第23話 私たちの集大成
ライブ当日の朝。
早朝会場へ着くと、搬入口の前にはすでに何台ものトラックが停まっていた。
スタッフが慌ただしく行き交い、開け放たれた扉の向こうから機材を運ぶ音が聞こえてくる。
「おはようございます」
「高瀬さん、おはようございます!」
挨拶を交わしながら、スタッフ用の入口へ向かった。
今日、この場所に何万人もの人が集まる。
たった一人。
波多野鳴を見るために。
VTuberなんて、ただの絵だと言う人もいる。
画面の向こうにいるのは、ただの一般人じゃないかと。
そんな区別が正しいのかなんて、私にはどうでもよかった。
今日、この場所に何万人もの人が、波多野鳴に会うために集まる。
それだけで十分だった。
結果として、これだけの人がチケットを求めてくれるのだから。
そう考えると、何度経験しても胸の奥が熱くなった。
この日が来るのを、ずっと楽しみにしていた。
三年前。
まだ何者でもなかった鳴くんと出会って聴いた、十八歳の男の子のまだ少し幼さの残る歌声を、今でも覚えている。
まっすぐ透き通ったファルセット、胸をくすぐる甘い低音。
でも、そんな問題じゃなくて。
歌いたいって叫んでるみたいな歌声。
配信の数字に一喜一憂して、企画を考えて、何度も失敗して。
喧嘩もしたし、この間なんて炎上も経験してしまった。
それでも、二人でここまで来た。
登録者百万人を、まさかの方法ではあったけれど無事に達成した。
そして、鳴くんの担当でいられる残り僅かな日々の中で、こんな日を迎えられたことを幸運だと思った。
今日のワンマンライブ。
これは間違いなく、私たちの三年間の集大成だ。
このライブが終わって、五日後には正式に担当を外れる。
寂しい気持ちがないかと言われると、どんなに繕っても寂しかった。
けれど、今はそれ以上に、この一大イベントが楽しみだった。
鳴くんが今日、どんなステージを見せてくれるのか。
何万人もの人が鳴くんの名前を呼ぶ光景を、この目で見ることがずっと、楽しみだった。
関係者用の通路を抜けて、楽屋へ向かおうとしたところで。
「あ、高瀬さん」
聞き慣れた声に振り返った。
「おはよう、鳴く――」
「おはよ」
いつも通りの声だった。
キャップの隙間から覗く髪も、肩から下げたバッグも。
少し眠そうに見える目元だって、朝の鳴くんなら珍しくない。
それなのに、近付いてきた顔を見て、なんとなく足が止まった。
「……寝不足?」
「え?」
「なんだろ。なんか顔、疲れてない?」
「そう?」
鳴くんはきょとんとして、自分の頬をぺたぺたと触る。
「昨日8時間寝たけど」
「そ、そう……なら、いいけど」
喉の調子に寝不足は直結する。
SNSの更新などはしているにしても、その点を踏まえ昨日はオフで組んでいる。
「うん」
にっと笑う笑顔も、どこまでもいつもの鳴くんだった。
だった、はずなのに。
「……?」
「なに?」
「ううん」
自分でも、何に引っかかったのか分からない。
顔色が悪いわけじゃない。
声に元気がないわけでもない。
ちゃんと寝たのは間違いないだろう。
ただ、私を見る目がほんの一瞬だけ遅れたような。
笑う前に、何か別のことを考えていたような。
そんな、言葉にするほどでもない違和感だった。
「緊張してる?」
「え、俺が?」
「今日、今までで一番大きいライブでしょ」
「あー……まあ、そりゃね?」
「ふふ。鳴くんでも緊張するんだ」
「するよ。俺のことなんだと思ってんの」
「本番前でもずっと喋ってる人」
「それは否定できない」
いつもの調子で返されて、少しだけ安心する。
やっぱり、気のせいかもしれない。
「じゃ、行こ」
「うん」
並んで歩き出す途中で、鳴くんがポケットからスマートフォンを取り出した。
ほんの一瞬、画面を見る。
通知でも確認したのかと思ったけれど、何かを打つわけでもなく、すぐにしまった。
「……」
「ん?」
「なんでもない」
自分でも感覚的に沸いた疑問を口にしてしまったわけだけど、気のせいだろうか。
今日は今までで一番大きなライブだ。
鳴くんだって、落ち着かないことくらいある。
そう思って、その時はそれ以上考えなかった。
◇
「一回、頭からいきまーす!」
「お願いします!」
暗転。
次の瞬間、ステージを照らす照明が一斉に切り替わった。
イントロと同時に、巨大なスクリーンへ鳴くんの姿が映し出される。
私は客席の後方に立って、ステージ全体を見渡していた。
照明の切り替わるタイミング。
スクリーンに映る映像。
レーザーや特効。
鳴くんの歌とダンス。
本番、客席からどう見えるのか。
進行表とステージを交互に見ながら、一つずつ確認していく。
歌い出しは問題ない。
高音の声もよく出ている。
照明も予定通り。
ダンスも――。
「……あ」
ほんの一瞬。
スクリーンの中の鳴くんが、振りを間違えた。
すぐに修正する。
たぶん本番なら、ほとんどの人が気付かない程度だけれど、私は手元の進行表から顔を上げた。
鳴くんが振りを間違えること自体は、別に珍しいことではない。
でも今日の彼は、それだけじゃなかった。
「鳴さん、次の曲なんですけど――」
「あ、はい」
「次、立ち位置少し下手寄りからお願いします」
「……あ、ごめんなさい。もう一回いいですか?」
「下手側のマーカーからです」
「あ、はい。すみません」
珍しい。
普段なら、一度聞いた指示を聞き返すようなことは滅多にない。
その後も休憩に入るたび、鳴くんはスマートフォンを確認している。
通知を見る。画面を閉じる。
少し経つと、またスマホを見る。
明らかに何かを待っているようにも見えた。
でも――。
「鳴くん」
「ん?」
呼べば、いつも通り笑う。
「大丈夫?」
「何が?」
「……ならいいけど」
「うん」
その返事まで、妙に早かった。
――私だって、緊張している。
こんなに大きな会場でのソロライブは初めてだ。
今日まで何度も確認してきた進行表だって、朝からもう何回見直したか分からない。
鳴くんだって同じだろう。
何万人もの観客を前にして。
配信でも、きっとそれ以上の人が見ている。
いつも通りでいろという方が無理なのかもしれない。
当然のことながら、そう思う。
思う、けれど。
私は三年間、鳴くんの一番近くで仕事をしてきた。
どんな大型企画の時も。
炎上して、何を言っても叩かれていた時も。
百万人を懸けた、あの大会でだって。
追い詰められれば追い詰められるほど、ここぞという時の鳴くんは驚くほど集中する。
だから、今日のこれは。
緊張とは少し違う気がしたのだ。
◇
一回目のリハーサルが終わったのは、昼を少し過ぎた頃だった。
スタッフから渡されたお弁当を持って、鳴くんの楽屋へ入る。
「お疲れ様」
「腹減った」
「ちゃんと食べてね。このあと長いから」
「はーい」
向かいに座って、お弁当の蓋を開ける。
「いただきます」
「いただきます」
鳴くんが箸を持ったのを確認してから、私も一口食べる。
しばらくは、何も言わなかった。
けれど、鳴くんの視線はまたスマートフォンへ向かう。
通知が来たわけでもないのに画面を確認して、何もないと分かると、また弁当へ戻った。
「……鳴くん」
「ん?」
「さっきからスマホ気にしてるよね」
箸が止まった。
「何があったの?」
「……」
「リハも集中できてなかった」
「いや、それは……」
「怒ってるんじゃないよ」
責めるつもりはないと伝えるように、私はもう一口ご飯を口へ運んだ。
「何かあったなら、教えて」
朝から感じていた違和感も。
リハーサルでの小さなミスも。
大きなライブを前に緊張しているだけだと、そう片付けることだってできた。
それでも聞いたのは。
三年間、一番近くで見てきて。
いつの間にか私は、気付かないふりをしてあげられるほど、鳴くんから遠いところにはいなくなっていたからだと思う。
「……」
鳴くんは何も答えず、唐揚げを一つ口へ運んだ。
さっきまで「腹減った」と言っていたくせに、何度も噛んで、なかなか飲み込もうとしない。
私は急かさなかった。
やがて。
「……高瀬さん」
「うん」
「ごめん」
「何が?」
「言うつもり、なかったんだけど」
鳴くんはそこで言葉を切った。
箸を置く。
その指先が、微かに震えていた。
それを見た瞬間。
朝から胸の奥に引っかかっていたものが、嫌な形を持った気がした。
「……父さんが、危篤らしい」
「……え」
すぐには、意味が入ってこなかった。
父さん。
危篤。
頭の中で二つの言葉が繋がるまでに、数秒かかった。
「……お父さん?」
「うん」
鳴くんは俯いたまま頷く。
「母さんから、朝連絡来て。昨日倒れて、病院運ばれたらしくて」
「……うん」
「俺、母さんが父さんと連絡取ってることも知らなくて」
そこから先は、いつもの鳴くんらしくなかった。
「いや、どのくらい連絡取ってたのかも知らないんだけど。俺、中学入るくらいの時に親離婚してんだよ」
「……そうだったんだ」
初めて会った頃には、鳴くんはもう一人暮らしをしていた。
三年間一緒にいても、家族の話を聞くことはほとんどなかったから、知らなかった。
ふと、水族館で見た横顔を思い出す。
子どもの頃、何度も来たと言ったあとの。
ほんの一瞬だけ、寂しそうに見えた顔。
――もしかしたら。
あの時も、家族のことを思い出していたのかもしれない。
「うん。それから父さんとは一回も会ってない」
「十年くらい?」
「……そんくらい」
自分で答えてから、鳴くんはまたスマートフォンへ視線を落とした。
「だから、別に……」
一度、言葉が止まる。
「俺にはもう関係ないっていうか。父親ではあるけど、十年も会ってないし」
「うん」
「なのに、なんで今さら俺に連絡してくんだろって」
困ったように笑う。
けれど、吐き出した息が微かに震えていて。
「しかも今日だよ?」
「……うん」
「今日、ライブなのに」
笑っているのに、全然笑えていなかった。
関係ないと言いながら、朝からずっとスマートフォンを気にしている。
十年も会っていないからこそ。
鳴くん自身、何を思えばいいのか分からないのかもしれない。
「……鳴くん」
「俺、今日ライブだし」
「うん」
「ファン、何万人も来るし。ウェブ配信もあるし。スタッフもこんだけいて」
一つずつ、自分に言い聞かせるように並べていく。
「だから、行けるわけないじゃん」
「……」
「別に、行きたいとも――」
言いかけて、声が止まった。
私は何も言わなかった。
ただ、その揺れる瞳を見つめ返す。
「……」
長い沈黙のあと。
「……分かんない」
鳴くんが俯いた。
「俺、どうしたいんだろ」
当惑したその声だけが、まるで十年前に取り残された子どものように、ひどく幼く聞こえた。




