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第9話 危険です


 かつて山南閉やまなみ とじるの目に映る世界は、ひどく色褪せ、卑小なものだった。


飲食店という場所で額に汗して働く仲間のすべてを見下していた。


 自分自身がまったく同じ制服に身を包み、同じようにフロアでお客様に頭を下げ、料理を運んでいるという無慈悲な事実からは、都合よく目を背けていた。



自分は彼らとは違う。



たまたま一時的に、ここにいるだけだ。



自分にはもっとスマートで、ふさわしい場所が他にある――。



根拠のない選民思想は、彼の未熟なプライドのなかで、自覚のないまま醜く腫れ上がっていっていた。


 その当時、株式会社ピース・イートの輪郭は、水面下で決定的な破滅の淵を迎えていた。


 かつては6つのブランドを展開し、和ノ國の街々に150店舗を数えた直営店網は、長引く赤字の流出を止められず、文字通り崩壊寸前の悲鳴を上げていた。


会社が生き残るために下した重い決断――それは、『パスピース』というパスタとピッツァの単一業態にノウハウを絞り込み、それ以外の不採算ブランドをすべて他社へ事業譲渡するという、苛烈なリストラ(事業再構築)だった。


 150あった牙城は、わずか5店舗にまで削ぎ落とされた。


確実な採算ベースに乗せるための文字通りの「背水の陣」ではあったが、現場に漂う閉塞感と、いつ会社そのものが潰れてもおかしくないという泥舟の空気は、当時ホールの主任だった山南の肌にも冷たく突き刺さっていた。


「この会社にいたら、泥舟と一緒にそのまま沈むだけかもしれないな」


 副店長への昇格という、彼にとっては大きな節目の椅子がすぐ目の前に迫っていた時期だった。


しかし、会社の沈没に巻き込まれたくないという焦燥感に背中を押され、山南はあっさりと会社に見切りをつけ、退職届を叩きつけた。


 去り際、山南は入社して数ヶ月の新人社員に対し、さも親切な先輩を気取って、哀れむような笑みを浮かべて助言を授けてみせた。



「悪いことは言わないからさ、こんな泥舟みたいな会社、早く辞めたほうがいいぞ。時間の無駄だから」



 バックヤードの片隅で、その言葉を黙って受け止めたのは、読書好きの物静かな新入社員。


 ――四家緋和しか ひいろだった。





 ピース・イートを飛び出した山南の転職先は、彼がずっと憧れていた、いわゆる「スマートなオフィスワーク」である一般企業の営業職だった。


 これで自分も、飲食上がりの現場とは違う、知的なビジネスマンの仲間入りを果たしたのだと、最初は胸を張っていた。


 しかし、現実は甘くなかった。


 長年、飲食の接客という世界だけで生きてきた山南にとって、一般企業の厳格な組織風土や、張り詰めた人間関係の力学は、あまりにも異質だった。


言葉遣い、立ち回り、目に見えない派閥の空気。


そのすべてに馴染めず、周囲から浮き上がっていくのに時間はかからなかった。


 さらに決定的な打撃となったのは、未経験ゆえの圧倒的な営業スキルの低さだった。


数字の読み方、企画のロジック、顧客との交渉術。


どれ一つとして満足にこなせず、毎日が苦痛と屈辱の連続だった。


かつて「誰でもできる簡単な仕事」と見下していた飲食の現場以上に、容赦なく自分という人間を突きつけられる日々。


山南はその新しい職場で、人生で初めての、弁明の余地もない完全な「挫折」を味わうこととなった。



(こんな思いは、もう二度と御免だ……)



逃げるようにその会社を辞めた山南は、結局、自分が長年経験した飲食業界へと舞い戻るしかなかった。


だが、そこでも彼の歪んだ自尊心は満たされなかった。


そこには、かつての古巣である『ピース・イート』とはあまりにも違う、不条理な企業文化が根を張っていた。


やり方や考え方の根本的な違いに直面するたび、馴染めない自分への言い訳として、山南の心の奥底には、ある一つの未練がじわりと染み出し始めていた。



(ピース・イートのほうが、まだマシだった。あっちのほうが、ずっとよかった……) 






そんなある日の休日、山南は街角の雑踏のなかで、奇跡とも言える人物の後ろ姿を見つける。



仕立ての良いスーツを身に纏い、せわしなく歩いていたのは、ピース・イートの副社長、社蓮太郎やしろ れんたろうだった。



「お、お久しぶりです、副社長っ……!」



山南は必死に声をかけ、駆け寄った。


蓮太郎は突然行く手を阻されて怪訝そうに眉をひそめたが、山南の顔をじっと見つめると、記憶の引き出しを手繰り寄せた。



「君は、たしか……」



「山南です! 以前、パスピース月凪町店でお世話になっていました、山南閉です!」



「ああ、山南くんか。そうだったね。元気そうで何よりだ」

 


「副社長もお元気そうで……!」



山南が会社を去った後、わずか5店舗にまで縮小していたピース・イートは、驚異的なV字回復を遂げている。


かつての瀕死の状態を脱し、株式会社ピース・イートは今、まさに二次成長の波へと突入していた。



「山南くん、いまは、何をしているのかね」



世間話のつもりで問いかけた蓮太郎の言葉に、山南は前のめりになった。



「いまはまた、飲食業の現場で働いています」



「そうか、また飲食で。それは私としても、嬉しいことだな」



そう言いながら、蓮太郎の脳裏には、かつて山南が在籍していた頃の印象が薄っすらと蘇っていた。



確かこの男は、飲食業という仕事を「誰でもできる簡単な仕事」「スマートではない仕事」と、どこか蔑み、軽視するような偏見を持っていた社員だったはずだ。



「実は……」



山南は一度、視線を路面に落とした。


次の一歩となる言葉が、すぐには出てこない。


他社に馴染めず、過去の栄光にすがるしかない己の惨めさ。


その事実を認めたくないという最後のプライドだけが、醜く喉に引っ掛かる。


目の前にいるのは、かつての古巣の副社長。


ここで見栄を張って取り繕う理由も、余裕も、もう今の山南には残されていなかった。



「お願いがあります」



山南は意を決して顔を上げ、蓮太郎の目を真っ直ぐに見据えた。



「副社長……! もしよろしければ、私をまた、ピース・イートで雇ってはいただけないでしょうか?」



あまりにも唐突な懇願だった。


街頭での偶然の再会から、間髪入れずに復職を願い出てきた山南の必死さに、さすがの蓮太郎も驚きを隠せず、言葉を失った。


「他所で別の空気を吸ってみて、本当によくわかりました。私にはやっぱり、ピース・イートしかありません。パスピースで働いた5年間を思い出して……いま、強くそう感じているんです。お願いします!」



頭を下げる山南を見つめながら、蓮太郎の頭脳は素早く動き始めていた。

 

この1年半、会社が下してきた再建プロジェクトによって店舗は10店舗にまで拡大し、ようやく息を吹き返したばかりだった。


蓮太郎はこの勢いに乗って、さらなる出店ラッシュを仕掛けたいという野望を抱いていた。

そのためには、現場を回す人員の確保が不可欠だった。


蓮太郎の経験則に深く染み付いた「飲食業の人手不足」という恐怖は、もはやある種のトラウマに近いものになっていた。



「副社長、お願いします……!」



じっと見つめる蓮太郎の前に、山南はなおも懇願を続ける。


挫折の底で行き詰まっていた山南にとって、この偶然の再会と蓮太郎という存在は、地獄に垂らされた蜘蛛の糸、すなわち「救世主」そのものに他ならなかった。



「――わかった。またよろしく頼むよ、山南くん。詳しい話は追って連絡する」



 その場で副社長の口から確実な約束をもぎ取り、山南は何度も深々と頭を下げた。


喉を締め付けていた焦燥感が一気に引いていくのを感じながら、心の中で狂喜乱舞していた。




 山南と別れて本社へと戻った蓮太郎は、早速、山南を復職させるための人事手続きへと取り掛かった。


事業譲渡に伴い、買い手企業へ移籍した元社員たちも、新しい環境に馴染めず何人か戻ってきている。


山南も似たようなものだ、人手不足を補う絶好のタイミングで元社員が戻ってきた、ただそれだけのこと。


自分が下したこの臨機応変な決断に、蓮太郎はそう安易に考えていた。


だが、山南がピース・イートへの復職を正式に果たすにあたり、蓮太郎の独断だけではどうしても超えられない、予想外の巨大なハードルが立ちはだかった。



社長、社栄子やしろ えいこである。



蓮太郎が意気揚々と持ってきた今後の出店計画、および山南の復職の稟議書を前に、栄子は静かに現実を突きつけた。



「この1年半で10店舗にまで拡大したのはね、ただの拡大路線じゃない。他ブランドをすべて手放して赤字の流出を止めたけれど、残った5店舗だけじゃ会社の組織を支えきれなかった。だから、確実な採算ベースに乗せるために10店舗にする必要があった。私たちの強みであるパスタとピッツァのノウハウをそこに一点集中させたからこそ、この短期間で実現できたの」



さらなる拡大路線と、そのための人員確保を熱弁していた副社長の蓮太郎が、不満げに口を閉ざす。


栄子はゆっくりと顔を上げ、我が子の焦燥に満ちた目を、射抜くように真っ直ぐに見据えた。



「……だけどね、蓮太郎。それだけでこの奇跡が起きたと思っているなら、あなたの経営眼は節穴よ。他ブランドを切り捨てるという厳しい決断を断行できたのも、この業態のノウハウを、現場が絶対に窒息しない完璧な収益・労務モデルに落とし込めたのも――すべてはあの時、水面下で私と並走してくれた『確かな協力者』がいたからよ」



栄子の脳裏には、一般職の制服を着てフロアを走り回りながら、自分にだけ最高のバックオフィス戦略と、現場に血を通わせる緻密なロジックをダイレクトに送り届けてくれた四家緋和の姿があった。




何も知らない蓮太郎は、「協力者……? どこのコンサルですか」と眉をひそめて食い下がろうとする。


栄子はそれを、静かな一瞥で制した。



「誰かは関係ない。重要なのは、その人物がもたらした『現場を動かす本物のロジック』が、今のうちの土台にあるということ。それに対して、今あなたの出してきた計画はなに? かつて150店舗あった頃の、器だけを急いで増やして、中身の人間はロクに吟味もせず、数合わせのように雇い入れる古いやり方……。そんな精査なき雇用を伴う出店計画に、私は絶対に賛成できない。それは拡大ではなく、ただの自殺行為。副社長、この無謀な計画はここでストップさせてもらう」



有無を言わせぬ社長としての圧倒的な威厳に、部屋の空気は完全に凍りついた。


蓮太郎は悔しげに奥歯を噛み締め、拳を握りしめるしかなかった。


しかし、蓮太郎にも次期トップとしての面子と意地があった。



「……今後の出店に関してはわかりました。一度見直します。しかし……山南くんの復職に関しては、私はもう彼に直接、内示を出してしまったんです。今更不採用だなんて言えません。私個人としても、会社の信用としても」



山南閉という男は、会社が最も苦しく、沈みそうだった最悪のタイミングに、自らの都合だけで辞めていった人間だ。


人を見下す悪癖も含め、多少の問題を抱えた社員であったことは栄子もよく知っている。


会社の意思で他社へ移籍し、馴染めず戻ってきた元社員たちとは、その忠誠心も状況も決定的に異なっていた。


栄子は山南の復職をあからさまに渋り、不快感を隠さなかった。


しかし、ここで副社長の必死の願いを無視して彼の面子を完全に潰してしまえば、今後の社内統治において、会社にとって決して良い影響はもたらさない。


経営者としての天秤の末、栄子は妥協案を選択した。



「いいでしょう。そこまで言うなら戻しなさい。ただし、条件は2つ。ひとつめは、役職の引き継ぎは一切なし。一般職から完全にやり直させること」



「……それは本人も納得しています。もうひとつは?」



「ふたつめは、月凪町店への配属。あそこには今、若くしてエリアマネージャーを兼任する優秀な店長がいるわ。かつて自分の後輩だった『四家緋和』の部下として、頭を下げて一から現場を学び直させなさい」



栄子がその条件を出したのは、山南という歪んだプライドを持つ男に、ひいろの構築した美しく血の通ったロジック、そして「本当のマネジメント」を少しでも学んでほしいという、経営者としての親心に似た、最後の猶予のつもりだった。






条件を呑み、山南は月凪町店へ戻った。


そこでは、自分より後に入社した若き店長・四家緋和が、誰よりも静かに、そして誰よりも確かな足取りで現場を支えていた。


だが山南は、その姿の本当の価値に最後まで気づくことはなかった。



――そして、その果てに待っていたのが、あの退職劇である。







現在。


 月凪町店の、静まり返った事務所。


そのデスクで山南閉は、ノートパソコンの青白い光に身を浸しながら、ただ浅い呼吸を繰り返していた。



視線の先に横たわるのは、かつて防波堤として店を守っていた四家緋和が去り、容赦なく剥き出しになった歪な現実――客足の途絶えたグラフが描く、冷徹な死線そのものだった。



彼女が精緻に編み上げた適正な人員配置も、調和の取れた美しい労務モデルも、今の山南にとっては、己の非凡さを、その傑出した有能さを本社へ知らしめるための、ただ鬱陶しい足枷に過ぎなかった。



「あんな女の作った、おままごとのような規律に縛られているから、数字がついてこないんだ。俺本来の研ぎ澄まされたマネジメントを発揮するためには、一瞬で戦況を覆す劇薬が必要なんだ……」



カチ、と乾いた残響を残して、事務所のドアが開いた。


昏い約束のままに姿を現したのは、山南が事前にネットの深淵で見つけ出し、密かに糸を繋いでいたマーケティング会社の男だった。


仕立ての良いチャコールグレーのスーツを纏ったその男は、声音のない笑みを唇に湛え、一枚の名刺を差し出してきた。



「お初にお目にかかります、山南店長。株式会社フロント・エルの黒木くろきと申します」



黒木は、山南の瞳に宿る焦燥を透かすようにじっと見つめると、手慣れた仕草でタブレット端末をデスクへと滑らせた。



「お電話で拝聴いたしました。現況の客足を劇的に、それも本社に決して悟られることなく跳ね上げたい、と」



「ああ……。可能、なんだろうな。だが、ステマへの風当たりが厳しくなったことくらい、俺だって理解している。もし裏の手が露見して世間から指弾されれば、俺の首ひとつでは収まらなくなるぞ」



山南の怯えを孕んだ言葉に、黒木は声も立てずに肩を揺らして笑った。


その眼差しは、恐怖に震えながらも功名心に身を焦がす山南の心を、完全に掌の上で転がしている男のそれであった。 



「ご安心ください、山南店長。法というものは、言葉の定義によって形を変えるものです。我々は法の網の目を遊泳するプロフェッショナルですから。決して『黒い一線』を踏み越えることはありません。外部からは決して立証不可能な、完璧なる『灰色』の端緒を、段階的に仕掛けてまいります」



黒木は画面を指先でそっとなぞり、最初の段階を浮かび上がらせた。



「まずは【フェーズ1:種まき】にございます。AIによる自然言語を用いたクチコミを、静かに量産してまいります」



「サクラか? そんな手垢のついたもの、グルメサイトの監視AIに見破られて一瞬でアカウントが消滅するぞ」



「おやおや、我々をあのような旧時代の業者と同列に扱わないでいただきたい」



黒木は、流れるような声音で説明を紡いでいく。



「画一的な文面の模倣などいたしません。我が社の最新AIは、過去に実在した一般人の夥しい投稿データを完璧に学習しております。あえて微細な誤字脱字を紛れ込ませ、時には『週末は待ち時間が少し長いかもしれない』『個人的にはもう少し薄味でも良い』といった、生々しい落胆を絶妙に織り交ぜたレビューを、数ヶ月の時をかけて完全にランダムな時間軸のなかに融解させ、投稿し続けます。監視AIの眼から見れば、これは『ただの市井の人々の、純粋な追憶』にしか映りません」



山南は、喉の渇きを癒やすように唾を飲み込んだ。


目の前の男が提示する論理の、あまりにも不気味な緻密さに背筋を凍らせながらも、それ以上に強烈な誘惑が胸の奥底から突き上げていた。



「これならば……足跡は残らないな」



「もちろんです。これが街の空気に馴染んだ頃合いを見計らい、【フェーズ2:着火】へと移行します。インフルエンサーたちの"自主的な"来店を偽装するのです」



黒木は山南の前に、一枚の契約書を音もなく滑らせた。


そこには『SNSマーケティングに関する包括的コンサルティング契約』という、ひどく無機質で白々しい名目が印刷されていた。


「我々はインフルエンサーに対し、『この店を宣伝してくれ』という直接的な依頼や契約は絶対に結びません。代わりに、彼らが自発的に店へ足を運んで投稿した際、我が社を経由して、写真の素材買い取り代金や、別件のコンサルタント料として、毎月彼らの口座に振り込まれる迂回路を構築します」




「……それならば、彼らは本当にただの趣味で店を訪れたと言い張れるわけか」




「その通り。因果の糸が絶対に立証できない以上、お咎めを受ける道理もありません。さらに、店長には彼らを『VIP枠の無料試食会』として招待していただきます。その折には、どうか笑みを湛えてこう仰ってください。『投稿の義務は一切ございません。もしお味が気に召しましたら、気が向いた時にでも書き込んでみてください』と」



「投稿を……義務付けない、と?」



「ええ。義務が存在しない以上、法的な広告契約は成立し得ない。現物の贈与という、現在の規制において最も暴くことが困難な、グレーゾーンの極致です。さあ、店長。いかがなさいますか?」



黒木は胸ポケットから、重厚な輝きを放つ万年筆を差し出してきた。



「概念としてのグレーゾーンとは、ただの賢明なマーケティングに過ぎないのですよ」



山南は差し出された万年筆を凝視したまま、動けなかった。



「初期費用だけでも……200万円、か」



乾いた声が漏れる。店長権限の限界など、とうに超えている。


山南の視線は、無意識にデスクの引き出しへと向いていた。


そこには、本部から決済が下りたばかりの「500万円」の書類が眠っている。導入から8年が経ち、悲鳴を上げている厨房機器一式の更新費用だ。



(……新品じゃなく、中古を安く引っ張ってくれば、200万くらいは浮く。いや、だが……)



脳内で目まぐるしく走る計算と、横領染みた綱渡りへの恐怖。


山南は額の汗を拭い、黒木から目をそらすように吐き捨てた。



「……動かせる金なんてない。うちが今、本部の決済を通せるのは、せいぜいガタのきた厨房機器の買い替え予算くらいだ」



その「言い訳」を、黒木は見逃さなかった。


細い目をさらに細め、獲物の綻びを見つけたように声音を一段落とす。



「なるほど、厨房機器ですか」



「……何が言いたい」



山南が顔を跳ね上げる。黒木は、すべてを掌握したような薄笑いを浮かべていた。



「ご心配には及びません、山南店長。実は弊社、中古厨房機器のブローカーとしての顔も持っておりましてね。弊社から型落ちの機器を格安で卸す形にしましょう。そうすれば、コンサルの初期費用も含めて、すべて『厨房機器代金として』の一枚の領収書をご用意できます」



黒木は身を乗り出し、山南の逃げ道を完全に塞ぐように囁いた。



「本部への言い訳に悩む必要などどこにあります? あなたはただ、古くなった機器を賢く安価に買い替えた、極めて優秀な店長になるだけです」



その言葉が、山南の喉元に突き刺さっていた「己は優秀である」という肥大化したプライドを、あまりにも心地よく愛撫した。


そうだ。俺は騙されているんじゃない。


この有能な業者すらも手玉に取り、会社の時代遅れで退屈なルールを鮮やかに蹴散らして、真の価値を証明する側の人間へ昇り詰めたのだ。



「……よろしく頼む」



山南は溢れ出る全能感に突き動かされ、万年筆をひったくるように掴むと、契約書へ乱暴に署名を刻みつけた。




 契約を交わしてから最初のひと月、ネットの広大な海原には「微かな歪み」が静かに仕込まれていった。


山南が毎晩、営業の明かりを消した後にスマートフォンでグルメサイトを確認すると、月凪町店の評価スコアが、不自然さを完全に排した緩やかな曲線を描きながら、確実に上昇していた。



『近くを通りかかったので、ふらりと入店。パスタの茹で加減が卸したてのように絶妙でした』




『週末の夜だったので少し待たされた。トマトソースが濃厚だが、個人的にはもう少し塩気があってもいいかもしれない。でも美味しかった』



黒木が豪語した通り、生成AIが紡ぎ出すレビューには、生々しい不満や一般客特有の他愛のない文章が見事に融け合っていた。


ネットのアルゴリズムに「優良店」としてじわじわと刻印されていくその過程を、山南は事務所の椅子に深く身体を沈め、至上の愉悦を噛み締めながら見つめていた。



「あいつらがいくら目を光らせようと、この言葉を見てサクラだと見抜ける奴など、世界のどこにもいやしない」



虚飾の土壌が完全に整った2ヶ月目、黒木から次の段階へ移行する旨の報せが届いた。



数日後、SNS上で数万人の羨望を集める若い女性インフルエンサーが、月凪町店の『渡り蟹の濃厚トマトクリームパスタ』の写真を一斉に解き放った。



湯気が揺らめく美しい一皿の写真に、


『月凪町でこっそり見つけた、私だけの隠れ家パスタ。美味しすぎて本当は誰にも教えたくない……! #パスピース #月凪町グルメ』


という、熱を帯びた、しかし広告の匂いを綺麗に脱色した文言が添えられていた。


そのたったひとつの灯火を起点に、タイムライン上では「ここ最近、評価が急上昇している謎のパスタ店」として情報の糸が繋がり、爆発的な連鎖が始まった。


 そして一カ月後、ついに「その瞬間」が訪れた。



「おい……本当に、並んでいるぞ……」



山南は、ランチ営業が始まる直前、フロアの大きなガラス窓から外を覗き込み、指先を硬直させながら息を呑んだ。


月凪町店の瀟洒な佇まいの前に、若い女性を中心とした20人以上の密な行列が出来上がっていた。


開店を告げると同時に席は瞬く間に埋め尽くされ、注文の伝票が次々とキッチンへと吸い込まれていく。


客数も売上も、四家緋和が守っていた頃の最高記録をあっさりと凌駕し、天を衝くような垂直のグラフを描いて跳ね上がっていった。


戦場のように立ち働くアルバイトたちを冷ややかに見下ろしながら、山南は胸ポケットの高級万年筆にそっと指先を触れた。



通常、月凪店が許される販促費は毎月5万円程度が限界だ。



単月で10万を費やしただけでも、年ベースでの予算調整という泥沼に追われる。



今回の仕掛けには、口コミサイトの最上位プラン10万円と、黒木の業者への15万円を合わせ、毎月25万円という巨額が投じられている。


当然、本社の稟議など通るはずのない禁忌の金額だった。



だが、山南の視界は甘美な見通しに曇っていた。



未承認のまま店長権限で支払いを続け、過去最高の数字さえ叩き出してしまえば、後から「結果論」という正義で事後申請を認めさせられる。



そう確信して疑わなかった。



本社への月次報告の日、山南は並み居る役員たちの前で、悠然と胸を張って見せた。



「自分が独自の導線でSNSマーケティングを仕掛け、エリアに眠る潜在顧客を一気に掘り起こしました。これこそが、今の時代に求められる、キレのあるマネジメントの形です」



自分はやはり、選ばれた天才マネージャーだ。


四家緋和などという女の、現場を窒息させないためだけの矮小なルールに頼らずとも、己の腕一本で、この店を至高の繁盛店へと仕立て上げてみせたのだ。


山南は、かつて味わったことのない全能感の頂で、深く泥酔していた。



しかし、悪魔の処方箋には、必ず凄惨な副作用が伴う。


月凪町店が迎えた絶頂期の真裏で、静かに「3つの地獄」がその鋭利な牙を剥き始めていた。






 最初の地獄は、ある日の朝、あまりにも唐突に訪れた。


山南がいつものようにスマートフォンの画面を開き、集客の命脈であるグルメサイトの管理画面を開こうとした、その刹那のことだ。


画面に、網膜を刺すような真っ赤な文字で『規約違反のため、アカウントを永久凍結しました』という宣告が表示された。



「……は? なんだこれ、何かのバグか?」



強張る指先で何度も画面を更新したが、月凪町店のページそのものが、ネットの宇宙から完全に消滅していた。


狂乱に突き動かされ、すぐに黒木を呼び出した。



「黒木さん! どういうことだ! 法的には問題はないと言ったじゃないか!」



呼び出されたカフェの片隅で、黒木は珈琲を優雅に啜りながら、ひどく退屈そうに山南を見つめていた。


その瞳には、あの契約の日に灯っていた知的な輝きは微塵も残されていなかった。



「山南店長、落ち着いてください。私は法的にセーフだと言ったのです。お上だって動きようがありません。ですがね……」



黒木はトントン、と冷ややかに自分のスマートフォンを叩いた。



「口コミサイトなどの巨大プラットフォームは、法律ではなく、独自の『利用規約』という絶対王政の規律で動いている。彼らの審査チームが『極めて疑わしい』と断定すれば、裁判なしで一発アウトにできるのです。民間企業の私刑の前に、法律の正論など通用しませんよ」



「そんな、馬鹿な……! では、明日からの客はどうなるんだ!」



「さあ。我々の仕事はここまでですので」



突き放すように言い放つ黒木に、山南は幽鬼のような形相で食い下がった。



「もういい! アカウントが消えたなら意味がない! 一旦、このコンサルを停止してくれ! 解約だ!」



その瞬間、黒木の口元が、歪な三日月のように不気味に吊り上がった。


第2の地獄の、幕開けであった。



「解約、ですか。結構ですよ。では、特約に基づき、中途解約の違約金として1,000万円を今すぐお支払いいただきます。それが無理ならば、当初の契約通り、効果の有無に関わらず毎月25万円のコンサル料を、期間満了まで支払い続けていただくしかありませんね」



「は……? 1,000万……!?」



黒木は、契約書の裏面にびっしりと敷き詰められた、極小の活字を指先で愛おしそうになぞってみせた。



「裁判を起こされても、この契約書が存在する以上、100%我が社が勝利しますよ。どこかへ相談に行かれますか? どうぞ。ただの民事の契約トラブルですから、どこを訪ねても『当事者同士で話し合ってください』と突っぱねられて終わりですよ」



頭の中が、真っ白な落盤に覆われた。


ただの会社員に過ぎない山南に、個人で1,000万円など用意できるはずがない。


山南は底知れぬ恐怖から、契約の解除を断念せざるを得なかった。


ネット上の命脈を絶たれた月凪町店の客足は、恐ろしいほどの速度で瓦解していった。


あの大行列が、まるで幻影であったかのように消え失せた。


客が誰も来ない、売上が完全に途絶えた店舗の口座から、ただ黒木への莫大な「コンサル料」だけが毎月、自動で引き落とされ続けるという蟻地獄。


山南は生殺しのまま、底なしの沼へと引きずり込まれていった。


 そして、最後の地獄が、山南の精神の息の根を完全に止めにやってきた。


法律すら関与しないその空白地帯で、最も残酷な牙を剥いたのは、「ネット特定班」と呼ばれる無名の一般大衆であった。


ある夜、フォロワー数万を誇る、影響力のあるグルメブロガーが、一本の不穏な考察記事をネット上へと放ち、それが瞬く間に炎上した。



『月凪町店のページが消えた件。これ、裏で例の黒いマーケティング会社フロント・エルが絡んでいるよね。絶賛していたインフルエンサーのプロフィール写真、メタデータ(位置情報や撮影日時)を解析したら、共通点が多すぎるんだわ。完全にステマの黒い店。騙されていたわ』



決定的な物証など、ネットの群衆は求めていなかった。ただの「怪しい」という不穏な空気と、エンターテインメントとしての正義感さえあれば、それで十分だった。


その答え合わせは瞬く間に拡散され、月凪町店は「ステマ疑惑の汚れた店」としてネットの海の底に完全に定着した。



「もしもし! お前んとこステマやってんだろ! 汚ねえ真似してパスタ売ってんじゃねえよ!」



ガチャリ、と激しく叩き切られる嫌がらせの電話が、店舗のフォンを昼夜を問わず震わせ続けた。


店の前には、スマートフォンを掲げた動画配信者たちが生配信をしながら徘徊し始め、もはや一般の顧客が近づける雰囲気は霧散していた。


売上は完全に消滅し、手元に残されたのは、引き落とされ続ける未稟議の経費、そしてネットの奈落からの容赦ない私刑。


そこへ、追い打ちをかけるように、本社の役員から山南のスマートフォンへと着信が入った。


事後申請で押し通せるはずだった売上が消え失せ、垂れ流し続けられている毎月25万円もの未稟議経費についての、緊急の呼び出しであった。



「あ、ああ……違うんだ、俺は……」



深夜、誰一人いなくなった暗澹たる店内で、鳴り止まない店舗フォンの電子音を聴きながら、山南閉は自身の髪を掻きむしり、うわ言のように同じ言葉を紡ぎ続けていた。


自らの優秀さを信じて疑わなかったその精神は完全に摩耗し、二度と這い上がることのできない崩壊の深淵へと、真っ逆さまに落ちていくのだった。


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