第32話 魔法使い引退⁉ 魔力使えねぇじゃん!
魔が蔓延る地において、『魔法使い』や『黄金の魔王殺し』と謳われた女傑がいた。
そんな彼女は今————。
「わたくしの瞳に、乾杯」
高層ビルの上層、視界の先に広がる摩天楼と窓ガラスに映る自身の虹色の瞳を見つめつつ、手に持ったワイングラスを窓に軽く当てる。
漆黒のスーツに身を包んだエリンは、優雅にグラスを傾け、透明から微かに白みがかった液体を嚥下した。
エリンはグラスの中に液体を少量残したままグラスを口から離し、眼前に掲げながら口角を微かに上げて艶やかな笑みを作った。
その立ち振る舞いは優美さに満ちていた。が、そこに相方の言葉が冷や水のように浴びせかけられた。
「……寂しくはないか?」
「……言わないで下さい」
エリンは微笑を崩さないまま、内心泣いた。その立ち姿には哀愁が漂っていた。
相手もいない部屋で一人芝居をしながらワインを傾ける寂しい女。それが今のエリンだった。
辛い、今日はもう寝てしまおうか。などと考えていたら、部屋の備え付けの電話が鳴った。
受話器を取り耳に当てると、こちらが名乗るよりも早く用件だけを簡潔に伝えてきた。
「魔人だ。出るぞ」
「わかりました」
聞こえてきたのは男の声だ。エリンはその人物の言葉に聞き返すことはなく、手に持っていたグラスを机に置き、意識を切り替え颯爽と部屋を後にした。
時はエリンが浜辺に漂着した時に戻る。
理解不能の景色に戸惑うエリンとルグ。だが、このまま惚けているわけにはいかない。
「とりあえずこのグショグショのローブをどうにかしましょう。目立って仕方ないです」
「では、一度海の中に戻ろう。水面下で着替えれば気づかれないだろう」
「そうしましょう」
エリンはルグの言う通りに沖の方へと進んでいき、波の中に紛れるように海水へと身を沈めた。
「この場に適した装いにしよう」
(え? ちょっとそれは)
水の中にいたせいでエリンが制止するよりも早く、ルグはエリンの服を変えていた。
野暮ったいローブは消え去り、一瞬で下着姿とさして変わらないビキニ姿になってしまった。
海から出てきたのに、頭にはつばの広い白い帽子が乗っており、靴はサンダルに変わっていた。
「ちょ、ちょっと、ルグ⁉ 人前でこれは大胆過ぎますよ!」
エリンは咄嗟に身を捩りながら両腕を使って胸元を覆うが全く隠せていない。それどころか身を隠そうとする姿がエリンの抜群のプロポーションを強調してしまい、扇情的にさえ見えていた。
「この場においてその服装が最適解だと判断した。私の判断に間違いはない。変更する必要はないだろう」
「そうかもしれませんが、その、恥ずかしいです。本当にこれでいいのですか?」
「問題ない」
「……わかりました。では、この土地の調査に参りましょう」
断言するルグの言葉を呑み込み、エリンは自分に「大丈夫、大丈夫」と何度も言い聞かせながら、海の中から再び浜へと戻った。
そして、エリンはすぐに異変に気づいた。
「なんだか人がこちらを見ているような? やけに目立ってませんか?」
「当然だ。キミの容姿は至上の宝物と同格以上だ。異性の目が集まるのも頷ける」
「わたくしは目立たないように着替えさせてと言ったでしょう⁉」
ローブによる悪目立ちからは解放されたが、また違った好奇の視線を受けてしまっている。
「お姉さん、大丈夫?」
エリンが一人でオロオロしていると、近くにいた若い男性に声を掛けられた。浅黒く日焼けした肌で、それなりに鍛えていそうな体つきをしている。
「え、いや、慣れない土地なので勝手がわからなくて」
「そうなんだ。俺はここが地元だから色々案内できるよ。向こうで話さない?」
「それは大変助かるのですが、今はもう少し辺りを見ていたいというか」
「いいじゃん、行こう————あ」
男性が話しながらエリンの肩に触れた。その瞬間に男性は糸が切れたように倒れた。
「え、なにが、大丈夫ですか⁉」
「……キミの魔力だ。この小僧は魔力に当てられたのだ。エリン、触れられた瞬間に無意識に魔力を放っただろう?」
「え、ええ。たぶん、そうしたはずです。まさか、魔力だけで倒れてしまったのですか?」
「この土地の人間は魔力に対する抵抗が著しく低いようだ。キミほどの魔力の持ち主であれば、触れるだけで体に異変を起こすに違いない。この場を離れよう。衆目を集めすぎてしまう」
ルグの助言に頷こうとした時、一つの閃きがあった。それは、エリンがこの土地に渡ってきた理由を達するための最短経路へと繋がるものだった。
「逆です、ルグ。これからは注目を集めましょう」
「どういうことだ?」
「注目を集めて名が広まれば、この大陸にいる魔王ラルクや白銀に伝わり、わたくしの名を聞いてあちらから接触しようとしてくるかもしれません。それに」
エリンは海上の空へと目を向けた。
「わたくし達が乗っていた船を急襲した存在も気になります。あれが何を狙っていたのかはわかりませんが、もしも、わたくしの魔力に反応していたのだとしたら、ここで一暴れすればこちらに寄って来るかもしれません」
「それを捕らえ、話を聞き出すということか」
「その通りです。魔力に当てられて倒れる人が出ても困るので、人払いをしましょう」
エリンは倒れた男性を近くにいた別の男性に託し、一度人の少ない波打ち際へと移動した。
「どうやりましょうか?」
「凶悪な生物が海から上がって来る、というのはどうか?」
「いいですね。どんな生物にします?」
「海に生息する丁度良い魔獣がいる。外側のみを再現し、魔力で操る」
「それで行きましょう。ルグ、お願いします」
エリンが指示すると同時にルグが杖を生み出し、エリンはそれを握り海へと向けた。すると、沖の方に黒い影が浮かび上がり、海面で一つの形を持った。
エリンとルグが生み出したそれは、海面を滑るようにして浜の方へと進みだした。
「おい、なんだあれ?」
「え、なになに」
「ちょっとヤバくない⁉」
気づいた誰かが声を上げ、それにつられてまた誰かが声を上げる。海を監視していた者たちも異変に気づき、浜に警笛とアナウンスが流れた。
「沖の方から謎の生物が接近しています! すぐに海から、浜を離れてください!」
焦った声音のアナウンスに背中を押されて人々が一斉に逃げ出す。その頃にはエリンとルグが生み出した張りぼての魔獣の全容が見えていた。
それは、体から十本の触手を生やした巨大な鮫だった。十本の触手で海面を高速で叩き、沈む前に体を前方に押し出している。その奇怪な移動方法もさることながら、水中にいるわけでもないのに必死に体中のヒレを懸命に動かす様は奇妙を通り越し、いっそ滑稽に映った。
「うわあ、総じて気持ち悪いですね」
「蔦鮫。ゴエティア大陸ではマニア的な人気を誇る生物だ」
「そうですか。それでは、少しばかり試してみましょうか」
ルグのあまり有用ではない解説を聞き流しつつ、エリンは辺りから人がいなくなったことを確認すると、魔力を解き放った。
波打ち際に立つエリンの脚元から、徐々に海が赤黒く変色していき、砂浜には巨大なミミズがのたうち回ったような不気味な模様が生み出された。強い魔力に侵され、世界の何かが壊れていく。
エリンたちがそれを観察し始めて数十秒後、それはやってきた。
「エリン、上だ」
「ええ」
頭上から赤い光の槍が飛来する。エリンは宙を翻りながらそれを沖へと蹴り飛ばし、海上で大きな水柱を作りだした。
「貴様、魔人だな」
低い男の声が聞こえた。その声もまた頭上から掛けられた。奇襲に失敗したその人物は、今度は真正面からエリンと向かい合った。
男は赤かった。赤いスーツ、赤い髪、赤い瞳、そして、背中から生やした赤い翼。男は空にいるが、翼で空気を叩いて飛んでいるわけではなく、ただ浮かび上がっているだけに見えた。
「あなた方が魔力を持つ者をそう呼ぶのならそうでしょう。でも魔人と呼ばれたくはないので名乗らせて頂きます。わたくしの名はエリン・マクレガー。あなたは?」
「魔人に名乗る名などない」
「そうですか。少し話をしたいのですが、それも無理ということで?」
エリンの問いへの返答はなかった。代わりに男の手から再び赤い光の槍が放たれた。エリンはそれを素手で掴み取ると、男に向けて投げ返した。男は首を横に倒すだけで躱し、槍は空の彼方へと消えた。
「これが答えですか。では、話したくなるまで遊びましょう」
そう言って、エリンは杖の先を男に向けた。
「エリン、ここは魔力が薄い。ブルーは使用不可。レッドも最低限だ」
「わかっています。大規模な魔法もレッドとブルーとともに使用を控え、プライマリーはグリーンに固定します。ルグ、槍を」
「了解」
エリンの持ち物が杖から槍に変わる。それと同時にエリンの瞳の色合いに緑色が強く現れる。
槍の使い心地と体の調子を試すように全身を使って目にも止まらぬ速さで振り回し、切っ先を空の敵に突きつけ構え直す。
「『魔法使い』は休業です。しばらくは『戦士』とでも名乗りましょうか」
槍を構えたエリンの下にまた赤い光の槍が襲い来る。エリンはそれをまた掴み取る。
今度は投げ返すこともしなかった。そのエネルギーを魔力に変換し消し去った。
不可解を表明するように眉根を寄せた赤い男を尻目に、エリンは再び槍を構え直した。
ここはウェストリア大陸。魔から遠く離れた地。
その地にあっても、エリン・マクレガーは自身が伝説の存在であることを証明する。




