第5話 シフトです
公休日明けの朝。
事務室のデスクで、いつものように始業前の30分を使って労務管理の専門書を開いていた四家緋和。
しかし、ドタドタと荒々しい足音を立ててドアを開けて入ってきた男によって、その静かな時間は完全に吹き飛ばされた。
山南閉。
早出勤務(9:00〜18:00)の彼は出勤するなり、着替えもせずにひいろのデスクに両手を突き、さも「頼りない後輩店長を指導してやる」と言わんばかりの、歪んだ正義感を顔に張り付かせて言った。
「四家店長。いつもそうだけどさ、どうして店長が出勤する日はシフトが厚くて、自分が休みの日は薄いわけ? 昨日のディナータイム、現場がどれだけ大変だったか、まさか店長なのに把握してないなんて言わないよね?」
ひいろは眉一つ動かさず、デスクのパソコン画面に「昨日」のシフト表と営業実績データを呼び出した。
「山南さん、落ち着いてください。昨日の人員配置は、あなたと主任の福良密生さん、それにベテランのアルバイトが3名。キッチンには4名を配置していました。何か突発的なトラブルでもありましたか?」
「トラブルがなきゃ問題ないと思ってるところが、やっぱりまだ経験不足なんだよ。数字の上じゃそう見えるかもしれないけどさ、現場は本当にギリギリで回してんだから」
大変だった、苦労した、と山南はさも自分が現場の声を代弁してやっているかのように、溜め息混じりに首を振る。
しかし、ひいろの手元の画面に映し出された数値は、全く違う「事実」を示していた。
昨日は連休明けの平日。
事前のデータ予測通り、客足は極めて緩やかだった。この人員数は、むしろこれ以上増やせば赤字になるという完璧な「適正人員」であり、実際の売上データを見ても、客数が予測を上回った形跡はどこにもない。
では、なぜ昨日のディナータイムがそこまで「戦場」と化したのか。
理由は明白だった。
昨日の深夜23時、福良主任から届いたメールがすべてを物語っている。
『お疲れ様です。ディナー準備の時間帯に山南さんが不在だったため、ご用意が著しく遅れました。その結果、17時半にご来店されたご予約の8名様、18時にご予約の6名様にご迷惑をおかけし、クレーム寸前となりました。申し訳ありません』
昨日、夕方の最も忙しい開店準備時間。
山南はホールの準備という義務を完全に放棄していた。
鳳凰の不採用に関する報告など、本来なら電話一本で済む話を、彼はわざわざ本社へ足を運んで直訴しに行っていたのだ。
公休日のひいろが呼び出され、蓮太郎副社長に怒鳴り散らされて失脚する「見もの」を、特等席で拝むためだけに。
山南がそんな浅ましい目的で職場放棄をした結果、残された福良主任は、本来二人で分担すべき準備をたった一人で背負わされる羽目になった。
当然、準備は間に合わない。
そんな最悪の状況のまま17時半の開店時間を迎え、追い打ちをかけるように8名の団体予約が押し寄せたのだ。
店が大混乱に陥ったのは、すべて山南自身の身勝手な悪意が招いた事。
それをおめおめと「店長が休みでシフトが薄いせいだ」とすり替えているのだから、呆れるほかない。
この手の不満を漏らす人間には、共通する歪んだマインドがある。
彼らは『労働時間の長さ=仕事量』だと思い込んでいる。
ひいろはフロアを回しながら頭の中で常に店舗全体の数字や労務を計算している。
しかし、山南のようなコスト意識も職務怠慢への自覚もない人間から見れば、店長が店に出勤していること自体が「人が多くて楽をしている」ように見えてしまうのだろう。
「いいかな四家店長。あなたが休んで現場がどれだけ苦労してるか、分かってないんだよ。そんな机の上の本ばかり読んでないでさ、シフト作成は、もう俺に任せてくれ」
ひいろは即座に、冷徹なトーンで告げた。
「シフト作成を山南さんに任せることはできません」
「……は? 」
「シフト管理の本質は、ただの『空いたコマを埋める作業』ではありません。店舗の利益、顧客満足度、スタッフの生計、そして現場の防犯。そのすべてをコントロールする【店舗経営の操縦席】です。コスト意識もなく、私情で職場放棄をするような方に、渡せる権限はありません」
ひいろの瞳に、プロとしての鋭い光が宿る。
飲食店において、人件費は利益を左右する最大の変動費だ。
1時間多く入れすぎれば赤字になり、削りすぎれば機会損失とクレームを生む。
さらにスタッフの「収入」と「生活」を預かる以上、作成者の贔屓や私情が入れば、職場の人間関係は一瞬で崩壊する。
だからこそ、ひいろは売上予測に基づき、緻密なパズルを組んできたのだ。
「これだけの責任とロジックを背負う覚悟が、山南さん、あなたにありますか?」
「………」
ひいろの理路整然とした拒絶に、山南は顔を真っ赤にしながらも言葉を返せず、「チッ……!」と激しく舌打ちをして事務室を飛び出していった。
バタン、と乱暴に閉められたドアの音が、事務室に重く響き渡る。
静寂が戻った部屋で、ひいろは肺にある空気をすべて吐き出すように、深く長い息をついた。
正論で退けたとはいえ、心にあるのは勝利の余韻などではなく、泥のように重い疲弊感だった。
どれだけ誠実に現場を守ろうとしても、地道に積み上げてきた信頼が、悪意ある一言で簡単に揺らいでしまう。
その理不尽さと、組織という巨大な壁の容赦のなさが、暗い影となってひいろの胸の奥に居座り続けていた。
数日後、最悪の形で均衡は破られた。
「四家くん、今月から『パスピース月凪町店』のシフト作成権限を、すべて山南くんに委譲しなさい。これは副社長命令だ」
本社の社蓮太郎副社長から、直々に店舗へ電話が入ったのだ。
山南がまたしても裏で副社長に
「店長が自分勝手なシフトを組んで現場が悲鳴を上げている。自分ならもっと現場に寄り添える」
と嘘の報告をし、人手不足に焦るワンマンな副社長を動かしたのだった。
「……それは、本気でおっしゃっているのですか」
ひいろの喉の奥から、乾いた声が漏れた。
「現場の状況を一番見ているのは私です。山南さんの言葉だけでなく、一度でも店舗の勤怠データや実績に目を通していただけましたか? 彼の言う『現場の悲鳴』が何に基づいているのか、精査してください」
受話器の向こうから、不機嫌そうに舌を打つ音が聞こえた。
「口が減らないな、四家くん。君のそういう傲慢な態度が現場の不満を生んでいると、そう言っているんだ。実績だのデータだの、数字で現場の人間関係が測れると思っているのか? 四の五の言わずに命令に従いたまえ」
組織図の上では、副社長の命令は絶対だ。
拒絶する権限など、店長のひいろにはない。
逆らえば、店長降格どころか解雇の可能性すらある。
それでも、理不尽なトップダウンにただ平伏することだけは、どうしてもできなかった。
聞く耳を持たない高圧的な物言いに、ひいろの胸の奥で熱いものが爆発した。
「傲慢なのはどちらですか。現実を見ずに、裏での密告だけを信じて現場をかき乱す行為が、上に立つ人間のすることですか?」
「――四家くん、自分が誰に向かって口を利いているか分かっているのか!?」
受話器が震えるほどの怒号が飛ぶ。
「分かりました。命令とあれば権限は委譲します。ですが、もしこれで月凪町店のシフトが崩壊し、営業に支障が出た場合、その責任はすべて命令を下された副社長と、引き受けた山南さんが負うということでよろしいですね?」
組織図の壁を飛び越えて、ひいろは明確な拒絶の意志を言葉に込めて突き返した。
ワンマンな上司への、精一杯の抵抗だった。
ひいろは静かに受話器を置いた。
こうして、山南によるシフト作成が始まった。
出来上がってきたのは、ひいろの懸念を遥かに超えた、あまりにも醜悪な『他人に厳しく、自分に優しいシフト』だった。
A4の用紙に出力された無機質な数字の並びは、現場への配慮など微塵もない、身勝手な欲望の縮図そのものだった。
子育てや学業との両立を必死にやり繰りしている主労働スタッフの希望休は無残に無視され、ただでさえ人手の足りない繁忙期の時間帯が、信じられないほど薄い人数で放置されている。
スタッフ一人ひとりの生活や、これまで築いてきた店舗の日常を、ただの駒として乱暴にすり潰すような悪意がそこには透けて見えた。
そして、山南自身のシフトは、最も売上が緩やかで楽な時間帯ばかりに配置されている。
客足が落ち着き、大きなトラブルも起きにくい平日のランチタイムにばかり、これみよがしに山南の名前が並んでいる。
しかも、ディナー営業に向けた準備や片付けがメインとなる、15時から17時半までの「営業外の準備時間」もしっかりと勤務に組み込み、楽に労働時間を稼げるよう計算し尽くされていた。
その一方で、最も過酷で、全員が敬遠する週末のディナータイムや、息をつく暇もないラストオーダー間際のピークからは、自分の名前だけを綺麗に消し去っている。
現場に寄り添うという大義名分を掲げて権限を奪い取りながら、その実、自分が最も安全で負担の少ない場所に居座り、泥をすする役目を他人に押し付けている。
その露骨な自己保身と醜さに、ひいろは吐き気すら覚えるほどの強い憤りを感じていた。
ひいろは現場を守る店長として、その歪んだシフトを到底容赦できなかった。
なぜこれでは現場が崩壊するのか、理由を論理的に説明し、具体的な改善策まで提示した。
しかし、山南は鼻で笑って聞き入れず、「文句があるなら副社長に直接言えばいい」と、傲慢な態度で突っぱねた。
このままではスタッフの一人ひとりが乱暴にすり潰されてしまう。
さらに、その弊害はひいろの身にも直撃した。
「店長なんだから、トラブルがあったらすぐ対応できるように店にいるのが当たり前だろ?」
山南がニヤニヤしながら提出してきたシフト表により、ひいろの公休日は容赦なく削り取られた。
薄汚い下心が隠しきれていないその笑みは、ひいろから主導権を奪い取ったことへの、この上ない優越感に満ちていた。
店長という責任ある立場を都合のいい盾にされ、正当な権利をあざ笑うように剥ぎ取られていく。
これまで守られていた週休2日の生活は一瞬で崩壊し、半休ばかりになり、まともに休めるのは「月にたったの2回」という、過酷な労働環境へと叩き落とされたのだ。
朝から晩まで店に縛り付けられ、わずかな仮眠のような休みだけで再び店舗に立つ日々。
心身の疲労は澱のように足元から這い上がり、思考をじわじわと鈍らせていく。
鏡を見るたびに、自分の顔から生気が失われていくのが分かった。
睡眠不足で重く沈む頭を抱え、ただ店舗を維持するためだけにすり潰される時間は、終わりのない泥沼を歩いているかのようだった。
スタッフの間からは、目に見えて不満と疲弊の色の混じった、不穏な空気が漂い始めていた。
「ひいろちゃん、さすがに今月のシフトはおかしいよ……。子供の学校行事があるから休ませてほしいって、何週間も前から紙に書いて出してあったのに。山南さんに言ったら『人が足りないから無理』の一点張りで、聞く耳も持ってくれないんです」
パートの京子が、今にも泣き出しそうな顔でひいろに訴えかけてくる。
学生アルバイトたちも「こんな無理な入り方させられるなら、もうバイト辞めようかなって皆で話してるんです」と、あからさまに不満を口にするようになっていた。
さらに、その怒りは現場の要であるキッチンにまで波及した。
「店長、ちょっといいか」
ディナーの仕込みの手を止め、鋭い目つきでひいろを呼び止めたのは、キッチンチーフの武藤烈火だった。
「山南の野郎、何考えてこんなシフト組んでやがる。金曜のディナーのピークに、まともに動けねえ新人2人だけ配置して、自分は平日の昼間に呑気に引っ込んでやがる。現場の人間関係に寄り添うだあ? 笑わせんじゃねえよ。このままじゃ週末のキッチンは完全にパンクするぞ。俺は絶対に認めねえからな」
理不尽なシフトを押し付けられたスタッフたちの視線からは、かつてあった活気が消え失せ、代わりに刺々しい沈黙が店を支配するようになった。
バックヤードでは、山南への当て付けのような愚痴や、会社への不信感がウイルスのごとく静かに伝染していく。
誰の目にも、この歪んだ平和が長く持たないことは明白だった。
張り詰めた糸が今にも弾け飛びそうな、息苦しい暗雲が店舗全体を包み込んでいた。
それでも、ひいろは文句ひとつ言わず、
激減した休日のなか、淡々と店のオペレーションを回し続ける。
深夜2時、静まり返った店内で、ひいろは一人、山南の作ったシフト表を見つめていた。
(数字を読めない人間に操縦席を渡せば、飛行機がどうなるか……。身を以て知るべきです、副社長)
だが、ひいろはただ手をこまねいて墜落を待つような甘い人間ではなかった。
このままでは、巻き添えを喰らうスタッフたちが先に潰れてしまう。
そして、自分の大切な店を愛してくれているお客様にも、絶対に迷惑をかけるわけにはいかない。
スタッフの生活を守り、お客様に最高のクオリティを提供した上で、あの身勝手な男だけにすべての泥をすすらせる。
エリアマネージャー兼店長であるひいろには、それを実現できるだけの『権限』と『人脈』があった。
ひいろは、深夜の静寂の中でスマートフォンを取り出し、画面をタップした。
まずは、泣きそうになっていた主婦パートや、辞めようとしていた学生アルバイトたちのグループチャットを開く。
『皆さん、今月のシフトで無理をさせて本当にごめんなさい。割り振られたシフトは、私の責任で全て有給消化、または特別休暇に振り替えます。当日は店に出てこなくて大丈夫。ゆっくり休んでね』
スタッフの生活と権利を、店長の権限で完全に保護する。
それが第一歩だった。
さらに、ひいろはキッチンチーフの個人LINEにメッセージを送る。
『チーフ、金曜日のディナーですが、チーフも公休を取ってください。山南さんの言う「現場に寄り添うシフト」ですから、彼一人で十分に回せるはずです。……美味しいものでも食べて、英気を養ってきてくださいね』
すぐにチーフから『応、盛大にぶっ壊してやれ』と、短いながらも力強い返信が届いた。
これで、月凪町店の生え抜きスタッフの避難は完了した。
ここからが、エリアマネージャーとしてのひいろの本当の反撃だ。
ひいろは、自身が統括する担当店舗の店長2名、優秀な中堅社員1名、そしてさらに、他店からキッチンチーフ級の超実力派社員2名へ直接連絡を入れた。
『金曜のディナー、月凪町店へのヘルプをお願いできますか? 営業クオリティを落とさず、かつ、ある“教育”を行うために、皆さんの力が必要です』
彼らはひいろの確かな味方であり、山南の悪評もとうに耳にしていた。
画面越しに、頼もしい快諾の返事が次々と届く。
他店の店長2名、ベテラン社員、そしてバックヤードを完璧に統率する2名のキッチンチーフ級社員。
ホールとキッチンの両方にエリア最高峰のエリートたちが揃った今、金曜ディナーの激務など恐るるに足らない。
お客様へのサービスと営業オペレーションは、完璧なクオリティで維持できる。
だが――山南にとっては、これ以上ない地獄の四面楚歌が完成した。
山南が「楽をしよう」と新人を配属した金曜ディナーのピークタイム。
新人が消えたその場所に、ひいろの権限で強制配置されるのは、シフトの総責任者である『山南』。
そしてその周りを固めるのは、自分より遥かに仕事ができ、役職も上の「エリアマネージャー」と「他店の店長たち」、そしてキッチンの絶対的なプロフェッショナルたちだ。
逃げ場はない。
サボることも、新人に責任をなすりつけることも、キッチンのせいにして言い訳することもできない。
一挙手一投足をプロの厳しい目で見張られ、トップレーサー並みの極限のスピードで煽られながら、山南は一人で泥をすすることになるのだ。
ひいろは最後に、本社の勤怠管理システムを開いた。
スタッフの休暇申請と、山南への緊急出勤要請、そして他店からのヘルプ確定データを送信する。
システム上、山南はもう逃げられない。
画面の明かりに照らされたひいろの瞳に、静かな闘志が宿る。
「さあ、山南さん。あなたの言う『現場への寄り添い方』、特等席で見せていただきますね」
静かに反撃の狼煙をあげたひいろの、不敵な微笑みとともに――。




