第7話 退職です
「……なるほど、そういうことですか」
静まり返った月凪町店のバックヤード。
湿った空気のなかで、主任の福良密生ははたきを動かす手をぴたりと止め、酷く薄暗い笑みをその口元に刻みながら、山南の耳元へ這い寄るように囁いた。
金曜日のディナーという過酷な戦場で、自らの安易なプライドを木っ端微塵にへし折られ、膨れ上がった怒りと屈辱で顔を歪ませながら出勤してきた山南は、その陰湿な声音に過敏なほど激しく反応した。
「そういうことって、何がだよ」
「キッチンチーフの武藤さんと、サブの速水さんですよ。僕、チーフの口から直接聞いたんです。彼ら、あの金曜日のディナー、この店を内部からぶっ壊すために、わざと示し合わせて有給を取って休んだそうですよ」
「……何だと!?」
山南の瞳に、どす黒い血が走る。
福良はさも「私はあなたの味方です」と言わんばかりの、粘りつくような声でさらに言葉を重ねた。
「厨房の要であるチーフとサブが結託し、最も繁忙を極める金曜日に職場をボイコットする。これは組織に対する著しい背信行為ですよぉ。故意に店舗へ損害を与える目的が明白である以上、民法上の不法行為――つまり『業務妨害』とみなされる余地が十分にありますよねぃぇ。……これ、今すぐ副社長に報告したほうがいいんじゃないですか?」
「あいつら……っ! 俺をハメやがったな!」
山南にとって、福良の差し出した歪んだ陰謀論は、これ以上ない救いの蜘蛛の糸だった。
彼は逆上したまま、即座に本社の社蓮太郎副社長の携帯へと発信した。
「営業を止める気か!!」
「店舗運営を何だと思っている!!」
山南からの狡猾な報告を受けた受話器の向こうで、蓮太郎副社長の容赦のない怒号が激しく鳴り響いた。
現場の「造反」という報告に、副社長は沸騰していた。
「懲戒処分ものだ! 即刻降格だ! だいたい、スタッフ全員に勝手に休みを与えて、四家店長はどういうつもりだ。他店のヘルプが自発的に来てくれたから良かったものの。……いや、待てよ。他店がこれほど迅速に動けたのは、私が常々『店舗間連携』を指示していたからだ。四家の怠慢を、私の危機管理システムが補ったに過ぎん」
フン、と傲慢に鼻を鳴らす副社長。
「四家店長を今すぐ本社へ呼び出せ。現場をかき乱したキッチンチーフたちの責任と、それを容認した四家エリアマネージャーの管理責任を、徹底的に追及する」
ランチタイムの濁流のようなピークが終わり、いつものように無機質なデスクに向かって沈黙を守っていた四家緋和のもとに、本社管理部から直接呼び出しの電話が入ったのは、その直後のことだった。
用件も、その正当な理由も一切告げられない。
大至急、本社へ向かえという、上層部特有の一方的な命令。
ツーツーと切れた受話器をじっと見つめ、ひいろは胸の奥底から静かに息を吐き出した。
(いつも、本社は現場の都合も、そこで動く人間の生活も無視して呼びつける……)
夕方17時のディナー準備が始まるまでには、何が何でも店に戻らなければならない。
ひいろが急に抜けることになったその大きな穴は、ランチパートの京子が「私が残ってディナーの準備をやっておきますから」と、自らの時間を差し出すようにして引き受けてくれた。
貴重な家庭の時間を奪ってしまうことに、ひいろの胸はきりきりと痛んだ。
なぜ、上に立つ人間は、自分から現場に足を運ぼうとしないのだろう。
現場から急に一人の人間が外されれば、どれだけ店舗の動線に支障が出るか、あの副社長の頭には一瞬たりとも浮かばないのだろうか。
ひいろはディナーの準備作業を京子の優しい背中に託し、急ぎ足で本社へと向かった。
本社、副社長室。
重厚なマホガニーのデスクの後ろで、蓮太郎は隠しきれない不遜な怒りを全身から滲ませて待ち受けていた。
「キッチンチーフの武藤くんと、サブチーフの速水さん。あの両名、店を内部からぶっ壊すために意図的に休んだと、周囲に豪語しているそうじゃないか」
蓮太郎は手元の書類からゆっくりと顔を上げ、冷ややかな視線を真っ直ぐにひいろへと突き刺した。
しかし、ひいろは眉一つ動かさず、その無礼な視線を静かに受け止めた。
「休暇の許可を出したのは私です。チーフもサブチーフも、山南さんの組んだあまりにも理不尽なシフトによって適切な休日が取得できず、身体的な負担が限界に達していました。エリアマネージャーとしての安全配慮義務に基づき、私が休むよう命じたのです」
「言い訳はいい。結果として全員を同時に休ませ、現場を危機に陥れたのは事実だろう」
「その日は他店の店長たちの協力を得られることが、事前に確定していました。店舗運営に実質的な支障がないと判断した上での、緊急の就業軽減措置です。現に、金曜日の売上、および顧客満足度はともにエリア最高数値を記録しています」
一切の感情を排した、理路整然としたひいろの反論に、蓮太郎は顔を真っ赤に染め上げた。
だが、彼は「現場の反乱」という事実を絶対に手放そうとはしない。
「しかし、二人は『店をぶっ壊す』と言っていたそうじゃないか。これは明らかな業務妨害だ」
「チーフが壊したかったのは、お店ではありません。……その『シフトの組み方』です」
ひいろの瞳の奥に、一切の温度を排した、怜悧で絶対的な光が宿る。
「現場の不満と組織への根深い不信感は、あの夜、爆発寸前の臨界点に達していました。休みを与えられず、希望も通らない。深夜まで働かされたスタッフが、翌朝の早番から強制的に出勤させられる。そんなバランスの悪い配置を無理に続ければ、店内で重大な労務トラブルや、取り返しのつかない事故が起きていた可能性があります。チーフたちの言葉は、その歪んだ体制を一度強制的にストップさせて、会社に現場の現実を知ってほしいという、悲痛な警告だったのです」
「フン、何を言うかと思えば」
蓮太郎は吐き捨てるように言った。
「シフトの不手際は君の管理能力の問題だろう。なぜ会社に現実を知ってもらう、などという大層な話にすり替わるんだ?」
蓮太郎は、完全に自分が正論で相手を論破していると思い込んでいた。
しかし、ひいろはどこまでも静かに、そして底知れない冷たい目で、蓮太郎の浅薄な顔を見据えた。
「私は事前に、書面と口頭でお伝えしたはずです。もし山南さんに過度な権限を委譲し、月凪町店のシフトが崩壊し、営業に支障が出た場合――その責任はすべて、現場を無視して命令を下された副社長と、それを無理に引き受けた山南さんが負うべきである、と」
「君は……誰に向かって口を利いているんだ!」
蓮太郎が総毛立ち、デスクを叩いて怒鳴り散らした。
「自分自身の管理監督責任を放棄するつもりか、四家店長!」
「放棄はしていません」
ひいろの声は、どこまでも低く、けれど部屋の空気を支配するほどの質量を持っていた。
「とにかく」
蓮太郎は激しい息を荒らげながら、大振りに手を振って会話を打ち切ろうとした。
「キッチンチーフの武藤くんとサブの速水さんの行為は看過できない。組織の規律を著しく乱した。懲罰委員会にかけ、然るべき厳重処分を下す」
「待ってください」
ひいろの喉の奥から、乾いた、しかし決定的な拒絶の響きが漏れた。
「ご自身に都合の良い報告にだけは耳を傾けて、私たち現場の本当の声は、副社長には届かないのですね。……分かりました。今回の件、すべての責任はエリアマネージャーである私にあります。責を負うべきは、私一人です」
「な……何だと?」
蓮太郎の動きが、ピタリと止まった。
「二人には一切の責はありません。そう言っているのです」
現場の要であるキッチンチーフたちを二人同時に処分すれば、月凪町店の営業は本当に物理的にストップする。
それは会社としても致命的な大痛手だ。
だが、エリアマネージャーである四家緋和が「すべての管理監督責任は自分にある」と引き受け、自身が退くことで部下を守り、事態を収束させるというなら話は別だった。
会社としては「現場の組織的造反」という不名誉な事実ではなく、「一管理職の労務管理上のミス」として処理できる。組織の体裁は完璧に保たれるのだ。
蓮太郎は途端に、尊大に頷いた。
「いいだろう。君がそこまで言うなら、処分はエリアマネージャーとしての管理監督責任の重さ、および就業規則の規定に基づいて判断する。処分が正式に決定するまでは、通常業務を継続しながら本社の指示を待っていなさい」
「いいえ」
ひいろは、背筋をすっと伸ばし、どこまでも透き通った声で言った。
「今回の件、私がすべての責を負い、これにて幕引きといたします。現場の完全な崩壊を防ぐため、私が引くのが、今のこの会社における最善の選択です」
ひいろはポケットから手を出し、これまで自らの髪を硬く縛り付けていた、一本の黒いゴムを、指先で静かに滑り落とした。
店長として結び続けてきた黒髪が、波打つような美しい軌跡を描いて、ハラリと彼女の華奢な肩のラインへと流れ落ちる。
「本日付で、辞めさせていただきます。お世話になりました」
「な……っ??待て! 辞めるだと!? 誰がそんな勝手な許可を――」
処分を盾に優位に立っていたはずの蓮太郎の顔から、一瞬で余裕が消え失せ、見苦しい焦燥が広がっていく。
ひいろは引き留めるその声を振り返ることもせず、事務的な美しい一礼だけを残し、背後で上がる無様な怒号を置き去りにして、副社長室の重い扉を静かに開けて退室した。
一度も、振り返ることはなかった。
月凪町店に戻ったひいろは、驚くほど凪いだ平穏な心で、いつものように通常業務を淡々とこなした。
明日のシフトから自分が完全に抜けるための最終調整をパソコンで行い、丁寧な文字で書き起こした引き継ぎ書をデスクに残す。
スタッフたちへの、最後の業務連絡を終えた。
夜、営業の照明が落とされ、静まり返った店長室で、ひいろは自らの荷物を私物のバッグへと静かにまとめていた。
ガランとしたデスクの上に、一つだけ、大切に残しておいたものがある。
それは、一冊の本。
『人の灯り』
酒井 善章・著
ひいろはそっと、店長室のスイッチを押した。
月白色の灯りが消える。
自分が愛し、自分が命を削るようにして守ろうとした月凪町店のフロアを、最後にもう一度だけ見渡す。
そして、扉を静かに閉め、四家緋和は、『パスピース』という船から、完全にその足を引き抜いた。
翌朝。
「四家店長が、本日付で退職した」という冷酷な事実が、エリアの勤怠システムと連絡網を通じて一斉に流れた瞬間、月凪町店は未曾有の衝撃と、引き裂かれるような大混乱に包まれた。
「ひいろちゃんが……辞めた……? どうして、嘘でしょう!?」
パートの京子は、事務室のデスクに残されたひいろの綺麗な字の引き継ぎ書を胸に抱きしめ、その場に泣き崩れた。
アルバイトたちも、血の気が引いたような表情でただ立ち尽くしている。
「店長がいないなら、俺たち、もうこの店にいる意味なんて何もないすよ……」
キッチンでは、武藤チーフが引き継ぎの画面を見つめたまま、激しい悔しさと無力感で、拳を血がにじむほど強く、強く握りしめていた。
スタッフたちの間に、深い悲しみと、それを遥かに凌駕する猛烈な「会社への憎悪」が、火に油を注ぐようにして赤々と燃え広がっていく。
そんな地獄のような空気のなか、事務室の片隅で、山南閉は引きつった醜い笑みを浮かべていた。
「辞める必要なんかなかっただろ……正論ばかり吐くから会社にいられなくなったんだよ……」
吐き捨てた言葉とは裏腹に、山南の背中には嫌な汗がじっとりと伝っていた。
ひいろという絶対的な防波堤が消え去った瞬間、現場のスタッフ全員の、刃のように刺さる、憎悪に満ちた視線が、一斉に自分へと向けられていることに気づいたからだ。
福良は、自分の撒いた陰湿な種が、想像を遥かに超える大火事になって焼き尽くそうとしていることに気づき、暗がりのなかで、じわりと恐怖に口元を歪めた。
あらゆる吹き荒ぶ嵐からその場所を守り続けてくれた、峻烈で、あまりにも確かな防波堤は、もうどこにもない。
四家緋和を失った月凪町店は、かつての穏やかな日々を遠い岸辺に置き去りにしたまま、寄る辺ない荒海へと、静かに、しかし抗いようもなく流され始めていた。




