表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【連載版】凡庸な男爵家次男は、誰にも好かれたくない 〜前世でモテすぎて疲れた俺、今世は静かに暮らしたいのに学院の火種ばかり見えてしまう〜  作者: 平八
第一章 逃げ道と、石畳の学院

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/8

第6話 凡庸な男爵家次男は、相談箱を情報網にされたくない

前回まで:

新入生相談受付制度の試案に、なぜか「草案協力者」「補足条項協力者」として名前が載ってしまったリオネル。

相談は人を守るための盾であって、誰かを刺すための剣ではない――そう考えた結果、またしても制度作りに巻き込まれていきます。


主な登場人物:

リオネル・アルバート……男爵家次男。静かに暮らしたいが、火種を見ると放っておけない。

セシリア・グランベル……侯爵令嬢。リオネルの距離感と本質を少しずつ見抜いている。

マティアス・フォルナー……学生自治会副会長。優秀で有能だが、人を使うのも上手い。

ギルバート・レイヴン……伯爵家嫡男。嫉妬を乗り越え、少しずつ器を広げている。

ニール・ロイド……平民出身の奨学生。優秀さゆえに、周囲の嫉妬を受けやすい。

俺は、相談箱を見つめていた。


学生自治会室の入口脇に置かれた、小さな木箱。


深い焦げ茶色に磨かれたそれは、見た目だけなら上品だった。


上部には細い投入口。

正面には小さな鍵穴。

横には、丁寧な文字でこう書かれている。


『新入生相談受付箱』


なるほど。


物としては悪くない。


簡単に中身を覗けない作りになっているし、投入口も広すぎない。


不用意に紙が抜き取られる心配も少なそうだ。


だが、俺はその箱を見た瞬間、ひどく嫌な予感がした。


箱というものは、不思議だ。


悩みを入れるための箱にもなる。

不満を溜める箱にもなる。

誰かを守る箱にもなる。

誰かを追い詰める箱にもなる。


使い方を間違えれば、ただの木箱が火薬庫になる。


「アルバート君、どうかな?」


隣でマティアス・フォルナー先輩が微笑んでいた。


学生自治会副会長。

侯爵家次男。

穏やかな顔で、人を自然に巻き込む危険人物である。


「箱の出来は良いと思います」


「箱の出来は、か」


「はい」


「制度の出来は?」


「まだ危険です」


俺がそう言うと、マティアス先輩は楽しそうに目を細めた。


「君は本当に遠慮がない」


「遠慮した結果、後で燃えるほうが困ります」


「なるほど」


マティアス先輩は軽くうなずいた。


そして、机の上に置かれた資料を一枚めくる。


そこには、またしても見覚えのある文字があった。


『草案協力者 リオネル・アルバート』

『補足条項協力者 リオネル・アルバート』


俺は静かに目を閉じた。


消えない。


やはり消えない。


「マティアス様」


「何かな」


「本人同意なく名前を載せない条項は、追加されましたか」


「次の版で追加する予定だ」


「次の版」


「今回は間に合わなかった」


「そうですか」


つまり、俺の名前は間に合ったが、俺を守る条項は間に合わなかったらしい。


非常に納得がいかない。


その時、自治会室の扉が開いた。


入ってきたのは、セシリア・グランベル侯爵令嬢だった。


今日も姿勢が美しい。


表情も穏やか。


ただし、こちらを見る目に少しだけ面白がる気配がある。


「アルバート様」


「グランベル様」


「今日も資料にお名前が載っていますわね」


「見なかったことにしてください」


「できませんわ」


分かっていた。


この人は、都合の悪いものほどよく見る。


セシリア嬢の後ろには、ギルバート・レイヴンとニール・ロイドもいた。


ギルバートは腕を組み、相談箱を見ている。


ニールは少し緊張した様子で、部屋の端に立っていた。


平民出身の彼にとって、自治会室はまだ居心地のよい場所ではないのだろう。


それでもここに来た。


それだけで、彼は十分強い。


ギルバートが相談箱を見て、低く言った。


「これが例の相談箱か」


「はい」


マティアス先輩が答える。


「まずは新入生を対象に試験運用する。身分や派閥に関係なく、困りごとを拾い上げる仕組みにしたい」


言葉だけなら、素晴らしい。


むしろ必要な仕組みだと思う。


だが、言葉が綺麗な時ほど、俺は少し警戒してしまう。


前世でも散々見た。


あなたのため。

みんなのため。

心配だから。

守りたいから。


そういう言葉の裏で、誰かの自由が静かに削られることがある。


「それで、今日集められた理由は何でしょうか」


俺が尋ねると、マティアス先輩は一枚の封書を取り出した。


「この制度について、上級生から提案があってね」


「提案」


嫌な予感が強くなる。


「ユリウス・クラインベルク。三年生。侯爵家嫡男だ」


その名を聞いた瞬間、ギルバートの表情が少し硬くなった。


セシリア嬢も、ほんのわずかに目を伏せる。


ニールだけが分からない顔をしていた。


俺は二人の反応を見て、だいたい察した。


面倒な相手だ。


非常に面倒な相手だ。


「クラインベルク侯爵家は、王都でもかなり影響力のある家ですわ」


セシリア嬢が静かに補足した。


「学生の間でも、彼に近づきたい者は多いです」


「近づきたい者が多い方は、だいたい本人が動かなくても周囲が動きます」


俺がそう言うと、セシリア嬢がこちらを見た。


「よくお分かりですのね」


「一般論です」


「そういうことにしておきますわ」


最近、この返しにも慣れてきてしまった。


非常によくない。


マティアス先輩は封書を開き、中の文章を読み上げた。


「新入生相談受付制度は、学院内の不満や不安を早期に把握する上で有用である。ついては、寄せられた相談内容を月ごとに整理し、学年代表および主要派閥の代表にも共有すべきではないか」


部屋の空気が、少しだけ変わった。


ニールの顔がこわばる。


ギルバートが眉を寄せる。


セシリア嬢は黙っている。


俺は目を閉じたくなった。


やはり来た。


相談箱を、情報網として使おうとする者が。


「アルバート君」


マティアス先輩が俺を見る。


「君はどう思う?」


なぜ俺に聞く。


俺はただの男爵家次男だ。


相談箱の前で頭を抱えているだけの、普通の新入生である。


そう思ったが、たぶん今この場でそう主張しても誰も納得しない。


俺は小さく息を吐いた。


「危険です」


「即答だね」


「即答する程度には危険です」


マティアス先輩は椅子に腰かけた。


「理由を聞こう」


俺は相談箱を見た。


そして、ゆっくりと言葉を選んだ。


「相談箱は、悩みを入れる場所です。不満を集める場所ではありません」


「似ているようで、違うと?」


「かなり違います」


俺は続けた。


「悩みは、助けてほしいという声です。不満は、時に誰かを動かすための材料になります」


ギルバートが少し目を細めた。


クラウスがいれば、今ごろ面白そうに笑っていただろう。


いなくてよかった。


「もちろん、相談の中に不満が含まれることはあります。ですが、それを派閥代表に共有すれば、相談者はどう思うでしょうか」


「自分の悩みが、権力を持つ者たちの資料になる」


セシリア嬢が静かに言った。


「はい」


ニールが小さく息を飲んだ。


俺は彼を見た。


「例えば、ロイド君が身分差による不安を相談したとします」


「はい」


「それが“平民奨学生は貴族に不満を持っている”という形で共有されたら?」


ニールの顔色が変わった。


「……相談しません」


「そうなります」


俺はマティアス先輩に視線を戻した。


「相談者は、助けを求めなくなります。表に出ない悩みは、地下で育ちます。地下で育った火種は、見えた時にはもう大きくなっている」


マティアス先輩は黙って聞いている。


俺は言った。


「だから、共有するなら個別の相談ではなく、匿名化した傾向だけです」


「傾向」


「はい。例えば、“新入生から寮生活に関する相談が多い”“身分差に関する不安が複数ある”“授業準備に関する相談が増えている”。それくらいです」


「名前や家名は?」


「原則として出さない」


「例外は?」


「本人の同意がある場合。本人や他者に差し迫った危険がある場合。あるいは、自治会だけでは対応できず、教師の介入が必要な場合」


マティアス先輩の目が少し真剣になる。


「よく整理されている」


「考えたくて考えているわけではありません」


本当にそうだ。


静かに暮らしたいだけなのに、なぜ俺は相談箱の閲覧権限について話しているのか。


分からない。


まったく分からない。


ギルバートが低く言った。


「そのクラインベルク先輩とやらは、相談箱を使って新入生の弱みを拾いたいのか?」


ニールが少し緊張した。


セシリア嬢がギルバートを見る。


言葉が強い。


だが、言いたいことは分かる。


マティアス先輩は苦笑した。


「そこまで悪意があるとは限らない」


「悪意がなければ安全なのか?」


ギルバートの声は硬かった。


昨日までの彼なら、もっと感情的になっていただろう。


だが今は、怒りの置き場所を探しながら言葉にしている。


成長している。


それは良いことだ。


ただし、ここでマティアス先輩とぶつかるのはよくない。


俺はギルバートに向けて言った。


「レイヴン様」


「何だ」


「悪意があるかどうかより、悪用できる形にしないほうが大事です」


ギルバートは一瞬黙った。


それから、少しだけ息を吐いた。


「……そうだな」


よかった。


止まった。


マティアス先輩が俺を見る。


「君は本当に、間に入るのがうまいね」


「褒めないでください」


「なぜ?」


「次も使われます」


「もう使っている」


悪びれない。


本当に悪びれない。


その時、扉が叩かれた。


自治会の上級生が顔を出す。


「マティアス様。クラインベルク様がお見えです」


来た。


俺は心の中で天井を仰いだ。


なぜ、こうなる。


本当に、なぜこうなる。


入ってきたのは、銀髪の青年だった。


背は高く、身なりは整っている。


顔立ちは柔らかいが、視線は鋭い。


微笑んでいるのに、部屋の温度が少し下がったように感じる。


これが、ユリウス・クラインベルク侯爵家嫡男。


三年生。


学院内で、次期王太子派とも距離が近いと噂される上級生。


俺は立ち上がり、礼を取った。


「アルバート男爵家次男、リオネルと申します」


「君がリオネル・アルバートか」


ユリウス先輩は、俺を上から下まで見た。


値踏みする目。


だが、露骨ではない。


育ちの良い人間の、綺麗な値踏みだ。


「噂は聞いているよ」


聞かないでほしい。


噂など、できれば全部消えてほしい。


「光栄です」


嘘である。


全く光栄ではない。


ユリウス先輩はマティアス先輩に視線を向けた。


「相談制度の件で来た。ちょうど皆もいるようだね」


「ええ。今、共有範囲について話していたところです」


「それは良い」


ユリウス先輩は自然に席に着いた。


誰も止めない。


止められない。


高位貴族とは、座るだけで場の中心になる生き物らしい。


できれば一生なりたくない。


「相談制度は有意義だ」


ユリウス先輩は言った。


「学院内の不満や孤立を早めに把握できる。特に新入生は、身分も出自も違う。問題が大きくなる前に、上級生が支援すべきだろう」


言葉は正しい。


非常に正しい。


だからこそ危ない。


俺は黙って聞いていた。


ユリウス先輩は続ける。


「ただ、自治会だけで抱えるには限界がある。学年代表や各派閥の中心人物にも共有すれば、より早く対応できる」


ギルバートの眉が動く。


セシリア嬢は静かに茶器を見ている。


ニールは少し俯いている。


マティアス先輩は俺を見た。


見ないでほしい。


俺は関係ない。


関係ないはずだった。


ユリウス先輩の視線が、俺に向いた。


「アルバート君。君はどう思う?」


なぜ俺に聞く。


本当に、なぜ皆俺に聞く。


俺は軽く頭を下げた。


「恐れながら、共有範囲はかなり絞るべきかと存じます」


「なぜ?」


「相談者が、相談できなくなるからです」


ユリウス先輩は微笑んだままだ。


「相談者を助けるための共有だよ」


「はい。ですが、相談者がそう受け取るとは限りません」


「ほう」


「悩みを箱に入れたら、上級生や派閥の代表に読まれる。そう思えば、多くの者は本当に危ないことほど書かなくなります」


ユリウス先輩は指先で机を軽く叩いた。


「なら、隠れた問題はどう見つける?」


「見つけることと、覗くことは違います」


部屋が静かになった。


言いすぎたかもしれない。


だが、もう遅い。


ユリウス先輩の笑みが、ほんの少し深くなった。


「面白い表現だね」


「失礼しました」


「いや、続けて」


続けたくない。


非常に続けたくない。


だが、ここで引くと、言葉だけが残る。


俺は腹をくくった。


「相談制度は、相談者が自分で扉を開ける仕組みであるべきです。周囲が勝手に窓から覗く仕組みにすると、信頼はすぐ失われます」


ニールが顔を上げた。


セシリア嬢の視線を感じる。


「もちろん、学院全体のために傾向を把握する必要はあります。ですが、それは個人が特定されない形で十分です。相談者本人の同意なく、家名や身分や具体的な内容を派閥に共有するべきではありません」


「派閥に、か」


ユリウス先輩は少し楽しそうに言った。


「君は、私の提案を派閥利用だと見ているのかな」


まずい。


かなりまずい。


だが、ここで慌てて否定すると嘘になる。


俺は少しだけ考えた。


「派閥利用される可能性がある、と見ています」


ギルバートが小さく息を飲んだ。


マティアス先輩は黙っている。


セシリア嬢も、口を挟まない。


ユリウス先輩は微笑んだまま俺を見る。


「なかなか率直だ」


「申し訳ありません」


「謝るほどではない」


本当だろうか。


本当に怒っていないのだろうか。


表情だけでは読みにくい。


この人は、かなり慣れている。


自分の感情を表に出さないことにも、相手に言葉を選ばせることにも。


「では、君ならどうする?」


まただ。


また、どうするかを聞かれる。


俺は相談箱を見た。


小さな木箱。


まだ何も入っていない。


だが、これからいくつもの悩みが入るかもしれない箱。


「閲覧できる者を限定します」


「誰に?」


「自治会内の担当者。できれば男女それぞれ一名以上。さらに教師の監督者を一名」


マティアス先輩がうなずく。


「記録は?」


「相談者の同意がある場合のみ詳細記録。共有用には、個人が特定されない要約だけ」


「派閥代表への共有は?」


「月次で傾向のみ。例えば、“寮生活に関する相談が増加”“身分差への不安が多い”。ただし、家名や個人名は出さない」


ユリウス先輩は静かに聞いている。


俺は続けた。


「そして、相談内容を政治的な誘導や派閥勧誘に利用した場合は、自治会規則違反にするべきです」


「かなり踏み込むね」


「最初に書かなければ、後で揉めます」


「君は、後で揉めることを本当に嫌う」


「はい」


心から嫌いだ。


揉め事は、小さい時に処理するほうがいい。


大きくなった揉め事は、誰かの人生を巻き込む。


前世で嫌というほど見た。


「だが、情報を持たずに人を守れるかな」


ユリウス先輩が静かに言った。


「情報がなければ、上級生は動けない。高位貴族が知らないまま、下位貴族や平民が困っている状況もあるだろう」


正論だ。


そこがこの人の強いところだ。


単なる情報欲ではない。


本当に、早く知ることで救えるものもある。


だからこそ、危ない。


善意と権力が結びつくと、簡単に監視になる。


俺は少しだけ黙った。


「では、情報を持つ者を増やすのではなく、情報を扱う責任を重くしてください」


「責任」


「はい。相談内容を知る者は、守秘義務を負う。漏らした場合は処分される。相談者への接触は、本人同意か差し迫った危険がある場合のみ」


「差し迫った危険の判断は?」


「担当者一人ではなく、複数名で」


「遅くならないか?」


「緊急時は教師判断を優先する」


ユリウス先輩は黙った。


マティアス先輩が少しだけ笑った。


「制度になってきたね」


「なってほしくありませんでした」


本音が漏れた。


ユリウス先輩がそこで初めて、少し声を出して笑った。


「君は噂より面白い」


「できれば、普通と言っていただきたいです」


「それは難しいな」


即答だった。


なぜ皆、そこだけ一致するのか。


ユリウス先輩は椅子にもたれた。


「分かった。私の提案は一部修正しよう。個別情報の共有は求めない。月次で傾向のみ、自治会から報告を受ける」


よかった。


ひとまず、相談箱が情報網になることは避けられた。


そう思った瞬間だった。


ユリウス先輩は俺を見て、穏やかに言った。


「ただし、その傾向報告書の文案は、君にも確認してもらいたい」


よくなかった。


まったくよくなかった。


「なぜ私が」


「今日の説明が一番分かりやすかったからだ」


まただ。


また、この理由だ。


分かりやすく説明すると仕事が増える。


今後は分かりにくく話すべきだろうか。


いや、それはそれで別の火種になる。


俺は頭を抱えたくなった。


「私は自治会の者ではありません」


「草案協力者だろう?」


「それは、勝手に名前を載せられたものでして」


「では、守秘設計協力者かな」


増えた。


また肩書きが増えた。


俺は静かにマティアス先輩を見た。


マティアス先輩は視線を逸らした。


逃げた。


この人、逃げた。


ギルバートが低く言った。


「アルバートを都合よく使いすぎではありませんか」


珍しく、言葉がはっきりしていた。


ユリウス先輩がギルバートを見る。


部屋の空気が少し張る。


レイヴン伯爵家嫡男と、クラインベルク侯爵家嫡男。


家格の差はある。


だが、ギルバートも決して軽い家ではない。


ここで正面からぶつかると、別の火になる。


俺はすぐに口を開いた。


「レイヴン様」


「何だ」


「ありがとうございます」


ギルバートは少し驚いた顔をした。


俺は続けた。


「ですが、今回は私自身が返事をします」


ギルバートは俺を見た。


少し不満そうだったが、引いた。


成長している。


本当に。


俺はユリウス先輩に向き直った。


「協力は、内容確認に限ります」


「ほう」


「報告書の作成者にはなりません。相談内容の閲覧者にもなりません。個別案件には、原則関わりません」


「ずいぶん線を引く」


「引かないと、消えます」


「何が?」


「私の平穏が」


場に一瞬、変な沈黙が落ちた。


その後、セシリア嬢が小さく笑った。


ニールも少し笑いを堪えている。


ギルバートは、なぜか満足そうにしていた。


ユリウス先輩も、今度こそ自然に笑った。


「いいだろう。内容確認のみ。君の同意なく名前は出さない。これでどうかな」


「書面にしてください」


俺がそう言うと、マティアス先輩が吹き出しかけた。


ユリウス先輩は目を丸くし、それから笑った。


「徹底している」


「最近、口約束の危うさを学びました」


主に目の前の自治会副会長から。


とは言わなかった。


言わなかったが、マティアス先輩には伝わったらしい。


少しだけ目を逸らしていた。


話し合いは、そこで一応まとまった。


相談箱の個別内容は、担当者と教師監督者のみが扱う。

派閥代表への共有は、個人が特定されない傾向報告だけ。

相談内容を勧誘や圧力に使うことは禁止。

協力者名の掲載には本人同意が必要。


最後の一つは、俺の強い希望で入れてもらった。


本当に強い希望である。


会議が終わり、自治会室を出ると、ギルバートが俺の横に並んだ。


「アルバート」


「はい」


「さっきは止められたな」


「止めました」


「俺は余計なことを言ったか」


俺は少し考えた。


「いえ」


ギルバートがこちらを見る。


「助かりました」


「そうか」


彼は少しだけ口元を緩めた。


「ならいい」


以前の彼なら、怒りをそのままぶつけていた。


だが今は、こちらを守ろうとして言葉を出した。


不器用だが、悪くない。


本当に、悪くない。


「ただし」


俺は付け加えた。


「高位貴族の先輩と正面からぶつかる時は、少し言葉を選んだほうがよろしいかと」


「お前に言われたくない」


その返しは正しい。


非常に正しい。


何も言えなかった。


ギルバートは少し笑って、先に歩いていった。


その背中を見送りながら、ニールが隣に来た。


「リオネル様」


「はい」


「今日の話を聞いて、少し安心しました」


「相談箱のことですか」


「はい」


ニールは廊下の窓の外を見た。


「私は、何か困ったことがあっても、相談すると余計に目立つのではないかと思っていました」


「そう思うのは自然です」


「でも、個人名が出ないなら、少しだけ書けるかもしれません」


それは、この制度にとって大事な一言だった。


平民出身の奨学生。

身分差の中で、常に視線を浴びる立場。


彼が少しでも相談できると思えるなら、今日の話し合いは無駄ではなかった。


俺はうなずいた。


「書く時は、誰に何をしてほしいかより、自分が何に困っているかを書いたほうがいいです」


「はい」


「相手を罰してほしい、ではなく、自分がどうすれば安全に学べるか」


ニールは真剣にうなずいた。


「覚えておきます」


覚えなくてもいい。


いや、これは覚えておいたほうがいい。


俺の心の中で、二つの気持ちが争った。


非常に面倒くさい。


ニールと別れた後、廊下の角でセシリア嬢が待っていた。


まただ。


この人は、本当に良い位置にいる。


良すぎる。


「アルバート様」


「グランベル様」


「今日も、火種を消されましたね」


「今日は、火がつく前に箱の蓋を調整しただけです」


セシリア嬢は少し目を丸くした。


それから、楽しそうに微笑んだ。


「その表現、好きですわ」


「忘れてください」


「できません」


なぜこの人は、忘れてほしいことばかり覚えるのか。


セシリア嬢は歩きながら言った。


「相談箱は、きっと必要です」


「はい」


「でも、怖いものでもあります」


「はい」


「あなたは、その怖さを知っているのですね」


俺はすぐに答えなかった。


相談。

好意。

心配。

助けたいという言葉。


前世で、それらにどれほど絡め取られたか。


求められ、期待され、応えられなくなると恨まれた。


相談を受けるたび、俺は少しずつ逃げ場を失っていった。


「少しだけです」


俺はそう答えた。


「少しだけ、怖さを知っています」


セシリア嬢はそれ以上聞かなかった。


ただ、隣を歩いていた。


沈黙が落ちる。


その沈黙が、不思議と苦しくない。


それが少し困る。


彼女は踏み込みすぎない。


でも、離れすぎもしない。


前世で俺が必死に身につけた距離感を、この人は自然にやっている。


本当に、危険だ。


気を許してしまいそうになる。


「アルバート様」


「はい」


「今日、レイヴン様があなたを守ろうとしていましたわね」


「そうですね」


「嬉しかったですか?」


俺は足を止めかけた。


嬉しかったか。


そう聞かれるとは思わなかった。


感謝はした。


助かったとも思った。


だが、嬉しい。


その言葉は、少し予想外だった。


「……少し」


答えてから、後悔した。


セシリア嬢は、何も言わなかった。


ただ、少しだけ柔らかく笑った。


やめてほしい。


そういう顔をされると、こちらの逃げ道が少し減る。


自室に戻った俺は、兄への手紙を書いた。


最近、兄への手紙が報告書のようになっている。


それも、かなり面倒な報告書だ。


『兄上。


相談箱が設置されました。


個別相談の共有範囲について話し合い、派閥代表へは個人が特定されない傾向のみ共有することになりました。


また、私の名前を本人同意なく資料に載せない条項も追加される予定です。』


ここまで書いて、手が止まった。


何だこれは。


本当に何だこれは。


男爵家次男の学院生活報告ではない。


制度運用の監査報告である。


俺は便箋を見つめた。


破りたい。


だが、兄には正直に書いたほうがいい。


後で噂として聞くよりは、たぶん胃に優しい。


たぶん。


俺は最後に一文を足した。


『なお、私は相談箱の管理者ではありません。』


重要だ。


ここは非常に重要だ。


さらにもう一文足す。


『守秘設計協力者という言葉が出ましたが、正式には断りました。』


書いた瞬間、自分でも苦しくなった。


守秘設計協力者。


何だそれは。


俺は静かに頭を抱えた。


翌朝。


机の上には、新しい資料が置かれていた。


見なかったことにしたい。


だが、資料は消えない。


表紙にはこう書かれていた。


『新入生相談受付制度 共有範囲および守秘条項 改訂案』


俺は恐る恐る下のほうを見る。


そこには、こうあった。


『内容確認協力者 リオネル・アルバート』


俺はしばらく、その文字を見つめた。


書面で同意なく名前を出さないと言ったはずだ。


確かに言ったはずだ。


いや。


これはもしかして、昨日の同意の範囲に含まれているのか。


内容確認のみ協力すると言ってしまった。


言ってしまった。


俺は静かに天井を仰いだ。


横からニールが言った。


「リオネル様。今度は内容確認協力者ですか」


「読み上げないでください」


ギルバートが後ろから笑った。


「肩書きが増えていくな」


「増やしたくありません」


セシリア嬢が教室の入口からこちらを見て、優雅に微笑んだ。


「アルバート様」


「はい」


「相談箱の運用が、少し良い形になりそうですわね」


「それは良かったです」


「ええ。ところで、次は相談箱に入った内容をどう分類するか、少しご相談が」


俺は静かに目を閉じた。


相談。


また相談。


相談箱を作ったら、相談箱について相談される。


これは、何かがおかしい。


絶対におかしい。


俺は心の中で兄に語りかけた。


兄上。


茶葉を送ってください。


できれば、かなり多めに。


俺の静かな学院生活は、相談箱の中に吸い込まれてしまったようです。


俺は小さく息を吐いた。


そして、いつものように答えた。


「内容によります」


その瞬間、周囲の数人がまた笑った。


非常によくない。


この返事が、完全に俺のものとして定着しつつある。


俺は誰にも好かれたくなかった。


頼られたくもなかった。


誰の相談箱にもなりたくなかった。


それなのに今日も、俺の机の上には資料がある。


そして相談箱は、廊下の向こうで静かに口を開けている。


まだ何も入っていないはずなのに。


俺にはもう、その中から火種の匂いがする気がした。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


今回は、相談箱が“人を守る仕組み”から“派閥の情報網”にされかけるお話でした。


リオネルは相談役になりたくないのに、今度は「内容確認協力者」という肩書きまで増えてしまいました。


楽しんでいただけましたら、評価・ブックマークなどで応援いただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ