第11話 これは恋じゃない
鳴くんの部屋に行った日から、一週間。
私たちはいつも通り仕事をしていた。
今日鳴くんは午前中からダンスレッスン。
午後は歌のレッスンをして夕方には仮眠して夜には配信だ。
レッスンスタジオへ顔を出すと、ちょうど休憩に入った鳴くんと目が合った。
「お疲れ様」
「……お疲れ様です」
ほんの一瞬だけ、何かを言いたそうに口を開いて。
でも結局、鳴くんは何も言わなかった。
私も何も言わない。
どんな顔をすればいいのか、何を言えばいいのかなんてわからない。
ここは会社だ。
私はマネージャーで、鳴くんは担当タレント。
この状況下で優先すべきは、その事実だけだ。
「喉は?」
「もう大丈夫です」
「よかった。午後も頑張ろう」
それだけ伝えて、出口へ向かう。
背中に視線を感じた気がした。
……気のせい、だと思いたい。
どんな言葉にも深い意味をのせてしまいそうになるから。
小さく息を吐いて気持ちを押し込み、私は足を止めないまま言った。
「レッスン終わったら少し時間もらえる?」
「話さないといけないことがあるの」
「……分かりました」
それだけ返事を聞いて、私はスタジオを後にした。
◇
レッスンを終えた鳴くんを連れて、小さな会議室へ入る。
向かい合わせに座り、鞄から資料を取り出した。
その間も、鳴くんはどこか落ち着かない様子で私を見ている。
膝の上で何度も指を組み替えて。
何かを待つように、けれど覚悟を決めるように、小さく息を吐いた。
……そんな顔をされると、困る。
何を期待しているのかなんて、考えなくても分かってしまうから。
だから私は、その視線から逃げるように資料を机へ広げた。
「今日は報告があるの」
そう切り出した瞬間。
鳴くんの肩が、ぴくりと揺れた。
真っ直ぐ私を見つめる瞳。
息を潜めるように、静かに次の言葉を待っている。
……多分、鳴くんが想像しているような話ではない。
何とは言わないけれど、多分、本当は話さないといけないんだろう。
わかっていて意図的に無視する私は、ただの臆病者なのかもしれない。
「毎年やってる「クリコ」の大会わかるでしょ?Youtuberの湊さんプレゼンツのやつ」
CRITICAL CODE通称クリコ。
五対五の対戦型シューティングゲームだ。
五人のプレイヤーがそれぞれ異なる能力を持つキャラクターを選び、銃と特殊能力を組み合わせながら戦う。
日本国内外に多数のプレイヤーを有し、今回アサインしてもらったのは毎年かなりの盛り上がりを見せる大会の一つだ。
「出場が決まったよ」
伝えて、一拍。
鳴くんは瞬きをした。
そのまま動かない。
まるで意味を理解できていないみたいに、私と目の前に出した資料を何度も見比べている。
数秒遅れて。
「……え」
ようやく零れた声は、ひどく間の抜けたものだった。
「え、待って。来月の頭だよね?」
「うん」
もう月も半ばに差しかかっている。
大会までは、もう二週間ちょっとしかない。
鳴くんは再び資料へ目を落とした。
参加者一覧。大会概要。日程。
疑うように一つずつ視線で追い、最後にもう一度、大きく瞬きをする。
「……マジで?」
「マジです」
「え、すご……」
掠れた声のまま呟いて、両手で口元を覆う。
けれど、隠しきれない。
指の隙間から覗く口元は、今にも笑い出しそうに緩んでいた。
「すごい……!」
顔を上げた鳴くんの瞳が、子どもみたいにきらきらと輝いている。
「これ、最後に湊さんのチームと戦えるやつだよね?」
「決勝まで勝ち上がれればね」
「毎年、湊さんが元プロとか昔のチームメンバー集めて、最後に待ってるやつでしょ?」
「そう。挑戦者側のチームで予選をやって、勝ち残った一組が湊さんのチームと決勝戦」
「うわ、マジか……」
椅子の背にもたれたかと思えば、すぐに身を起こす。
落ち着いていられないのか、資料を持ち上げては置き、また私を見る。
「どうやったの?」
「まだ挑戦者側の枠が全部発表されてなかったから、直接お願いしてみたの」
「お願いして、入れる大会じゃないでしょ、これ」
「入れてくれたんだから、お願いしてみるものだね」
「いや、そういうことじゃなくて」
鳴くんは興奮したまま首を振る。
「だって毎年、湊さんの事務所の人とか、昔から繋がりある配信者ばっかりじゃん。外から追加で呼ばれる人なんて、ほとんどいないでしょ?」
「だから、鳴くんを呼んでもらう意味があるって説明してきた」
「……俺を?」
「うん」
鳴くんの動きが、一瞬止まった。
驚いたように私を見つめたあと、また資料へ目を落とす。
さっきまで膝の上で組み替えられていた指は、もう忙しなく紙面をめくっていた。
あれほど重たく感じていた空気は、どこにも残っていない。
そのことに安堵している自分がいて、ほんの少しの罪悪感。
「……ねぇ」
資料を見つめたまま、鳴くんがぽつりと口を開く。
「うん?」
「湊さんに、お礼言えたりしないかな」
私は顔を上げる。
「顔合わせとか、オンラインで頼めたり……」
「そういうの出来たりする?」
真っ直ぐな瞳だった。
仕事だからじゃない。
純粋に感謝を伝えたいんだと分かる。
「……聞いてみるね。」
基本的に開催者と挨拶する機会なんてそうあるものではないけれど、湊さんならもしかしたら時間を作ってくれるかもしれない。
今後も何かしら関わる可能性を考えれば、一度挨拶をしておくのも悪くない。
そんな思いから送った連絡はすぐに返信が返ってくる。
“30分後、こちらのURLで”
こんな突然の要望に即座に応えてもらえるとは思わずに、鳴くんと顔を見合わせた。
私たちは急いで会議室を押さえ、資料をもう一度読み込む。
約束の時間になると、会議室のモニターに着信が入った。
画面越しに現れた湊さんは、先日会った時と変わらず柔らかな笑みを浮かべている。
「こんにちは」
「本日はお時間をいただきありがとうございます」
私が頭を下げると、湊さんは「いえいえ」と手を振った。
「今日は鳴くんとお話しするのが目的ですから」
私は椅子を少し引き、鳴くんへ視線を向ける。
「鳴くん」
「はい」
鳴くんが小さく頷く。
湊さんの画面に映っているのは配信用のアバターだけれど、隣に座る本人の顔には、隠しきれない緊張が浮かんでいた。
画面へ向き直ると深く頭を下げる。
「波多野鳴です。この度は大会へお声掛けいただき、本当にありがとうございます」
言葉に迷いはなかった。
いつもの配信とは違う。
一人の社会人として、真っ直ぐに感謝を伝えている。
湊さんはその姿を見て、満足そうに微笑んだ。
「こちらこそ。参加してくれてありがとうございます」
「正直外部事務所の方を、登録者数百万人に届く前の段階でお呼びすることは、ほとんどありません」
その一言に、鳴くんの表情が少しだけ引き締まる。
「だからこそ、期待しています」
「……はい」
返事は短く、それでも力強かった。
「あと二週間程度ですよね」
湊さんは顎へ軽く手を添える。
「仕上げはどう考えてます?」
「コーチをお願いしたい人は決めています」
鳴くんは迷わず答えた。
「残り二週間は対策を詰めて、少しでも勝率を上げたいと思ってます」
「いいですね」
湊さんは一度頷く。
「FPS得意だって聞いていますが、大会も結局どれだけ準備できたかですから」
そこから数分。
当日の進行やルール、配信の流れを確認していく。
終始穏やかな空気だった。
それでも、湊さんは時折、鳴くんの言葉だけではなく、2Dモデル越しのその表情まで見ているような気がした。
さすが何百人もの配信者を見てきた人だ。
人を見る目は鋭い。
大会主催者本人が、ここまで時間を割いてくれることなんて滅多にない。
たまたま都合がついたからと言われたが、確実に貴重な機会だった。
鳴くんの何かがこの人の印象に残って、今後もご縁をいただけることを祈るばかりだ。
ひと通りの確認を終えたところで、私は改めて頭を下げた。
「本日は、急だったにもかかわらずありがとうございました」
「いえいえ」
これで終わり。
そう思った、その時だった。
「あ、紬さん」
不意に名前を呼ばれ、私は画面へ視線を戻す。
「例の日なんですけど」
一瞬だけ言葉に詰まる。
「こちらから候補日を送っても大丈夫ですか?」
「え、あ……はい。こちらはいつでも調整できますので」
「ありがとうございます」
そのやり取りを横で聞いていた鳴くんは、何も言わない。
ただ、先ほどまでとは少し違う静けさを纏っていた。
湊さんはそんな鳴くんへ言葉を移し、小さく笑う。
「鳴くん」
「はい」
「こんなに面倒見のいいマネージャーさん、そうそういませんよ」
「……はい」
「羨ましいです」
ふっと細められた目は穏やかなのに、その笑みだけがどこか意味深だった。
鳴くんも小さく笑い返す。
「本当に助けてもらってます」
「でしょうね」
湊さんはゆっくりと頷いた。
まるで、その一言だけで十分だと言うように。
「でも」
一拍。
「お姉さんみたいだからって、甘えすぎちゃ駄目ですよ」
画面上の2Dモデル越しでは何も読み取れないけれど、視界の隅で鳴くんの表情が、僅かに強張る。
「紬さんは仕事だから、ここまで支えてくれているんです」
優しく諭すような口調。
責めるでもなく、笑うでもなく。
だからこそ、否定のしようがない。
「それに――」
穏やかな笑みは崩れない。
けれど、その視線だけが真っ直ぐ鳴くんを捉えていた。
「ちゃんと、一人の女性としても大切にできるよう、配慮してあげてくださいね」
会議室が静まり返る。
返事がない。
画面を見たままの鳴くんは、瞬きすら忘れたように固まっていた。
視界の端に映る横顔が、さっきまでとは別人みたいに硬い。
……あれ。何だこの空気。
このまま変な空気にしたくなくて、私は慌てて口を開いた。
「お気遣いありがとうございます」
湊さんは私へ視線を戻し、小さく肩をすくめる。
「いえ。少しお節介でしたね」
そう言って笑う表情は、あくまで柔らかい。
けれど通話越しに一瞬だけ交わされた二人の視線には、私の知らない何かが流れた気がした。
もちろん、その正体までは分からなかった。
「じゃあ、大会を楽しみにしています」
「よろしくお願いいたします」
鳴くんと声を揃えて頭を下げる。
湊さんが穏やかに手を振った直後、画面が切り替わった。
モニターに浮かぶ『通話終了』の文字。
それまで聞こえていた声が途切れ、会議室が急に静かになると、私は息を吐き、閉じていた資料へ手を伸ばした。
「よかったね。直接お礼も――」
そこまで言って、言葉を止める。
鳴くんは動かなかった。
画面を見つめたまま、膝の上で固く手を握っている。
俯いているせいで表情はよく見えないけれど、指先が白くなるほど力が籠もっていることだけは分かった。
先ほどまで瞳を輝かせていた人と、同じ人だとは思えないほど静かだった。
瞬間、胸が締めつけられる。
こんなふうに相手の表情一つで心が揺れるなんて、おかしい。
これは恋じゃない。
守りたいも成功させたいも、笑っていてほしいも、仕事の延長線上のはず。
そう言い聞かせることで今まで通りを保っているのに。
言い聞かせるたび、じゅくじゅくと胸の奥で何かが膿んでいくような音がした。




