第9話 俺だけだって言ってよ
※念のためR15でお願いします。
スマートフォンが震えたのは、夜の七時を少し回った頃だった。
画面に表示された名前を見て、すぐに通話ボタンを押す。
「もしもし、鳴くん?」
『……高瀬さん』
その一言だけで分かった。
声が出ていない。
朝よりも掠れて、息混じりで。
「今日の配信、難しいかもしれません」
「……分かりました」
私はすぐにスケジュールを開く。
「コラボ相手には私から連絡します。枠の変更か延期か、一旦ほかの子いけないか相談してみる」
『すみません……』
「謝らなくて大丈夫だから、お大事に」
少し間が空いて。
電話口、苦しそうな呼吸音がする。
「熱は測りました?」
『さっき……』
「何度?」
『……三十八度二分です』
「…………」
一瞬、言葉を失った。
思っていた以上に重症だった。
「三十八度……かぁ」
『はい……』
思わず額を押さえる。
今更言ってもしょうがないけれど、そんなに重症なら今日病院に連れていくべきだった。
「……わかりました」
『ごめんなさい』
「何か食べました?」
『……』
沈黙。
「鳴くん?」
『まだ、です』
5秒ほど待って返事がなかったので、名前を呼んで先を促す。
まだというのは食べない奴の言い訳とも言える。
正直、そこまでの高熱では食欲自体ないのかもしれなかった。
「薬は?」
『飲んでません』
「......分かりました」
電話を切る。
そのままメッセージを送る。
『おかゆでもうどんでもいいので、何か食べてください。薬も飲んでください。』
既読は付かない。
一分。三分。五分。
何度スマホの画面を確認しても、普段は即レスの鳴くんだが返信はなかった。
嫌な予感しかしない。
私はひとまずこんなの枠の調整を他のマネージャーに打診しながら近くのコンビニへ駆け込み、おかゆとスポーツドリンク、解熱剤、それからゼリー飲料を抱えて駅へ向かった。
◇
インターホンを鳴らす。
返事はない。もう一度。
2度目のインターホンを押した直後、ガチャリとチェーンを外して、玄関の鍵が開いた。
「……高瀬、さん」
ドアの隙間から現れた鳴くんは、バンドのライブTシャツにスウェットというなんとも気の抜けた格好をしていた。
朝とは別人みたいだ。
顔は真っ赤で髪は寝癖のまま、焦点も少し合っていない。
一目で意識が朦朧としているとわかるような顔色で、それでも目を見開いてみせた鳴くんは、カスッカスの吐息みたいな声で私を呼ぶ。
「ああ、もう!」
思わず声が出た。
とりあえずその控えめに開いた戸の隙間にグッと身を進めれば、
「おかゆあっためるから、休んでて!」
たじろぎながら身を引いた鳴くんに買ってきたマスクを手渡す。
「はい!これマスクして!」
「え、ちょっ……どうし」
「病院は?」
こんな非常時でなければ、マネージャーが突然家まで押しかけてくるなんて迷惑でしかないだろう。
戸惑いながらも、鳴くんは私からマスクを受け取ると、特に抵抗することもなく大人しく身につけた。
こういう時、本当に素直だ。
普段から「ちゃんと食べて」「今日は早く寝て」と言えば、文句は言いながらも最後には聞いてくれる。
……もっとも、今日は熱で考える余裕がないだけかもしれないけれど。
「でも……」
「いいから!」
ふらつく肩を支え、そのまま部屋へ入る。
初めて足を踏み入れた鳴くんの部屋は、想像していたよりずっと整頓されていた。
男の一人暮らしにしては、かなり綺麗な方だと思う。
こんな形で入ることになるなんて思ってもみなかったけれど、余計なものは見ないように視線を逸らし、そのままキッチンを借りる。
おかゆを温め始めると、ようやく少しだけ息をついた。
「はい」
「少しでいいから食べて」
「……いただきます」
一口。
二口。
ゆっくりだけど、苦しそうにしながらもちゃんと食べてくれる。
薬も飲ませて、水分も取らせる。
「一旦薬飲めたね。よし」
「ありがとうございます……」
その声を聞いて、ようやく少しだけ肩の力が抜けた。
スマートフォンで終電を調べる。
終電までは30分程度の余裕があった。
駅までの距離を考えても、タクシーのお世話にはならずに済みそうだ。
「じゃあ私は――」
立ち上がろうとした、その時。
スーツの袖が、くいっと引かれた。
「……帰らないで」
「え?」
振り返ると、座らせたソファの上。
熱で潤んだ瞳が、まっすぐ私を見つめていた。
「そばに、いて」
普段はみんなに元気を与える側の彼が弱り切った姿はあまりに痛々しくて。
一瞬、言葉を失う。
「……鳴くん」
引かれるまま、私はもう一度ソファへ腰を下ろした。
「熱で心細いだけです」
図らずも、言い聞かせるような優しい声になる。
「ちゃんと寝たら治るから」
「違う」
弱々しく首を振る。
「……なんで来ちゃうの」
「え?」
そんなことを言われると思わずに、一瞬フリーズした。
迷惑だったのだろうか。
「俺」
こわばる私に少し笑って。
「結構ちゃんと、いい子に我慢してきたのに」
「高瀬さんが優しいんだもんなー......」
その一言で、胸がざわつく。
「期待しちゃうよ、俺だって」
「……」
返す言葉が見つからない。
責められているというより、攻められている、と思った。
「めい、くん」
ゆっくりと起き上がった鳴くんが、私をじっと見つめる。
思わず名前を呼ぶと、ゆっくりと目を細めた。
「……じゃあ、なんで」
息を絞り出すような声。
本当はこんな体調で話すべきじゃない。
「なんで、他の人担当するの、何の抵抗もしないわけ」
「え……?」
「次の担当」
潤んだ瞳なのに、その視線だけは逸らさない。
「男だったら、許さないから」
低い声で言われると、思わず目が泳いだ。
何を言っているの、この子。
「……は?」
鳴くんの掠れた低音が響く。
「まじで言ってるの?」
「えっと、違くて」
言い訳ってわけでなく、次の担当の話はまだ詳しく話されていなかった。
でも、慌てた私の反応が彼の中では次の担当ライバーは男だという情報に置き換わってしまったのだろう。
「他の男の担当とか……ふざけんな」
怒っていることは明らかな声色。
熱で赤くなった顔のまま、真っ直ぐ私を見る。
「鳴くん」
「なんでだよ」
子どもみたいに拗ねた声にも聞こえるのに、確実に滲む嫉妬と独占欲。
「俺だけだって言ってよ」
胸が、ぎゅっと締め付けられる。
「担当は会社が決めることで――」
「そういうことじゃない」
「俺だけ特別みたいなこと言っておいて、こんな、家に来るほど面倒見てくれるくせに、なんなんだよ」
遮るように降ってくる苛立ち。有無を言わさない頑なな態度。
なのに――
「どうせ、仕事だから優しくされてるって、分かってる」
泣きそうな声で言われると、心臓が抉れそうに痛かった。
「でもさ……?社会が何たるか知らないガキに、こんな美人のマネージャーつけてさ」
私が彼を担当したのは、本当に偶然でしかなかったと思う。
それでも、担当できてよかった。
今でも心の底から思っている。
「なんでもするよとか、いつでも連絡してとか……なんでも手厚くフォローしてくれてさ、なんなの?」
だから、ここまでできているんだ。
鳴くんの為なら何でもする。
だからこそ、苦しかった。
「……好きにならないとか、そんなことできる奴いる?」
その言葉に、何も返せなかった。
「……鳴、くん」
仕事だから。
担当だから。
そう思ってしてきたすべてのことが、全部鳴くんを期待させて苦しめてしまっていた。
思わせぶりだったなんて、今の今まで考えたことがなかった。
「……ごめんなさい」
小さく零した声に、鳴くんは首を横に振る。
「あのさ?……俺だって男だよ」
言いながらゆっくり顔を寄せる。
気が付けば間近に迫った熱い吐息が頬をかすめる。
「わかってる……?」
ゼロ距離で囁かれる熱を帯びた甘い声。
熱に浮かされて潤む瞳が、揺れる。
「嫌なら、避けて」
そう言って私の返事を待つように、一瞬だけ動きを止めた。
その距離があまりにも近くて、呼吸が浅くなる。
「……鳴く――」
名前を呼び終えるより早く。
唇に、柔らかな温もりが触れた。
本当に、一瞬だけ。
触れて、すぐに離れる。
「……うそ、」
「嘘じゃないよ」
静まり返る部屋。
何をしたのか、現実として認識できずに目を見開く私に、 鳴くんは悲しそうに微笑んで。
「……ごめん」
消え入りそうな声で、それだけ言う。
頬を撫でて後頭部へと延びる指は、緊張故か発熱の所為なのか酷く震えている。
「……んっ」
もう一度重ねられた唇は先ほどよりも深く。
熱の塊みたいな鳴くんの舌が、私の中を探る。
息苦しさに漏れる自分の吐息はあまりにも熱に濡れていて。
自分自身の口から発せられたとは思えない。
濡れたリップ音が夜を侵食する。
「ん……ぁっ」
自分の身に起きたことなのに、現実味がなかった。
唇が離れた拍子に、細い銀糸がぷつりと切れる。
上がりきった息が耳に残る。
目の前には愛しくて堪らないって目で見つめてくる、あまりに綺麗な男の子。
「なんで……抵抗しないの」
私の唇の横の唾液を指で拭う。
「もう帰って」
泣きそうに震える声で言って。
ふらつきながらベッドへ戻ると、そのまま布団を頭まで被ってしまった。
「でも、ごめん……ありがとう」
私はその場から動けないまま、自分の唇へそっと指先を当てる。
熱い。
今更燃えてしまいそうな頬も、壊れそうに鳴る鼓動も。
何が正解なのか分からないまま、秒針だけが静かに響く部屋を後にした。




