第5話 百万人いけたら
車へ乗り込むと、エンジンと同時に音楽が流れ始めた。
思わず目を丸くする。
車内いっぱいに広がる音は、まるでライブハウスで聴いているような臨場感があった。
低音は沈み込みすぎず、高音は耳に刺さらない。
歌声だけが、すっと胸の奥へ届いてくる。
「あ、この曲」
「知ってる?」
「うん。歌みた候補で送ってきたやつ」
「却下されたやつ」
シートベルトを締める音が重なる。
鳴くんはエンジンを軽く吹かし、静かに車を走らせた。
「箱内の他の子が歌うの決まっちゃってたからさ。今なら逆に全然問題ない」
「お、まじか。じゃあ今度配信で歌って、温度感はかろうかな」
不満そうに口を尖らせたかと思えば、すぐに次の話題へ切り替える。
こういう切り替えの早さも、この子らしい。
地下駐車場を抜けると、薄曇りの空がフロントガラスいっぱいに広がった。
音楽は途切れることなく流れ続ける。
次に流れたのは少し懐かしいロックバンド。
その次は最近流行りのJ-POP。
さらに洋楽。
ジャンルはばらばらなのに、不思議と心地いい。
「……趣味広いね」
「好きな曲が多いだけ」
「歌みたの参考とか?」
「それもあるけど」
信号が青へ変わる。
「普通に音楽好きだから」
タイミングよくアクセルを踏み込み、片手でハンドルを滑らせるように回す。
その動作に一切無駄がない。
「休みの日、一人でドライブして聴いてたりするし、ギターも弾くよ」
「へぇ」
少し意外だった。
配信者はとんでもなく忙しい職業だ。
配信して、編集して、ゲームして。
四六時中パソコンの前にいるイメージだったから。
「たまに友達と遊んだりもする」
「ちゃんと」
「その『ちゃんと』って何?」
「いや、なんとなく」
思わず吹き出してしまう。
首都高へ入ると、鳴くんは急に口数が減った。
車線変更。
ミラー。
ウインカー。
一つひとつの動作が丁寧で、運転に集中しているのが分かる。
思いのほか、運転が上手い。
助手席から見える横顔は、いつもの子どもっぽさが薄れて見えた。
ハンドルを握る腕。
骨ばった指先。
真剣な眼差し。
出会った頃はまだ高校を卒業したばかりだった。
忘れそうになるけれど。
こうして隣に座ると、ちゃんと大人の男の人なんだと実感してしまう。
そんなことを考えた自分に気付いて、慌てて窓の外へ視線を逸らした。
「高瀬さん」
「ん?」
「好きな音楽ある?」
「昔はロックばっかりだったかな」
「へぇ」
アイドルだったくせに、聴いていたのは邦洋問わずロックばかりだった。
「今は何でも聴くよ」
「仕事柄?」
「うん」
頷く。
「鳴くんと、いろはさんの歌みた候補探したりするから」
歌はもともと好きだった。
でも今の仕事になってからの方が、ずっとたくさんの音楽を聴いている気がする。
「この人の曲なら合いそうとか、今まで歌ってないジャンルだけど挑戦できそうとか。そういうの考えながら聴くの、結構好きなんだ」
「仕事熱心」
「誰のせいだと思ってるの」
「俺のためだね」
即答だった。
「もう」
思わず笑ってしまう。
「そういうところだよ」
「え?」
「ファンが勘違いするの」
鳴くんは同じくらいの登録者を誇る配信者の中でも、圧倒的にガチ恋勢が多いと言われている。
正直、かなり全体の登録者を引き上げている要因ではあるのでそれ自体は、いいのだけれど。
コメント欄やSNSでは、鳴くんを巡って論争やマウント合戦が日常茶飯事だ。
熱感の高いファンが多いということは、いつ炎上してもおかしくない危うさを常に孕んでいるということでもある。
「ん?……高瀬さん俺のファンなの」
「ん、まあ。ファンといっても過言ではないでしょ」
昨日泣いている鳴くんに絆されて、これまでの三年間本当に幸せだったなんて言ってしまった手前。
その点はもう言い訳のしようがないと思った。
「じゃあいいじゃん」
「いいわけないでしょ」
言い返すと、鳴くんは少しだけ不満そうに頬を膨らませた。
「ケチ」
「マネージャーをガチ恋勢にしようとしないで」
鳴くんは「ちぇ」とでも言いたげに肩をすくめた。
それがおかしくて、肩の力が抜ける。
昨日今日があまりにも怒涛だったから。
この何気ない空気が、少しだけ懐かしかった。
車はそのまま街を抜け、海沿いの道へ入る。
「……海?」
「うん」
空はすっかり厚い雲に覆われていた。
やがて雨粒がフロントガラスを叩き始める。
駐車場へ車を停め、エンジンを切る。
残ったのは、規則正しく窓を叩く雨音だけだった。
「ごめん」
鳴くんが苦笑する。
「本当は海、見せたかったんだけど」
「雨とか」
「俺、持ってないな」
「ふふっ」
思わず吹き出す。
「まあ、急だったしね」
「ここからでも海見えるよ」
うん。返ってきた返事は思いの外静かで。
困ったような笑顔が少しずつ消えていって。
鳴くんは真剣な瞳をする。
「俺さ」
少しだけ、低い声だった。
「高瀬さんに恩返ししたい」
「もう十分してもらってるよ」
「違う」
何を言い出したんだ。
そう思って返した言葉は、鳴くんに受け取ってもらえない。
「全然足りないんだ」
首を横に振ってから、視線を海に向ける。
「配信者としてどうしたらいいのか。社会人としてどう立ち回ればいいのか。メンタルの保ち方も、人との向き合い方も」
一つひとつ、思い返すように言葉を紡ぐ。
視線は雨の向こうへ向けられたまま。
寄せては返す波の向こうで、曇った空を割るように一筋の光が海へ落ちている。
「全部教えてくれたのは、高瀬さんなんだよ」
担当が変わる。
もう決まっている未来。
昨日より少し先送りになっただけで、それは変わらない。
「せめて最後くらい」
最後。
その言葉がどうやっても胸を締めつけた。
「百万人になって、約束を果たしたい」
昨日まで一週間だった時間が、三か月になった。
それだけなのに。
私たちは、まだ前を向ける気がしてしまう。
「だから」
鳴くんがこちらを向いて笑う。
「もう一回、約束しなおさせて」
「……うん」
私も笑い返して頷いた。
「二人で、三か月後の3Dライブまでに、絶対百万人」
「指切りげんまん」
差し出した小指へ、鳴くんの指が絡む。
「針千本飲ーます」
「俺が針千本飲んだら、ファンが悲しむな」
「……笑えない冗談」
私が怪訝な顔をすると鳴くんは嬉しそうに口角を上げた。
「絶対達成しよ」
「うん」
小指を離そうとした、その時だった。
鳴くんの指先が、私の指を追いかけるように、もう一度そっと絡んだ。
驚きながら、視線を外す。
なんで今、手を繋いでるんだろう?なんて、考えたら頬が熱くなりそうだったから。
「鳴くん……ありがとね」
「何が?」
思わず零れた言葉に、鳴くんは少しだけ困ったように笑う。
「ありがとうは俺の台詞でしょ」
雨音だけが静かな車内へ響く。
「……高瀬さん」
「ん?」
鳴くんはゆっくりと息を吸う。
大きな舞台の前、緊張で呼吸が浅くなった時。
まずは全部吐いて、それから吸うこと。
そう教えたのは、私だった。
「俺、考えたんだ」
その横顔は、どこか吹っ切れたようにも見えた。
「担当、変わるじゃん」
「……うん」
雨音だけが響く車内。
少し前まで聞こえていた音楽も、今はもうエンジンと共に止まっている。
「三か月後には」
「うん」
「そしたらさ」
緊張しているのか、言葉を選ぶように何度も間を置く。
繋いだままの手に少しだけ力がこもった。
「俺たち、今みたいには会えなくなるじゃん」
その一言が、胸へ静かに刺さる。
「会社に来たら会えるよ」
……なんだろう、この空気。
胸がざわつく。
それでも、私はできるだけ明るく笑った。
「担当が変わっても、同じ会社なんだから」
「違う」
隣を見ると、眉間をぎゅっと寄せていた。
怒っているわけではないかもしれない。
でも、有無を言わせない声だった。
「そういうことじゃない」
鳴くんが私を見る。
まっすぐ。
逃げ場なんてないくらい、まっすぐ。
「仕事があるから会える、じゃ嫌なんだ」
胸が小さく鳴るのは、どうしてなんだろう。
「だから」
一拍置いて。
「百万人いけたら」
鳴くんは困ったように笑っているのに、今にも泣きそうで。
見ればその耳は真っ赤だ。
「お願い、一個だけ聞いて」
「あはは」
あまりに真剣な顔で子どもみたいなことを言うのがおかしくて、笑ってしまう。
「いいよ」
「なんで内容も聞かずに?」
自分から頼んでおいて、了承には不服そうだった。
でも、なんで?なんて私の台詞だ。
「そんな顔でお願いされて断れるわけないでしょ」
私に叶えられることだったらなんでもしよう。
そう思う程度には、私は鳴くんを大事に思っている。
鳴くんは目を丸くして沈黙してから、少しだけ俯いて笑った。
「……ずるい」
そして、もう一度私を見る。
「じゃあ、その時は」
一度息を吐いて、吸う。
「俺と、付き合って」
「…………」
数秒。
思考が止まる。
「……え?」
本当に何も考えられなかった。
「ん?」
間の抜けた声が漏れる。
「だから、三か月後、ちゃんと百万人行けたらさ」
鳴くんは照れ隠しもせず、真っ赤な顔のまま言った。
「俺の彼女になって」
真っ直ぐな眼を見つめたまま固まる。
雲の隙間から差し込んだ光が、運転席だけを照らす。
虹彩が薄い綺麗な瞳だ、なんて。
場違いに考える。
雨音だけが、静かな車内に響いていた。




