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第4話 三か月の執行猶予

 

 その日の夜。


 いつもより早めに帰宅した私は湯船に浸かりながら、スマホで鳴くんのコラボ配信を眺めていた。


「こんばんはー!」


 画面の向こうでは、いつも通りの笑顔。


 昼間、あんなことがあったなんて誰にも分からないくらい、楽しそうに笑っている。


 コメント欄もいつも通り流れていく。


『今日もめいくんかわいい!』

『コラボ神!』

『そのツッコミ待ってたw』


 私は思わず息を吐いた。


「……よかった」


 ちゃんと笑えてる。


 ちゃんと配信できてる。


 プロだなぁ。


 いや、もうそんな言葉じゃ足りないくらい、この子は強い。


 私は湯船に肩まで浸かる。


「色々あったなぁ……」


 頭の中はまだ昼間の出来事でいっぱいだった。


 担当変更。


 三年間の思い出。

 百万人までの戦略。

 社長室への呼び出し。


 鳴くんの涙。

 身に余るほどの感謝の言葉。


 考え始めると止まらない。

 なんだか思い出して泣いてしまいそうだった。


「……でも」


 あと一週間。


 私にできることを、最後までやろう。


 それだけだ。

 画面の向こうでは、鳴くんがリスナーに向かって甘く笑っていた。


『そんなこと言われたら……照れるじゃん』

「……」


 思わず笑う。


「サービスボイス上手くなったなぁ」


 今日もファンが悶えてるんだろうな。


 昔は抑揚の付け方に演技指導が入ったりしたのに、最近は演技もどんどん自然になってきた。


 彼の成長を感じると同時に、昼間の言葉まで蘇ってくる。


『隣にいてよ』


私は慌てて首を横に振った。


「いやいや」


 ちゃぷりと揺れた水面に、そのまま顔まで埋めたくなる。


「あれは反則でしょ」


 独り言が浴室に反響して、やけに大仰に聞こえた。


「こんな声であんなこと言われたらさ、そんなんしょうがないでしょ」


 誰に言い訳しているのかも分からないまま、逃げるように湯船から上がった。


 頬が熱いのは湯気のせい。

 そういうことにしておこう。


     ◇


 翌日。


 出社して間もなく、スマホが鳴った。


『出勤したら社長室』


「……はあ」


 昨日の報告か。

 鳴くんをきちんと説得したのかと、確認されるに違いない。


 昨日の今日で、もう一度あの重たい空気に晒される覚悟が必要だった。

 とはいえ、逃げられるものでもない。


 鳴くんの前で私まで泣きそうになったことは伏せて、一旦話はついたと報告すればいい。

 頭の中で要点を整理しながら、社長室の扉をノックした。


「失礼します」


 部屋へ入ると、ソファには既に先客がいた。


「……鳴くん?」


 今日、彼はオフだったはずだ。


 いつもの甘えた様子は欠片もなく、神妙な顔で腰を下ろしている。


 社長は腕を組んだまま、私を一瞥した。


「座れ」


 おはようの代わりに、もう一度「失礼します」と口にして鳴くんの隣へ座る。


 彼はこちらを見ようとしなかった。


 身体の前で固く手を組み、まっすぐ社長だけを見ている。


「今日は朝から呼びつけて悪かったな」


 その一言に、思わず目を丸くした。


 社長がそんなことを気にかけるなんて珍しい。


「あー……まあ、先に言っておくが」


 社長は言葉を選ぶように頭を掻いた。


「担当を変更するという決定自体は、撤回しない」


 胸の奥が、少しだけ痛む。


「ただし、実施時期を三か月後まで延期する」


「……え?」


 思わず隣を見る。


 けれど鳴くんは驚きもせず、無表情のまま社長を見つめていた。


「三か月後の3Dライブまでだ」


「その間は、これまでどおり高瀬が担当する」


 昨日まで完全に閉ざされていたはずの扉に、小さな隙間ができた。


 でも、どうして。


「高瀬に任せる予定だった新人のデビューが、少し後ろ倒しになりそうでな。会社としても、三か月なら調整できる」


 社長はそこで鳴くんを見た。


「それに、こいつがどうしても時間をくれと言うから」


「……鳴くんが?」


「ただ待ってくれとは言ってません」


 そこで初めて、鳴くんが口を開いた。


 静かな声だった。


「三か月で、百万人に行きます」


「えっ?」


 間の抜けた声が、社長室に響く。


 鳴くんは構わず続けた。


「三か月後のライブまでに、必ず」


 社長は深いため息を吐く。


「勘違いするなよ。百万人を達成したからといって、担当変更を取り消すわけじゃない」


「分かってます」


「ただ、確かにお前の言うことにも一理ある。高瀬と組んで残り三か月で百万人を達成するプランは、会社としても利点があると判断しただけだ」


「はい」


 鳴くんは迷いなく頷いた。


 担当変更の決定がなくなったわけではない。

 執行猶予が、三か月に延びただけ。


 それでも。

 昨日まで完全に閉ざされていた扉に、確かに小さな隙間ができていた。


「ありがとうございます」


 鳴くんは、企業案件の挨拶でも見たことがないほど深く頭を下げた。

 唖然とする私を横目に、社長は苦笑する。


「礼は、約束どおり百万人を達成してから言え」


 約束。


 私が呼び出される前に、二人の間で交わされたもの。

 鳴くんは、一体どんな顔で社長に頭を下げたのだろう。

 どんな言葉で、この三か月を勝ち取ったのだろう。


 強い決意の滲む横顔に気圧されて、私は何も訊けずにいた。


     ◇


 社長室を出て、重い扉が背後で閉まる。

 カチャン、と響いた音に、張り詰めていた糸がようやく緩んだ。


「はぁ……」


 無意識に息を吐く。

 さっきまで何を言われるのか分からず緊張していたのに、今はまるで別の意味で頭の中がいっぱいだった。


 三か月。

 百万人。

 担当変更は、別に撤回されたわけじゃない。


 それでも、昨日までは一週間しかなかった猶予が延びた。


 こうなったら残り三か月でなんとかしてやる。

 まずは何をすればいい。

 どこから手をつける。


 残された時間で、どこまでできるかわからないけれど、もらったチャンスを無駄にするわけにはいかない。


 早く整理しなくちゃ。


「鳴くん!」


 少し先を歩き出していた背中に、思わず声をかける。


 鳴くんは足を止めた。


 けれど、振り返らない。


「ちょっと会議室で話そう!」


「やだ」


「え?」


 あまりに間髪を入れない返事に、伸ばしかけた手が宙で止まる。


 社長室では背筋を伸ばし、食い下がるように話していた鳴くん。

 けれど、そこを一歩出た途端、全身から力が抜けていた。

 俯いた横顔には疲れが滲み、ほんの少し前まで社長へ向けていた鋭さも消えている。


 代わりに残っているのは、拗ねた子どものような不機嫌さだった。


「今日オフだから、会社にいたくない」


 口を尖らせて、きっぱりと言い切る。


 先ほどまでの様子とのあまりの差に戸惑ってしまう。


「いや、でも……」


 話さなくてはいけないことは山ほどある。


 三か月で百万人を目指すなら、一日だって無駄にはできない。

 そう思うのに。


 今の鳴くんへ正論をぶつけても、余計に頑なになるだけな気がした。


「高瀬さん、今日なんか打ち合わせとか入れちゃってますか」


「いや、今日は特に入れてないけど……?」


 そう答えると、鳴くんは「よかった」とでも言いたげに、ふっと表情を緩めた。


 その笑顔を見て、思わず肩の力が抜ける。


 さっきまで社長室であんな顔をしていたのに。


 この子、本当に感情が顔に出る。


「ねえ、一緒にどっか行こ」


「え?」


「会社じゃないとこ」


 会社じゃないところ。


 その言葉に少しだけ考える。

 本当なら、戻って今日のことを整理したい。


 百万人を目指すためのスケジュール。

 営業先の洗い出し。

 ライブへ向けた企画。

 やることはいくらでもある。


 でも、有給もまだ残っているし、担当変更までに消化するよう言われていた。

 半休くらいなら、今からでもどうにでもなるか。


「……どこ?」


「乗って」


「乗って?」


「今日、車で来てるから」


「……え?」


 私は目をぱちぱちさせた。


「免許あったの!?」


「失礼だな」


 呆れたように目を細めて見せた鳴くんが腰に両手を当てて。


「あるよ!大学一年で取ったし」


「初耳なんだけど!?」


「言ってないもん」


 少しだけ胸を張るその顔がおかしくて、笑ってしまう。


「ていうか、どこ行くの?」


 聞くと、鳴くんは車のキーを指でくるりと回してみせた。

 そして、いたずらを思いついた子どもみたいに口角を上げる。


「着いてからのお楽しみ」


 その、ちょっと得意げな笑顔になぜか少しだけ胸が鳴った。


 いやいや。

 違う違う。違いますから。


 そんなの、サービス精神旺盛な配信者らしい表情を見慣れちゃっただけ。

 そう自分に言い聞かせる。


 昨日まで泣いていた人とは思えないくらい、楽しそうに笑う鳴くんを見て。

 私は少しだけ、息を吐いた。

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