第10話 ただいまです 前編
静まり返った本社の監査室。
卓上に並べられた無機質な端末の群れが、積み上げられた決定的なデータの数々を静かに映し出していた。
その青白い光は、逃げ場のない現実を浮き彫りにしている。
「なぜ厨房機器の予算250万円を、勝手に別業者の販促費に回したのですか?」
正面に座る監査部員の視線を受け止めながら、山南は乾いた喉を鳴らした。
言葉が喉に張り付いて、うまく声にならない。
「結果を出して、事後申請で承認をもらうつもりでした」
「事後申請?」
「はい。現に、一時的に過去最高の売上を出しました」
「結果論は通用しませんよ」
監査部員は感情を交えず、淡々とキーボードを叩く。
その硬い打鍵音が室内に虚しく響いた。
「あなたの未承認決済と独断による行動のせいで炎上を招き、アカウントは凍結、今月の売上は実質ゼロです。浮かせたはずの予算も、解約できない違約金として毎月25万円ずつドブに捨て続けています。会社に与えた実害は数百万円規模ですよ。わかっていますか?」
「……。」
山南はその場で、突きつけられた現実の重さに息を呑んだ。
目の前が暗転していくような感覚の中、机の上に社給のPCとスマートフォンが滑らされる。
「ここに置いてください。アカウントをロックします」
「今、ですか」
「はい。それと、これが業務命令書です」
手渡された白い書面には、無機質なフォントで『自宅待機』の四文字が刻まれていた。
「明日からコンプライアンス委員会の最終処分が下るまで、自宅待機を命じます。店舗への立ち入り、従業員への接触、連絡は一切禁止です。いいですね」
「……分かりました」
山南はただ、自分の愚かさに胸を抉られるような感覚の中にいた。
踊らされていたピエロは自分だったのだという衝撃。
そして、いつ懲戒解雇や法的な通知が届くか分からない見えない恐怖。
明日からは自宅に引きこもり、私物のスマートフォンをじっと見つめるだけの、文字通りの生殺しの日々が始まる。
「山南鳳凰さん、あなたは本当に何も知らなかったのですか?」
監査室の硬い椅子の上で、弟の鳳凰もまた、厳しい追及を受けていた。
「はい。兄のやっていたことは、何も……」
「分かりました。今のところ、あなたの関与を示すデータはありません」
「……兄は、どうなるんですか」
「それは委員会が決めることです」
鳳凰は唇を噛み締めることしかできなかった。
彼の身の潔白は証明されたものの、バラバラと崩壊していく家族と店の足音は、その耳に確かに届いていた。
まだ正式な処分が下りたわけではない。
しかし、もう戻れないだろうという確信が、山南の足を店長室へと向かわせた。
がらんとした室内で、私物を段ボールへと詰めていく。
いつの間に、こんなに物を溜めていたのだろう。
その数の分だけ、入れ替えるように虚しさをここに置いていく作業。
1年と数ヶ月前、四家緋和もそうだったのかも知れない。
そんなことを考えながら片付けをしていた山南の手が、書棚の一角でぴたりと止まった。
『人の灯り』 酒井 善章・著
四家緋和がこの店を去る時、デスクの上に置いていった本だった。
ひいろが残した資料や形跡はすべて廃棄したはずなのに、なぜかこの一冊だけは、捨てる気になれず書棚の奥に差し込んでいたのだ。
山南は本を手に取り、ゆっくりと表紙をめくった。
最初の白いページに、見覚えのある端正な筆跡で、彼に宛てたメッセージが残されていた。
どのくらいの時間が経っただろうか。
1秒か、2秒か、いや1分以上かそれ以上に感じられた。
その間、山南は呼吸を忘れ、激しく打つ鼓動を抑えつけるようにして、そのページを凝視し続けていた。
インクの滲み一つひとつが、彼の目に焼き付いて離れない。
「……四家、お前はこんなことを考えて仕事してたのか」
部屋に返る声はない。
ひいろはもう、ここにはいないのだ。
ただ、静まり返った店内に彼の掠れた声だけが落ちていく。
『飲食店は、不完全な人間が集まって、お互いの凹凸を埋め合いながら灯りを灯す場所です。
もし、その数字の鎧が粉々に砕け散り、誰の言葉も信じられなくなった時は、この本を読んでみてください。
誰もいない店内で、あなたが本当に作りたかった『店』の姿を、きっと見つけられるはずです。
――四家緋和』
文字を指先でなぞりながら、彼は吸い寄せられるように、再びページをめくった。
かつて自分が否定し続けた「言葉」が、今は深く、優しく彼を包み込もうとしていた。
一方で、ネットの海で炎上したパスピース月凪店の火の粉は、すでに一店舗の枠を超えていた。
牙を剥いた群衆の怒りは全店舗へと連鎖し、客足は目に見えて途絶えていく。
全店の売上が急降下し、会社のキャッシュフローは底を突きかけていた。
一度地に落ちた信用は重く、銀行の窓口は冷たく閉ざされ、それどころか既存の融資の回収という最悪の足音が近づいていた。
山南個人の過失は、会社全体を倒産へと引きずり込む極限の危機へと発展していたのだ。
逼迫する状況の中、各店の責任者たちが緊急のビデオ会議に集まっていた。
画面の向こうに並ぶ誰もが、生気を失った顔で互いの様子を窺っている。
「このままじゃ、全店押し潰されちゃうわ……」
霽月区露華町店の千歳霧緒が、いつもなら艶やかなその微笑みを完全に消し去り、悲痛な顔で呟いた。
「うちの店は、今日だけで予約が五件キャンセルになったの。ネットの書き込み、まだ止まらないの? 何か、何かできることはないの!?」
「焦って小手先のキャンペーンをやっても逆効果だよ。今はネットの火に油を注ぐだけだ」
翳影区汀線町店の鈴木が、苦々しく画面を睨みつける。
飛び交うのは、暗い諦念とあてのない怒りばかりだった。
沈黙が全員を支配し、通信の微弱なノイズだけが虚しく響く。
その時、一つの画面が大きく揺れた。
玲瓏区泡沫町店の松本が身を乗り出すように声を大にして言った。
「四家店長が実践した、基本の徹底を全店でやろう!」
その言葉に、溟澄区漣痕町店の山田が、腕を組んだまま厳しい目を向けた。
「基本の徹底? 松本、こんな非常時に、そんな当たり前のことを言っている場合か」
「違うんだ、山田!」
松本は切実な目を画面に向けた。
「四家店長がいた頃を思い出してくれ。彼女はいつだって、数字を追う前に『目の前のお客様に今できること』を愚直に積み上げて、店を立て直した。あの金曜の過酷なディナーを、俺たちのヘルプと完璧なオペレーションで乗り切ったあの日を! 俺たちが今やるべきなのは、言い訳を探すことじゃない。QSC、あの日、彼女を見て教わった土台をもう一度磨き直すことだ!」
「……確かにそうだな」
少し冷めた調子で、しかし確かな重みを持って言葉を挟んだのは、氷音町店の田中だった。
「あの夜、俺たちは山南くんの独りよがりなシフトの歪みを正して、お客様を笑顔で迎えた。今の俺たちは画面の向こうのアンチばかり気にして、店のドアを叩いてくれる人の顔を見ていなかったかもしれない。山南くんのやり方に引きずられて、本質を見失っていたのは俺たちも同じだ」
田中の言葉に、同じく氷音町店の店長兼エリアマネージャーである上田が、静かに深く頷いた。
「同感だ。現場を預かる者が、絶対に踏み越えてはいけない線がある。四家店長はそれを守りぬいていた。あのヘルプの後の打ち上げ……いや、翠松町でささやかに開かれた反省会で、私たちは言葉を交わしたはずだ。ネットで叩かれている今だからこそ、足を運んでくれた一人のお客様を全力でもてなす。それ以外に、私たちが信頼を取り戻す道はない」
一人、また一人と、画面の中の責任者たちの目に微かな光が戻り始める。
「やろう。全店一斉に、基本への立ち返りだ」
かつて彼女がこの会社に植え付けた、確かな土台。
バラバラになりかけた彼らの心が、四家緋和という名の見えない楔によって、もう一度強固に繋ぎ直されていく。
会議の音声を聞きながら、自席で深く頭を抱えていた蓮太郎副社長の胸にも、そのスローガンが激しく突き刺さっていた。
(みんな、まだ四家緋和の背中を追いかけている……。なら、私が立ち止まっているわけにはいかない)
ひいろが店を去ったあと、蓮太郎は栄子から一つの事実を知らされた。
あの会社再建の土台を築いていたのは、誰でもない四家緋和だった。
(四家緋和がいれば、この絶望からだって引きずり上げてくれるかもしれない)
だからこそ蓮太郎は、彼女に頭を下げて協力を要請しようと密かに考え始めていたのだ。
それが今の会社を救う、唯一の、絶対の選択肢だと確信していた。
その夜。
蓮太郎は携帯デバイスを掴み、手が強張るのを抑えながら、連絡先の画面を開いた。
スクロールする指が、1年以上動いていないその名前のところで止まる。
(今更、どんな顔をして頼めばいい)
彼は奥歯を噛み締め、すがるような思いで、画面に並ぶ彼女の連絡先を深くタップした。
耳元に当てたスピーカーから、長い呼び出し音が響き始める。
一秒が永遠のように感じられる沈黙のなか、蓮太郎は祈るように目を閉じた。
「……もしもし、社です」
『お久しぶりです、副社長。お電話、お待ちしていました』
受話器の向こうから返ってきたのは、驚くほど冷静な彼女の声だった。
その響きに、蓮太郎は暗闇の中で一筋の光を見出したような気がした。
◇
ひいろが指定したモダン食堂「ぼんぼん」の片隅で、蓮太郎は緊張の面持ちで座っていた。
運ばれてきた温かい茶の湯気を見つめながら、彼女の訪れを待つ。
湯気の向こうで、店の活気ある声が心地よく響いていた。
足音が近づき、ひいろが姿を現した。
蓮太郎が慌てて立ち上がる。
「副社長、ご無沙汰しています」
「いや、僕も今着いたところだから……。わざわざ、すまないね」
ひいろは差し向かいの位置で足を止め、名刺を差し出した。
蓮太郎はそれを受け取る。
そこに記された肩書を凝視し、目を見開いた。
株式会社 ぼんぼん
代表取締役社長 兼 CEO 四家 緋和
「え……『ぼんぼん』の社長……!?…この店の?」
「はい。座りましょうか」
ひいろに促され、蓮太郎は呆然としたまま腰を下ろした。
ひいろも静かに席に就く。
あの別れから1年。
彼女はある出資者の協力を得て、不採算を極めていた飲食店企業を買収し、このモダン食堂「ぼんぼん」の代表に就任していた。
それだけではない。
抱えていた30店舗のすべてを、黒字化へと導いていたのだ。
蓮太郎は手元の湯呑みを握りしめ、ただ俯いた。
「蓮太郎さん、ぼんぼん、いい店でしょう?」
ひいろが静かに話す。
その瞳に冷ややかな色はなかった。
「確かに、ぼんぼんは以前利用したときより、活気があって……従業員が生き生きしている。料理やサービスを見なくても、それだけでいい店だとわかる。直感的な評価で申し訳ないが……」
「ありがとうございます。やっぱり見ているところが違いますね。蓮太郎副社長は昔からそうでした」
彼女があんな形でピース・イートを去る事になり、その直接的な原因を作った人間に対して、嫌味のひとつもなく、どこまでも真っ直ぐに、自分の観察眼を肯定してくれた。
その濁りのない瞳に見つめられ、蓮太郎は己の小ささに身が縮む思いだった。
不採算のすべてを黒字化させるほどの傑物を、自分たちは会社の都合で切り捨てたのだ。
そんな彼女に向かって「会社を救ってくれ」などと、どの面下げて言えたのか。
手元の湯呑みから伝わる熱さだけが、自分の愚かさを現実として繋ぎ止めていた。
「蓮太郎さん、私からもお話しがあります」
「えっ?」
「ピース・イートの現在の状況は、すでに把握しています」
「知っているのかい?」
「はい。ですから提案なのですが――私に、パスピースの事業譲渡をしませんか?」
ひいろは、ただ一人の経営者として対等に、真っ直ぐな言葉を向けた。
その言葉に一切の迷いはなかった。
「事業譲渡……つまり、買収ということかい? ぼんぼんが、パスピースを……」
「いいえ。ぼんぼんではなく、こちらの会社が買収させていただきます」
ひいろはもう一枚の、極めてシンプルなデザインの名刺を差し出した。
受け取った蓮太郎は、記載された文字を見て、またしても息を呑む。
株式会社 シカ・エチュード
代表取締役 四家 緋和
「え……他にも会社を?」
「はい」
「Études……エチュード?」
「音楽では習作という意味です」
ひいろは穏やかに微笑んだ。
「私にとって仕事も、まだ学びの途中であり、習作なんです」
彼女はすでに、飲食業専門のコンサルティング会社としてこの『シカ・エチュード』を立ち上げ、次なる企業の買収へも着手しているという。
あまりのスケールの違いに、蓮太郎は言葉を失うしかなかった。
その日の夜、蓮太郎から緊急の報告を受けた社長は、窓の外の夜景を見つめていた。
きらめく街の光が、どこか遠い世界の出来事のように思える。
「ひいろが、そう言ってくれたんだね」
「はい。ですが……」
「ひいろはもう、私たちの遥か先、別次元のステージを走るプロフェッショナル。これは業界では有名な話になっている。知らなかったの?蓮太郎。自分がいかに無礼者であったかを思い知らされたでしょう」
「……はい」
「パスピースは……ひいろに育ててもらうのが、一番かもしれないわね」
社長の表情には、すべてをやり遂げたような寂しさと、確かな安堵が滲んでいた。
自分たちはもう、前線から退くべきなのだという決断が、静かに下される。
しかし、会社の買収手続きには相応の時間がかかる。
倒産の危機は秒刻みで迫っていた。
「社長、四家さんからもう一つ条件があります」
「条件?」
「はい。買収の前に、緊急措置として、直ちに私を外部コンサルタントとして雇ってください、と」
「手続きを待っていられない、ということね」
「はい。今すぐにでも手を打たなければ、会社が保たないと彼女は見抜いています」
社長は深く頷いた。
重い荷物を下ろすように、しかし未来を信じるように。
「すぐに契約の手配を。彼女を迎えましょう」
一刻の猶予もない仲間たちの命脈を繋ぎ止めるため、彼女の戦いはすでに始まっていた。
中編へ続く




