第8話 崩壊です 前編
「この、バカ息子がっ……!!」
重厚な扉さえも震わせるような怒号が、冷え切った社長室の空気を切り裂いた。
デスクの向こうで、烈火の如き凄まじい威圧感を放ち、肩を昂ぶらせているのは、
株式会社ピース・イート代表取締役社長
――社栄子。
その怒りの炎を正面から浴び、完全に気圧されているのは、副社長であり彼女の息子でもある社蓮太郎だった。
普段は傲慢に振る舞い、現場に理不尽を強いる男が、今はまるで蛇に睨まれた蛙のように硬直している。
――四家緋和という至宝を、この会社から文字通り追い出した張本人が、彼だった。
「違うんだ母さん、私は――」
「会社では社長と呼びなさい」
凍てつくような拒絶が、蓮太郎の言葉を遮る。
「ち、違うんだ、社長!」
「何が違うのか、理路整然と説明しなさい」
栄子は手元にあった厚い書類を、容赦なくデスクに叩きつけた。
乾いた破裂音が室内に響く。
蓮太郎の額から焦燥の汗が滴り、喉が鳴る。
彼は這いつくばるように、必死の弁明を紡ぎ出した。
「四家緋和が……いや、四家店長が、自分から『辞める』と言い出したんですよ! こちらは組織として然るべき処分を言い渡そうとしただけで……それなのに、彼女は聞く耳持たず、引き止めようとするこちらの指示を完全に無視して、一度も振り返りもしないで行ってしまったんだ!」
「それはあなたが、ひいろの部下を人質に取るような真似をしたからでしょう」
栄子の静かで鋭利な一言が、蓮太郎の浅薄な言い訳を木っ端微塵に打ち砕いた。
その声の底には、怒りだけでなく、ひび割れた器から漏れ出すような悲痛が混ざっている。
「あの子はね、自分を犠牲にして部下を守ったのよ。あなたは、どうせ自分の立場や打算的な保身のために、ひいろの引責を好都合だと了承したのでしょう。違う?」
「いや、それは……」
蓮太郎は言葉に詰まり、泳ぐ視線をどこへ据えることもできない。
そんな息子を、栄子は心底呆れ果てたような、そして深い軽蔑の混じった眼差しで見据えた。
「あなたには、あえて知らせていなかったけれど……」
栄子は深く息を吸い、過去の記憶を紐解くように目を細めた。
「会社が潰れかけたあの頃ね。三日三晩、頭を下げ続けて、ようやく来てもらえたのがひいろだったの」
「……え?」
「あの子が持ち込んだ緻密な労務ロジックと、現場を窒息させないための血の通った仕組みがあったからこそ、この会社は息を吹き返し、今日まで保ってきたの。私たちは、あの子に、恩を仇で返してしまった」
初耳の事実に、蓮太郎の顔から一気に血が引いていく。
自分が「都合よく操れない生意気な駒」程度に思っていた存在。
それが、実はこの『ピース・イート』という船を底で支えていた、唯一無二の命綱だったのだ。
「あなたに知らせなかったのは、ひいろの意思だったんだよ」
栄子の脳裏に、かつて毅然と、しかし優しく微笑んでいたひいろの姿が浮かぶ。
『私がが経営の根幹に関わっていると知れば、後継者である副社長が余計な心配をして、社内がギクシャクしてしまいます。副社長がやりづらくなるから、どうか伏せておいてください』
「――と、あの子自身が私に頭を下げたの。私はその深い配慮に賛同した。だが……まさか、こんな形であの子を失うことになるとはね」
蓮太郎は完全に立ち尽くした。
自分が「勝った」と確信していたあの傲慢な瞬間に、実は会社にとって最も致命的なハシゴを、自らの手で外していたのだ。
背筋を、氷のような悪寒が駆け抜けていく。
「私は、どうすれば……」
「もう、どうすることもできない」
栄子は椅子の背もたれに深く身を預け、天井を見上げて乾いた笑いを漏らした。
その横顔には、一時代を築いた経営者としての深い孤独と、二度と取り戻せない喪失感が深く刻まれていた。
「私たちに出来るのは、せいぜい後悔することだけ……」
「……」
「もう下がりなさい。少し、一人にして」
蓮太郎は何も言い返せず、ただ重い足取りで、逃げるように社長室の扉を閉めた。
一人残された栄子は、夕刻の斜陽が痛々しいほど差し込む室内で、じっと沈黙を守っていた。
ひいろを失った代償の大きさが、これからの会社をどれほど変えてしまうのか。
いや、それよりも、あの優しく聡明な彼女に、どれほど残酷な仕打ちをしてしまったのか。
書類の散らばった机を見つめる彼女の胸は、締め付けられるように痛んでいた。
そのとき。
デスクの上で携帯端末が、静かに、しかしどこか遠慮がちに震えた。
画面に表示された懐かしい名を見た瞬間、栄子は椅子を蹴るようにして立ち上がり、すがるように通話ボタンを押した。
「もしもし、ひいろ!?」
『社長、この度は申し訳ありません。このような急な、身勝手な辞め方をしてしまい、多大なるご迷惑をおかけしました』
受話器から聞こえる声は、驚くほど凪いでいた。
いつも通り澄み切っていて、けれど、いつもとは違う、どこか遠い寂しさを漂わせる響き。
「……こちらこそ、本当に申し訳なかった…… 私が、私が最高の権限を持っていながら、あの場所からひいろを守ってあげられなくて……本当に、本当に申し訳ない……!」
一国の主として君臨してきた栄子の声が、涙を堪えきれずに小さく震え、崩れていく。
『いいえ、社長。社長は何も悪くありません。すべて、私自身が選んだことです。私は私の信念に従った結果、今回の決断をいたしました。……ただ、こうした形にしか事態を着地させられなかったのは、私の未熟さであり、まだまだ勉強不足なのだと、身に染みて痛感しております』
「ひいろ……」
『これまで、大変お世話になりました。社長、どうかお身体には気をつけてお過ごしくださいね。私を雇って下さり、数え切れないほどの宝物をくださって、本当にありがとうございました』
それが、一筋の未練も残さない、完全な決別の挨拶であることを、栄子は本能で悟った。
喉が詰まり、涙が頬を伝うのを止められない。
それでも、消え入りそうな声で、すがるように言葉を絞り出す。
「ひいろ……戻ってきては、くれない? あなたの席なら、私がどこにでも、新しく作るから……」
受話器の向こうで、ひいろが痛ましそうに、けれど微塵もぶれることのない沈黙を置いた。
そして、静かに囁く。
『……申し訳ありません』
栄子は長い沈黙のあと、溢れる涙を手の甲で強く拭った。
そして最後に、社長として、何より一人の人間としての最大の敬意と愛を込めて、声を絞り出した。
「お元気で。本当に、ありがとう。また、どこかで、ね」
『はい。また、どこかで』
夕暮れ時の、静かなひいろの部屋。
ひいろはゆっくりと電話を耳から離し、通話を切った。
液晶の明かりがふっと消え、部屋にはただ、窓の外から差し込む斜陽の残光だけが、静かに満ちていく。
「ふう……っ」
胸の奥底に澱のように溜まっていた、重い息を吐き出す。
毎日、数字とシフトと、誰かの生活を守るためにすり減らし続けていた頭脳が、今、完全に空っぽになっていた。
独りの部屋は、驚くほど静かで、どこか他人事のように広い。
「久しぶりに、どこか遠くへ旅行でもしようかな」
ぽつりと呟いた自分の声が、真っ白な壁に反射して寂しく響く。
与えられた自由の重さに少しだけ戸惑いながら、ふと、手の中の画面を見つめ直すと、そこには「話中着信」の通知が残っていた。
社長と話している最中に、別の誰かが自分に繋ごうとしていたらしい。
「だれかしら……」
もう会社とは何の関係もないはずの自分に、一体誰が。
そう思いながら、少し冷たくなった指先で履歴のページを開く。
そこに刻まれていた文字列を目にした瞬間、ひいろの息が、ピタリと止まった。
――咲良理人。




