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第22話 もう、戻れない

 

 水族館を出たあと連れて行かれたのは、海沿いの通りに面したレストランだった。


 大きな窓から海が見える、少しだけ背伸びをしたようなお店。


 料理はどれも美味しかったし。

 値段は――たぶん、あまり可愛くない。


 食事を終える頃には、窓の向こうはすっかり夜になっていた。


 そういえば、鳴くんはこういうお店をどうやって知るんだろう。


 誰と来たことがあるんだろうか、とか。

 こういうところに連れてくる相手が、今までにもいたんだろうか、とか。


 そんなことが少しだけ気になった。


 けれど、お店に入った時の鳴くんは、どこかたどたどしかった。

 テーブルマナーはちゃんとしていたけれど、慣れているという感じでもなくて。

 

 もしかしたら、今日のために調べてくれたのかもしれない。

 前に湊さんと食事へ行った話をしたから、少しくらい張り合ったのかも。


 ――なんて。


 考えすぎだろうか。


 鳴くんのことになると、最近どうにも余計なことまで考えてしまう。

 店を出ると、昼間よりずっと涼しい風が頬を撫でた。


 道路の向こうから、波の音が聞こえる。


 どちらともなく、二人で海へ向かって歩き出した。


 海沿いに続く遊歩道を、鳴くんと並んで歩く。


 昼間の暑さはまだアスファルトに残っているのに、海から吹いてくる風は思ったより涼しかった。


 少し歩いたところで、砂浜へ降りられる階段が見えてくる。


「下、行く?」


「行きたいけど……」


 足元を見る。


「靴ヒール、だー……」


「あー」


 朝、高いヒールを選ばなくてよかったと思ったけれど。

 低くても、さすがに砂浜を歩くための靴ではない。


「じゃあ、ここで――」


「いいよ」


 鳴くんの言葉を遮って、靴を脱いだ。


「え」


「持ってればいいでしょ」


「……高瀬さん、今日めっちゃアクティブじゃん!」


「誰かさんのせいで髪までびしょ濡れになったから、もう今さらかなって」


「イルカのせいのやつね?」


「鳴くんのせいです」


 笑いながら階段を降りる。


 素足で踏んだ砂は、昼間の熱をほんの少しだけ残していた。


「わ、気持ちいい」


 振り返ると、鳴くんが少し後ろで笑っている。


 波打ち際までは行かず、濡れないところを二人で歩いた。


 話したのは、本当にどうでもいいことだった。


 今日見た魚のこと。

 さっき食べた料理のソースのこと。

 レストランのBGMになっていたクラシックの楽曲。


 時々会話が途切れても、不思議と気まずくはない。

 波が寄せて、遠くで砕けて、また引いていく。


 しばらく歩いたところで、鳴くんが足を止めた。


「……ちょっと座る?」


「うん」


 砂浜に並んで腰を下ろす。


 膝を抱えるようにして海を見れば、暗い水面に遠くの灯りが細く揺れていた。


 隣に鳴くんがいる。


 さっきまであんなに喋っていたのに。

 座ってからは、なぜか二人とも口を開かなかった。


 聞こえるのは、絶え間ない波の音だけ。

 時折、遠くを車が走り抜けていく。


 どれくらい、そうしていただろう。

 ほんの五分だった気もするし、ずっと長い時間そうしていたようにも思える。


「ずっと一緒にいたから、好きになったのも本当だと思う」


 鳴くんの声が、長い沈黙の中へ静かに重なった。


 波の音も、遠くを走る車の音も。

 全部がその声を邪魔することなく、ひとつの音楽みたいに夜へ溶けていく。


 その中で、不思議なくらい真っ直ぐ、私の胸に届いた。


「高瀬さんが俺のマネージャーじゃなかったら、とか。こんなに一緒にいる仕事じゃなかったら、とか。考えたこともあるけど」


「……うん」


「でも、そんなの考えても意味ないなって思った」


 小さく笑って、また私を見る。

 確かに、もしもなんて起きなかった可能性なんて考えるだけ無駄だ。


「だって、俺はもう高瀬さんに出会ってるし、もうどうしようもないくらい好きなんだよ」


 鳴くんは少し考えるように、海へ目を向けた。


「仕事してる高瀬さんも好き。俺のために怒ってくれるとこも、なんだかんだいつも許してくれる優しいとこも。カワウソとか、可愛いもの好きなの意外だったけど、はしゃいでたの可愛すぎた」


「……それは忘れて」


「無理。一生覚えてる」


「もう……」


 呆れてしまうのに、どうしてか笑ってしまう。

 憎めないのは鳴くんの魅力だし、呆れてても笑って許してくれるなんて言われてしまう要因の一つは彼にあると思うのだが。


 けれど、すぐにその表情が真剣なものに戻る。


「俺さ」


「うん」


「ずっととか、絶対とか。そういうの、正直よく分かんないんだよね」


 その言葉を聞いて、昼間に見た横顔を思い出した。


「人の気持ちなんて変わるし。好きだった人と一緒にいられなくなることだってあるし」


「……うん」


「だから、一生好きとか、約束できないことは言えない」


 鳴くんらしいと思った。

 いつも夢を売る彼が、こんな時だけは耳心地のいい夢みたいな言葉で誤魔化さない。


「でも」


 まっすぐに、私を見る。


「今まで誰かを、こんなに好きになったことない」


 迷いのない声だった。


「高瀬さんが俺を選ぶの、簡単じゃないのも分かってるよ。俺、まだ二十二だし。仕事のことだってあるし」


「……うん」


「もっと安心できる人とか。高瀬さんに似合う人とか。たぶん、いるんだと思う」


 一瞬だけ。

 湊さんの顔が、頭を過った。


 きっと鳴くんも、同じ人を思い浮かべている。


「でも、それでも俺がいいって思ってほしい」


 静かな声なのに。

 その言葉だけは、ひどく強かった。


「俺を選んだこと、後悔させたくない」


「……鳴くん」


「未来のこと全部は分かんない。でも、今の俺がどれだけ高瀬さんを好きかは分かる」


 少しだけ困ったように笑うその顔には、優しさと、それでも私を諦める気なんてない強さが同居していた。


「失くすかもしれないから欲しくない、とは思えなかった」


 胸の奥がギュッと痛む。


「高瀬さんが欲しい」


 膝の上にあった私の手を、鳴くんの手が包んだ。


「だから、俺を選んでくれるなら、ちゃんと選んでよかったって思わせる」


 夏の夜空の下。

 暗い海に、遠くの灯りが揺れている。

 それでも、その声には少しの迷いもなかった。


「高瀬さんが俺の隣にいてくれる間は、誰よりも大事にする」


 指先が、微かに震えていた。

 握られた手に、少しだけ力がこもる。


 視界には夏の星空と、夜の闇の中で揺れるさざ波。


「だから、俺と付き合って」

 

 真っ直ぐな視線。

 揺れるその瞳は、なんだか泣いてしまいそうにすら見える。

 

 耳に心地のいい、波の音がこの夜にずっと続いている。

 

 付き合わない方がいい理由なら、いくらでも思いついた。


 八歳も年上で今年三十歳になる私と、まだ二十二歳の鳴くん。

 担当じゃなくなっても、タレントとマネージャーが付き合うなんて、ルール違反だ。

 会社に知られたらどうなるか分からない。


 それに、鳴くんも言うように、永遠なんてないのだ。


 もし別れたら、仕事に支障を出さずにいられるだろうか。

 それに、もしいつか鳴くんの目が覚めて、後悔したら。

 付き合わない方がいい理由なら、考え始めればきりがなかった。


 私はずっと、そうやって生きてきた。


 できるだけ失敗しないように。

 正しい道だけを選んでいたくて。

 間違えないように。

 できるだけ傷付かなくて済む道を選んで。

 後から自分を責めなくて済むように、ちゃんと考えてから決めてきた。


 だからきっと――。

 正しい答えは、分かっている。


「……鳴くん」


「うん」


「私、たぶん。鳴くんよりずっと、こういうこと考えちゃうよ」


「うん」


「八歳も違うし。仕事のこともあるし。その先のことだって、もう目の前のことだけ考えていられる歳じゃないの」


「……うん」


「だから――」


 そこで、言葉を止めた。


 それでも。


 今日一日、何度笑っただろう。


 私が笑うだけで嬉しそうにする顔も。

 何度断っても、懲りずに好きだと言ってくれた声も。

 鳴くんといると、自分でも知らなかったくらい笑えることも。

 もう全部、知ってしまった。


 知らなかった頃には戻れない。


「……そう思うのに、私だってもう、戻れない」


 ゆっくり息を吐いて、吸う。

 たぶんこれは、私の人生で、あまり褒められた選択ではない。


 それでも。


「鳴くんと一緒にいたい」


 鳴くんの目が、大きく開く。


「私も、鳴くんが好き」


 言ってしまえば、思っていたよりずっと簡単だった。


 正しいかどうかなんて、分からない。

 失敗するかもしれない。

 いつか後悔する日が来るのかもしれない。


 それでも今は、この手を振り払うなんて、私には出来ない。


「好きだよ」


 私の言葉に、鳴くんは何も言わない。

 ただ、信じられないものでも見るみたいに、私を見ていた。


「……鳴くん?」


「待って」


「なに?」


「今、ちょっと無理」


「え?」


「高瀬さんが俺を好きって言った……」


 掠れた声で言って、鳴くんが片手で顔を覆う。


 耳まで赤い。


 あれだけ毎日のように好きだの付き合ってだの言っていたくせに。

 いざ返事をしたら、私よりよっぽど余裕がない。


 なんだか可笑しくなって、我慢できずに笑い声が漏れる。


「笑わないでよ」


 拗ねたり怒っている声色じゃない。


「俺、この瞬間三年くらい夢見てたんだから」


「……三年?」


 思わず聞き返す。


「そんな前から?」


「うん。最初は好きになったらダメだと思ってた」


 鳴くんは、顔を覆ったまま笑った。


「でも、好きにならないようにするのって、ずっと好きでいるのと大して変わんなくてさ」


「……」


「かといって、下手に言って担当外されたら嫌だったし」


 そこでようやく手を下ろして、私を見る。


「だからあの日、担当変えるって言われなかったら」


 少しだけ困ったように笑った。


「俺、まだずっと片思いしてたかも」


「……そんなに?」


「そんなに」


 迷いなく返ってくる。


「だから今、めちゃくちゃ嬉しい」


 噛み締めるように言って、鳴くんは大きく息を吐いた。


「……よかったぁ」


 その声から、本当に三年分の力が抜けていくみたいだった。



 でもすぐに真剣な顔をする。


「……高瀬さん」


 もう一度呼ばれた声は、ひどく静かだった。


「ん?」


 鳴くんの手が伸びてくる。

 頬に掠めた指先が、めまいがするほどゆっくりと髪を耳にかけた。


 そのまま顔が近付いてくる。


 吐息が触れそうな距離まで来て、私にも次に何が起きるのか分かった。


 目を閉じる。


 けれど、唇が触れたのは、頬だった。


「……」


 ふにっとした柔らかな感触が離れて、今度はこめかみに。

 それから額に、濡れた感触。


 触れるだけのキスが落ちてくるたび、心臓ばかりがうるさくなる。


 ――なのに。


 いつまで待っても、欲しいところには触れてくれない。


 「……?」


 焦れて目を開けると、鳴くんは私の手を取った。


 指先に、そっと唇が触れる。


「……鳴くん?」


「ん?」


「……なんで?」


 ようやく顔を上げた鳴くんが、悪戯っぽく笑った。


「この間、お預けされた分」


 ほんの少しだけ舌を出して。


「じらしてみた」


「……っ」


 ずるい。

 絶対に、分かってやっている。


「え、あれは――」


「じゃあさ」


 遮るように言って。


「キスしていい?」


 さっきまでの悪戯っぽさが、消えていた。


 聞かなくたって、もう分かっているはずなのに。

 じらして遊んでいたくせに、それでも鳴くんは、私が頷くまで先へ進まない。


 まっすぐ私を見つめる瞳の奥には、隠しきれない熱が燻っていた。


 ――私からも、欲しいと言ってほしいんだ。

 そんな気がした。


 だから、その手を取って、指先を自分の唇へ触れさせる。


「もう、聞かなくていいよ」


「……え」


「鳴くんなら」


 口にした途端、どうしようもなく恥ずかしくなる。

 それでも、もう目は逸らさなかった。


「されて嫌なことなんて、無いよ」


 鳴くんの瞳が、慈愛と欲を綯い交ぜにしたような色に揺れた。


「……それ」


「うん」


「俺に言って大丈夫?」


「……いや、鳴くんにしかだめでしょ」


「……うん、俺は俺だから心配してんの」


 思わず二人で笑った。


 けれど、その笑い声はすぐに波の音へ溶けていった。


 頬に触れていた指先が、ゆっくりと耳の後ろへ滑る。


 髪を梳いて。

 壊れものに触れるみたいに、優しく私の顔を包んだ。


 鳴くんが近付いてくる。


 逃げようとは思わなかった。


 目を閉じる。


 唇が重なった。


 驚くほど、優しいキスだった。


 もっと勢いよく来ると思っていたのに。

 

 触れて、少し離れて。

 確かめるように、もう一度。


 波の音が聞こえる。


 潮の匂いも。

 髪を揺らす夜風も。


 全部、ちゃんと分かるのに。


 唇に触れる熱だけが、どうしようもなく鮮明だった。


 離れた鳴くんと、すぐ近くで目が合う。


「……やばい、かも」


 吐息がまだ近い。

 さっきまで余裕を残していた瞳に、もう隠す気もないような熱が滲んでいた。


「高瀬さん」


 もう一度、頬を撫でられる。


「……うん」


「……我慢できない」


 鎖骨のあたりへ額を寄せるようにして、熱い吐息と一緒に零された言葉。

 

 その声に胸が高鳴る。怖くないわけじゃない。

 けれど、その怖ささえ今は、先へ進みたいと思わせる熱に変わっていく。


 今度は私から、鳴くんの頬に触れる。


 顔を上げた鳴くんと目が合った。


 絡んだ視線をほどかないまま、残り僅かな距離を自分から詰める。


「しないでよ」


 瞬間、鳴くんの顔から残っていた余裕が消えた。


 次に重なった唇は。

 最初みたいに、優しいだけではなかった。


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