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第8話 崩壊です 中編



四家緋和が月凪町店を去ってから、数日が過ぎていた。


あらゆる吹き荒ぶ嵐からその場所を、そしてそこで働くスタッフたちのささやかな生活を護り続けてくれた、峻烈で、あまりにも確かな防波堤。


それがどれほど奇跡的なバランスの上に成り立っていたのかを、残された者たちはまだ本当の意味では理解していなかった。


ひいろという絶対的な存在を失った店舗は、その翌日から、遮るもののない荒海に直接晒されたかのように、目に見えない砂が噛み合う不協和音を立てて急速に狂い始めていた。





その日の午後、重苦しい沈黙が支配する事務室のビジネスフォンが、けたたましく鳴り響いた。


ディスプレイに表示されたのは、本社の文字。


受話器を取った主任の福良密生ふくら みつおの耳に飛び込んできたのは、いつになく焦燥を孕んだ社蓮太郎副社長の、上擦った声だった。



『……福良主任か。月凪町店の状況はどうなっている。四家が抜けてから、現場の数字が明らかに不穏だぞ。一刻も早く体制を立て直さねばならん。そこでだ、君に店長代行としての席を用意しようと思うが――』



ひいろを失った代償の大きさに気づき始め、現場の崩壊を水際で食い止めたい本社の、あまりにも身勝手な内示。


だが、その言葉を聞いた瞬間、福良の薄薄しい唇が、誰もいない空間に向けて歪んだ。


彼はいつものように、揉み手をするような卑屈で、それでいて計算高い仕草を浮かべながら、滑らかな声で首を横に振った。



「そんな、滅っ相もない! 私にはまだ店長代行だなんて、重責に耐えかねますよぉ、副社長。私は裏方でこそこそ動くのがお似合いの、しがない一介の主任に過ぎません。それよりも……」



福良は受話器を肩で挟み、手元のペンを弄びながら、声を一段と甘く潜めた。



「私のような頼りない人間よりも、主任としての経験も長くてバイタリティに溢れる山南さんのほうが、今の荒れた現場をグイグイ引っ張るには適任かと存じます。何より彼は上昇志向が人一倍強いですからねぇ。私は、山南さんを強く、強く推薦いたしますよぉ、副社長~」



福良のこの「お勧め」は、人手不足の恐怖と自らの失態の隠蔽から、一刻も早く『即戦力の責任者』を据えたかった蓮太郎の焦燥に、見事なまでに合致した。


現場を知らぬ経営陣のトップダウン。


その危うい権限によって、山南閉やまなみ とじるが副店長へと昇格し、同時に月凪町店の「店長代行」という操縦席に就くことが決定した。


そして福良は、主任職のまま「店長代行補佐」という、何が起きても山南の後ろに隠れられる、安全な特等席にちゃっかりと収まったのである。




「福良主任、いや――福良補佐! これからよろしくな!」



ある日の朝礼。


二週間ほど前、金曜のディナー帯に本物のプロたちによってプライドを木っ端微塵にへし折られていたはずの山南は、まるで世界のすべてを手に入れたかのように、これみよがしに胸を張り、声を張り上げた。


その肩書きが、彼の肥大化したプライドを再び呼び覚ましていた。


福良は待ってましたとばかりに、その薄暗い口元に歪な笑みを張り付かせ、パチパチとわざとらしく手を叩いた。



「こちらこそ、よろしくお願いしますよぉ、山南副店長! いえいえ、店長代行と言えば店長もおんなじですからねぇ。皆さん、対外的にも今日から山南さんのことを『店長』と呼ぶようにお願いしますよぉ~。ねぇ、店長ぉ!」



あからさまにへつらう福良の太鼓持ち。


その声が朝礼の場に響いた瞬間、張り詰めた空気を切り裂くような地鳴りのごとき怒号が飛んだ。



「店長、店長うるせえぞ福良っ!!」



キッチンチーフの武藤烈火むとう れっかが、奥歯を噛み締めながら二人を睨みつけていた。


太い腕を組み、浮き出た血管がその怒りの深さを物語っている。 


彼の瞳には、ひいろを理不尽な組織の論理で奪われたことへの激しい憤りと、目の前の二人に対する底知れない嫌悪感が渦巻いていた。



「いやだ、怖いですよぉ、チーフぅ。ねぇ、店長ぉ?」



わざとらしく肩をすくめて山南の背後に隠れる福良と、それを背に受けて「フン」と鼻高々に笑う山南。


武藤は、それ以上彼らと無駄な言葉を交わす価値すらないと断じるように、激しく、鋭い舌打ちをバックヤードに響かせると、背を向けて調理の仕込みへと戻っていった。


その背中は、怒りと共にどこか寂しげでもあった。




店長代行となった山南が、自らの権力を誇示し、自らの足元を固めるために真っ先に行ったのは、実弟である山南鳳凰やまなみ れおんの強引な採用だった。



山南は副社長へ「厨房の即戦力です」と直接ねじ込み、ろくな面接や実技の確認も経ないまま、強引に『サブチーフ候補』という破格の枠をもぎ取って入社させたのだ。


しかし、その鳳凰という男が厨房に足を踏み入れた瞬間から、ひいろが美しく構築した構造や規律は、加速度的に肌荒れを起こし始めた。



確かに、鳳凰の手の動きは早かった。


だが、その仕事のすべてが、驚くほどに雑で、冷たかった。


パスタは湯切りのし過ぎで表面がボソボソになり、ソースの分量は目分量でブレまくり、皿の縁に飛び散ったソースを拭き取ることすらしない。



「おい、これでもう上がりでしょ? 早く出しゃ客は文句言わねえんだよ」



クオリティを顧みず、ただ「早く出すこと」だけを仕事だと思い込んでいる男。


当然、職人としての誇りを持ち、ひいろと共に月凪町店の味と品質を守り続けてきた武藤チーフや、サブの速水凛子はやみ りんことは、初日の最初のディナーから激しく衝突することとなった。


「おい、ちょっと待て。ソースの乳化が全然できてねえぞ。これじゃただの油まみれの麺だ。やり直せ。それとパスタの湯ぎりはやり過ぎるな。茹で湯は麺に30cc残せと何度言ったらわかるんだ!ラーメンじゃねえんだぞ。」



武藤が厳しい口調で、鳳凰が差し出したオーダーの皿を突き戻す。


鳳凰はチッとあからさまに大きな舌打ちをし、包丁を調理台に叩きつけるように置いた。



「はあ? 勘弁してくださいよ。早さが命のチェーン店で、何こだわってんすか。これで回ってんだからいいでしょうが。お堅い料理人気取りですか?」



「貴様……っ!」



「まあまあ、チーフ、鳳凰くんも悪気はないんですよぉ。ねぇ、店長?」



すかさず滑り込んできた福良の遮りによって、厨房の空気は急速に冷え切っていく。


その最悪な現場の様子を、業務委託としてシフトに入っていた坂口蓮さかぐち れんは、ただただ冷めた、静かな目で見つめていた。


ひいろがいた頃の、あの機能美すら感じさせた美しいキッチンの動線が、無駄のない言葉のやり取りが、たった数週間で無残に崩壊していく。


それは、砂の城が波にさらわれるよりも容易いことだった。



しかし、そんな坂口こそが、この体制になって最も早く、迅速に、そして何のためらいもなくこの店を去る人間となった。



一カ月後、それは突然に訪れた。


山南にとって青天の霹靂だった。


契約満了。


いつもなら更新手続きをするだけだった。


しかし今回は、本人から更新拒絶の申し出があったのだ。


しかも、「辞退」という言葉を使わず「拒絶」といいう言葉を使い、山南に対して「一切の交渉や妥協を受け付けない」という極めて強い拒絶の意志を示してきたのである。



「おい坂口くん、ちょっと待てよ! 今抜けられたら困るんだよ。シフトに穴が開くだろ!」



事務室で、更新拒否の書類を前に焦る山南が、荷物をまとめた坂口の背中に声を荒らげた。



「何が不満なんだ? 給与か? それともシフトの融通か? 代行の俺の権限で、多少なら色を付けてやってもいいんだぞ」



歩みを止めた坂口は、荷物をまとめたバッグを肩にかけ、振り返りすらしないまま、冷ややかに、そして哀れむように吐き捨てた。



「――くだらないからだ」



「……何だと?」



「あんたたちのまがい物の覇権争いも、プライドの満たし合いも、すべてが時間の無駄だ。ここに、プロとして働く価値はもうない」


彼はその崩壊の結末を、一足先にすべて見抜いていたのだった。


坂口は一度も後ろを振り返ることなく、夕闇に消えていった。


残された事務室には、ただ山南の行き場のない怒鳴り声だけが虚しく響いていた。


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