第二部。繋がる命のカルテ編。第15話。五十五歳の新しい教科書と、スープ。
50年目の恋文 〜神様の決めた許嫁と歩む、半世紀のカルテ
〜第二部。繋がる命のカルテ編~
第15話。五十五歳の新しい教科書と、夜食のスープ
千秋先生の実家の近くに、小さな『千秋地域診療所』を開いてから数ヶ月。
私はおっとり天然ながらも受付として一生懸命に千秋先生を支え、息子の陽太も立派な若き医師として診療所を手伝いに来てくれるようになり、私たちはこれ以上ないほど温かい毎日のカルテを紡いでいた。
私の右手の薬指には、あの日、神様の力で本物の美しい水晶へと変化した指輪が、いつもきらきらと輝いている。
そんなある日の夜、診療所の診察がすべて終わった後のことだった。
「うぅ……カタカナの筋肉の名前が、全然覚えられません……っ」
私は受付のデスクに、見たこともないほど分厚い医学の教科書を広げて、生まれつき涙もろい目を潤ませながら頭を抱えていた。
そう、五十五歳になった私は今、一念発起して『助産師』の資格を取るための勉強を始めていたのだ。
かつて自分が拓海くんとの子供――陽太を命がけで産み落としたあの冬の夜。私はお医者さんや助産師さんに命を救ってもらった。
今度は私が、千秋先生や陽太の隣で、不安に震えるお母さんたちの心に寄り添い、新しい命の誕生を助けられる存在になりたい。
知識なんて何もない天然な私だけれど、その強い想いだけを胸に、ゼロから教科書にかじりついていた。
「こらこら、僕の小さなお嫁さん。そんなに眉間にシワを寄せていたら、せっかくの可愛いお顔が台無しだよ」
トントン、とお茶の入ったマグカップを私の机に置きながら、六十七歳になった千秋先生が白衣を少し着崩して、優しい笑顔で覗き込んできた。
「千秋先生……。だって、このお薬の名前も、体の仕組みも、難しすぎて頭が爆発しそうなんです……」
「あはは、新米の医大生だった頃の僕を見ているみたいだ。よし、じゃあベテラン小児科医の先生が、手品で楽しく覚えさせてあげよう」
千秋先生は白衣のポケットから手品用のトランプをサッと取り出すと、悪戯っぽく笑った。
「このカードが赤なら動脈、黒なら静脈。ほら、パッと変わった。ね? 簡単だろう?」
「わあ……! 先生すごいです! ……でも、先生の教え方が優しすぎて、なんだかぽかぽかして眠くなってきちゃいました……」
「こらこら、僕の肩で寝ないの。お勉強が進まないじゃないか」
先生は困ったようにシワを刻んで笑いながらも、私の頭を大きな、温かい手でぽんぽんと撫でてくれた。
あの五歳の夏の日から、何も変わらない大好きな手の温もり。
「何をお二人でイチャイチャしてるんですか、もう」
そこへ、白衣を着た息子の陽太が、呆れたような、でも嬉しそうな顔をして診察室から出てきた。
「あ、陽太先生! ちょうどいいところに。ここ、教えてほしいんです」
私が教科書を指差すと、陽太はちょっと偉そうに腕を組んでフンスと胸を張った。
「しょうがないなぁ。医療の世界では僕の方が『先輩』ですからね。お母さん、そこはですね――」
陽太が一生懸命に説明してくれるけれど、私が天然を発揮して
「へえ、じゃあ大根の煮付けの隠し味と同じね!」
なんて突拍子もないことを言うものだから、陽太は
「なんでそうなるの!?」
とずっこけている。
千秋先生はそれを見て
「あはは、陽太先生、美琴ちゃんには敵わないね」
とお腹を抱えて笑っていた。
そんな私たちのドタバタとした笑い声が響く診療所の窓の外から、ざあっと心地よい秋の風が吹き込んできた。
ふと見上げると、診療所の屋根のひさしの上に、あの頃と全く変わらない姿の銀髪の神様が腰掛けて、おにぎりをモグモグと食べながらこちらを見下ろしていた。
「おい、ちび。今度は命を産み出す手伝いをするのか。神である私の許可は取ったのか?」
神様は相変わらず破天荒で意地悪なことを言うけれど、その目はとても温かかった。
神様がパチンと指を鳴らすと、私の薬指の水晶の指輪が一瞬だけピカッと輝き、頭の疲れがすうっと消えていくような不思議な力が湧いてきた。
「がんばれよ、ちびっこ助産師」
神様はそう言い残すと、白い羽を揺らして夜空の向こうへ消えていった。
「美琴ちゃん。君には『自分が命がけで陽太を産んだ』という、本物の母親の経験がある。それは、どんなに難しい教科書にも載っていない、世界一最高の知識なんだよ」
千秋先生が私の手をぎゅっと握りしめてくれた。
「はい……っ。私、先生と陽太の隣で、世界一優しい助産師さんになります!」
難しい専門用語なんて分からなくてもいい。私には、この大好きな家族がいて、見守ってくれる神様がいる。
たくさんの患者さんや妊婦さんたちの笑顔と涙に触れながら、私たちの新しく温かい日常のカルテが、ここからまた楽しく書き始められようとしていた。
(第15話・了。第16話へつづく)




