90.目覚め
朝、日が昇ってまもなくして、メアリーはフローレンスの部屋にやってきた。
フローレンスを目覚めさせることは長期戦でやっていくという話になり、昨夜はこの部屋に集まることなくメアリーも自室で眠った。フローレンスの世話をするのはメアリーの仕事だったが、インフェルノが返って来てからバタバタしていたため、フローレンスの身体を拭いたり、服を着替えさせたり、ベッドのシーツを替えたりすることができていなかったので、朝それらをしようと準備をしてフローレンスの部屋に入る。部屋の中では、相変わらずベッドの上に静かに眠るフローレンスの姿があった。
窓のカーテンを少し開け、ベッドがまぶしくならない程度に部屋に朝日を取り込むと、メアリーはいつものようにフローレンスに声を掛ける。
「お嬢様、おはようございます」
その声が聞こえているのか聞こえていないのか分からないが、ベッドの上のフローレンスは、いつもと同じように安らかに寝息を立てているだけだ。
メアリーは振り返り、持ってきた台車からシーツなどを準備しようとした。その時――
「おはよう、メアリー」
聞きなれた、そして最近ずっと聞いていなかった、フローレンスの声を耳にし、メアリーは驚きと喜びの表情で振り返り、フローレンスを見つめる。
そこには、確かに瞳を開けてこちらを見つめるフローレンスがいた。
「お嬢様……!!!」
思わずメアリーは、驚くフローレンスに構わず抱きしめてしまった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
フローレンスが目覚めたという知らせを受けて、セドリックがフローレンスの部屋に辿り着いた時には、既に館中の者が部屋に集まっていた。インフェルノ、ユーフォリア、バーン、ニーナ、メアリーとメイドたち、執事、料理長たち、そしてベッドにいるフローレンスの横には、容態を確認するキルケゴールがいた。
「お体に異常はないようですね。このまま起きて大丈夫ですが、念のためお食事は消化の良いものから慣れるようにした方がいいでしょう。運動も少しずつ体を慣れさせてください」
キルケゴールの言葉が終わると、フローレンスは最後に部屋にやって来た父親の姿に気付く。
「お父様……」
「フローレンス……」
セドリックがそう呟いた瞬間、堰を切ったようにセドリックの両目から涙があふれだした。
「これは?!」
自分の意思とは関係なく突然あふれだした涙に、セドリックは慌ててその顔を隠す。そんな気持ちを察し、みんな笑顔でセドリックが落ち着くのを待つ。
「すまん、ちょっと、待ってくれ……」
セドリックは手で顔を覆いながら、止まらない涙に戸惑う。セドリックは思う。諦める事に慣れてしまっていたのかもしれないと。妻を病気で亡くし、大切なものを失う事を受け入れてしまってから、変に大人になってしまった自分に気付く。助からないのであれば娘の命を絶ってほしい、そうキルケゴールに依頼したものの、娘の事が大切でなかったわけではない。むしろ年を重ねる毎に最愛の妻に似てくるその面影を、何よりも愛しく思っていた。そんな娘が助かった事が、セドリックにはとても嬉しい。
自分でも子供たちへの接し方が不器用だということは分かってはいた。子供たちと上手く向き合えてなかったのだと思う。自分が諦めていた娘の病気を治すことを、息子はずっと諦めず治療法を探し続け、そして連れてきたこの仲間たちと共に娘を目覚めさせることに成功した。まだまだ半人前だと思っていた息子だが、とうの昔に立派な一人前になっていたようだ。
そして少しして落ち着きを取り戻したセドリックは、目覚めた娘に声を掛ける。
「おはよう、フローレンス。体の調子はどうだ?」
「おはようございます、お父様。ご心配をおかけしました。もう大丈夫です」
その返事にセドリックは、満面の笑顔を浮かべた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
ベッドから起き上がったフローレンスをみんなが見守る中、部屋の隅ではキルケゴールとセドリックが話をしていた。
「旦那、結局坊ちゃんが全部解決してくれて、私は何もできなかったわけですが、頼んだ話は守ってもらってもいいですか?」
「何を言うキルケゴール。一昨晩、発作を起こした娘を魔法で娘を鎮静させてくれたそうじゃないか。お前には十分感謝しているし、そもそも病院の建設は死んだ妻の願いだ。何年かかるか分からないが約束しよう」
「ありがとうございます」
深く頭を下げるキルケゴール。
「何の話だ?」
そんな二人の会話に気付き、声をかけるニーナ。セドリックはニーナに対し説明を始める。
「キルケゴールから、娘の治療を依頼した報酬として、この国に大きな病院を建設するよう頼まれていたのです」
「病院?」
「ええ。この国では、いえ、どこの国も一緒だと思いますが、病気や怪我になった時には、神殿へ行き神官に魔法で治療してもらうことができます。ですがこの神官の治療費というのがバカ高い。魔法なんて魔力の続く限り好きなだけ使えるんだから、もっと手軽に治療してくれればいいと思うのですが、神殿への寄付金という名目で回復魔法をかける時に払う金額は一律に決まっています。そのため一部の金持ちには気軽に利用できるものの、多くの貧しい国民は神殿の治癒魔法を受けることができずにいます」
キルケゴールのその話を聞いたニーナは、横にいたバーンに尋ねる。
「そうなのか?」
「ああ、セントラールでも同じだな。俺も神殿なんて行ったことがない。怪我や病気の時は、民間の治癒魔術師にかかるか、薬草とかの民間療法だ」
「ですが民間の治癒魔術師というものは術士としてのレベルも低く、一日に診れる患者の数は少ないのです。また施術する治癒魔法に対して神殿から定められた金額を取らないことで、しばしば神殿から敵視されることもあります。この世界には魔法を使わずに病気や怪我を治す医術というものもあるのですが、魔法に比べとても不便なためあまり発展していません。そこで領主による大病院を建設してもらい、医術と治癒魔法を織り交ぜた治療をする施設として運営してもらいたいと願ったのです。そして病院はその領土の税金で運営し、全ての領民が安い治療費で治療を受けられるようにしてもらいたいのです」
そしてセドリックも説明を補足する。
「キルケゴールは高額な治療費を請求する神殿のやり方に不満を覚え、神殿を辞めた。そしてその領主による公営の病院建設という考えに至ったそうだ。彼と知り合い、その話を聞いた私は、それは亡き妻の願いと同じだと思った」
「お母さまの?」
その言葉に、話を聞いていたフローレンスから質問が飛ぶ。いつの間にかその会話は、部屋中の者が注目していた。




