ある日突然
それは、何の前触れもなく、突然起きた。
いつも通り、目が覚める。
どうやら、うつ伏せで寝てしまっていたらしい。
視界いっぱいに、白い壁が映り込む。
それに、やけに布団が重い。
俺は、起き上がろうと手を着いた。
(……ん?)
手と足に、違和感を覚える。
動いてはいる。
ただ——
(なんか…短い…?)
加えて、身体が異常に軽い。
違和感の正体を確かめようと視線を巡らせると、いつもの枕が、まるで岩のように大きく見えた。
「ちゅぅ」
(っ!?)
声を出したつもりだった。
けれど聞こえてきたのは、聞き慣れない鳴き声。
嫌な予感が胸をよぎる。
ありえない、そう思いながら、視線を落とし、自分の身体を見る。
もふもふとした灰色の毛並み。
形の違う手。
どこもかしこも丸い。
(………ハムスターじゃん)
目に映るものが、これほど信じ難かったことはない。
夢だ。
そう思い込み、もう一度目を閉じる。
寝直そうとする。
しかし、眠気は一向に訪れない。
何度声を出そうとしても、返ってくるのは同じ鳴き声だけだった。
(まじかよ)
一度、現実を受け入れるしかないらしい。
諦めて、今度はベッドからどう降りるかを考えた。
周囲を見回すが、自分の部屋だ。
踏み台になりそうなものが置いてあるはずがない。
(飛び降りるしかないか)
意を決して、小さく跳ぶ。
ふわりと宙を舞い、柔らかいラグへ着地したものの、衝撃は思ったより大きかった。
「ぢゅっ!」
〝いって!”と、叫んだつもりだった。
(羽柴さんがいつもハムスターの話してるからか……?)
そんなはずはない。
分かっている。
それでも、他に理由なんて思い浮かばなかった。
徐々に現実味を増していく状況に、ため息が漏れる。
その吐息さえも、ハムスターの鳴き声へと変わって消えていった。
気を取り直し、部屋の隅に置かれた姿見へ向かう。
しかし、四本足というものは、思っていた以上に言うことを聞かない。
とにかく、足がもつれる。
止まりたいのに止まれず、そのまま勢いよく鏡の前まで滑り込んだ。
「………」
丸い耳。
黒い瞳。
見たこともない量の毛。
小さな手足に、四つん這いの身体。
どこからどう見ても、ハムスターだ。
目を閉じる。
深呼吸を一回して、もう一度鏡を見る。
変わらない。
どこを触っても毛だらけ。
耳の位置もおかしい。
短いしっぽまで生えている。
思わず鼻で笑った。
「ちゅっ」
乾いた鳴き声だけが部屋に響く。
その音を合図に、考えることを放棄した。
(終わった)
人生で初めて、本気でそう思った。
***
十分後——
「……」
残念ながら、本当に現実らしい。
(いや、どうするんだよ…)
ため息すら満足につけない。
とりあえず現状を整理する。
今日は出勤日だ。
(仕事の連絡しないとな)
無断欠勤はまずい。
(スマホは…)
ローテーブルの上。
いつも置いている場所だ。
高さはあるが、登れないほどではなさそうだ。
慎重によじ登り、ようやく天板へたどり着く。
(ふぅ、やっぱ筋トレは大事だな)
こんなところで役に立つとは思わなかった。
目の前にはスマホ。
(…打てるのか?)
前足で、ぺちっ、と画面を叩く。
画面が光った。
(よし)
***
一時間後——
(……疲れた)
スマホの前で突っ伏す。
思うように文字を入力できず、仕事の連絡と謝罪を送るだけで一時間もかかった。
幸いなことに、一か月休みをもらえた。
戻ったら、さすがに説明は必要だろう。
けれど今は、それどころじゃない。
(とりあえず……寝るか)
次に目を覚ましたときには元に戻っている。
そんな都合のいい期待を抱きながら、ベッドへは戻れず、ラグの上へ身を伏せた。
***
二日後——
(戻らねぇ)
部屋中を走り回ってみたり、飛び跳ねてみたり。
しまいには、食べられそうなものを片っ端から口にした。
方向性があっているかは置いておいて、思いつく限りのことは全部試した。
けれど、何一つ変わらなかった。
その場に座り込み、肺いっぱいに息を吸い込んだ。
その時、ふと視界に入ったのは、玄関脇の窓だった。
(窓か、)
換気のために数センチだけ開いている。
(あそこからなら、出られそうだな)
外へ出たところで、何をするわけでもない。
それでも、この部屋にいるよりは何かが変わる気がした。
網戸と窓枠の隙間へ身体を押し込み、外へ出る。
(第一関門クリア)
問題はここからだ。
どこへ行って、何をするか。
考え始めて数秒。
答えは、あっさり決まった。
自分でも理由はよく分からない。
ただ、ぱっと、浮かんだのだ。
(……ハムスター大好きだしな)
口実を見つけたように、自分の中で納得する。
深く考える必要はない。
行き先が決まれば、次はどう行くか。
そのとき——
ガタンッ!
台車を押した配達員が建物の脇を通り過ぎる。
(一か八か…)
段ボールが高く積まれ、前はほとんど見えていない。
今しかない。
台車へ飛び乗る。
段ボールの隙間を渡り、気づかれないよう身を潜める。
そのままトラックの荷台へ積み込まれた。
あとは、ひたすら耐えるだけだった。
扉が開くたび、外を窺う。
駅ではない。
その繰り返しだ。
(腹減った…)
喉も渇いている。
このままでは、本当に野垂れ死にしかねない。
俺は、次に扉が開いたら、降りることにした。
ギィ…——
日光がまぶしくて、思わず目を瞑る。
差し込んだ光に目を細めながら、配達員が押す台車へ飛び乗り、静かに外へ降り立った。
見知らぬ街だった。
それでも思っていた以上に人通りは多く、店が立ち並び、車が絶え間なく行き交っている。
一日半ほどトラックに揺られていたせいか、その景色だけで少しだけ肩の力が抜けた。
人の流れに紛れ、きょろきょろと辺りを見回す。
すると、視界の先に飛び込んできた。
〝新幹線”
その四文字を見つけた瞬間、心臓が跳ねた。
駅を見つけられたことをこれほどまでに、嬉しいと思ったことはない。
(奇跡だ…)
重くなっていた足取りが、一気に軽くなる。
人の足元を縫うように進み、改札を抜ける人波へ紛れ込む。
誰にも気づかれないよう慎重に。
ホームへたどり着くと、ちょうど新幹線の扉が開いて、迷うことなく飛び込んだ。
ひんやりとした空気が身体を包み、それまで張りつめていた緊張を連れ去った。
窓際に身を潜める。
(…)
彼女の職場は、退職するときに軽く聞いていた。
こんな形で会いに行くことになるとは思わなかったが、今さら考えても仕方ない。
会える保証なんて、どこにもない。
(それに、俺だって、絶対わかんないだろうし)
ハムスターになった自分を見て、一目で気付くわけがない。
そう考えると、少しだけ気が楽になった。
窓の外では、景色が音もなく後ろへ流れていく。
その先にいる彼女のことを思うと、不思議と胸の奥が軽くなっていた。




