫した声で繰り返していた。
交通機関も道路も完全に麻痺し、救急車すら動けない、文字通りの『陸の孤島』と化していた。
そんな嵐の音をかき消すように、突然、診療所の中に鋭い音が響き渡った。
――バチンッ!
それと同時に、今まで室内を照らしていた電灯がすべて一瞬で消え去り、視界が恐ろしいほどの真っ暗闇に包まれた。
「うわっ!? 停電だ……っ!」
診察室の奥から、息子の陽太の焦った声が聞こえる。
「陽太先生、落ち着いて。白衣のポケットにペンライトが入っているだろう。まずは足元を照らしなさい」
千秋先生の低く落ち着いた声が暗闇の中に響く。
その声に救われるように、陽太がライトを点灯させ、小さな白い光の輪が部屋を照らし出した。
けれど、状況は絶望的だった。
大病院の院長を退任して開いたばかりのこの小さな診療所には、大病院にあるような強力な自家発電装置(バックアップ電源)がない。
薬の冷蔵庫も、医療機器のモニターも、すべてが冷たく沈黙してしまっていた。
薬が財団の妨害で届かず、電気もない、外は猛台風。
おっとり天然な私の心臓が、恐怖でバクバクと激しく脈打つ。
生まれつき涙もろい美琴は、もう今にもボロボロと大粒の涙が溢れそうになっていた。
その時だった。
ドンドン! ドンドン!
と、診療所の裏口のドアを、壊れそうなほどの力で叩く音が響いた。
「助けてください……っ! 誰か、誰か開けてください……っ!!」
それは、昼間に財団の大病院から脅されていた、あの妊婦の結衣さんの旦那様の悲痛な叫び声だった。
千秋先生と陽太が慌てて鍵を開けてドアを押し開くと、激しい暴風雨とともに、びしょ濡れになった旦那様が、激しい痛みに顔を歪めて大きなお腹を抱える結衣さんを必死に支えて立っていた。
「結衣さん……っ!?」
私は自分の涙をぐっと拭うと、二人の元へ駆け寄った。
結衣さんの服は雨で冷たく濡れていて、その手はガタガタと小刻みに震えている。
「夕方から……急にお腹が痛くなって、予定日より半月も早いのに、破水しちゃって……っ。大病院に電話したけれど、嵐で救急車が出せないから朝まで待てって言われて……っ。もう痛くて、怖くて、美琴さんと先生の顔しか浮かばなくて……っ!」
結衣さんは暗闇の中で私の手をぎゅっと握りしめ、パニックを起こして泣き叫んでいた。
一刻を争う、急激に進むお産。
でも、ここには薬もない、電気もない。
「どうしよう、お父さん……!
電子モニターが動かないから、赤ちゃんの心音も、結衣さんの血圧も、何も数字が分からないよ……っ!」
新米医師の陽太が、小さなペンライトを握りしめたまま、恐怖で声を震わせた。
財団の言う通り、こんな設備のない診療所でお産をするなんて無理だったんだ……。
そんな絶望の空気が、暗闇を支配しようとした、その時。
千秋先生が、結衣さんの前にそっと屈み込み、あの大きくて温かい手で彼女の肩をぽんぽんと優しく叩いた。
その瞳には、かつて数万人の子供たちを救ってきた、圧倒的なプロの『医は仁術』の輝きが満ちていた。
「陽太先生。機械の数字が見えなくても、僕たちには『手』がある。医者の耳がある。昔のドクターたちは、五感のすべてを研ぎ澄まして命を救ってきたんだ。……美琴ちゃん、結衣さんの服を着替えさせて、分べん台へ! 僕たち親子三人のすべてのカルテをかけて、この命を絶対に救うぞ!」
「……はい、先生っ!!」
私は力強く頷いた。
助産師の教科書の知識なんて、今の真っ暗闇では役に立たない。
ベッドを動かす手もおぼつかないけれど、私には一人の母親として、この陽太を命がけで産み落としたあの夜の本当の経験がある。
「結衣さん、大丈夫です、私を見て、息を吸って、吐いて……っ!」
私は結衣さんの手を強く、強く握りしめた。
その瞬間、ガタガタと激しく揺れていた分べん室の窓の向こう。
暴風雨の中に、あの銀髪の神様がいつものお茶目な笑顔を浮かべて立っているのが見えた。
神様が優しく、愛おしそうにパチンと指を鳴らす。
すると、私のカバンの中にあったあの五歳の時の『水晶のお守り』と、私の薬指の『水晶の指輪』が、まるで夜明けの太陽のように、眩しくて温かい『神秘的な白い光』をカッと放ち始めたのだ。
その光は、真っ暗闇だった分べん室を昼間のように明るく照らし出し、結衣さんのお腹の赤ちゃんの鼓動の音を、トクトクと、まるで部屋中に響く優しい音楽のように鳴り響かせた。
「神様……っ」
私の目から、嬉しさと感動の涙がポロポロと溢れ出す。
「よし、光は十分だ! 陽太、僕のサポートを! 美琴ちゃん、結衣さんの呼吸に合わせて!」
「はい、先生!」
嵐の猛威が吹き荒れる真っ暗闇の診療所で、神様の奇跡の光に包まれながら、私たち親子三人の、命をかけた本物のチーム医療が、今まさに始まろうとしていた。
(第19話・了。第20話へとつづく)




