第16話 夢だった百万人
数秒間。
二人とも口を開かなかった。
鳴くんは唇を強く噛み締めたまま、ゆっくりと息を吐く。
上下する肩からは、まだ怒りは消えていない。
それでも。
もう一度ヘッドセットを付け直した。
私は何も言わない。
ただ、そっと腕を放して、その背中を見守る。
「……すみません」
少し掠れた声。
「取り乱しました」
一瞬だけ目を閉じると、鳴くんはいつもの声を作る。
「いやー、負けた!」
さっきまでとは別人みたいに笑う。
その無理をしている笑顔が、痛くてたまらないのに。
「めっちゃ悔しい~っ!」
どんな時も彼にプロ意識を持つように教えたのも、こんな時でもそうあるように求めるのも、私だった。
「惜しかったなー!」
グループチャットでチームメイトが明るく声を上げる。
「いやでも鳴のおかげでここまで来れたわ!」
「最後までめちゃくちゃ楽しかった!」
「また大会あったら絶対組もうな!」
鳴くんは眩しいものでも見るように少しだけ目を細める。
「……うん」
口元は確かに笑って、
「最後、カッとなっちゃってごめん」
少し照れ臭そうに頭を掻く。
「でも、ほんと楽しかった」
「また誘って」
「次は勝とう!来年は勝てる!」
短い期間ながら一緒に戦ってきたメンバーからは温かい声が聞こえてくるのに、どうしても胸が熱くなった。
「配信見てくれたみんなもありがと」
2Dモデル越しでも、その笑顔は本物だった。
「今日はこの辺で!」
「またね!」
配信終了のボタンが押される。
モニターから、配信中を示す赤いランプが消えた。
瞬間、部屋が静かになる。
ほんの数秒前まで聞こえていたコメントも、歓声も、何もない。
静寂だけが落ちる部屋で。
鳴くんの笑顔が、音もなく消えた。
◇
会場を出て、事務所へ向かう車内。
一緒に来ていた数名のスタッフは誰も口を開かなかった。
さっきまで歓声で満ちていた空気が嘘みたいに静かで、エンジン音だけが耳に残る。
後部座席に座る鳴くんは、窓の外をぼんやりと眺めていた。
スマートフォンは何度も震えている。
通知は止まらない。
それでも、一度も画面を開こうとはしなかった。
私も同じだった。
どうしても、嫌な予感だけが胸の奥で膨らんでいく。
「……あ」
静寂を破ったのは、隣に座っていたスタッフだった。
スマートフォンの画面を見つめたまま、目を丸くする。
「鳴」
「百万人、超えた」
車内の空気が、一瞬だけ止まった。
鳴くんがゆっくりと前を向く。
「……え?」
「ほら」
差し出された画面には、
登録者数 1,000,021人
その数字が表示されていた。
「……ほんとだ」
鳴くんは少しだけ目を細めて笑う。
その笑顔は、どこか力なかった。
「おめでとう。」
誰かがぽつりと言う。
「大会中に突破するなんて、チャンスを生かすどころの話じゃないな」
「すげぇよ。本当に」
祝福の言葉がぽつぽつと続く。
鳴くんは一瞬だけ困ったように笑って、
「……ありがと」
短く返した声は、少しだけ掠れていた。
夢だった百万人。
本来なら、車内がお祭り騒ぎになっていてもおかしくない。
百万人。
私たちにとってそうである以上に、鳴くんが自身が、ずっと夢見てきた数字だった。
それなのに誰も、その話を続けようとはしなかった。
スマートフォンは今も震え続けている。
誰も画面を開かないまま、車は静かに事務所へと向かってゆく。
◇
事務所へ戻ると、すでに何人ものスタッフがモニターの前へ集まっていた。
キーボードを叩く音だけが、静かな部屋に響いている。
「お疲れ様です」
誰かがそう声を掛ける。
けれど、返事は神妙な声色で返ってくる。
「……トレンド、一位です」
スタッフの一人が画面を見つめたまま呟く。
私は恐る恐るスマートフォンを開いた。
『暴言配信者』
『出してもらっといて湊に暴言とかふざけんなはお前』
『謝罪しろ』
『スポーツマンシップの欠片もない』
『Team MINATO可哀想』
危惧していたのはこれだった。
湊ほどの人気配信者にあの態度は、絶対にファンが許さない。
イケメン配信者なんて、過激なファンも多いものだ。
中でも湊ほどの人気配信者だ。
あの態度を切り取られれば、燃えるのは目に見えていた。
そして、その一方で。
『先に煽ったの湊だろ』
『約束って何だったんだ?絶対なんか仕掛けてたでしょ』
『あれで正々堂々?』
『勝つためなら何でもありかよ』
鳴くんに味方するファン、野次馬。
擁護と批判が入り乱れ、タイムラインは見る見るうちに流れていく。
「切り抜き、かなり拡散されてます」
「例のシーンだけですね……」
「本配信見てる人は擁護してるけど、追いついてないな」
「ちょっとうちの分が悪いですね。火消し急ぎましょう」
スタッフたちは次々と言葉を交わし、それぞれの持ち場へ散っていく。
誰も浮かれてはいない。
でも、誰も立ち止まってもいなかった。
起きてしまったことへ、今できる最善を考えて動いている。
「登録者数、百二万人突破しました」
モニターを見ていたスタッフが振り返る。
一瞬だけ部屋が静かになる。
「……すごいな」
「大会効果もあるだろうけど、一気に伸びた」
「うちで百万人超えてるの、まだ三人だけだぞ」
祝福とも感嘆ともつかない声が漏れる。
私は思わず鳴くんを見る。
鳴くんは画面を見つめたまま、遠くを見つめる顔をする。
とてもじゃないけれど、嬉しそうには見えない。
と、その時だった。
「お疲れ」
社長が部屋へ入ってくる。
全員の視線が集まった。
社長は真っ直ぐ鳴くんの前まで歩き、ぽん、と肩を叩く。
「今日はよくやった」
鳴くんは驚きながらも、少しだけ目を伏せる。
「……ありがとうございます」
「百万人だ」
社長はみんなが見ていたモニターへ視線を向ける。
「そう簡単に届く数字じゃない」
「本当にすごいことだ」
部屋が静まり返る。
鳴くんは少しだけ笑って、「はい」と答えた。
その笑顔を見て、社長は一拍置く。
「……落ち着いたら、ちゃんと祝おう」
その言葉に、鳴くんは驚いたように目を瞬かせた。
社長は穏やかに笑い、それから表情を引き締める。
「だからこそ、今はやるべきことをやる」
部屋の空気が変わる。
「早めに謝罪動画を出そう」
静かな声だった。
けれど、その一言が部屋中に重く響いた。
◇
「謝罪動画、今すぐ出しますか?」
「いや」
モニターを見つめたまま、一人が首を振る。
「今は切り抜きが一番回ってる」
別のスタッフがリアルタイムのアクセス解析を開く。
「拡散速度、まだ落ちてません」
「このタイミングで謝罪を出すと、動画まで一緒に拡散される可能性があります」
「投稿するなら数時間後かな」
「視聴者が少し冷静になってからの方が届きやすい」
キーボードを叩く音と静かな話し声が部屋に響く。
誰も声を荒げない。
誰も笑ってもいない。
ただ、起きてしまった出来事をどう収束させるか、その一点だけを考えていた。
「登録者は?」
別のモニターへ視線が向く。
「……まだ伸びてます」
「この短時間でも、五千人増えてます」
数字だけが、静かに増え続けていた。
スタジオでは、照明の準備が進んでいた。
白いライト。
三脚。
正面を向いたカメラ。
スタッフがマイクを調整する。
「椅子、もう少し右」
「テロップは後で入れます」
「サムネは黒背景で」
「冒頭三十秒は謝罪から入りましょう」
仕事なんだ。
分かっている。
誰も間違っていない。
それなのに、ライトが点いた。
その瞬間だった。
胸が強く締め付けられる。
息が、吸えない。
白い光、熱を持った照明、正面を向いたカメラ。
過去の記憶と寸分違わない配置に、景色がぐるぐる回り出す錯覚に陥る。
違う、今じゃない。
今は、私は――。
「高瀬さん?」
異変を察した鳴くんが、私を呼ぶ。
なのに、自分の心音と呼吸音が煩くて、うまく聞こえない。
呼吸が浅い。
何度吸っても、肺が空っぽのままのような苦しさが襲う。
視界には生理的な涙が滲んで、膝から力が抜けて、うまく立ってられない。
「……ご、ごめんなさい」
震える声で、それだけを絞り出した。
「少しだけ……外します」
その場を離れようとした時だった。
「あれ?」
聞き慣れた声がした。
「つーちゃん?」
振り返ると、スタジオの入口からいろはさんが顔を覗かせていた。
元はいろはさんの収録予定のスタジオを借りることになったから、様子を見に来たのだろう。
私の顔を見るなり、笑みがふっと消える。
「……はいはい、ちょっとどいてね~」
柔らかい声だった。
それなのに、その場の空気がぴたりと止まる。
いろはさんは私の前まで歩いてくると、目線を合わせるように少しだけ腰を落とした。
「大丈夫、つーちゃん。だいじょうぶだよ」
そう言って、ゆっくり息を吸ってみせる。
「吸ってー」
「……吐いて」
私もつられるように息を吐く。
「うん、そうそう。上手」
優しく背中をさすられる。
「無理しなくていいから。ゆっくり、ゆっくりね」
少しずつ、呼吸が戻ってくる。
いろはさんは小さく頷くと、今度は鳴くんへ視線を向けた。
「鳴くん、ちょっと」
二人はスタジオの隅へ移動する。
何を話しているのかまでは聞こえない。
鳴くんは一度だけ私を見て、真剣な表情で頷いた。
それから、いろはさんがスタッフたちへ振り返る。
「このスタジオ、元は私が使う予定だったし」
ぱん、と手を叩いて笑う。
「今日は予定通り私使わせてもらおうかな」
「謝罪ってさ、気持ち整ってないと届かないし」
「鳴くんにもさ、少し時間あげよ」
スタッフたちも異論はなく、それぞれ準備の手を止めた。
いろはさんは私に近づいて、小さく笑う。
「休憩室、空いてるよ」
「少し休んでおいで」
私は何度も頭を下げた。
「……すみません」
「ありがとうございます……」
ゆっくりと立ち上がり、近くの休憩室へ向かう。
ドアを閉めると、ようやく静寂が訪れた。
まだ少しだけ震える指先を握り締める。
どれくらい経っただろうか。
控えめなノックの音が響く。
「……高瀬さん」
半分開いたドアから聞こえるのは、聞き慣れた声だった。
ゆっくりと部屋に入ってきた鳴くんは、先ほどまでとは違って、ひどく穏やかな顔をしていて。
その顔を見た瞬間、必死に押し込めていたものが、喉の奥まで込み上げてきた。




