第8話 崩壊です 後編
プロフェッショナルとしての矜持を持った坂口蓮が去ったことは、月凪町店という堅牢だったはずの船底に穿たれた、最初の決定的な亀裂であった。
しかし、店長代行という、身の丈に合わない即席の権力に酔いしれる山南閉の耳には、ひたひたと忍び寄る浸水の不穏な音は届いていなかった。
坂口が抜けた穴を埋めるどころか、厨房では山南鳳凰の傲慢と横暴が日ごとにエスカレートし、かつての美しい秩序は見る影もなく瓦解していく。
味と規律を守ろうとするキッチンチーフ・武藤烈火との対立は、もはや修復不可能な臨界点に達しようとしていた。
そして、四家緋和というあまりにも巨大な防波堤の消えた店で、山南はついに最悪のカードを切り、その牙を剥く。
「武藤チーフ。急な話で悪いんだが、明日付で隣のエリアの『パスピース陽だまり丘店』への異動命令が出た。これは副社長の直々の決裁だ」
冷え切った事務室に呼び出された武藤は、山南から突きつけられた一枚の異動辞令を、肉厚な拳を激しく震わせながら見つめていた。
表向きは他店の人手不足を補うための「応援異動」という美名で取り繕われていたが、その本質が、自分を煙たがった山南兄弟による不当な「排除」であることは、火を見るより明らかだった。
「……俺を追い出して、この店をどうするつもりだ」
武藤の声は、怒りを通り越して、地響きのように低く、重かった。
その圧倒的な威圧感に一瞬身をすくめながらも、山南はデスクの背もたれにふんぞり返り、鼻でせせら笑った。
「どうするもこうするもないですよ。これからは、うちの鳳凰が新しいキッチンチーフとして店を回します。あんたのような職人気取りの古いやり方は、これからの効率的な月凪町店には必要ないんですよ。もっとスマートにいかないとね」
「鳳凰だと? あんな素人に毛の生えたような雑な仕事しかできん男に、この厨房の命である味を任せるというのか! お客様を、現場を舐めるのも大概にしろ!」
武藤がデスクを叩き、激昂する。
その時、事務室の影から滑り込んできたのは、薄気味悪い笑みを浮かべた福良補佐だった。
「まあまあ、チーフぅ、そう熱くならないでくださいよぉ。これは本社の決定、つまりは会社の意思ですからねぇ。それに、あなたのその頑固な職人気質が、これからの若いスタッフたちを萎縮させてしまうという懸念も上層部に届いておりましてねぇ……」
本来であれば、武藤が抜けた後は、現場をずっと支え続けてきたサブの速水凛子がチーフに昇格するのが、組織としての正常な順列であり、現場の誰もが納得する形だった。
しかし、ここでも影から邪悪な糸を引いたのは福良だった。
彼は副社長への報告書に「速水は前店長の影響が強く、新体制への反発が懸念される。
鳳凰氏の方が組織への忠誠心が高く、改革に適任」と、もっともらしい欺瞞の文言を並べ立てていたのだ。
結果、入社してわずか6ヶ月の山南鳳凰が、異例の速さで月凪町店の新キッチンチーフへと就任した。
この歪んだ人事を境に、店舗の「肌荒れ」は、もはや隠しようのない決定的な腐敗へと姿を変えていく。
チーフの座を強奪した鳳凰が、真っ先に現場へ呼び寄せたのは、前職で一緒に働いていたという女性、美愛だった。
「チーフぅ、シフトなんですけど、私、子供が生後7ヶ月なんで夜は絶対に入れないんでぇ。あと土日も基本無理です。そこんとこ、よろしくおねがいしますね?」
「おう、分かってるって美愛。お前は俺の言う通りに動いてくれりゃ、シフトなんかいくらでも優遇してやるからよ。なんなら時給だって色つけてやる」
子育てとの両立という、反論しづらい大義名分を盾に、鳳凰は美愛のわがままな希望をすべて無条件で通した。
そして、その分の皺寄せは、これまで真面目に店を支えてきた既存の主婦パートや学生アルバイトのシフトへと、何の説明もなく無慈悲に押し付けられた。
かつてひいろが「誰一人として乱暴にすり潰さない」ために、労働基準法と安全配慮義務を徹底し、一人ひとりの人生に寄り添うようにして組み上げた精緻なシフトパズル。
それは、鳳凰の利己的な手によって、跡形もなく完全に破壊された。
さらに鳳凰の暴走は止まらない。
彼は自分の扱いやすい「お気に入り」のフリーターや、言葉遣いも怪しい退廃的な連中を、次から次へと店舗の求人にねじ込み、厨房だけでなくホールの主要な時間帯までも、自らの身内集団で急速に支配していった。
彼らが現場を占拠した瞬間から、月凪町店が誇っていた凛とした空気は、完全に変質した。
アイロンの当たっていない、シミのついた汚れた制服。
バックヤードからフロアにまで筒抜けになって聞こえてくる、身内同士の品のない私語と、なれ合いの締まりのない笑い声。
厨房では、ひいろが残した厳格な衛生管理マニュアルがまるでゴミのように扱われ、かつて白く輝いていた調理台の隅には、いつの間にか黒ずんだ油汚れがべっとりとこびり付き始めていた。
「やってらんないよ……何これ。私たちの愛したお店は、どこに行っちゃったの……」
耐えかねたのは、京子をはじめとする、ひいろの背中を見て、共に誇りを持って働いてきたベテランの既存スタッフたちだった。
「京子さん、今日のパスタ、ソースが完全に分離してて……これじゃお客様に出せません。でも鳳凰チーフに言ったら『うるせえ、早く持ってけ』って怒鳴られて……」
涙目で訴える後輩の姿に、京子は深く唇を噛み締めた。
シフトは不公平に削られ、現場の規律は崩壊し、守るべき品質は地に落ちている。
彼女たちが愛し、守り続けてきた月凪町店の美しい日常は、もうどこにもなかった。
「……もう、ここにはいられないね」
一人、また一人と、静かに、しかし決然とした意思を込めて、退職届が事務室のデスクに置かれていった。
月凪町店の真の主役であったベテランたちは、汚された城を見つめながら、静かに店を去っていった。
その結果は、あまりにも残酷な、そして冷徹な数字となって現れる。
QSCの著しい低下。
パスタはぬるく、接客は雑で、店内は薄汚れている――かつて十店舗中一位を誇った圧倒的なブランド力は瞬く間に失墜し、グルメサイトのレビューには「味が落ちた」「店員の態度が最悪」「二度と行かない」といった手厳しい酷評が、毎日のように並び始めた。
常連客の足は目に見えて遠のき、かつては活気に満ち溢れていたランチもディナーも、客席には寒々しい空席が目立つようになっていった。
新しくこの地区の担当となったエリアマネージャーは、月凪町店のあまりの急落ぶりに危機感を抱き、何度も店舗へ足を運んでは、山南に改善指示書を突きつけた。
「山南代行! このQSCの低下は看過できません! 本社でも大問題になっています! 至急、四家前店長が遺したマニュアルを再徹底し、スタッフの再教育を行ってください!」
しかし、その必死の訴えも山南の耳には響かない。
それどころか、身内で固められた現場の連中は、エリアマネージャーの背中に向けて「うるせえな、堅苦しいんだよ」と陰で嘲笑い、山南自身も、すでに彼らをコントロールする統率力を完全に失っていた。
客足が完全に途絶え、売上が右肩下がりに落ち込んでいく、夕暮れ時の誰もいないバックヤード。
エリアマネージャーから送られてきた、赤い文字で「警告」と打たれたメールを睨みつけながら、山南は引きつった笑みを浮かべ、机をドンと激しく叩いた。
「うるせえな、どいつもこいつも四家、四家って……! あいつが辞めたから売上が落ちたんじゃねえ。ただの時期的な要因だろ! 季節の変わり目だからに決まっている!」
冷や汗をにじませ、激しく動揺しながらも、山南の瞳の奥には、未だに狂気じみた醜い虚栄心がギラギラと燃え盛っていた。
自分の非を認めることだけは、死んでもしたくなかった。
「QSCだの再教育だの、そんな地味で時間のかかることやってられるかよ。売上が下がってんなら、一発でドカンと客を呼び戻せばいいんだ。誰もがひっくり返るような、派手な手だてをな。……そうだ、俺には、売上を爆発させる最高のアイデアがある」
崩壊の斜面を真っ逆さまに転がり落ちる店舗のなかで、山南が掴み取った、あまりにも安易で致命的な「悪魔の処方箋」とは――。




