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第21話 今日、めっちゃ楽しそう

 鏡の前で、もう何度目か分からないくらい髪を触る。


「……うん」


 髪を巻くのが久しぶり過ぎて、自分でもなんだか見慣れなかった。


 普段仕事へ行く時には選ばない、淡いストライプのワンピース。

 膝より少し下まである丈だから、別に派手なものではない。


 化粧だって、いつもより少し丁寧にしたくらい。


 アイシャドウの色を変えて。

 睫毛をいつもよりきちんと上げて。

 最後に薄くリップグロスを重ねる。


 それだけなのに。


「……」


 鏡の中の自分を見て、なんだか落ち着かない。

 仕事じゃない状態で鳴くんに会うなんて初めてだ。


 ――デート。


 そう意識した途端、今朝から何度も胸の奥がむず痒くなる。


 視線を逸らした先。

 アクセサリーケースに手を伸ばす。


 少し迷ってから選んだのは、小さなイヤリングだった。


 仕事中は邪魔になるから、ほとんどつけることはない。

 耳元で小さく揺れるそれを鏡越しに眺めて、首を傾げる。


 外そうかと思って指を伸ばして、やめた。


 青春はアイドル活動に捧げ、その後は社会でやっていくことに必死だった。

 デートらしいデートなんて、ほとんどしたことがない。

 意識しすぎなのか、逆にいつも通りすぎるのか。その加減すら分からなかった。


 それでも、いつまでも鏡の前にいるわけにはいかない。


 その時、テーブルの上に置いていたスマートフォンが震えた。


『着いた』


 短いメッセージ。


「……早」


 時計を見れば、約束の十分前だった。

 真面目な鳴くんらしいと言えば、鳴くんらしい。


 バッグの中身をもう一度だけ確認して、玄関へ向かう。


 靴を履いて。

 ドアノブへ手をかけたところで、ふと立ち止まった。


 一度だけ深呼吸をしてから、扉を開けた。



 ◇



 マンションを出ると、少し離れたところに見覚えのある車が停まっていた。


 私に気付いたのか、運転席のドアが開く。


「おはよ――」


 降りてきた鳴くんの声が、途中で止まった。


「…………え」


「鳴くん?」


 露骨に上から下まで見られる。


 あまりにも分かりやすく固まっているものだから、途端に不安になった。


「……なに?」


「ちょ、待って」


 鳴くんが片手で口元を覆う。


「……?」


「休日の高瀬さんが可愛すぎる件について!?」


「え、ええー……」


 それからもう一度私を見て。


「ワンピースも、髪も……可愛い」


 今度は、さっきまでとは打って変わって小さな声。


「すげー可愛い」


「……ありがとう?」


 言われるだろうとは、少しだけ思っていた。


 思っていたはずなのに、実際に言われるとどうしていいか分からない。


「……行こっか」


「うん」


 二人で車へ乗り込み、エンジンをかけながら鳴くんが小さく呟いた。


「いや、もう今日俺大丈夫かな……」


「何が?」


「なんでもない……けど、幸せ死にしそう」


「……!」


 噛み締めて意味の分からないことを口走る鳴くんを横目に、助手席でシートベルトをする。

 エンジンがかかると、車内に音楽が流れ始めた。


「そういえば、前も思ったんだけど」


「なに?」


「鳴くんの車、音すごくない?」


 鳴くんの目が、分かりやすく輝く。


「分かる? スピーカー替えたり、色々弄ってるんだよね」


「やっぱり。音が近いっていうか、いろんなところから聞こえる」


「ちゃんとボーカルが真ん中に聞こえるように調整してる」


「……難しいことは分からないけど、素人でもこだわりは感じる」


「はは、雑だなあ」


 そう言いながらも、鳴くんは嬉しそうだった。


 好きなものの話になると少し早口になって、時々こちらの反応を確かめる。

 その姿は、配信で見る時とよく似ている。


「鳴くん、本当に音楽好きだね」


「好き」


 即答してから、ちらりとこちらを見る。


「高瀬さんも好きだけど」


「……運転に集中してください」


「はい」


 前を向いた口元が、分かりやすく緩んでいる。


 今日はきっと、こういうのが一日中続くんだろうな。


 そんな予感がした。



 小一時間車を走らせて、大きな駐車場へ入っていく。

 窓の外に見えた看板を目で追って。


「……え」


 思わず、鳴くんを見る。


「水族館?」


「うん」


 何でもないことのように答えて、鳴くんは空いているスペースを探しながらハンドルを切った。



「久しぶり。水族館なんて何年ぶりだろ」


「よかった」


 鳴くんがほっとしたように笑う。


「高瀬さん、こういうとこ好きか分かんなかったから」


「好きだよ。普通に嬉しい」


 思ったより弾んだ声が出て、自分でも少し驚く。

 車で迎えに行くと言うから、勝手に夜景やお洒落なカフェを想像していた。


 だからこそ、この予想外がなんだか嬉しかった。


 駐車場へ車が止まり、シートベルトを外す。


「あ、よかった。今日、高いヒール履いてこなくて」


「……ごめん。行き先言っとけばよかった」


「ううん。こういうのも楽しいね」


「え?」


「どこに連れてってくれるんだろうって、わくわくする」


 一瞬きょとんとした鳴くんが、すぐ嬉しそうに笑う。


「じゃあ、次も秘密にしよ」


「ふふ。まだ今日も始まってないでしょ」


 鳴くんが当たり前に次と言うことに、胸が綻ぶのを感じる。


「……それもそう!」


 二人で車を降りると、むわっと夏の熱気が身体を包んだ。


「暑……」


「早く入ろ」


 帽子を被り直した鳴くんの隣を歩き出す。



 ◇



 一歩中へ入ると、空気が一変した。


 ひんやりとした館内。

 薄暗い通路の向こうで、大きな水槽が青い光を放っている。


「わあ……」


 思わず声が漏れた。

 水族館なんて、いつぶりだろう。

 仕事を始めてからは、休日にわざわざ来ようと思うこともなくなっていた。


「すごいね。見て、あれ」


「うん」


「すごい大きい」


「うん」


「……鳴くん?」


「ん?」


 隣を見ると、鳴くんは水槽でも魚でもなく、私の顔を見ていた。


「何見てる?」


「高瀬さん」


「……魚を見なさい」


「ははっ」


 悪戯が成功した時みたいに笑って、ようやく水槽へ顔を向ける。


「いや、思ったより楽しそうだったから」


「楽しいよ。あんまり来たことなかったけど、好き」


「……そっか」


 なんでそこで嬉しそうにするんだろう。


 巨大な水槽の中を、魚の群れが一斉に向きを変えて泳いでいく。

 その度に光が鱗へ反射して、きらきらと瞬いた。


 しばらく見入っていると、


「……写真撮っていい?」


「なんで?」


「今日の高瀬さん可愛いから。デートの写真欲しい」


 そんなことを真っ直ぐ言われると断りづらい。


「……一枚だけね」


 アイドルを辞めてから、人に写真を撮られることなんてほとんどなくなった。

 久しぶりすぎて、どう立てばいいのか、どんな顔をしたらいいのか分からない。


 溜息を吐きながら水槽内のきらめきを見つめる。

 いっそポーズまで指定してくれた方が楽なのに。


「高瀬さん」


「ん?」


 呼ばれて振り向いた瞬間、

 ぱしゃり、とシャッターが鳴った。


「え、ちょっと!」


「見返り美人、激写~」


「うそ、絶対変な顔してたよ!」


「してないって!すっげー可愛い」


「……み、見せて」


「やだ。俺の」


 スマートフォンを抱えるようにして逃げたくせに、鳴くんは撮った写真を見て、にやにやしている。


「やば。俺のスマホに高瀬さんいるだけで、めっちゃ愛おしく見える」


「……はぁ、何を言ってるんだか」


 呆れてため息を吐く。

 私は今まで、街中でいちゃつくカップルを見ては、よく人前であんなことができるなと思って生きてきた。


 だから誰か、この恋愛モンスターをどうにかしてほしい。


 そう思うのに。

 自分の写真一枚で、こんなにも幸せそうに笑われると。

 悪い気がしないどころか、胸の奥がくすぐったくなる。


 ――いつの間に、こんなに絆されてしまったんだろう。



 少し歩くと開けた空間に出て、違うエリアに来たのだとわかる。


「……鳴くん」


「ん?」


「見てあれ」


 指差した先にあった案内板には、『カワウソと握手』の文字。


「…………」


「カワウソと握手できるよ」


「読めてるよ」


 思わず鳴くんを見る。


「やりたいよね?」


「いや?」


「……」


「ふっ」


 なぜか笑われた。


「やっていいよ?俺、見てるから」


「え、鳴くんは?」


「高瀬さんが握手してるところ見てたい」


「何それ」


 それでも二人で列に並ぶ。


 順番が来て手を差し出すと、小さな穴から、ちょこんと前足が伸びてきた。


「わ……!」


 想像していたより、ずっと小さい。

 そっと触れた瞬間、思わず顔が綻んだ。


「かわいい……! 鳴くん、見て!」


「……うん。見てるよ」


 返ってきた声が、やけに優しかった。


 振り返って、息が止まる。


 目を細めて、柔らかく笑って。

 まるで大切なものでも見るように、私を見ていた。


「……っ」


 全身が、大好きって言っているみたいなのだ。


「……どうしたの?」


「いや、あの」


 視線が優しすぎる、なんて。

 そんなことを口にできるわけもなく。


「か、カワウソ、かわいすぎて」


「ははは、よかった!来た甲斐あったわ!」


 ぎこちなくした言い訳に、鳴くんは嬉しそうに笑う。


「高瀬さん?」


「……なんでもない」


 首を傾げる鳴くんから逃げるように前を向く。

 

 悩殺、なんて言葉があるけれど。

 たぶん、こういうことを言うんだと思う。


 熱くなった頬は、しばらく元に戻りそうになかった。



 ◇



 イルカショーを見ることになったのは、鳴くんが「ここは絶対外せない」と言ったからだった。


 それなら、と会場へ向かい。

 濡れる可能性があると注意書きのある席を選んだのも、鳴くんだった。


「大丈夫。こんなとこまで来ないって」


 自信満々に言うから信じた。


 ――結果。


「……鳴くん」


「……ごめんなさい」


 前髪から、ぽたりと水滴が落ちる。


 隣を見れば、鳴くんも同じような有様だった。


「この後どうしよう」


「濡れてる高瀬さんも可愛いよ」


「そういう問題じゃない!」


 顔を見合わせて、堪えきれず二人で吹き出した。


「あははっ、もう最悪!」


「ごめんって!」


 笑いながら鳴くんが取り出したタオルを受け取ろうとすると、そのまま頭に被せられる。


「じっとして」


 ふわりと頬を掠めたタオルに、一瞬にして視界が狭くなる。


「え、ちょっと」


 顔を上げれば、すぐ近くに鳴くんがいた。


 周りにはまだ大勢の人がいるはずなのに。

 白いタオルに視界を遮られると、そこだけ切り取られたみたいに、鳴くんの顔ばかりがよく見える。


「いいじゃん」


 楽しそうに笑って、濡れた髪をわしゃわしゃと拭かれる。


「ちょ、髪崩れるって」


「もう崩れてる」


「いや誰のせいよ?」


「イルカでしょ」


「鳴くんです」


「俺!?」


 また、二人分の笑い声が重なる。


「あーもうっおかしい……!」


 こんなに何も考えずに声を上げて笑ったのは、いつぶりだろう。

 笑い過ぎてお腹が痛い。


 ふと、髪を拭いていた手が止まった。


「今日、めっちゃ楽しそうだなと思って」


 一瞬だけ、言葉に詰まる。


「楽しいよ」


 素直に答えると、鳴くんの目元がふっと緩んだ。


「そっか。よかった」


 その顔を見て、胸の奥がふっとほどける。


 髪はぐしゃぐしゃで、化粧だって、朝よりずっと崩れている。

 なのに、そんなこともどうでもよくなるくらい笑った。


 私って、こんなふうに笑えるんだ。


 失敗しないように。

 恥ずかしい思いをしないように。

 ずっと、ちゃんとして生きてきた気がする。


 こんなふうに何も考えず笑い転げる楽しさを。

 鳴くんと一緒にいなかったら、知らないままだったかもしれない。



 ◇



 館内を回っているうちに、気付けば随分時間が経っていた。


 最後に辿り着いたのは、クラゲの展示エリア。


 照明を落とした薄暗い空間に、青白い光だけが静かに揺れている。


「……綺麗」


 思わず声が漏れた。


 透明な身体が、ゆっくりと水の中を漂う。

 傘を開いて、閉じて。

 それだけを繰り返しているのに、不思議と見飽きない。


「クラゲってさ」


 隣から声がした。


「心臓ないんだって」


「え?」


「泳いで体の中の水動かしてるらしい。だから止まると死んじゃうんだって」


「……そうなんだ」


 もう一度、水槽を見る。


 あんなにゆったり漂っているように見えるのに。

 生きるためには、休むこともできないなんて。


「なんか意外」


「ね」


 少しだけ沈黙が落ちる。


 何となく隣を見ると、鳴くんはクラゲを見上げたまま、ぼんやりと目を細めていた。


 青い光が横顔を照らす。

 伏せられた睫毛も。

 薄く光を宿した虹彩も。


 水槽の揺らぐ光に合わせて、静かに色を変えていた。


 ――綺麗。


 揺蕩うクラゲと、綺麗な男の子。

 切り取ったら、それこそ写真集が作れそうだった。


「……高瀬さん」


 見つめた先の鳴くんは、視線をクラゲに向けたまま瞬きをする。


「なに」


「あ、の……見過ぎ。さすがに照れるんだけど」


 思わず、ぼうっと見惚れてしまった私は、そこで初めて視線を外す。


「……ごめん」


「なんかあった?」


「ううん。なんか……綺麗で」


 誤魔化せなかった。


 鳴くんは目を見開いてから、どんな顔をしていいのか分からないように、困った顔で笑う。


「なにそれ」


 私だって、なんて言えばいいのか分からなかった。

 慌てるように、私は先にいる違うクラゲに目を移した。


 クラゲが、二人の目の前をゆっくり通り過ぎていく。

 

 気が付けば肩が触れそうなくらい近くに、鳴くんがいる。

 それがもう、朝ほど気にならなくなっていた。



 ◇



 水族館を出る頃には、空が少しずつ夕方の色に染まり始めていた。


「楽しかったー」


 外へ出た途端、思わず伸びをする。


「うん。楽しんでもらえてよかったー」


「カワウソにはしゃぐ高瀬さん可愛すぎて一生見てられる」


「……さいあく」


「なんでよ」


「もう」


 笑いながら、駐車場へ向かう途中。


「そういえば、鳴くん、ここ来たことある?」


 ふと、疑問に思ったことを口にする。


 なんとなく、そんな気がしただけだった。


「……あるよ」


 けれど、ほんの少しだけ、返事が遅れた。


 鳴くんは前を向いたまま、空を見上げている。


「子どもの頃にね」


「へえ」


「結構、何回も来た」


「じゃあ懐かしかった?」


「……うん」


 一瞬。

 本当に、一瞬だけ。


 その横顔が、寂しそうに見えた。


「……」


 理由を聞こうとして、やめた。


「そっか」


「うん」


 それ以上、鳴くんは何も言わなかった。

 私も聞くべきじゃないと思った。


 夕暮れの空に、夏の匂いが滲んでいる。


 ただ、今日ずっと、子どもみたいに笑っていた鳴くんが見せたその横顔だけが。

 なぜだか私の胸を締め付けた。

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