第二部。繋がる命のカルテ編。第16話。新米ドクターの涙と、お母さんの手のひら。
50年目の恋文 〜神様の決めた許嫁と歩む、半世紀のカルテ
〜第二部。繋がる命のカルテ編~
第16話。新米ドクターの涙と、お母さんの手のひら
私が助産師の教科書を開くようになってから、数ヶ月が経った。
相変わらずカタカナの専門用語には苦戦しているけれど、千秋先生が夜診のあとにトランプ手品を交えて体の仕組みを教えてくれたり、息子の陽太が「お母さん、そこはテストに出ますよ!」と先輩ぶって指導してくれたりする、温かくて賑やかな日常が続いていた。
「千秋先生、美琴さん……。あの、お伺いしてもいいですか」
ある日の午後。診療所の受付に、少し大きくなったお腹を愛おしそうにさすりながら、一人の若い女性がやってきた。
彼女はこの街に最近引っ越してきたばかりの妊婦の『結衣』さん。
予定日を来月に控えているのだけれど、身寄りのない新しい土地での出産に、ずっと大きな不安を抱えているようだった。
「結衣さん、こんにちは! 今日も赤ちゃんは元気にトントン動いていますか?」
私がおっとりとした声で迎えると、結衣さんは少しホッとしたように微笑んだけれど、その目はどこか悲しげに揺れていた。
「はい、元気なんですけど……。実は最近、夜になると急に怖くなって、涙が止まらなくなっちゃうんです。私みたいに頼りない人間が、本当にお母さんになれるのかなって」
その言葉を聞いた瞬間、生まれつき涙もろい私の胸が、ぎゅっと締め付けられた。
結衣さんの姿が、二十数年前、初めて陽太を妊娠して「ちゃんとお母さんになれるのかな」と毎晩ベッドでお腹をさすって泣いていた、あの頃の私自身と完全に重なったのだ。
「結衣さん、分かります、分かりますよ……っ。初めてのお産って、本当に怖いですよね……っ」
助産師の卵である私が、真っ先にポロポロと大粒の涙を流して結衣さんの手を握りしめるものだから、結衣さんは逆にびっくりして目を丸くしている。
「こらこら、美琴ちゃん。患者さんを元気づけるはずの助産師さんが、真っ先に泣いちゃダメだよ」
診察室から出てきた千秋先生が、困ったように目元のシワを深くして笑いながら、あのアイロンのきいた清潔なハンカチを私に手渡してくれた。
何十年経っても変わらない、世界一安心する先生のハンカチ。
「結衣さん、初めまして。小児科医の千秋です。うちの受付が泣き虫ですまないね。でもね、彼女が流したその涙は、結衣さんの不安を誰よりも分かち合っている証拠なんだよ」
千秋先生はそう言って、白衣のポケットから可愛い花の形をした折り紙をパッと取り出して結衣さんに手渡した。
先生の優しい手品に、結衣さんの表情がふっと和らぐ。
「大丈夫。お腹を切る手術や難しい注射は僕たちの仕事だけど、お母さんの不安な心に寄り添うのは、教科書を持たない美琴ちゃんの『手のひら』が一番の特効薬だからね」
千秋先生の温かい言葉に背中を押され、私は結衣さんの手をもう一度、ぎゅっと包み込むように握りしめた。
「結衣さん。私なんてね、料理をすれば塩と砂糖を間違えるし、何もないところで転ぶくらいの、本当にとんでもない天然お母さんだったんです。それでもね、陽太が産声を上げてくれた瞬間、それまでの不安が全部吹き飛ぶくらいの、最高の幸せが待っていました。結衣さんは一人じゃないです。私たちが、この診療所が、結衣さんと赤ちゃんのことを全力で守りますからね」
「美琴さん……。ありがとうございます。なんだか、美琴さんにそう言ってもらえると、本当に大丈夫な気がしてきました」
結衣さんの目から、今度は安心の涙がこぼれ落ち、その顔には本物の優しいお母さんの笑顔が戻っていた。
その時、診療所の廊下の奥から、
「うぅ……うわぁぁん……っ、本当に、よかったぁ……っ」
という、男の人の低くて激しい泣き声が聞こえてきた。
びっくりして振り返ると、そこには診察室の陰で、白衣の袖でボロボロと涙を拭っている息子の陽太の姿があった。
私の涙もろい遺伝子を完璧に受け継いだ陽太は、結衣さんと私の会話を聞いて、誰よりも感動して大号泣していたのだ。
「ちょっと、陽太先生! どうしてあなたがそんなに泣いているの!」
「だ、だってぇ、お母さんの言葉が、新米医師の僕の胸にも刺さっちゃって……。僕も、結衣さんの赤ちゃんを絶対に笑顔にする医者になるぞって、感動しちゃったんだよぉ……っ」
陽太がぐすぐすと鼻を鳴らす姿を見て、千秋先生はお腹を抱えて大笑いし、結衣さんも楽しそうに声を上げて笑った。
診療所の中が、一気に温かい笑顔の空気で満たされていく。
ざあっと、診療所の窓の外から心地よい秋の風が吹き込んできた。
ふと見上げると、並木道の赤いもみじの葉の隙間から、あの銀髪の神様がひょっこり顔を出して、お茶目にウィンクをしてみせた。
神様がパチンと指を鳴らすと、私の薬指の水晶の指輪がキラリと輝き、お腹の赤ちゃんがまるで「よろしくね」と言うように、結衣さんのお腹の内側から優しく元気にトントンと動いた。
難しい医学の知識なんて、やっぱり私にはまだ全然足りない。 けれど、こうして患者さんと笑い合い、千秋先生や陽太、そして破天荒な神様と紡ぐ日常のカルテこそが、新しい命をこの世界に迎えるための、何よりも最高の処方箋なのだと、私は心の底から信じていた。
(第16話・了。第17話へつづく)




