第7話 凡庸な男爵家次男は、侯爵家嫡男の笑顔を信用できない
前回まで:
新入生相談受付制度の相談箱をめぐり、リオネルは「相談内容を派閥の情報網にしてはいけない」と主張することに。
その結果、相談箱の個別内容は限定管理、派閥への共有は匿名化された傾向のみ、という形に落ち着きました。
ただし、リオネルの肩書きはまた増えました。
主な登場人物:
リオネル・アルバート……男爵家次男。静かに暮らしたいが、火種を見ると放っておけない。
ユリウス・クラインベルク……侯爵家嫡男。穏やかに笑いながら、人を駒として配置できる上級生。
ギルバート・レイヴン……伯爵家嫡男。リオネルを不器用に守ろうとし始めている。
セシリア・グランベル……侯爵令嬢。リオネルの本質と危うさを見抜きつつある。
マティアス・フォルナー……学生自治会副会長。制度を動かす側の優秀な上級生。
翌朝。
俺の机の上には、封書が置かれていた。
見なかったことにしたい。
だが、最近の経験で分かっている。
封書は、見なかったことにしても消えない。
むしろ、見なかったふりをしている間に、周囲の視線だけが増えていく。
俺は机の前で立ち止まり、深く息を吐いた。
昨日は相談箱だった。
一昨日は相談制度だった。
その前は匿名相談だった。
その前は読書会だった。
その前はお茶会だった。
普通の学院生活とは、いったい何だったのか。
兄上。
俺は最近、その定義に自信が持てなくなっています。
封書の封蝋には、見覚えのない紋章が押されていた。
いや、正確には見覚えがないわけではない。
昨日見た。
学生自治会室で、持ち主本人の笑顔とともに。
クラインベルク侯爵家の紋章。
俺は、静かに目を閉じた。
終わった。
朝から終わった。
「リオネル様」
横から声がした。
ニール・ロイドだった。
平民出身の奨学生で、最近なぜか俺の机の上に何が置かれているかを自然に確認するようになった少年である。
非常によくない傾向だ。
「今度は、どちらからですか?」
「できれば、ただの事務連絡であってほしいところです」
「事務連絡に封蝋は使わないと思います」
正論を言わないでほしい。
俺は封書を手に取った。
紙質が良い。
手触りが良い。
つまり、逃げにくい。
こういう封書は、内容が面倒なことが多い。
封を切ると、中には短い文面があった。
『本日の放課後、東棟第三応接室にて少し話をしたい。
相談箱の運用に関する件だ。
ユリウス・クラインベルク』
少し。
話をしたい。
相談箱の運用。
この三つの言葉が並んだ時点で、もう少しでは済まない。
俺は手紙を畳んだ。
そして、もう一度机の上に置いた。
「リオネル様?」
「ニール君」
「はい」
「これは、夢でしょうか」
「違うと思います」
即答だった。
もう少し迷ってほしかった。
その時、後ろから別の声がした。
「アルバート」
振り返ると、ギルバート・レイヴンが立っていた。
伯爵家嫡男。
初日に嫉妬で炎上しかけ、今はなぜか俺を気にかけるようになっている不器用な男である。
彼は封書の紋章を見て、眉を寄せた。
「クラインベルクか」
「はい」
「呼び出しか」
「相談箱の運用に関する件だそうです」
ギルバートの表情が険しくなった。
「またお前を使うつもりか」
使う。
その言葉に、胸の奥が少し冷えた。
たぶん、ギルバートに悪意はない。
むしろ、俺を庇おうとしてくれている。
だが、その言葉は少し正確すぎた。
ユリウス・クラインベルクは、俺を評価している。
おそらく、それは間違いない。
ただし、その評価は人間としての好意ではない。
便利な機能への評価だ。
火種を見つける。
場を壊さずに整える。
下位貴族にも平民にも高位貴族にも、そこそこ届く言葉を選ぶ。
責任の所在や逃げ道の必要性を理解している。
そういう機能。
俺という人間ではなく、俺が持っている処理能力。
それを見られている。
「内容によります」
俺は、いつものように答えた。
ギルバートは顔をしかめた。
「お前のその返事は、だいたい巻き込まれる前の言葉だ」
「最近、私もそう思い始めました」
「だったら別の返事をしろ」
「例えば?」
「嫌だ、と言え」
まっすぐすぎる。
だが、そのまっすぐさが少し羨ましい。
俺は苦笑した。
「相手は侯爵家嫡男です」
「だから何だ」
「レイヴン様は伯爵家嫡男なので、そう言えるのです」
ギルバートは一瞬、黙った。
それから、悔しそうに眉を寄せた。
自分の家格が、俺を守る言葉になってしまうこと。
そして、俺には同じようにはできないこと。
彼は、今それに気づいたのだろう。
「……すまん」
「謝ることではありません」
「だが、気分が悪い」
「私もです」
俺がそう言うと、ギルバートは少しだけ目を見開いた。
そして、なぜか少し満足そうにうなずいた。
「なら、俺も行く」
「なぜそうなるのですか」
「気分が悪いからだ」
理由になっているようで、なっていない。
だが、ギルバートらしい。
「呼ばれていない方が行くと、余計に話がこじれます」
「俺がいたほうが、相手も無茶はしにくい」
「それもまた、話をこじれさせます」
「では、どうする」
俺は少し考えた。
正直、一人で行きたくはない。
ユリウス先輩のような相手は、笑顔で話しながら、こちらの立ち位置を少しずつずらしてくる。
気づいた時には、逃げ道がなくなっている。
だが、ギルバートが正面からついてくると、相手に「伯爵家嫡男を盾にしている」と見られる可能性がある。
それもまずい。
「では、少し離れた場所に」
「離れた場所?」
「応接室の外ではなく、東棟の談話室あたりにいていただけますか」
ギルバートは眉を上げた。
「呼べば行ける距離か」
「呼ばないで済むことを祈っています」
「分かった」
即答だった。
少し驚いた。
以前の彼なら、もっと強引に押し通したかもしれない。
だが今は、こちらの線引きを尊重しようとしている。
不器用だが、ちゃんと変わっている。
「ありがとうございます」
俺がそう言うと、ギルバートは少し目を逸らした。
「別に、お前のためではない」
それは無理がある。
かなり無理がある。
だが、そういうことにしておいた。
放課後。
東棟第三応接室の前に立った俺は、扉を見つめていた。
扉は重厚だった。
木目は美しく、取っ手は磨かれている。
たった一枚の扉なのに、なぜか圧を感じる。
入りたくない。
心から入りたくない。
だが、入らなければならない。
俺は扉を叩いた。
「入りたまえ」
穏やかな声が返ってくる。
中にいたのは、ユリウス・クラインベルク先輩だけではなかった。
学生自治会副会長、マティアス・フォルナー先輩。
そして、セシリア・グランベル侯爵令嬢。
三人が、茶器の置かれた丸卓を囲んでいた。
俺はその場で一瞬止まった。
なぜセシリア嬢がいる。
いや、理由は分かる。
女性側の相談や読書会の件で、彼女はすでに制度に関わっている。
分かる。
分かるが、事前に聞いていない。
「アルバート君、来てくれてありがとう」
ユリウス先輩が微笑んだ。
今日も完璧な笑顔だった。
怒っていない。
焦っていない。
押しつけがましくもない。
だからこそ、厄介だった。
「お招きいただき、ありがとうございます」
俺は礼を取った。
「どうぞ座って」
「失礼いたします」
席に着くと、セシリア嬢が静かにこちらを見た。
その視線には、少しだけ心配が混じっている。
珍しい。
いや、珍しくはないのかもしれない。
この人は、見ていないようで見ている。
俺がどこで息を詰めるかを。
ユリウス先輩は茶を一口飲んだ。
「昨日の君の指摘は有益だった。相談箱を派閥の情報網にしてはならない。確かに、その通りだ」
「恐れ入ります」
「ただ、私はまだ一つ気になっている」
嫌な予感がした。
「何でしょうか」
「情報を制限しすぎると、救えるものを見落とす」
これも正論だ。
この人は、毎回正論を持ってくる。
正論というのは厄介だ。
間違っていないからこそ、受け止めざるを得ない。
「たとえば、下位貴族の生徒たちが高位貴族に強い不満を持っているとする。相談箱には複数の声が届く。だが、個人が特定されない傾向報告だけでは、誰が誰に何をしているのかまでは分からない」
「はい」
「その間に問題が悪化したら?」
「あり得ます」
「なら、もっと早い段階で、影響力のある者が動くべきではないかな」
正しい。
かなり正しい。
だが、危ない。
「影響力のある者が動くことで、相談者が守られる場合はあります」
俺は言った。
「ですが、同時に、相談者が“影響力のある者に見つかった”形にもなります」
ユリウス先輩は目を細めた。
「見つかることは、そんなに悪いことかな」
「相手によります」
「私のような?」
「はい」
場の空気が、一瞬だけ止まった。
マティアス先輩が、わずかに眉を動かした。
セシリア嬢は、俺を見ている。
ユリウス先輩だけが、変わらず微笑んでいた。
「率直だね」
「失礼しました」
「いや、続けて」
続けたくない。
非常に続けたくない。
だが、ここで止めると、こちらがただ無礼を言っただけになる。
俺は静かに息を吐いた。
「ユリウス様のような方が動けば、たしかに多くの問題は早く片づくと思います」
「うん」
「ですが、その時点で相談者は、ユリウス様の影響下に入ります」
「守られるとも言える」
「囲われるとも言えます」
今度こそ、空気が冷えた。
言いすぎた。
確実に言いすぎた。
だが、撤回はしなかった。
ユリウス先輩は、しばらく俺を見ていた。
その笑顔は変わらない。
ただ、目だけが少し深くなった気がした。
「面白い」
その一言が、怖かった。
怒られるよりも、ずっと怖い。
この人は、怒っていない。
傷ついてもいない。
ただ、俺の言葉を材料として受け取っている。
自分を批判されたのではなく、盤面に新しい駒が置かれたように見ている。
「君は、私が善意で動いても、相手を囲う結果になると言いたいわけだ」
「可能性として、です」
「善意も疑うのかい?」
「善意ほど、疑われないので」
セシリア嬢の指が、茶器の縁で止まった。
ニールがいれば、たぶん息を飲んでいただろう。
ギルバートがいれば、今ごろ立ち上がっていたかもしれない。
ここにいなくてよかった。
いや、近くにいるのだった。
呼ぶ事態にはしたくない。
ユリウス先輩は、静かに笑った。
「君はずいぶん、善意に苦労してきたような物言いをする」
胸の奥が冷えた。
前世の記憶が、一瞬だけよぎる。
心配だから。
好きだから。
あなたのためだから。
私だけを見てほしいから。
君は分かってくれると思ったから。
善意の言葉は、時に鎖になる。
好意は、時に監視になる。
助けたいという気持ちは、時に支配になる。
俺は表情を変えないようにした。
「一般論です」
「便利な言葉だ」
「はい」
「だが、嫌いではない」
嫌ってほしい。
できれば、少し距離を置いてほしい。
俺は心の中でそう思った。
ユリウス先輩は、机の上に一枚の紙を置いた。
「実は、今日は君に提案がある」
来た。
本題だ。
俺は紙を見た。
そこには、整った文字でこう書かれていた。
『相談制度外部助言者 候補一覧』
その一番上に、俺の名前があった。
リオネル・アルバート。
男爵家次男。
入学したばかりの一年生。
なぜ候補一覧の一番上にいるのか。
俺は紙から視線を外した。
「お断りします」
即答だった。
ユリウス先輩が少し目を丸くする。
マティアス先輩が、口元を押さえた。
セシリア嬢は、少しだけ安堵した顔をした。
「まだ説明していないよ」
「説明を聞く前に断ったほうがいい内容だと思いました」
「なかなか鋭い」
褒めないでほしい。
本当に褒めないでほしい。
ユリウス先輩は紙を指で軽く叩いた。
「外部助言者といっても、正式な役職ではない。相談制度の方針に迷った時、君に意見を聞く。それだけだ」
「それだけ、で済まないと思います」
「なぜ?」
「すでに、草案協力者、補足条項協力者、内容確認協力者と肩書きが増えています」
「うん」
「これ以上増えると、私は制度そのものに組み込まれます」
「悪いことかな?」
「私にとっては悪いことです」
ユリウス先輩は、興味深そうに俺を見た。
「なぜそこまで嫌がる?」
「静かに暮らしたいからです」
「それは聞いた」
「なら、それが答えです」
「本当に?」
その問いは、優しかった。
だが、優しいだけではない。
薄い刃物のような問いだった。
「君は本当に、ただ静かに暮らしたいだけなのかな」
俺は黙った。
「目の前で誰かが不当に扱われている。相談制度が歪められようとしている。弱い者の声が政治の道具にされようとしている」
ユリウス先輩は、ゆっくりと言葉を置いた。
「それを見ても、君は静かに暮らしたいだけと言える?」
言える。
そう言いたかった。
俺は関係ない。
俺はただの男爵家次男だ。
兄を支えて、領地で穏やかに暮らしたいだけだ。
学院の制度も、派閥も、情報網も、相談箱も、本来なら俺には関係ない。
そう言えばいい。
言えばいいのに。
言葉が、すぐには出なかった。
ユリウス先輩は微笑んだ。
その笑みが、少しだけ怖かった。
「君の弱点は、そこだ」
「弱点、ですか」
「見えてしまうこと。そして、見えてしまったものを、見なかったことにできないこと」
その通りだった。
腹が立つほど、その通りだった。
「それは美徳だ」
ユリウス先輩は言った。
「だが、同時に利用しやすい」
セシリア嬢の表情が変わった。
マティアス先輩も、わずかに目を細める。
俺は、ユリウス先輩を見た。
この人は、今、自分で言った。
利用しやすい、と。
隠さなかった。
それが、逆に怖い。
「ご自身で、それをおっしゃるのですね」
「隠したほうがいいかな?」
「隠されるよりは、ましです」
「では、正直に言おう」
ユリウス先輩は、穏やかに笑った。
「私は、君を使いたい」
部屋が静まり返った。
その言葉は、とても静かだった。
脅しではない。
命令でもない。
ただの宣言だった。
「君がいれば、相談制度は壊れにくくなる。下位貴族や平民出身者の声も拾いやすくなる。上位貴族の暴走も抑えやすくなる」
「私は、そんな大層な人間ではありません」
「君がどう思っているかは、あまり関係ない」
その言葉に、背筋が冷えた。
ユリウス先輩は続ける。
「周囲がどう見るかだ。君はすでに、そう見られ始めている」
俺は無意識に手を握った。
セシリア嬢が、それに気づいたように少し身を乗り出した。
だが、彼女は口を挟まない。
今ここで彼女が庇えば、俺は自分で線を引けなくなる。
それを分かっているのだろう。
ありがたい。
そして、少し厳しい。
「私を使いたいとおっしゃるなら」
俺はゆっくり言った。
「条件があります」
ユリウス先輩の目が、楽しそうに細くなる。
「聞こう」
「第一に、私は正式な役職には就きません」
「うん」
「第二に、私の名前を制度文書に載せる場合は、事前に確認してください」
「それは前回の反省点だね」
「第三に、相談内容の個別案件には、私を直接関わらせないでください」
「理由は?」
「私が判断者になると、当事者の成長が消えます。そして、私に責任が集まります」
「なるほど」
「第四に」
俺は少しだけ息を吸った。
ここが大事だった。
「私の助言を、特定派閥の利益のために使わないでください」
ユリウス先輩は、初めて笑みを止めた。
ほんの一瞬。
だが、確かに止まった。
セシリア嬢の視線が、鋭くなる。
マティアス先輩も、何も言わない。
俺は続けた。
「相談制度は、学院全体のためのものです。ユリウス様の派閥でも、マティアス様の自治会でも、グランベル様の周囲でもなく」
セシリア嬢が、少しだけ目を伏せた。
「相談者のためのものです」
言った。
言ってしまった。
相手は侯爵家嫡男。
俺は男爵家次男。
身分差は、明確にある。
だが、ここで言わなければいけなかった。
最初に線を引かなければ、後で必ず曖昧になる。
曖昧になったものは、強い者に都合よく使われる。
ユリウス先輩は、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと笑った。
「いいね」
よくない。
この反応は、よくない。
「とてもいい」
ますますよくない。
「君は、自分が守りたいものを言葉にできる」
「守りたいというより、壊れると面倒なので」
「そういう言い方をするところもいい」
何を言っても評価に変換される。
これはまずい。
非常にまずい。
ユリウス先輩は紙を手元に戻した。
「分かった。外部助言者という形は撤回しよう」
俺は少しだけ息を吐いた。
「ありがとうございます」
「代わりに、非公式の意見役という扱いにする」
息を吐いた分だけ、胃が沈んだ。
「それは、言い方が変わっただけではありませんか」
「少し違う。君の名前は出さない。役職にも就けない。だが、必要な時に意見を聞く」
「それは」
「君が断れる形にする」
ユリウス先輩は、穏やかに言った。
「君は断る権利を重視しているのだろう?」
自分の言葉が返ってきた。
まただ。
また、自分の言葉で逃げ道を塞がれた。
ただし今回は、完全に塞がれたわけではない。
断る権利はある。
あるが、断るたびに自分の中に何かが残る形だ。
この人は、本当に嫌なところを突いてくる。
「……内容によります」
俺がそう答えると、ユリウス先輩は満足そうに笑った。
「うん。君らしい返事だ」
やめてほしい。
その返事が俺らしいものとして定着し始めている。
非常によくない。
その時、応接室の扉が強く叩かれた。
三人の視線が向く。
マティアス先輩が扉を開けると、そこにはギルバートが立っていた。
明らかに不機嫌な顔だった。
「失礼する」
失礼する、と言いながら、もう入ってきている。
俺は頭を抱えたくなった。
「レイヴン様」
「長い」
「はい?」
「話が長い。だから来た」
理由が雑すぎる。
だが、彼の目は真剣だった。
俺を見て、次にユリウス先輩を見る。
「クラインベルク先輩。アルバートをあまり追い詰めないでいただきたい」
空気が張った。
ユリウス先輩は微笑む。
「追い詰めているように見えるかな」
「見えます」
即答だった。
俺は反射的に口を開きかけた。
だが、止めた。
ギルバートは、今、自分の言葉で立っている。
それを俺がすぐ整えてしまうのは、違う気がした。
ユリウス先輩はギルバートを見た。
「レイヴン君。君は、アルバート君を守りたいのかな」
ギルバートは一瞬、詰まった。
ここで「はい」と言えば、俺を庇護対象として扱うことになる。
「いいえ」と言えば、今の発言が浮く。
ユリウス先輩は、そういう問い方をしている。
本当に嫌な人だ。
だが、ギルバートは逃げなかった。
「守りたい、というより」
彼は少し言葉を探した。
「俺は、こいつが安く扱われるのが気に食わない」
胸の奥が、少しだけ揺れた。
ギルバートの言葉は不器用だった。
でも、まっすぐだった。
「アルバートは、自分を大したことがないと言う。だが、周りはもうそう見ていない」
ギルバートはユリウス先輩を見た。
「だからこそ、上級生や高位貴族が使う時は、相応の扱いをすべきです」
セシリア嬢が、静かにギルバートを見ていた。
驚きと、少しの感心。
マティアス先輩も、目を細めている。
ユリウス先輩はしばらく黙った後、小さく笑った。
「なるほど。君も変わったね、レイヴン君」
「アルバートのせいです」
なぜ俺のせいになる。
いや、少しはそうなのかもしれない。
俺は頭が痛くなってきた。
ユリウス先輩は、俺を見る。
「いい友人を持ったね」
「友人かどうかは」
「友人だ」
ギルバートが即答した。
俺は言葉を失った。
友人。
その言葉は、少し重い。
前世では、友人という関係も何度も壊れた。
好意や嫉妬や誤解で。
だから今世では、距離を置きたかった。
それなのに。
ギルバートは、迷わずそう言った。
俺がどう返せばいいか分からずにいると、セシリア嬢が静かに微笑んだ。
その表情は、からかうものではなかった。
少しだけ、よかったですね、と言っているように見えた。
やめてほしい。
そういう目を向けられると、逃げにくくなる。
ユリウス先輩は立ち上がった。
「今日の話はここまでにしよう。アルバート君、君の条件は受け入れる。非公式に、必要な時だけ意見を求める。君には断る権利がある」
「ありがとうございます」
「ただし」
嫌な予感がした。
ユリウス先輩は、穏やかに笑った。
「君が断らない場面も、私はもう少し見てみたい」
ぞっとした。
この人は、俺が何を断れないかを見ようとしている。
俺の善意ではない。
俺の弱点を。
「クラインベルク先輩」
ギルバートが声を低くする。
だが、ユリウス先輩は気にしない。
「アルバート君」
彼は、俺に視線を戻した。
「君は、自分が思っているより高く売れる人間だよ」
その瞬間、俺は理解した。
この人は、俺を褒めているのではない。
値をつけているのだ。
俺という人間に。
俺の処世術に。
俺の火種を見る目に。
俺が、見えてしまったものを放っておけない弱さに。
値をつけている。
胸の奥が、冷たくなる。
前世でも、似たようなことがあった。
顔に値をつけられた。
優しさに値をつけられた。
断れない性格に値をつけられた。
今世では凡庸な顔に生まれたはずなのに。
また、別のものに値をつけられている。
俺はゆっくり息を吸った。
そして、できるだけ穏やかに答えた。
「私は売り物ではありません」
ユリウス先輩の目が、わずかに見開かれた。
ほんの少し。
本当に一瞬。
だが、それだけで十分だった。
初めて、この人の笑顔に小さな傷が入った気がした。
「……そうか」
ユリウス先輩は、静かに笑った。
「それは失礼した」
謝罪の形をしている。
だが、本当に謝っているかは分からない。
この人は、たぶん今の返しすら面白がっている。
「では、今日は解散にしよう」
マティアス先輩が場を締めた。
ギルバートはまだ何か言いたそうだったが、俺が視線で止めると、黙ってくれた。
以前なら止まらなかったかもしれない。
それだけで、少しありがたい。
応接室を出た後、しばらく誰も話さなかった。
廊下には夕方の光が差している。
窓の外では、庭の木々が揺れていた。
ギルバートが、やがて低く言った。
「すまん」
「何がですか」
「勝手に友人と言った」
俺は少し黙った。
そして、言った。
「嫌ではありませんでした」
言った瞬間、自分で驚いた。
ギルバートも驚いた顔をした。
セシリア嬢は、少しだけ目を細める。
俺は慌てて付け加えた。
「ただ、そういう言葉は慎重に扱ったほうがよろしいかと」
「分かった」
ギルバートは素直にうなずいた。
「だが、取り消さない」
「そこは取り消しても」
「取り消さない」
頑固だ。
非常に頑固だ。
だが、その頑固さが少しだけ頼もしいと思ってしまった。
よくない。
本当によくない。
セシリア嬢が隣に並んだ。
「アルバート様」
「はい」
「先ほどの言葉、とてもよかったですわ」
「先ほどの?」
「私は売り物ではありません、という言葉です」
俺は視線を逸らした。
「少し、感情的でした」
「いいえ。必要な線引きでした」
線引き。
最近、俺はよく線を引いている。
自分を使わせないために。
誰かを守る制度が、誰かを縛る仕組みにならないように。
そして、自分自身がまた、誰かの期待や好意や善意に絡め取られないように。
うまく引けているかは、分からない。
だが、引かないよりはましだ。
「クラインベルク様は危険です」
セシリア嬢が静かに言った。
俺は少し驚いた。
「グランベル様が、そこまではっきり言うのですね」
「ええ」
彼女は窓の外を見た。
「悪意がないからこそ、危険です。あの方は、自分が正しいと思えば、人を配置します。必要なら、相手が望んでいなくても」
「はい」
「あなたを評価しています」
「それが一番困ります」
「ええ」
セシリア嬢は俺を見た。
「だから、今の言葉を忘れないでください」
「今の言葉?」
「私は売り物ではありません」
俺は黙った。
彼女は続けた。
「あなたは、自分を安く扱いすぎます。誰かのためなら、すぐに自分の時間も立場も差し出してしまう」
「そんなことは」
「あります」
即答だった。
なぜ皆、俺の否定を待ってくれないのか。
セシリア嬢の声は柔らかかった。
だが、逃げ道はなかった。
「誰かの面子を守るのが上手な方は、自分の尊厳を後回しにしがちです」
胸に刺さった。
兄にも似たようなことを言われた気がする。
人の面子を守るのが上手いお前は、自分の面子を後回しにしがちだ、と。
どうして、こういうところだけ皆よく見るのだろう。
俺は小さく息を吐いた。
「気をつけます」
「はい」
セシリア嬢はそれ以上言わなかった。
隣にはギルバートがいる。
少し前を、マティアス先輩が歩いている。
その背中を見ながら、俺は思った。
俺はもう、完全に背景ではいられないのかもしれない。
男爵家次男。
凡庸な顔。
目立たない立場。
そのはずだった。
だが、相談制度、相談箱、守秘条項、上級生、侯爵家嫡男。
少しずつ、俺の周りに線が引かれていく。
俺が引いた線もあれば、誰かに引かれた線もある。
その線がいつか、檻になるかもしれない。
そう思った時、少しだけ怖くなった。
その夜。
俺は自室で、兄への手紙を書いていた。
最近の俺の手紙は、もはや学院生活の報告ではない。
事件報告である。
しかも、毎回自分が関わっている。
非常によくない。
俺はペンを持ったまま、しばらく悩んだ。
どこまで書くべきか。
正直に書けば、兄の胃を痛める。
書かなければ、後で噂として伝わった時にもっと胃を痛める。
悩んだ末、俺はこう書いた。
『兄上。
本日、クラインベルク侯爵家のユリウス先輩と、相談制度の運用について話しました。
私に正式な役職を与えようという話が出ましたが、断りました。
非公式に意見を求められる可能性は残りましたが、断る権利は確認しました。』
ここまで書いて、手が止まる。
まだ書くべきことがある。
俺は少し迷ってから、続けた。
『また、私は売り物ではない、と言いました。』
書いた瞬間、なぜか少し恥ずかしくなった。
何を書いているのだ、俺は。
兄に送る手紙に書く内容だろうか。
だが、消さなかった。
たぶん、兄なら分かる。
俺が何に対して、その言葉を言ったのか。
さらに一文を足した。
『ギルバート・レイヴン様が、私を友人だと言いました。』
これもまた、書くべきか迷った。
だが、書いた。
兄はきっと驚くだろう。
たぶん、少し安心もする。
俺に友人ができたことを。
ただし、その相手が伯爵家嫡男であることには頭を抱えるだろう。
すみません、兄上。
俺の普通は、また少し遠ざかりました。
俺は最後に、こう書いた。
『ご心配には及びません。
今のところ、私はまだ私のままです。』
書いてから、少しだけ手が止まった。
本当にそうだろうか。
学院に来てから、俺は変わっている。
人を避けて、背景でいるつもりだった。
だが、ギルバートに友人と言われて、嫌ではなかった。
セシリア嬢に線引きを褒められて、少し救われた。
ニールが相談箱に少し安心した顔をした時、よかったと思った。
ユリウス先輩に値をつけられて、腹が立った。
前世の俺なら、笑って流していたかもしれない。
今世の俺は、売り物ではないと言った。
変わっていないとは、言い切れない。
だが。
悪い変化だけではないのかもしれない。
俺は手紙を畳み、封をした。
その時、扉が叩かれた。
寮の使用人が、包みを持って立っていた。
「アルバート様。ご実家より、お届け物です」
「実家から?」
俺は包みを受け取った。
中には、茶葉が入っていた。
大量に。
かなり大量に。
そして、兄の短い手紙が添えられていた。
『リオネルへ。
お前の手紙を読んでいると、茶葉が足りなくなる気がしたので送る。
まず茶を飲め。
それから、自分が売り物ではないことを忘れるな。
兄より』
俺は、その手紙をしばらく見つめた。
まだ送っていない手紙の内容を、兄が先に知っているはずはない。
それなのに、まるで今の俺に必要な言葉だった。
俺は小さく笑ってしまった。
兄上。
やはり、あなたはすごい人です。
俺は茶葉を手に取り、湯を沸かす準備をした。
まず茶を飲む。
それから考える。
兄の言葉を、今夜は素直に守ることにした。
翌朝。
俺の机の上には、新しい資料は置かれていなかった。
封書もない。
包みもない。
何もない。
俺は深く安堵した。
ようやく平穏な朝だ。
そう思った瞬間、教室の入口にユリウス・クラインベルク先輩が現れた。
周囲の生徒たちがざわめく。
俺は静かに目を閉じた。
見なかったことにしたい。
だが、侯爵家嫡男は消えない。
ユリウス先輩は、まっすぐ俺のほうへ歩いてきた。
そして、穏やかに微笑んだ。
「アルバート君。昨日の件で、君に謝罪と訂正をしに来た」
教室が静まり返る。
やめてほしい。
ここでそれを言うと、目立つ。
非常に目立つ。
ユリウス先輩は、俺の前で足を止めた。
「君は売り物ではない。失礼な言い方だった」
「……ご丁寧にありがとうございます」
「だから、言い直そう」
嫌な予感がした。
非常に嫌な予感がした。
ユリウス先輩は、完璧な笑顔で言った。
「君は、値段をつけるより先に、信用を得るべき人間だ」
周囲がざわめいた。
ギルバートが後ろで立ち上がりかける気配がした。
セシリア嬢が入口の向こうで、額に手を当てているのが見えた。
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
この人は、謝罪すら火種に変えるのか。
笑いながら、今度は値札ではなく、看板をかけてきた。
値段ではない。
信用。
それは、もっと厄介だ。
一度得た信用は、期待に変わる。
期待は、役割に変わる。
役割は、鎖になる。
俺は、ユリウス先輩を見た。
「クラインベルク様」
「何かな」
「今後、私を褒める時は、人の少ない場所でお願いします」
ユリウス先輩は一瞬黙り、それから楽しそうに笑った。
「覚えておくよ」
絶対に覚えるだけだ。
守るとは限らない。
俺は確信した。
ギルバートが後ろで低く呟いた。
「やはり、あの人は危ない」
同感だった。
セシリア嬢も、遠くから小さくうなずいている。
俺は机に手を置き、静かに天井を仰いだ。
俺は誰にも好かれたくなかった。
誰にも値をつけられたくなかった。
誰の期待にも絡め取られたくなかった。
それなのに。
侯爵家嫡男は笑顔で近づき、伯爵家嫡男は友人だと言い、侯爵令嬢は俺の線引きを見ている。
俺の平穏は、今日も遠い。
そしてどうやら、この学院では。
静かに暮らしたいという願いほど、叶えるのが難しいらしい。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、ユリウスがリオネルを“評価”ではなく“値踏み”しようとする回でした。
リオネルは一応、正式な役職からは逃げました。
ただし、逃げ道はまた少し狭くなっています。
笑顔で首輪をはめようとしてくるユリウスと、不器用にリオネルを守ろうとするギルバート。
リオネルの平穏がまた一歩遠ざかりました。
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