第17話 人のせいにしないでよ
控えめなノックのあと、鳴くんは静かに部屋へ入ってきた。
その手には、自動販売機で買ってきたらしいペットボトルが二本。
「これ」
差し出された緑茶を受け取る。
「……ありがとう」
鳴くんは隣へ腰を下ろすと、自分のボトルの蓋を開けた。
私も一口だけ口をつける。
冷たいお茶が、強張った喉を少しだけ潤した。
しばらく、何も話さないままに時間だけが流れる。
どちらも話さずに一緒にいるなんてそうあることではないのに。
不思議と気まずくはなかった。
「……いろはさん、新曲なんだってね」
ようやく鳴くんが口を開いた。
「うん」
「可愛い曲、似合うよね」
思わず小さく笑う。
「うん。魅惑の小悪魔ボイスなの」
「ははっ」
鳴くんも吹き出した。
「確かに。羨ましい~」
二人で笑いあう。
さっきまで張り詰めていた空気が、ほんの少しだけほどけた。
笑いの余韻が消える前に、鳴くんが口を開く。
「……今日、止めてくれてありがとう」
膝の上でペットボトルを握り締める。
「ごめんなさい。迷惑かけちゃって」
私は首を横に振った。
「迷惑とか、そんなんじゃないよ」
どうしても、もっとできることがあった気がしてしまって、目線が下がる。
「……むしろ、間に合わなくてごめん」
「……何でよ」
けれど、鳴くんの不服そうな声に、思わず顔を上げた。
「俺が、頭に血ぃ上りすぎただけ」
苦く笑って、自分を責めるように呟く。
「相手の挑発に乗るべきじゃないって、分かってたはずなのに」
一瞬の沈黙の中、彼の指先がペットボトルのラベルをなぞる。
「あの瞬間、無理だった」
ぽつり、と。
「何も考えらんなくて」
私は返事ができなかった。
あんな鳴くんを見たのは、初めてだったから。
「……私ね」
気付けば、言葉が零れていた。
「アイドルしてた時、一度だけ炎上したことがあるの」
鳴くんは何も言わない。
ただ、続きを待ってくれていた。
「きっかけは、とあるメンバーとの不仲説」
「ネットでね、私と仲が悪いって噂されてた子が、配信で『どうして最近遊ばないんですか』って聞かれたの」
当時の映像が、嫌でも頭に浮かぶ。
「その子は、『昔は仲良かった。でも最近の紬は、あんまり話してくれなくなった』って答えた」
「……うん」
私は苦笑する。
「その子はチームの中心メンバーで、私は、その頃にはもう……アイドルを続けること自体、苦しくなってた」
期待に応えられない。同じ熱量で笑えない。
そんな自分が嫌で、ファンとも、メンバーともどんなふうに関わっていいのかわからなくなっていった。
「だから、仲の良かった子たちとも、自分から少し距離を置いちゃってた」
「嘘ではなかった。でも、受け手が勘違いするような言い方ではあった」
鳴くんは静かに聞いている。
「でも、ファンから見たら違ったの」
自然と指先に力が入る。
「ネット上では私がその子を無視してる、いじめてるって話になって」
「毎日、何万件もコメントが来た」
「謝れって」
「最低だって」
「辞めろって」
何年も過ぎた今でさえ、こうして口に出しただけで涙が出そうになって、一度息を吐く。
「当時、周りにいた人たちは悪い人ではなかった」
無理やり絞り出した声が震える。
瞬きをした拍子に、目尻から涙が溢れ落ちる。
「でも、『話題になってる』『数字は伸びてる』って、そんな話をする人もいて」
笑おうと上げた口角は、意思に反して、ただ歪むだけだった。
「私は、ただ最近あまり話してなかっただけで……無視なんて、一度もしてなかった」
きっと、あの子だって、最初はそこまで深刻に考えていなかった。
ほんの少し寂しかっただけ。
聞かれたから、感じていたことをそのまま口にしただけだった。
でも、その言葉から誰かが意味を読み取って。
それを見た誰かが、もっと分かりやすい形にして広めて。
気付いた時には、私たちの気持ちとは関係のないところで、物語が出来上がっていた。
無視をした私と、傷つけられたあの子。
そんな分かりやすい形を大勢が信じ始めてしまえば、今さら本人が違うと言ったところで、もう後戻りなんてできなかった。
真実は、誰かが作り上げた物語よりも、ずっと曖昧で。
ずっと面白くなくて。
だから、本当のことは誰にも届かなかった。
「それで、炎上が大きくなって……謝罪動画を撮ることになったんだけど」
一度、息を吐く。
「でも、当時の私には、一緒に苦しんでくれる人はいなかった」
当時のマネージャー、事務所の先輩、お世話になっていたスタッフさん。
「子どもみたいなことを言ってもしょうがないって、分かってた」
「話題になれば数字が伸びる。数字が伸びれば仕事になる」
みんな嫌いなわけじゃない。
誰も間違っていたわけじゃない。
「そういう世界なんだって、ちゃんと分かってた」
だから、誰も責められなかった。
責められなかったからこそ。
あの日、「悪者」は私一人でいなきゃいけなかった。
みんなは前を向いて仕事を続けていくのに、謝罪の場に立った私だけが、世間の「悪い人」のまま取り残された。
理解することと、受け入れられることは違うのだ。
どうしても苦しかった。
「私は昔、アイドルってもっと……夢を届ける仕事なんだと思ってた」
「でも、いつの間にか」
漏れたのは、自嘲するような笑いだった。
「夢は、大きな数字でできているんだって思い知らされて」
「数字のためなら炎上も一つの話題で、数字のためなら誰かが泣いても、真実が歪んでも、どうでもよくて。もちろん、全部が全部そうだなんて言うつもりはないけど」
「でも、私は、その世界で笑えなくなっちゃった」
「だから」
私には、向いてなかった。
「鳴くんや、いろはさんには、そんな思い絶対にさせないって思ってた」
でも、向いている人には、何の不安もなく夢を追いかけてほしかった。
数字に怯えることも、人として傷付くこともなく、好きだと思えるままステージに立っていてほしかった。
「配信者として成功してほしい。でも、エンタメの為に人として犠牲になってほしくなかった」
私が笑えなかったぶん、誰かには笑っていてほしかった。
何も失わずに才能を発揮できる場所を作りたかった。
無意識に、ペットボトルを握る手に力が入る。
「ごめんなさい」
「大会に出られたら百万人の大台も夢じゃないって……勝手にっ」
「湊さんと戦うことになったのも、ここまで話が大きくなったのも」
「全部、私が……っ、原因なのに」
喉が詰まる。
ひゅっと音が鳴る喉に、意識してゆっくりと息を吐く。
「ごめんなさい……鳴くん」
声が震える。
「大切な瞬間を、こんな風に迎えさせてしまうだなんて……っ」
鳴くんはすぐには何も答えなかった。
私の言葉を、ひとつずつ受け止めるように黙っている。
やがて、小さく息を吐くと、鳴くんは困ったように笑った。
「俺さ」
「高校の頃、湊さんのことめっちゃ好きだったんだ」
予想外の一言に、顔を上げる。
「ずっと動画見てたし、配信も追ってた」
「だから、こんなことがなかったら、たぶん一生会えなかったと思う」
少しばつが悪そうに、照れ臭そうに笑う。
「むしろ、高瀬さんにはありがとうって言いたい」
その言葉にぎゅっと胸が締め付けられた。
今の私が受け取っていい言葉には思えなかった。
「……まあ」
呆気にとられる私に、すぐに鳴くんは肩をすくめた。
「結果的に、あんなムカつく人だとは思わなかったし」
「キレちゃったんだけどさ」
鳴くんが、まるでテーブルの上に水でもこぼしたかのような軽さで笑うから、つられて微笑んだ。
「でも、本当に気にしないで」
「最後はやらかしたなって、苦い記憶にはなっちゃったけど」
「大会そのものは、本当に楽しかった」
「あんなすごい人たちとチームを組めたし」
「俺、一生忘れないと思う」
一度言葉を切る。
「それに、連れて行ってくれたのは高瀬さんだから。正直、今の俺はまだ、自分の実力だけで選ばれたわけじゃない」
「でも」
鳴くんの声が、ふっと柔らかくなる。
「神プレイ、できたじゃん」
「すごくない? 俺」
そんな風に同意を求めてくる鳴くんに、私は小さく頷いた。
「……うん。すごいよ」
三対一から一人でチームを勝利に導いた鳴くんを、まだ鮮明に、瞼の上に思い出せる。
「かっこいいって、言ってくれたでしょ」
「うん……」
正面から私を見つめた虹彩の薄い瞳。
真っ直ぐ射抜かれて、思わず息を呑む。
「だったら」
鳴くんは、ゆっくりと言葉を選ぶように口を開く。
「失敗した時だけ、人のせいにしないでよ」
その言葉に息を呑む。
「俺の実績を認めるなら」
「俺の失態の責任は、俺に求めてください」
はっきりとした口調だった。
その瞳には、迷いがない。
「今日キレたのは俺です」
「配信であんな態度を取ったのも俺です」
「だから、その責任まで高瀬さんが背負う必要はありません」
言葉が出なかった。
鳴くんの表情が、ふっと和らぐ。
「一緒に喜んで、一緒に悲しんで、一緒に悩んでくれる」
「そんなマネージャーがいてくれること、俺は幸運だと思ってます」
少し照れ臭そうに笑う。
「ありがとう」
胸の奥が熱くなる。
「……でも」
思わず声を漏らす。
鳴くんはゆっくり首を横に振った。
「ちゃんと自分で責任を取れるって」
「高瀬さんに、ちゃんと見せます」
「だから、信じて」
その一言には、不思議と根拠なんて必要なかった。
私は小さく頷く。
鳴くんは安心したように笑うと、不意に小指を差し出した。
「約束」
「……え?」
「百万人の景色が、こんなままじゃ格好つかないので」
照れたように笑いながらも、その目だけは真剣だった。
「この件は、俺に任せてください」
差し出された小指が、私を待っている。
私は少し迷ってから、小指を重ねた。
「ちゃんとできたら」
絡め取るように指を折りながら、鳴くんは悪戯っぽく笑う。
「デートの約束、してください」
「……えっ」
「逃げちゃ駄目ですからね」
完全に鳴くんのペースだった。
それがなんだか可笑しくて、私はようやく自然に笑えた。
「……うん」
指切りを終えて手を離す。
出会った頃の私たちなら、きっとこんなふうに笑い合うことはできなかった。
いつでも守りたいと思っていた。
そうしなくてはいけないと思い込んでいた相手は、今は私を安心させるために笑っている。
百万人という数字。
そこに至るまでの今までの日々は、 きっと彼を一人の大人にしていた。
そんなことにも、私は今まで気付いていなかったのだ。




