第19話 嫌じゃ、ないけど
こんな端正な顔をした、名実ともに時の人である男性に。
自分を支えてきたのは、あなたの一言だったと。
人生を決めた言葉だったと。
そんなことを言われて、少しも心を動かされない女なんているのだろうか。
否だろう。
まさか彼ほどの人が、何年も前のほんの数秒を、今までずっと大切な思い出として抱えてくれていたなんて。
誰が想像できるだろう。
私にだって、ちゃんと届いていた。
胸の奥が熱くなる。
目の前にいる人が、さっきよりずっと特別な人に見える。
たとえこの場限り。
昔の思い出を語ったことで、お互い少し感傷的になっているだけだとしても。
その熱に浮かされる気持ちは、私の中にだってちゃんとある。
――――でも。
「でも」
まるで私の心に重なるように、一言。
湊さんはゆっくりと視線を落とした。
「今回の件で、鳴くんとも話して」
静かな声だった。
「彼、めちゃくちゃ真っ直ぐですよね」
「え?」
「『紬さんが悲しんでるから、俺と謝罪動画撮ってください。情けないけど、多分俺が謝るだけじゃこの騒動収まりません』って」
その時のことを思い出したのか、湊さんは小さく笑った。
「必死な声で頼んできて」
半分呆れたような言い方なのに。
なぜだろう。
どこか楽しそうにも聞こえた。
「こちらとしては、炎上したとはいえ、そもそも彼自身の未熟さが引き起こした部分もある。それに、結果だけ見れば注目も集まったし、数字が伸びるのにも一役買った」
そこで少し眉を寄せる。
「そこまでしてやる義理はない、って答えたんですけどね」
言葉だけ聞けば、本当に迷惑そうなのに。
「そしたら」
堪えきれないように口元が緩む。
「『推しの笑顔を曇らせるのが、ファンのやることですか?』って言われたんですよ」
「……っ」
「いやあ、正直、人から説教なんてされるの久々すぎて笑っちゃいましたね」
くつくつと喉を鳴らす。
「ご、ごめんなさ」
「いや、いいんです」
マネージャーとして反射的に出かけた謝罪を、湊さんはあっさり遮った。
「つーちゃんが卒業した時の騒動を考えたら、確かに」
先ほどまでとは違う。
落ち着いた、経営者としての口調。
それなのに、語られるのはあまりにも個人的な、一人のファンとしての後悔だった。
「僕のやり方は、あなたを悲しませるだけの愚策でした」
「……」
「あんな炎上に巻き込まれて、推しが引退してしまったことを」
一度、言葉が途切れる。
「僕は、ずっと許せないと思ってたのに」
テーブルへ視線を落としたまま、自嘲するように笑う。
「気付いたら、僕自身がそっち側の大人になってたんですよ」
その声には、先ほどまでの余裕がなかった。
「……仕方ないです」
気付けば、そんな言葉が零れていた。
「正しさって、絶対的なものじゃないと思うから」
湊さんが顔を上げる。
「立場が変われば、見えるものも変わるし。あの頃の湊さんには許せなかったことでも、今の湊さんには違うものも見えているはずです」
私だって、あの頃と同じではない。
彼だってきっと、そうなのだろう。
そんなのは当然の話で、むしろ、私の卒業が彼の中で呪いになっていなかったことに、ほっとしているくらいだ。
「……相変わらず、ですね」
「え?」
ふっと目を細められる。
「見た目に負けない、綺麗な心」
「!」
「あんなことがあったのに」
私を見る目が、ひどく優しい。
「一等星のままだなんて」
「そ、そんなこと……」
「あー、もう」
湊さんは天井を仰ぐようにして、深く息を吐いた。
「余計、悔しいな」
「…………」
何が、とは聞けなかった。
湊さんはしばらく黙ったあと、ぽつりと口を開く。
「鳴くんは、すごい人材だと思います」
口元には苦い笑みが浮かんでいた。
「勝負どころで外さない強さもある。努力もする。ちゃんと分析もしてる。人を惹きつける華もある」
ひとつずつ、確かめるように並べていく。
「それでいて、僕にあんなこと言えるんだから。只者じゃないですよ」
一拍置いて。
「VTuberのくせに、無駄にイケメンですし」
「そこ、関係あります?」
「ありますよ。非常に腹立たしい」
即答されて、思わず笑ってしまう。
言葉に反して、湊さんの口元も緩んでいた。
「まあ、癪なので今後は鳴くんにこんな贔屓してあげませんけどね!」
「それは……はい。十分です」
「でしょう?」
冗談めいたやり取り。
けれど。
その笑顔が、ふっと消えた。
「……僕が無くしたものを、彼は持ってると思います」
静かに落とされた言葉。
その意味を尋ねるより先に、湊さんは笑った。
今まで見た中で、一番寂しそうな笑顔だった。
成功するために、きっとこの人はいろんなものを身につけた。
人を動かす方法も。
数字を作る方法も。
勝つための方法も。
そしてきっと、その代わりに置いてきたものだってある。
何も知らない私が、それを分かったように語ることなんてできない。
だから。
「……私」
気付けば、口を開いていた。
湊さんが顔を上げる。
「覚えていませんでした」
「……」
「握手会でお話ししたことも。ごめんなさい」
ほんの少しだけ、湊さんの目が伏せられる。
その顔を見れば、胸が痛んだ。
「でも」
一度、息を吸う。
アイドルという夢に絶望して。
それでもまだ、夢を追うことそのものまで嫌いにはなれなかった。
人に頼まれて断れなかったとしても、マネージャーという形で誰かの夢がかなう瞬間を目の前で見届けたいと思った。
「その言葉が、今の湊さんを作ったなら」
自然と、笑みが浮かんだ。
私は彼を覚えてはいない。
それでも都合のいいことに。
「私、アイドルをやっていてよかったです」
誰かが夢を掴むための助けになれていたのなら、あの日々の私は報われると思ってしまった。
数秒、湊さんは呆気にとられたように何も言わなかった。
ただ私を見つめていた。
そのまま、やがて目を伏せると、参ったように小さく息を吐く。
「……そういうところなんですよ」
「え?」
「せっかくこっちは」
困ったように笑う。
「ただの憧れだったって、自分に言い聞かせようとしてるのに」
再び上がった視線が、真っ直ぐ私を捉えた。
「また、好きになっちゃうじゃないですか」
あまりにも自然に言われて。
「……っ」
息が止まる。
きっと、顔にも出ていたのだろう。
固まった私を見て、湊さんは堪えきれないように笑った。
「ははっ。冗談です」
ほっと息を吐きかけたところで。
「半分は」
「……湊さん」
「すみません」
ちっとも悪びれていない顔で笑っている。
どこまでが本気で、どこからが冗談なのか。
最後まで私には分からなかった。
◇
それからの食事は、驚くほど穏やかなものだった。
昔のアイドル時代の話。
湊さんがまだ駆け出しだった頃の話。
今の配信業界のこと。
仕事の話になれば、やっぱりこの人は凄い人なのだと思わされるのに。
一度話が逸れれば、くだらないことで笑う、ごく普通の同年代の男性に戻る。
最初に感じていた緊張は、店を出る頃にはすっかりなくなっていた。
「ごちそうさまでした。本当に美味しかったです」
「よかった。気に入ってもらえて」
店員さんに見送られながら、二人で暖簾をくぐる。
夜の空気が、火照った頬に心地いい。
「次は、夜景が見えるところに誘いますね」
「そんな店は誘われても困ります」
「へえ、そういう店じゃなければまた行ってくれるんだ」
「……あ、えっと」
「ははっ」
やられた。
楽しそうに笑う湊さんを横目に、小さく息を吐く。
「……もう」
「……まあ、あんまり困らせたらいけないですね」
湊さんが何気なく向けた視線の先。
店先から少し離れたところ。
ふと、見覚えのある姿に、目が留まる。
「……え?」
街灯の下。
壁に背を預け、スマートフォンを眺めていた男の子が、私たちに気付いて顔を上げる。
キャップから覗く黒髪。虹彩の薄い瞳。
マスクで顔の半分は隠れているけれど、見間違えるはずもない。
「……鳴くん?」
「お疲れ」
いつもと変わらない声。
けれど、その視線が一瞬だけ私の隣へ流れる。
「……なんでいるの?」
「んー」
鳴くんが何かを答えるより先に。
「僕が呼びました」
「え?」
隣からあっさり答えが返ってきた。
振り返る。
湊さんは何でもないことのように、車のキーを指先で弄んでいた。
「どうせこの辺にいるって言うから。じゃあ迎えに来たらって」
「……いつの間に」
「紬さんがお手洗い行ってる時です」
なるほど、と頷きかけて、すぐに別の疑問が浮かぶ。
鳴くんがここにいる理由は分かった。
分からないのは、どうして湊さんがわざわざ呼んだのかだ。
目の前の鳴くんへ視線を向ける。
不満そう――とまではいかない。
けれど、どう見ても機嫌がいい顔ではなかった。
何も言わず、ただじっとこちらを見ている。
そんな私と鳴くんを見比べて、湊さんがふっと口元を緩めた。
「さて」
手にした車のキーを軽く持ち上げる。
「どうします?」
「……え?」
「僕の車で送っていきましょうか?」
そして、視線だけを鳴くんへ向ける。
「それとも、お迎えに来た鳴くんと帰ります?」
「……」
なんでそんな選択を迫られているのだろう。
そもそも鳴くんを呼んだのは湊さんなのに。
困惑して二人を見比べてしまう。
鳴くんは何も言わない。
ただ、あの瞳で私を見ている。
湊さんも急かさなかった。
選択肢を差し出したまま、私が答えるのを待っている。
「……ごめんなさい」
気付けば、言葉は自然に出ていた。
「車には、乗れません」
一瞬、湊さんの目が、ほんの少しだけ細くなる。
けれど。
「ですよね」
返ってきた声は、驚くほどあっさりしていた。
――まるで、最初から答えを知っていたみたいに。
「分かりました」
それから鳴くんを見る。
「じゃあ、鳴くん」
「はい」
「ちゃんと送ってあげてください」
「言われなくても、そのつもりです」
「はは。そう言うと思った」
軽口を叩き合う二人を見ながら、私はますます首を傾げる。
あんなに険悪だったはずなのに、いつの間にこんな会話をするようになったのだろう。
湊さんは車へ向かいかけて。
「あ、紬さん」
思い出したように振り返った。
「はい?」
「今日は楽しかったです」
いつもの、人を食ったような笑顔ではない。
まるで少年のように無邪気な笑み。
「僕、本当にあなたに会えてよかった」
「……私もです」
その笑顔が妙に眩しくて、一瞬だけ目を細める。
きっと、今回仕事で再会したことのみならず、アイドル時代に私を推したことも含めて、言ってくれている気がした。
そして、今回話して救われたのは、私だって同じだった。
「それは嬉しいな」
それだけ言って、今度こそ背を向けた。
少し離れたところに停められていた黒いセダンのテールランプが灯る。
静かに走り出した車が、夜の街へ溶けていく。
その姿が見えなくなるまで、なんとなく目で追っていた。
「……帰ろ?」
隣から声がして、振り返る。
鳴くんが立っている。
「うん」
そう答えた、その直後。
当たり前みたいに差し出された手が、私の手を取った。
「……!」
指先が絡む。
驚いて鳴くんを見るけれど、本人は何でもない顔で歩き始めてしまう。
「鳴くん」
「なに?」
「……手」
「うん」
「うん、じゃなくて」
「嫌?」
足を止めないまま聞かれる。
私は繋がれた手を見る。
夏だし、汗かいてるんじゃないかとか。
さも当然みたいに手を繋ぐって、私たちそんな仲じゃないでしょとか。
思うことはある。
振りほどこうと思えば、簡単にできる。
けれど。
「……嫌じゃ、ないけど」
「じゃあいいじゃん」
「よくは……」
ない、と。
最後まで言えなかった。
結局、私はその手を振りほどかないまま歩き出す。
こういう時、顔出しのアイドルやストリーマーではこうはいかない。
顔を隠してしまえば誰にも本人だと分からないVTuberという仕事は、随分便利なのかもしれない。
そんな、どうでもいいことを考えながら。
繋がれた手を、そっと握り返した。




