第二部。繋がる命のカルテ編。第17話。開かれた禁断のカルテと、迫り来る運命の足音。
50年目の恋文 〜神様の決めた許嫁と歩む、半世紀のカルテ
〜第二部。繋がる命のカルテ編~
第17話。開かれた禁断のカルテと、迫り来る運命の足音
初めて診療所を訪れてくれた妊婦の結衣さんの手を握り、一緒に涙を流しながら「大丈夫ですよ」と微笑み合った、あの温かい午後。
息子の陽太が感動して大号泣し、千秋先生がそれを見てお腹を抱えて笑っていたあの穏やかな日常は――まさか、私たちを飲み込む巨大な嵐の前の、静けさに過ぎなかったなんて、この時の私はまだ何も知らなかった。
すべての始まりは、結衣さんが笑顔で帰ったその日の夕方。
診療所の最奥にある、先代の医師たちが使っていた古い鍵付きの資料室を、三人で整理していた時のことだった。
「うわっ、なんだこれ……。お父さん、お母さん、ちょっと来て!」
資料室の奥から、陽太の驚愕した声が響いた。
私と千秋先生が慌てて駆けつけると、陽太は埃をかぶった棚の隙間から、見たこともないほど古びた冊子を突き出していた。
それは、電子カルテが普及する遥か昔の、紙の専門カルテだった。
けれど、そのカルテの表紙を見た瞬間、私と千秋先生は息を呑んだ。
色褪せた表紙には、驚くほど達筆で綺麗な銀色のインクで、こう書かれていたのだ。
『患者名:宮司陽太(重症急性虫垂炎)/ 執刀・立ち会い:千秋 ―― 運命の処方箋』
「これ……どういうことだ? 陽太が盲腸で担ぎ込まれたのは、数年前のあの冬の夜だ。なのにこのカルテ、紙の風合いからして、少なくとも五十年前……僕がまだ子供だった頃に書かれたものだぞ」
千秋先生の手が、微かに震えていた。
カルテをめくると、そこにはあの日、千秋先生が陽太の命を救うために奔走したすべての医療記録が、一文字の狂いもなく正確に『予言』として書き込まれていた。
そして最後のページには、あの銀髪のお茶目な神様のサインと、不穏な一言が遺されていた。『神の引いた糸は、人間の時間など容易に飛び越える。だが、光が強まれば、影もまた濃くなる。最初の約束を忘れるな』
「神様の……いたずら?」
私がお守りをぎゅっと握りしめた瞬間、私の右手の薬指の水晶の指輪が、警告を告げるように冷たく、鋭く点滅した。
神様が五十年前から仕組んでいた、私たちの命の計画。
驚きに包まれる診察室に、追い打ちをかけるように、突然、冷徹な大人の足音が響き渡った。
カランカラン、
と診療所の受付の鈴が寂しげに鳴る。
そこに立っていたのは、高級な黒いスーツに身を包んだ、冷ややかな目をした初初老の男性だった。
千秋先生の顔から、一瞬で余裕の笑顔が消え去る。
「……叔父さん。どうしてここへ」
男性は、千秋先生がかつて親の命令で結婚させられ、そして美琴ちゃんへの想いを断ち切れずに離婚した、あの格式高い『本家の医療財団』の最高責任者だった。
「久しぶりだね、千秋くん。大病院の院長を勝手に退任して、こんな辺鄙な場所でママゴトのような医療を始めていると聞いて、実家の人間として忠告に来たのだよ」
叔父と名乗る男性は、受付にいる私と、白衣を着た陽太を蔑むような目で見つめた。
「そこの薄汚れた神社の娘と、別の男との間にできた連れ子かい? 君が過去の婚姻を破棄してまで守りたかったものが、これとはね。……千秋くん、我が財団はこの地域の土地を買収し、新しい巨大総合病院を建設する。この古びた診療所は、来月末をもって強制立ち退き(閉鎖)としてもらう」
「なっ……! そんな勝手なこと……っ!」
新米医師の陽太が怒りで拳を握りしめる。
けれど、叔父は冷酷に笑うだけだった。
「医療はボランティアではない、権力と数字だ。君たちのような弱小医師に、何ができる?」
激しい暴言を残し、男性は去っていった。
一瞬にして、私たちの温かい診療所に「閉鎖」というあまりにも理不尽な現実のタイムリミットが突きつけられてしまったのだ。
「すまない、美琴ちゃん。僕の過去の因縁が、君たちを巻き込んでしまった……」
千秋先生が、六十七歳の体に重い後悔をにじませて肩を落とす。
その時だった。
診療所の窓の外が、一瞬にして真っ黒な嵐の雲に覆われ、ザァァァッと激しい雷雨が降り始めた。
ガタガタと激しく揺れる窓ガラスの向こう。
並木道のもみじの葉が激しく飛び散る中に、あの銀髪の神様が、いつもの笑顔を完全に封印した、神聖で恐ろしい表情で立っていた。
神様の声が、直接私たちの頭の中に響き渡る。
『影が動き出したな、ちびっこたちよ。現世の理不尽に、お前たちの人間としての高潔なカルテが引き裂かれようとしている。……生きるか、それとも、すべてを投げ打って次の輪廻へと進むか。運命のタイムリミットは、来月末だ』
神様のお告げ。
それは、診療所の危機だけでなく、私たちの現世での絆が再び試される、大いなる試練の幕開けだった。
私たちは、この理不尽な現実の壁をどう乗り越えるのか。
そして、あの五十年前の予言のカルテに隠された、本当の『最後の奇跡』とは一体何なのか――。
五十五歳の私の、命をかけた新しい戦いが、今ここから始まろうとしていた。
(第17話・了。第18話へとつづく)




