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第4話 公休日です


それは、カーテンの隙間から滑り込む朝の光すら、どこか緩やかな速度を持っているように思える、完璧な公休日の朝だった。


四家緋和しかひいろの自室は、日中の『パスピース』の喧騒が嘘のように静まり返っている。



いつもならデスクに美しく整列している経営心理学や労務管理の専門書は、今日はすべて書棚に収められていた。


代わりに彼女の細い指先に握られていたのは、一冊の古い文芸小説だった。



(……この時代の言葉は、なんと豊かな余白を持っているのだろう)




ページをめくるたび、インクと紙の匂いが鼻腔をくすぐる。


普段、現場を動かすための「最適解のロジック」ばかりを脳に詰め込んでいるひいろにとって、答えの出ない人間の機微を美しく描いた小説の世界に沈むことこそが、最高の贅沢であり、心の洗濯だった。


しかし、その静謐な時間は、デスクの上で無機質な振動を始めたスマートフォンによって、唐突に切り裂かれた。


画面に表示された名前を見て、ひいろの涼やかな眉が微かに動く。


『副社長・やしろ 蓮太郎れんたろう


不穏な予感を覚えながら通話ボタンを押すと、耳を突き刺したのは、最初から苛立ちを隠しようともしない、気が強くワンマンな男の濁った声だった。


『――四家くんか。いまから本社に来なさい』


「お疲れ様です、副社長。ですが、本日は私の公休日となっております。緊急の業務でしょうか」


『いいから来いと言っているんだ。店の経営に関わる重大な問題だ。すぐに向かいなさい』


一方的に切れた通話の余韻のなかで、ひいろは小さく息を吐いた。


彼女は静かに文芸小説を閉じ、しなやかな動作で立ち上がる。


ハラリと肩に広がる髪をいつものように後ろで硬く束ね直したときには、彼女の瞳からはすでに「休日の女性」の柔らかさは消え失せ、冷徹なプロフェッショナルとしての光が宿っていた。


本社のある同県の翠松町すいしょうまちへと向かう道中、ひいろの頭脳はすでにいくつかの仮説を組み立て、そのすべてがひとつの結論へと収束していた。


(――山南さんですね)


本社の重苦しい会議室のドアを開けると、案の定、そこには世界で一番不当な扱いを受けたと言わんばかりの顔をした山南閉が、副社長である社 蓮太郎の背後に控えていた。


40歳になる蓮太郎はデスクに両肘を突き、組んだ指の上に顎を乗せてひいろを睨みつけている。


ワンマンな彼らしい、高圧的なオーラが部屋に満ちていた。


「座りなさい、四家店長」


蓮太郎の声は低く、理不尽な威圧感に満ちていた。


ひいろが静かに椅子に腰掛けると、彼は人手不足への焦りを隠しようともせず、手元のデスクを手のひらで叩いた。


「各店、どこも人手不足で悲鳴を上げていることは君も知っているはずだ。応募してくれるだけでありがたいこのご時世に、君はなぜ、山南くんの実弟の採用を見送ったんだね?」


「面接における適性を判断した結果です、副社長」


「適性だと?」


蓮太郎は苛立たしげに声を荒らげる。


「山南くんからの報告によれば、その弟さんは高名なレストランの厨房でかなりの腕前を誇っていた、飲食業のプロだそうじゃないか。即戦力としてこれ以上ない人材を、君はろくに選考期間も設けず、その場で不採用にしたという。これは店長としての職権乱用、あるいは個人的な感情による排除ではないのかね?」


山南は蓮太郎の後ろで、勝ち誇ったような、歪んだ笑みを浮かべてひいろを見つめている。


日頃から「自分が現場を厳しく指導してやってる」とアピールし、蓮太郎の信頼を勝ち取っている山南にとって、この展開は計算通りだった。


蓮太郎は山南の表面的な言葉にすっかり騙され、彼を貴重な即戦力だと信じ込んでいるのだ。


ひいろはその山南の浅ましい視線を完全に無視し、蓮太郎へと真っ直ぐに言葉を返した。


鳳凰れおん氏の調理技術についての自己申告は確認しております。しかし、当店のキッチンは個人のスタンドプレーではなく、武藤チーフを中心としたチームワークで成り立っています。面接の際、鳳凰氏からは共に働く仲間への敬意や、組織の一員としての協調性が著しく欠如していると判断せざるを得ない言動が多々見受けられました。技術がいかに高くとも、チームの和を乱す人材の登用は、既存のスタッフのエンゲージメントを下げ、結果として店舗全体のオペレーションを崩壊させます」



ひいろは、感情の起伏を完全に排し、論理的かつ淡々と説明を続けた。


相手を言い負かすための「論破」にならないよう、言葉選びには細心の注意を払っている。


しかし、蓮太郎の表情はどんどん険しくなっていく。


人手不足という数字の焦りと、何より「自分の権威」への執着。


彼にとって、年下の女性店長が淀みなく正論を述べること自体が、副社長としてのプライドへの冒涜に感じられていた。


「君は本当に、ああ言えばこう言うな! 言い訳はいいんだ。現場が回っていないから山南くんがこうして声を上げているんだろう!」


蓮太郎の反論は、完全に論点のすり替えだった。


鳳凰という個人の適性という「事実」から目を背け、ひいろの「態度(ああ言えばこう言う)」に問題をすり替えることで、優位に立とうとしている。


正しさよりも上下関係を重視する、彼のワンマンな思考パターンそのものだった。


いつもなら、こうした理不尽で不毛なやり取りに対して、ひいろは議論の土俵からすぐに降りる。


反論も弁明もせず、「そう見えましたか、失礼しました」とだけ告げてその場を終わらせるのが、彼女の平穏を守るための冷徹な処世術だった。


だが、今回ばかりは違った。


ひいろは一歩も引かなかった。


「いいえ、副社長。これは譲れません。鳳凰氏を採用すれば、現場のスタッフが困ります。そして何より、提供するクオリティが下がり、最終的にお客様が困ります。店舗の未来のために、私は彼の採用を絶対に認めません」


凛とした声が、会議室の空気をぴんと張り詰めさせる。


蓮太郎が怒りで顔を真っ赤にし、デスクを叩こうとしたその時――。


「――そこまでにしなさい、副社長」


会議室のドアが開き、圧倒的な威厳と熱量を纏った女性の声が響いた。


現れたのは、この「株式会社ピース・イート」を一代で栄えさせた張本人であり、最高権力者である社長、やしろ 栄子えいこだった。


新型高速鉄道の開通や高性能家電の普及、世界第2位の経済大国へと駆け上がったあの和ノ國の激動期――誰もが中流意識を持ち、テレビから流れる大衆文化に熱狂した、あの最もエネルギーに満ちあふれた時代を生き抜き、体現してきた栄子の覇気は、65歳という年齢を微塵も感じさせない。


栄子は一歩引いて息子の経営を見守ってはいるが、公私の区別もつかず、あまりにも人を見る目の無い彼には、日頃からほとほと嫌気がさしていたのだ。


「聞いていたわよ、副社長」


母親ではなく、飽くまで「社長」として冷徹に役職で呼ばれた瞬間、蓮太郎の顔が微かにこわばる。


「しゃ、社長……いつからそこに……」と声を戦がせる彼を、栄子は厳しい眼差しで遮った。


「現場の人事権は店長にある。それが我が社の鉄則のはずよ、副社長。四家店長が現場の未来を見据えて下した決断に、なぜあなたがそこまで口を挟む必要があるのかしら? 腕が良いからとチームワークを軽視する人間を入れれば、お店がどうなるか……数字の焦りで、大切なことを見失うんじゃないわよ」


栄子の容赦のない一言に、気が強いはずの蓮太郎もぐうの音が出ず、ただ「失礼しました……」と頭を下げるしかなかった。


その後ろで、山南が絶望に顔を青ざめさせている。


栄子はそんな男たちに一瞥もくれず、ひいろへと視線を向けた。


その瞬間に、張り詰めていた表情がフッと優しく和らぐ。


「四家店長、本当は今日は公休日だったんですって? 本社に来たついでだわ、付き合いなさい」








本社の喧騒を置き去りにして、二人が向かったのは、表通りの中にあって、ひっそりと佇む創作和食の店『流美星出るみせで』だった。


引き戸を開けると、磨き上げられた白木のカウンターが二人の視界に広がる。


「いらっしゃいませ。おや、社長に、ひいろさん。お二人揃ってのお越し、ありがとうございます」


カウンターの向こう側で、店主の三沢が美しい所作で深く一礼し、穏やかな笑みを浮かべて二人を迎えた。





勧められるままに腰を下ろし、一息つく。


凛とした心地よい緊張感が満ちるなか、二人の背筋がおのずと伸びた。


手荷物を足元に収め、ふぅ、と小さく息を吐いて顔を上げた、まさにその刹那せつなのこと。


「どうぞ、お手を温めてください」


三沢の見事な手捌きにただ目を奪われているあいだに、仲居が音もなく傍らへと寄り添っていた。


着席直後のせわしなさが引き、ちょうど一呼吸置いたことを見計らったかのような、あまりにも絶妙な


差し出された手元に目を落せば、おしぼりはすでに折れ目のない美しい平型へと、愛おしむように丁寧に広げられている。


そっと受け取ると、肌に吸い付くような上質なタオルの温もりとともに、沈香じんこう仄甘ほのあまい残り香が、そよ風のように鼻腔をくすぐった。


指先からじんわりと、先ほどまでの本社の熱気が解けてゆく。


まだ箸も割っていないというのに、これから始まる一献への期待に、二人の胸は深く高鳴っていた。






美しい器に盛られた地物の前菜に舌鼓を打ちながら、張り詰めていた空気がゆっくりと融けてゆく。


「あなたには苦労をかけるね。本当に申し訳ない」


栄子は小さなお猪口を傾けながら、心底申し訳なさそうにひいろを見つめた。


「本当は、あなたには店長じゃなく、本社の本部スタッフになって私の右腕として経営の舵取りをしてもらいたかったのだけど……。でも、あなたの言う通り、現場から変えていかないとダメだってことは、あなたが来てからのこの2年を見れば本当によくわかるわ。うちの副社長の上辺しか見られない未熟さも含めてね」


「いいえ、社長。これで良かったのです」


ひいろは髪を揺らし、何も言わずとも自分の前へそっと差し出された温かい日本茶に手を添え、穏やかに微笑んだ。


2年前。


当時、パスタとピザの店『パスピース』をはじめ6ブランド150店舗展開する「株式会社ピース・イート」の業績は著しく悪化し、借金が資産を上回りかねない危険水域に達していた。


栄子はその危機を救うべく、他社で赤字店舗を次々と再生させていた四家緋和の実力を見抜き、本社の優秀な本部スタッフとしてのオファーを出したのが、すべての始まりだった。


しかし、ひいろはそのオファーを断り、一つの条件を出した。


『現場でやらせていただけるなら、お受けします。今のピース・イートに必要なのは、上からの命令ではなく、現場を動かす本物のロジックです。私が下から変えてみせます。ただし、社長、私に直接あなたの知恵を貸してください』



「食を通じて平和や笑顔を届ける」という、ピース・イートの社名に込められた美しい理念。


それに心から共感したからこそ、ひいろはこの会社の未来を、机上の空論ではなく現場の最前線から本気で守りたかった。


そのためひいろは、あえて一般職(1等級)として入社し、フロアを走り回りながら、水面下で栄子とダイレクトに繋がり、店舗マーケティングの刷新、サプライチェーンの見直し、業務効率化の設計図を次々と立案した。


これを栄子が陣頭指揮を執る形で全店に断行したからこそ、瀕死だった会社は奇跡的な回復を遂げたのだ。


ひいろが持つ最大の強みは、役職ではなく、最高権力者である社長と対等に渡り合える「脳直結のダイレクトライン」だった。


さらに、ひいろの凄みはそれだけにとどまらなかった。


彼女は現場でも一般職の枠を遥かに超えた実力を発揮し、圧倒的な成果を上げ続けていた。


結果、入社からわずか半年後、当時の店長やエリアマネージャーたちのほうから「彼女を上に据えるべきだ」と強い推薦の声が上がり、主任職や副店長職といったステップをすべて飛び越えて、現場の人間たちから押し上げられる形で店長に就任したのだ。


それは社内でも前代未聞の、異例のスピード抜擢だった。


店長となってからも彼女の担当店舗の売り上げは瞬く間に激増し、今や全店トップの数字を叩き出している。


さらに現在、彼女は自店を切り盛りしながら、エリアマネージャーとして他2店舗のマネジメントも兼務する、名実ともに会社の救世主であった。


だが、現在の彼女の公式な社内等級は、店長兼エリアマネージャーに準じた「4等級」。


先ほど会議室で偉そうにふんぞり返っていた副社長・蓮太郎の「9等級」という圧倒的な権力の前には、組織図の上ではあまりにも無力な数字に過ぎない。


山南閉も、蓮太郎も、全社員にいたるまで、この普通の「4等級の店長」に見える女性が、会社を裏から救った伝説の立役者であるなどとは、夢にも思っていないのだ。


「三沢さん、このお出汁、本当に美味しいです」


ひいろが嬉そうに呟くと、三沢は「ひいろさんにそう言ってもらえると、料理人冥利に尽きますよ」と、丁寧な手つきで次の器を差し出しながら、ほんの少しだけ目元を緩めた。


二人の会話を決して邪魔しない、洗練された静かな間合いがそこにはあった。


「副社長も山南くんも、目に見える『役職』や『上下関係』という檻の中でしか人間を見られない哀れな人たちよ」


栄子はため息をつきながら、ひいろの手元を優しく包み込んだ。


「でも、だからこそ、あなたが現場で蒔いている種が、この会社を根底から変える本物の光になる。明日からも、よろしく頼むわね。店長」


「ええ、お任せください」


ひいろは小さく頷き、お茶を口に含んだ。


自分の本当の実力も、社長との繋がりも、明日の現場では何の意味も持たない。


明日、店に立てば、自分はまた一人の「店長」であり、山南閉の「後輩」として理不尽な言葉を受けることもあるだろう。


副社長という権力が、いつでも自分を切り捨てられる檻の中にいる。


それでもいい。


現場の泥をすすり、そこにある本当の課題を一つずつロジックで解決していくことこそが、四家緋和という人間の選んだ、最も気高い戦い方なのだから。


窓の外、夜空には、静かで美しい月が上っていた。


明日はまた、店を開ける時間がやってくる。




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