いた
プシューッ——
新幹線の停止とともに、空気の抜ける音。
降りる人は、それほど多くないらしい。
人の流れが途切れたのを見計らい、誰もいない踊り場へ飛び降りる。
ハムスターになって四日、この身体にも少しずつ慣れてきていた。
駅からホテルまでの道は、あらかじめ頭に入れてきた。
(確か、こっちだったはず)
体力は、もう限界に近かった。
毎歩最後の力を振り絞るように、一歩ずつ足を進める。
(あとちょっと)
それだけを繰り返し、自分に言い聞かせる。
整備されていない道は、思っていた以上に歩きづらい。
それでも、遠くにホテルが見えている。
迷わずに済みそうだ。
(人間だったら、すぐなんだろうな…)
一歩、また一歩と進み続ける。
***
ホテルのすぐ手前まで来たところで、足が止まる。
「……」
いる。
四か月ぶりに見る姿だった。
(なんか、ちょっと丸くなってない?)
人のことを言える立場じゃないが、思わずそんなことを考える。
(そういえば、太ったって言ってたな)
ちゃんと食べているらしい様子に、少しだけ安心した。
彼女から聞いていた労働環境は、過酷だったから。
けれどやはり、ベンチへ身体を預ける姿が気になった。
疲れているように見える。
彼女が仕事第一なのは、出会った頃から変わらない。
人のためなら、自分のことは後回し。
しかもそれを、無意識にやっている。
(「え?どこが?」みたいに、ナチュラルにやるもんな)
理解できないくらい仕事が好きで、誰より周りを見て動く人だった。
だからこそ、無理をしていることも少なくなかったのだと思う。
それでも彼女は、そんな姿を人前ではほとんど見せない。
尚更、こうして力を抜いている姿を見ると、少しだけ胸がざわついた。
彼女のもとへ向かって、もう一度歩き出す。
「…じゃなくなりたいんだけどね」
ぽつりと聞こえてきた声に、耳がぴくりと動いた。
空を見上げている彼女は、もちろん俺に気づく様子はない。
俺はそのまま歩み寄り、サンダルを履いた足の上へ乗った。
「……ん?」
ゆっくりと彼女の視線が降りてくる。
目が合う。
「え、えぇ…?なんで、こんなところに、ハムスターがいるの?」
驚いたように、視線を泳がしている。
誰か探しているみたいだが、人影はどこにもない。
行き場をなくした視線が、もう一度俺へ戻ってきた。
俺は何もせず、ただ彼女を見つめ返す。
(相変わらず、忙しい人だな)
そんなことを思っていると、両手がそっと伸びてきた。
ふわりと身体が浮く。
優しく包み込まれる感覚に、思わず力が抜けた。
人に触れられたのは、ハムスターになって初めてだった。
不快さはない。
それどころか、不思議なくらい落ち着く。
彼女は俺を抱えたまま、あちこち眺めるようにじっと観察していた。
「やっぱり、どこかのお家の子?」
(そんなわけあるか)
心の中で即座に入れたツッコミが届くわけもなく、じっと見つめる。
俺は小さく鼻を鳴らしながら、彼女を見つめ返した。
「羽柴さん!」
突然聞こえた声に、俺も彼女も同時に肩を震わせた。
「はい!」
「ごめん!ちょっと手伝ってほしいことあるから、来てくれる?」
「もちろんです!今、行きます!」
返事をした彼女が、もう一度こちらへ向き直る。
さっきまで柔らかかった表情には、少しだけ皺が寄っていた。
(置いていけない、とか思ってるんだろうな)
案の定、困ったように呟く。
「どうしよう……。置いていったほうがいいんだろうけど」
(そういう人だよね、羽柴さんは)
次に言いそうなことも、なんとなく想像がついた。
「一緒に、来るかい?」
(誰だよ)
思わず吹き出しそうになる。
予想は当たっていた。
ただ、そう聞かれるとは思わなかった。
どう返事しようか迷った末、ここから動かない意思を表示することにした。
「えっ…、うそん…」
彼女の声が少しだけ裏返る。
(一人の時のほうが、面白いことってあるんだな)
もともとリアクションは大きいほうだと思っていたが、一人だと輪をかけて分かりやすいらしい。
俺が動かなかったことで決心がついたのか、さっきまで浮かんでいた迷いは少しずつ消えていった。
俺を抱えたまま立ち上がる。
「……それにこれは、不可抗力だから」
(どゆこと?)
意味はよく分からなかったが、俺はそのまま大人しく運ばれることにした。
(部屋に入れてもらうのは、申し訳ないけど……)
それこそ、それこそ不可抗力だ。
そう自分に言い聞かせながら、俺は彼女の腕の中で静かに身を預けた。
ガチャ——
部屋へ入るなり、ベッドの上へそっと降ろされた。
(ほんと優しいよね)
「ごめんね。今、何もないんだけど……仕事に行かないといけないから」
ハムスター相手でも、当たり前のように話しかける。
そんな姿が、どこか眩しい。
何かを思い出したように、部屋の奥へ駆けていく。
ほどなくして戻ってきた彼女の手には、何か握られている。
「はい」
それは、俺の前へ、そっと置かれる。
見るまでもなく、甘い香りが鼻をくすぐった。
(トウモロコシ)
何の躊躇もなくかぶりつく。
(…うまい)
二日近くまともに食べていなかった身体に染み渡る。
夢中で頬張っていると、視界の端で彼女が何やら動き回っていた。
気にはなる。
(なるけど、今は、トウモロコシがすべて)
食べ終えて顔を上げると——
「……」
目の前には、布で作られた壁がそびえ立っていた。
登れる気がしない。
「これなら登れないはず!」
それが狙いだったらしい。
「あと二時間で定時だから、ちょっと待っててね」
(いや、これじゃどう頑張ってもどこにも行けないから)
心の中で苦笑する。
彼女は昔からそうだった。
まず相手のことを考える。
そのあとで、自分のことを考える。
今だって、ハムスター相手に本気で心配している。
その優しさは尊敬できる。
でも、ときどき心配にもなる。
もう少し、自分を優先してもいいのに。
そんなことを考えていると、彼女の手がそっと頭を撫でた。
「冷房寒かったら、布団に入るんだよ」
そう言い残して、彼女は部屋を出ていく。
静かに閉まるドアの音を聞きながら、俺は、瞳を閉じた。




