第6話 ヘルプです
金曜日。
パスタとピザの店『パスピース月凪町店』のディナータイム前、店内には、いつもの慌ただしさとは少し違う、奇妙な静けさが沈んでいた。
それはまるで、嵐の前の海だった。
音がないわけではない。
グラスの触れ合う小さな音、キッチンで湯が沸きはじめる低い音、フロアを歩く靴音――そのすべてが、どこか普段よりも澄んで聞こえる。
けれど、その静けさの奥には、今にも弾けそうな張りつめた糸のような緊張が潜んでいた。
バックヤードの着替えスペースから出てきた山南閉は、ホールの光景を目にした瞬間、その場に凍りついた。
いるはずの人間が、いない。
いつもならシフトに入っているはずの、文句を言わない従順な主婦パートや、多少の無理を言っても困った顔で笑って出勤してくれる新人アルバイト、疲れを隠して立っていたはずのスタッフたちの姿が、どこにもなかった。
代わりにフロアとキッチンに立っていたのは、到底この一店舗に集まるはずのない、信じられないような顔ぶれだった。
ひいろがエリアマネージャーとして統括する担当店舗の店長が二名、優秀な中堅社員が一名、キッチンチーフ級の超実力派社員が二名。
さらには、遠方のエリアを統括するエリアマネージャーまでもが、完璧に磨き上げられた制服に身を包み、何事もなかったかのようにスタンバイしていたのだ。
それは、ただのヘルプではなかった。
月凪町店という一つの店を守るために、各地から集められた現場の精鋭たちだった。
そして、その中心に、店長であり、この最高峰の布陣を呼び寄せた張本人である四家緋和が、静かに佇んでいた。
「四家店長、これはいったいどういうことですか!?」
山南は顔をひきつらせてひいろに詰め寄った。
「うちのメンバーが全くいないじゃないか! あいつらはなぜ勝手に休んだんだ?」
ひいろは、山南の怒声を真正面から受け止めた。
その瞳は決して揺れなかったが、決して冷たいわけでもなかった。
そこには、何日も、何週間も、スタッフたちの疲弊を見つめ続けてきた人間だけが持つ、静かな痛みが宿っていた。
「皆さん、体調不良です」
ひいろは、感情の起伏を排した透き通った声で、淡々と告げた。
「もともと、お休みの希望を出されていた方もいました。けれど、その希望が通らず、とても困っていたそうです。中には、出勤拒否や退職を希望する方もいました。ですから、私が休暇の許可を出しました。今月は、山南さんの組まれたシフトで皆さんに無理をさせすぎたようです。私にも、責任があります」
「な、なんだと……っ」
山南が絶句したその時、フロアの奥から、玲瓏区泡沫町店の店長である松本が、厳しい視線を送りながら歩み寄ってきた。
その表情は厳しかったが、ただ怒っているのではない。
同じ現場を預かる者として、見過ごせない歪みを目にした人間の顔だった。
「店舗スタッフ全員体調不良。由々しき事態だな、山南くん」
さらに、エリアマネージャー会議のために本社へ出張してきていた、幽漣区氷音町店の店長兼エリアマネージャー・上田が、静かに、しかし冷徹な目を山南に向けた。
「君がシフトの総責任者だって? どうなっているんだ、この異常事態は。スタッフの希望を無視して、全員を限界まで疲弊させる――そんなものはマネジメントではない。現場を預かる者が、絶対に踏み越えてはいけない線だ」
「あ、あいつらはただ甘えているだけです……!」
山南は声を震わせ、必死に自己保身の言葉を探した。
今日まで自分が積み重ねてきた都合のいい現実が、足元から崩れないようにするための言葉を。
だが、それはあまりにも薄っぺらかった。
キッチンから、溟澄区漣痕町店のキッチンチーフ・山田が、腕を組んで出てきた。
「責任逃れか、山南」
低い声だった。
刃物のように鋭いのに、無駄な熱は一切ない。
山田と同じく氷音町店の店長である田中が、皮肉を込めて薄く笑った。
「まあまあ。山南くんも、慣れないシフト作成で大変だったんでしょう。これに懲りたら、今後はひいろさんに権限をお返ししたほうがよさそうですね」
柔らかい言い方だったが、その内側には、逃げ道を完璧に塞ぐような冷静さがあった。
「そ、それは……」
と言葉に詰まる山南に、翳影区汀線町店のキッチンサブチーフ・鈴木が、首を傾げながら冷ややかな視線で追い打ちをかける。
「というか、まずは僕たちに『お忙しい中、助っ人に来ていただきありがとうございます』と言うのが先じゃないかい? 山南さん」
「く……」
さらに、霽月区露華町店の副店長、千歳霧緒が、艶やかな笑みを浮かべた。
その微笑みは美しい。けれど、目の奥には氷のような光が宿っていた。
「まあ、今日はよろしくね。山南さん」
逃げ場は、どこにもなかった。
自分が楽をするために、都合のいいスタッフをパズルのように配置したシフト。
早番で上がり、面倒な時間帯から離れるはずだった予定。
そのすべてが、ひいろの手によって静かに解体されていた。
休むべき人間は休ませ、守るべき人間は守り、そして責任を負うべき人間は、その責任のある場所に立たせる。
ただ、それだけのことだった。
その結果、シフト責任者である山南は、金曜日のディナータイムという一番過酷な戦場の最前線へと、引きずり出されたのだ。
「皆さん」
ひいろは、集まってくれた面々に向き直り、深く頭を下げた。
「今日はお忙しい中、本当にありがとうございました。どうぞよろしくお願いいたします」
その一礼は、店長としての礼儀であり、エリアマネージャーとしての責任であり、何より、仲間への深い感謝だった。
上田は、穏やかに首を振った。
「水臭いですよ、ひいろさん。午前中の本社会議でこの状況を聞いたとき、これは自分も手伝わねばと思ったんです」
そう言って、上田は少しだけ表情を緩めた。
「私自身の学びにもなりますし。あ、先日おすすめしてくださった、あの労務管理の本。大変勉強になりました」
「それは良かったです」
ひいろの声に、ほんの少しだけ柔らかさが戻る。
山南は、その会話を忌々しげに睨みつけていた。
(ふん。飲食店勤務の人間が、本なんか読んだって意味ねえだろ。そんな時間があるなら、俺は寝る。俺たちの仕事は肉体労働なんだからな。理屈じゃ店は回らねえんだよ)
山南は心の中で吐き捨てる。
しかし、そんな悪態など届かない場所で、エリア最高峰のプロたちは、それぞれのポジションへと静かに散っていった。
無駄な動きは一つもなかった。
誰かが声を張り上げることもない。
視線が合い、指先がわずかに動き、短い確認だけで、オペレーションが一瞬で鮮やかに組み上がっていく。
その背中はあまりにも美しく、山南はただ圧倒されていた。
自分が普段「現場」と呼んでいたものが、どれほど狭い檻だったのか――まだ認めることはできない。
けれど、目の前の光景は、否応なくそれを突きつけていた。
17時半。ディナータイムの幕が開く。
開店と同時に、予約客の波が押し寄せた。
次々と席が埋まり、注文端末には、息をつく暇もないほどの容赦のないオーダーが流れ込んでいく。
パスタ、ピザ、前菜、ドリンク、デザート。
金曜日の夜が持つ独特の熱量が、一気に店内を満たしていった。
だが、そこからの月凪町店は、普段とはまるで違う次元の空間へと変貌した。
全員が、一線級のプロだった。
どれほどオーダーが重なっても、誰一人として慌ただしさを見せない、洗練された美しい接客。
お客様の表情を見て瞬時に声をかけ、グラスの残りを見て次の一手を準備する。
料理の提供タイミングを読み、キッチンとホールが完璧に呼吸を合わせていた。
忙しいはずなのに、店内は一切乱れない。
むしろ、その忙しさそのものが心地よい音楽のように流れていた。
キッチンからは、完璧なクオリティを保った料理が、鮮やかなスピードで次々と送り出されていく。
焼き上がったピザの香ばしい匂い、茹で上げられたパスタにソースが絡む艶、湯気の向こうで交わされる短い合図。
店員も、お客様も、誰もが笑顔に満ちあふれていた。
ただ一人、ホールのドリンク場を担当していた山南を除いては。
「山南くん! 作り直せ!」
松本の鋭い声が飛んだ。山南の手元だけが、明らかに乱れていた。
焦りが指先に出て、確認が抜け、体だけが忙しく動き、頭が追いつかない。
抽出のタイミングを誤り、クリームダウンした濁ったアイスティー。
泡だらけで見るに耐えない生ビール。
冷やすことを怠り、温かいグラスで出されかけた白ワイン――。
上田が、冷徹な目で山南を射抜いた。
「こんなクオリティの商品を、お客様に提供していいと思っているのか? 君の言う『現場』とは、この程度のレベルを指すのか?」
その声は怒号ではない。だからこそ、逃げられなかった。
山南は歯を食いしばるが、返す言葉がない。
普段、口先だけで「自分が現場を回している」と威張っていたその虚勢は、プロの圧倒的な実力の前で、薄皮のように剥がされていった。
「ちきしょう……ちきしょう……! お前ら、絶対に許さないからな……! 」
グラスを洗うシンクの中で、泡と水音に紛れるほどの小さな声で、山南は悔しさと屈辱に顔を歪め、呪詛を呟き続けた。
けれど、その呪詛は誰にも届かない。
届いたところで、誰も揺らがない。
店は回っていた。
山南がいなくても。
その残酷な事実だけが、山南の胸を焼き焦がしていた。
22時、閉店時間。
嵐のようなディナーを、月凪町店は何の遅滞もなく、完璧なクオリティで乗り切った。
お客様に不安を見せることもない、完璧と言っていい営業。
それは奇跡ではない。
積み上げてきた技術と、現場を知る者たちの確かな判断、精度、そして互いへの信頼が生んだ必然の結果だった。
「山南」
営業中、キッチンから山南の動きを見ていた山田が、片付けの手を止めて言った。
「あんたは、もっと視点を広げたほうがいい。目の前の作業しか見ていないから、常に数字と時間に追われるんだ。全体の流れを予測しろ。今、誰が何を抱えていて、次にどこで詰まるのか。それが見えなければ、人は動かせない」
「チッ……! 」
山南はぶっきらぼうに舌打ちをし、顔を背けた。
だが、その舌打ちは反論ではなかった。
ただ、受け止めきれない圧倒的な現実から目を逸らすための、幼い抵抗だった。
今夜の営業を終え、手伝ってくれた他店のメンバーたちは、先に翠松町へ向かうことになった。
当然、山南はその誘いを拒否した。
そして、営業の照明が落とされた店内に、山南とひいろ、上田の三人だけが残り、今日の反省会を行う運びとなった。
他のメンバーたちは先に出て、タクシーで翠松町へと向かう。ひいろと上田は、後から合流する予定だ。
店内は重く静まり返っていた。
先ほどまであれほど音と熱に満ちていた場所が、今は嘘のように暗い。
テーブルの上に残るかすかな水滴、洗い終えたグラスの匂い、床に落ちた小さな紙ナプキン――営業の熱が去った後の店は、どこか寂しげだった。
その重たい静けさの中で、上田の静かな声が響いた。
「自店スタッフの出勤拒否。身に沁みただろ、山南」
山南は黙ったまま、床を睨んでいた。
「スタッフ一人ひとりの生活や、これまで築いてきた店舗の日常を、ただの駒として乱暴にすり潰すようなシフトが招いた結果が、これだ」
上田は、山南から目を逸らさない。
「君は、自分がどれだけ歪なパズルを組んでいたか、理解できたか?」
その言葉に、山南の顔が歪んだ。
耐えかねたように、ひいろのほうへ向き直る。
「四家店長!」
声が荒れる。
「あんたが休んで、現場がどれだけ苦労したか、本当に分かってるのか!? 机の上の本ばかり読んで、現場を見ない不公平なシフトばかり組んでいただろ! それと俺のシフトを一緒にするな!」
「山南、それは八つ当たりだ」
上田の声が、空間を切った。
「ちゃんと現実を見ろ」
「現実なら見てますよ!」
「見ていない」
上田は即座に、容赦なく言葉を重ねた。
「目の前に、これほどの実力と知識を持つ人がいる。学ぶ機会が、すぐそこにある。それを君は、自分のくだらないプライドで握り潰そうとしているんだ」
山南の拳が、ズボンのポケットの中で小刻みに震えだす。
「……俺は、俺なりに、店を回そうと……! 」
「回そうとしたんじゃない。自分の思い通りに動かそうとしたんだ」
上田の声には、静かな、しかし確固たる敬意が混ざりはじめる。
「これまで、四家店長の公休日でも、なぜ現場が回っていたと思う?」
上田は静かに問いかけた。
「今日のオペレーションを見る限り、君のリーダーシップのおかげとは思えない。福良主任のことも私は知っている。彼もまた、オペレーションリーダーとしてはまだまだ力不足だ」
そこで、上田は一度だけ店内を見渡した。
「それでも、この店の実力は十店舗中一位だ。その理由は何だ?」
山南は答えない。
「四家店長――いや、ひいろさんが、これまで命を削るようにして築いてきた『店舗の日常』があったからではないのか」
上田の声には、静かな敬意があった。
「スタッフが病まない環境。スキルを磨き、成長していける環境。お客様、スタッフ、店、組織、仕組み、そして未来。そのすべてを同時に見て、構造を作ってきた人だ」
山南の耳が、赤く染まっていく。
店内に、冷たい沈黙が落ちた。
山南は、ひいろから視線を逸らしたまま床を睨みつけていたが、その耳は屈辱で真っ赤に染まっている。
「山南さん」
それまで静かに二人のやり取りを聞いていたひいろが、初めて、まっすぐに山南の名前を呼んだ。
荒げた声でも、責める声でもない。
深く、どこまでも澄んでいて、けれど決して逃げ道のない声だった。
「私が本ばかり読んでいるように見えたのなら、それは、現場の課題に対する答えを必死に探していたからです」
山南は顔を上げない。
「私の至らなさで、現場に負担をかけたことは事実です。そこは謝罪します。私は、まだまだ足りない店長です」
ひいろは、静かに頭を下げた。
山南の肩が、わずかに揺れる。
「ですが」
ひいろは顔を上げる。
その瞳には、店長としての覚悟が宿っていた。
「スタッフをただの『頭数』として扱うシフトだけは、絶対に容認できません」
店内の空気が、少しだけ変わった。
「本来の山南さんに、リーダーとしての力があることは知っています。だからこそ、その力を、スタッフを支配するためではなく、守り、育てるために使ってほしいんです」
ひいろの声は、最後まで静かだった。
「目の前にある知識を拒絶して、独りよがりのまま終わるのか。それとも、ここから本当のマネジメントを学ぶのか」
山南は何も言わない。
「決めるのは、山南さん。あなたです」
その言葉は、刃ではなかった。
崖の縁に立つ相手へ、最後に差し出された「手」だった。
ひいろの放つ圧倒的な実力と、それを裏付ける知識の重みが、静かに山南の全身を圧迫していく。
山南が本当の意味で「現実」と向き合わざるを得ない瞬間が、すぐそこに迫っていた。
しかし――山南は歪んだ笑みを浮かべ、最後までその手を見ようとはしなかった。
「……勝手に言ってろ。正論ばかりで現場が回るなら、誰も苦労しねえよ」
吐き捨てるようにそう言い残すと、山南はひいろと上田に背を向け、逃げるように店の勝手口から夜の闇へと飛び出していった。
バタン! と激しく扉が閉まる音が、無人の店内に虚しく響く。しばらく、誰も何も言わなかった。
上田は深いため息をつき、頭を振った。
その声には、怒りよりも深い疲弊が滲んでいた。
「すまない、ひいろさん。あいつはまだ、自分がどれほど恵まれた環境にいて、誰に生かされているのか分かっていないんだ」
「いいんです、上田さん」
ひいろは、山南が去った暗い扉を見つめていた。
そこには怒りよりも、切ない寂しさがあった。
「私たちは一人ひとりが、このお店というパズルを形作る、形も大きさも違う、かけがえのない一つのピースなんです」
ひいろの声は、静かに店内へ落ちていく。
「誰一人として、乱暴にすり潰していい存在なんていない」
それは、山南に届かなかった言葉だった。
それでも、ひいろは言わずにはいられなかった。
「……山南さんがその本当の意味に気づくまで、私たちはこれ以上、何も伝えることはできないのかもしれません」
重苦しい空気を振り払うように、上田がふっと柔らかい笑みを浮かべた。
「私、山南がうらやましいよ」
「え?」
「私も、ひいろさんから直に学べるチャンスが欲しいってことです」
「そんな……私はまだまだ勉強不足です」
ひいろは困ったように目を伏せたが、その口元には、ようやくいつもの穏やかな微笑みが戻りはじめていた。
上田は優しく言葉を重ねる。
「勉強を続けている人間だから、信頼されるんですよ」
その言葉に、ひいろは小さく息を吐いた。
張りつめていたものが、ほんの少しだけほどけていく。
「……行きましょうか、私たちも」
ひいろは店内の薄灯りを見上げた。
「皆さんが待っています。あの翠松町の、素晴らしいお店で」
夜の翠松町。
一日の熱をゆっくりと吐き出すように、街は静かな灯りをまとっていた。
表通りには人の笑い声が流れ、仕事帰りの足音が交差する。
けれど、その喧騒から少しだけ離れた路地に、その店は佇んでいた。
ひっそりと。
しかし確かな存在感を放ちながら。
『茶寮酒膳 箸と匙』
重厚な木の扉の向こうには、別の時間が流れている――そう思わせる佇まいだった。
ひいろは扉の前で、小さく息を吐いた。
朝の会議、ディナー営業、そして山南との対話。
気を張り続けていた心は、本人が思っている以上に疲弊していた。
しかし、扉を開けた瞬間、張りつめていた神経がふわりとほどけていくのを感じた。
洗練された木香が漂い、どこか遠くで穏やかに触れ合うワイングラスの澄んだ音が、五感を心地よく満たしていく。
店内には、アンティーク調の美しい家具や調度品が気品高く配置され、レトロでいてどこか新しい、独特の空気が流れていた。
フロア全体を優しく包み込む琥珀色の灯りが、今夜ここに集った者たちの心を、静かに解きほぐしていくようだった。
「お疲れ様です!」
その温かみのある特等席で、先に向かった松本、田中、山田、鈴木、そして千歳霧緒が、笑顔で席を温めていた。
ひいろが微笑みながら席へ向かう。
その顔を見た松本が、安心したように笑った。
「やっと店長の顔になりましたね」
「え?」
「さっきまでは完全にエリアマネージャーの顔でしたよ」
その言葉に、周囲から小さな笑いが起きる。
ひいろ自身も気づいていなかった。
今日一日、自分がどれほど肩に力を入れていたのかを。
「今日は本当にありがとうございました」
ひいろが改めて頭を下げると、田中がすぐに首を振った。
「その言葉は何度も聞きましたよ」
「そうそう」と山田、上田も続く。
「私たちは、ひいろさんの頼みだから来たんだ」
その一言に、ひいろは少しだけ目を伏せた。
嬉しかった。
飾らない戦友たちの言葉に、少しだけ救われた。
自分が命を削るようにして積み上げてきたものは、決して無駄ではなかったのだと。
そんな温かいやり取りが交わされていたとき、店の奥から、一人の男性が姿を現した。
無駄のない所作。
静かな微笑み。
それでいて、不思議なほど人を緊張させない柔らかさ。
『茶寮酒膳 箸と匙』の店長。
咲良理人だった。
「ひいろさん、ようこそ」
「あ、理人さん。こんばんは」
理人は集まったメンバーを見渡し、穏やかで気品のある笑みを浮かべた。
「今日は皆様お揃いなんですね」
「はい。職場の皆さんです」
「それは素敵だ」
理人は自然な仕草で頭を下げた。
「咲良と申します。ひいろさんには、いつも大変お世話になっております」
その言葉に、他店の店長たちも思わず背筋を伸ばす。
不思議な人だった。
押しつけがましさはない。
威圧感もない。
けれど、この人の前では自然と礼を尽くしたくなる。
そんな空気をまとっている。
「今夜はどうぞ、ごゆっくりお寛ぎください」
理人はそう言い残し、静かにフロアの奥へ戻っていった。
その背中を見送りながら、千歳霧緒が身を乗り出す。
「ちょっとひいろさん、あの人、すごく素敵じゃない? 大人の色気がある方ね!」
ひいろは少し照れたように微笑んだ。
「お隣の、皆さんも何度か社長と行っている『流美星出』(るみせで)の三沢さんにご紹介いただいたの。このお店の地下でダンスパーティーがあってね、そこでお会いしたのよ」
「へえ! パーティーができるような地下があるんですか。そりゃすごい」
山田が興味深そうに目を細めると、霧緒がウィンクを飛ばす。
「次回、機会があったら私もそのパーティーに誘ってくださいな」
すかさず鈴木がニヤニヤしながら突っ込んだ。
「千歳さん、またそうやって男漁りですか?」
「もう、人聞きの悪いことを言わないで!」
ドッと弾けるような笑い声がテーブルを包み込み、先ほどまでの現場の張り詰めた疲れが、嘘のように融けて消えていく。
誰もが少しずつ、仕事の顔を脱ぎ始めていた。
「お連れ様、皆様がお揃いになりましたので、今夜のお料理を始めさせていただきます」
フロントに立つ給仕人、待島直希が、一切の無駄がない、それでいて春風のように柔らかな所作でワインボトルを掲げた。
彼は乾杯のスパークリングワインを注ぐ手元だけで、全員が今しがた激務を終えてきたばかりであること、そして主賓であるひいろが心地よい緊張から解放された瞬間を完璧に察知していた。
「本日は皆様、大きな山を乗り越えてこられたと伺いました。まずはこちらの、すっきりと喉を潤す一杯からお楽しみください。四家様、今夜は心ゆくまでお寛ぎを」
彼が見せた、すべてを見通したような目配せと洗練を極めたサービスに、他店の店長たちからも「おお……」と小さな感嘆が漏れる。
今日初めて、本当に初めて、自分は休んでもいいのだとひいろは思えた。
「お待たせいたしました。前菜のアミューズでございます。ゆっくり召し上がってくださいね」
ガラリと空気をつむぎ直すように、フロアを回る沙藤燈子が、あたたかい湯気の向こうから極上の笑顔で現れた。
彼女の足音や気配は、まるで夜の「風」のように一切の物音を立てない。
それなのに、彼女が運んできた小皿をテーブルに置いた瞬間、まとっていた静寂がふわりと熱を帯びる。
琥珀色の灯りに照らされた空間が、まるでキャンドルの炎が優しく揺らめいた時のように、より一層まろやかに色づいていく。
「ひいろさん、これ、厨房の酒井さんが『今夜の四家さんには、香りが優しいお野菜を多めにしてあげて』って、特製のアレンジをしてくれたんです。冷えた心も体も、芯からぽかぽかになりますよ」
「燈子さん、ありがとうございます。……本当に、いい香りがしますね」
燈子の笑顔は、春の風のようだった。
静かで。
柔らかくて。
気づけば心に触れている。
その接客に触れ、ひいろの肩の力がようやく完全に抜けた。
張り詰めていた心が温かいスープに溶かされていくように、今夜初めて、少女のような無防備な笑顔がこぼれた。
それを見て、上田も心から安心していた。
ずっと誰かを守るために走り続けていた人が、ようやく少しだけ、肩の荷を下ろせたのだと。
そして、その贅沢な時間を決定づけたのが、厨房で静かに腕を振るう酒井の手による、素材の命を限界まで引き出した絶品料理の数々だった。
運ばれてきたのは、表面を香ばしく炙った旬の白身魚と、大地の生命力をそのまま凝縮したような地野菜のロースト。
「うわあ……何これ、美味しい。味が濃いのに、全然しつこくない」
千歳がフォークを止めて目を丸くする。
山田も、一口運んだ瞬間、その完璧な火入れとソースの調和に、プロとしてただただ唸るしかなかった。
味付けで誤魔化すのではない。
素材が一番輝く瞬間をピンポイントで捉えた一皿は、ひいろたちが普段命を懸けて向き合っているパスタやピザのロジックとも深く共鳴する、五感のすべてを震わせる「食の芸術」だった。
ぽつりと漏れた山田の感嘆の声、それだけで十分な、最高の賛辞だった。
時間はゆっくりと流れていく。
上質なワインと料理、琥珀色の美しく洗練された環境。
失敗談も昔話も含め、互いの実力を認め合う本物の仲間たちとの会話には、誰かを責めるトーンなど一つもなかった。
本当に強い人間ほど、不思議なくらい穏やかであることを、ひいろは改めて感じていた。
自分は助けられたのだ――仲間たちに、知識に、信頼に、そして人を大切にしようとする無数の想いに。
開いた重厚な木の扉の向こう、翠松町の夜空には、すべてを包み込むような優しく美しい月が、まるで今日という長い一日を労うように、静かに輝いていた。
だが、この美しい夜の裏側で、暗闇へと逃げ出した男の歪んだ執念と、面子を潰された本社の権力が、確実に牙を研ぎ始めていることを、この時のひいろはまだ知る由もなかった。




