第20話 熱帯夜のせいじゃない
夜道を、二人で並んで歩く。
大通りにはまだ人通りが多くて、鳴くんは自然とそこを避けるように、一本外れた道を選んだ。
たった一本入っただけなのに、辺りは驚くほど静かだ。
遠くを走る車の音と、時折どこかから聞こえてくる笑い声くらいしかない。
夏の夜特有の、もわりと湿った空気が肌にまとわりつく。
昼間ほどではないとはいえ、歩いているだけでじんわりと汗ばむような暑さだった。
それなのに、繋いだ手はまだそのままだった。
正直、暑い。
重なった手のひらだって、もうどちらのものとも分からないくらい汗ばんでいる。
離した方が、絶対に涼しい。
そんなことは二人とも分かっているはずなのに。
どちらからともなく繋いだまま、どちらからも離そうとはしなかった。
「そういえば」
「ん?」
「鳴くん、今日配信は?」
「あ、このあと帰ったらやるよ」
「え」
思わず顔を見る。
ハッとして腕時計を見ると、二十二時を回ったところ。
いつもなら、とっくに配信を始めている時間だ。
「大丈夫なの?」
「大丈夫。ちゃんと今日は深夜からやるよって予告してある」
「……ふーん」
やっぱり。
私が御手洗いに立った隙に、たまたま湊さんから連絡をもらって、その場の流れで迎えに来た――なんてわけじゃないらしい。
最初から、隙があれば来るつもりだったのだ。
「なに、その反応」
「別に」
「絶対なんかあるでしょ?」
「ないです」
「いや、あるでしょ」
この場で言及することでもないかと思って誤魔化すように前を向いても、鳴くんに繋いだ手を軽く引かれる。
仕方なく顔を向けると、不満そうに眉を寄せていた。
「つーか、湊さんと仲良すぎない?」
「え?」
「もう。ほんと油断も隙もないんだから」
「何それ」
「いや、だって」
いかにも納得いかないという顔で口を尖らせる。
「なんか当たり前に笑いあってるし」
「仕事でお世話になった相手に不愛想にしてたら支障があると思うけど」
「分かってるけど!なんか近いし!」
「鳴くんが言いますか」
勝手に手を取っておいて何を言うんだ。
なんて思ってしまうのは、謂れのない言いがかりにムッとしただけだった。
「……ごめんなさい」
少し考えて帰ってきた謝罪は、思いのほかしおらしく。
「いいよ、もう」
そもそも怒るつもりなんてない身としては、少しばつが悪かった。
「……」
何もやましいことなんかない。
鳴くんと私は、そもそも互いの行動を咎められるような関係ではない。
それを差し引いたとしても、湊さんとは食事をしただけだ。
昔の話をして、思いがけない言葉をもらって心を動かされたことだって、否定するつもりはない。
でも、それを今鳴くんに話そうとは思わなかった。
別に隠さなければならないことでもない。
聞かれれば答えられる。
ただ、鳴くんを目の前にして、わざわざ別の男性に心を動かされた話をするほど、私は無神経にはなれなかった。
それに、さっきから分かりやすいくらい拗ねているこの子を、これ以上不安にさせたいとも思わない。
そんな私の態度に何を勘違いしたのか、鳴くんは大袈裟にため息を吐く。
「そりゃ、湊さんに比べたら経済力とか、俺ほぼないに等しいかもしれないけど」
「ん?」
「でも俺だって、年齢で考えたらめっちゃ稼いでる方だからね?」
「……う、ん。うん?」
突然何の話が始まったのだろう。
思わず曖昧に頷く私をよそに、鳴くんは至って真剣だった。
「まだ二十二だし。これからもっと稼ぐし」
「うん」
「将来有望です。優良物件だと思います」
どうやら、自分を売り込み始めたらしい。
普通なら、もう少しくらい格好をつけるものなんじゃないだろうか。
少なくとも、好きな女の前で他の男と自分を比べて焦っていることなんて、隠したくなりそうなものなのに。
鳴くんは、そういうところを少しも取り繕わない。
嫉妬したら嫉妬したと言うし。
悔しければ悔しいと言う。
自分だって悪くないはずだと、こうして真正面から売り込んでくる。
あまりにも真っ直ぐで。
なんだか可愛くなって、思わず笑ってしまった。
「はいはい」
「はいはいって!」
「これからも頑張りましょう」
「なんでマネージャー目線なの!」
「マネージャーだから」
「今だけその肩書き置いといてよ!」
心底不服そうに眉を寄せる鳴くんに、とうとう堪えきれなくなって笑い声が漏れた。
「ほんとにさあ」
「うん」
「俺だって、別に悪くないと思うんだけど」
「うん」
「なんであんな人出てくんだよー! 勝てないって!」
とうとう堪えきれなくなったように、鳴くんが天を仰ぐ。
「もう高瀬さん、可愛すぎんの禁止! ああいうの引き寄せないで!」
「なにそれ。引き寄せてないし」
「勝手に寄ってくんの! もう! 自分が美人だってちゃんと危機感持ってよ!」
「何言ってんだか」
「俺ばっかいっつも気が気じゃないのおかしいだろー!」
「なに……鳴くん、今日酔ってる?」
「飲んでないけど!?」
「だよねぇ」
知っている。
ずっと水を飲んでいたし。
飲酒配信でもない限りはまじめな鳴くんはお酒を飲まないはずなんだ。
それなのに、今日の鳴くんはいつにも増してテンションが高い。
思ったことがそのまま口から零れているというか。
いつもならもう少し格好をつけそうなことまで、全部そのまま私にぶつけてくる。
どうしたんだろう。
そう思って、ふと繋いだ手を見る。
――もしかして。
さっきから一度も振りほどいていないから、だろうか。
そう考えた瞬間、なんだか妙に納得してしまった。
鳴くんは分かりやすい。
たぶん今、ものすごく浮かれている。
そんな私の考えなんて知らない鳴くんは、少しだけ繋いだ手を揺らした。
「……でも」
「ん?」
「選んでくれて、よかった」
さっきまでの騒がしさが嘘みたいに、ぽつりと落ちた声。
思わず鳴くんを見る。
「あはは。鳴くん置いて帰らないでしょ」
「……分かんないよ」
「そう?」
「だって湊さん、かっこいいもん」
「そうだねぇ」
「…………」
返事がない。
隣を見ると、ものすごく嫌そうな顔をしている鳴くんがいた。
「……なに?」
「いや」
「自分で言ったんだけどさ」
眉間に皺を寄せたまま、しばらく黙る。
「これ以上、湊さんのいいところ聞きたくないです」
「ふっ」
「笑わないでよ!」
「だって、自分から言ったのに」
「言ったけど! 高瀬さんが肯定するところまで想定してなかった!」
「無茶苦茶だなあ」
「自分でも分かってる!」
即答だった。
今日の鳴くんは酔っているわけでもないのに。
浮かれて、嫉妬して、勝手に不安になって。
その全部を、隠すことなく私に見せている。
「……そっか。じゃあ、もう話すのやめようか」
「お願いします……」
すっかり自爆して、とぼとぼと歩き始める。
思わずまた笑いそうになったけれど、今度は堪えた。
気まずくはない。
ただ、しばらく歩くうちに。
さっきまであんなに強く握られていた手から、ほんの少しだけ力が抜けた。
不安になったのかもしれない。
そう思ったら。
今度は私から、緩んだ指を絡め直していた。
「……」
ぴく、と鳴くんの肩が揺れる。
けれど、何も言わない。
私も何も言わなかった。
ただ、繋ぎ直した手だけは、そのままに。
赤い信号の前で、二人並んで足を止めた。
「……あの」
珍しく、鳴くんの声が小さくなった。
「ん、なぁに?」
「デート、してください」
さっきまであんなに騒いでいたのに。
急に、真面目な顔をする。
真剣な瞳に、一瞬にして胸が跳ねた。
「……うん」
「……」
「どこに行こうか?」
「……え?」
私の返事を聞いた鳴くんが目を見開いたまま固まる。
「何?」
「いや、なんか」
目をぱちぱちさせて、歯切れの悪い返事。
「思ったより、すんなりOK出てびっくりするんだけど」
少し考えてから、肩を竦める。
「……まあ、約束しちゃったしね」
「え、嫌々?」
「いや?そんなことないよ」
「約束、俺が一方的にしたようなものだし」
「でも、行くって言ったし」
「……じゃあ、行きたい?」
恐る恐るといった様子で問われて、思わず笑う。
「ふふ」
「いや、その笑い方なに!?」
「どうでしょうねぇ」
「な、なんか今日、高瀬さんが小悪魔だ……!」
戸惑うように瞬きをしたあと、鳴くんの表情が嬉しそうに綻ぶ。
なぜか喜んでいる気がする。
「ははは、なにそれ」
「俺弄ばれてる!?」
「そんなことしませんー」
ふざけ合っているうちに、目の前の信号が青へ変わる。
どちらともなく踏み出して、繋いだ手のまま再び歩き出した。
「来週の水曜なら」
「え」
「たぶん、オフにできると思う」
言うと、鳴くんの虹彩の薄い瞳が、分かりやすく輝いた。
「ほんと?」
「鳴くんが、提出物をちゃんと間に合わせれば」
「……」
「鳴くん?」
「し」
「し?」
「死ぬ気で仕上げます」
思わず苦笑する。
ライブ直前だ。やることなら、まだいくらでもある。
提出してもらわなければならないものだって、いくつか残っている。
それでも一日くらいなら調整できるのは、鳴くんが普段から仕事を溜めないよう、きちんと取り組んでくれているからだ。
「そこまでしなくていいけど」
「いや、やる」
「ふふ」
「絶対終わらせる」
「……うん、分かった」
一度だけ、繋いだ手に力を込める。
「じゃあ、楽しみにしてます」
「……」
「鳴くん?」
「う、わ」
「なに?」
「どうしよう。嬉しすぎて表情管理できないんだけど……!?」
鳴くんは空いた手で顔を覆う。
けれど片手では隠しきれず、緩みきった口元がしっかり見えていた。
「……そんなに?」
「だって、高瀬さんが俺とのデート楽しみにしてるって」
噛み締めるように繰り返して、また口元が緩む。
「無理。めっちゃ嬉しい」
「……そ、そう」
あまりにも幸せそうに言うものだから、こっちまでなんだかどんな顔をしていいのかわからなくなった。
少し間を置いて、
「……車で迎えに行く」
鳴くんは気を取り直すように口を開いた。
「え?」
「当日。ちゃんと車で迎えに行くから」
「あ。はい」
「……絶対」
「分かりました」
妙に真剣に念を押されて、少しだけ照れる。
そんな私の顔を見た鳴くんが、突然足を止めた。
「……うわ」
「今度は何?」
「なんで今日、配信するって予告しちゃったんだ俺!」
「え?」
「高瀬さん帰らせたくねー!」
「いや、帰るよ」
「えー!」
「何言ってるの!?」
騒ぎながら歩いているうちに、見慣れた景色が近づいてくる。
それに気付いた鳴くんの歩幅が、露骨に遅くなった。
「もう着いちゃうじゃん」
「家なんだから着くでしょ」
「もう一周しない?」
「しません」
「コンビニとか」
「行かない。配信待ってる人がいるんだから帰ってください」
「厳しいなあ」
「鳴くんは今から仕事でしょ」
「……はい」
しょんぼりと肩を落とす。
そんなに露骨に残念がられると、少しくらいなら付き合ってあげても――なんて気持ちが湧きそうになるから困る。
それでも家の前まで来て、ようやく足を止めた。
「じゃあ」
「うん」
けれど、繋いだ手は離れない。
鳴くんがちらりと私を見る。
「……キスくらいしても?」
「いいわけないでしょ」
「即答!」
「当たり前でしょ!」
「じゃあ、ほっぺ」
「だめ」
「手の甲」
「なんで刻むの」
「一個くらいいけるかなって」
「いきません」
「厳しい」
「普通です」
「ちぇー」
口を尖らせながら、ようやく手が離れていく。
「じゃあ、水曜まで我慢する」
「何を?」
「全部」
「…………」
「そんな睨まないでよ」
くすくす笑いながら、鳴くんが数歩後ろへ下がる。
「じゃあ、高瀬さん。また」
「うん。またね」
名残惜しそうにこちらを見たあと、ようやく背を向けた。
――と思ったのに。
「高瀬さん」
「なに?」
振り返った鳴くんが、もう一度私の手を取る。
「え――」
ぐい、と引かれて。
一瞬だけ、身体が鳴くんの胸元に収まった。
「……じゃ、おやすみなさい」
耳元に落ちた声に、何も言えない。
抱きしめたというには、あまりにも一瞬だった。
私が何か言うより早く腕はほどかれて、
「おや、すみ……」
遅れて出た声は、きっともう届いていない。
その背中が見えなくなってから、さっきまで繋いでいた手を見下ろす。
夏の夜だ。
ただでさえ暑い。
それなのに、手のひらに残った熱が、じわじわと全身へ広がっていく。
「はあ……あつい」
誰もいなくなった夜道で、ひとり呟く。
この暑さを全部、熱帯夜のせいだと言い切るには――
さすがに、もう無理があった。




