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【連載版】凡庸な男爵家次男は、誰にも好かれたくない 〜前世でモテすぎて疲れた俺、今世は静かに暮らしたいのに学院の火種ばかり見えてしまう〜  作者: 平八
第一章 逃げ道と、石畳の学院

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第5話 凡庸な男爵家次男は、匿名相談を信じすぎない

主な登場人物:

リオネル・アルバート……男爵家次男。静かに暮らしたいが、火種を見つけると放っておけない。

セシリア・グランベル……侯爵令嬢。リオネルの本質を見抜きつつある。

マティアス・フォルナー……学生自治会副会長。優秀だが、人を使うのも上手い。

エリーゼ・ベネット……平民出身の奨学生。読書会に参加し始めた少女。

俺は、紙を見つめていた。


机の上に置かれていた一枚の資料。


表紙には、大きくこう書かれている。


『新入生相談受付制度 試案』


そこまではいい。


いや、本当はよくない。


よくないが、昨日の流れを考えれば、まだ分かる。


問題は、その下だった。


『草案協力者 リオネル・アルバート』


俺は、その文字をしばらく見つめた。


見間違いではない。


消えもしない。


何度見ても、そこには俺の名前があった。


誰だ。


誰がこれを刷った。


いや、誰が許可した。


少なくとも俺は許可していない。


昨日、俺は学生自治会副会長のマティアス・フォルナー先輩に、相談を個人ではなく仕組みにしたほうがいい、と言った。


確かに言った。


相談を受ける者を一人にしないこと。

責任の所在を曖昧にしないこと。

相談される側にも断る権利を設けること。


そんな話をした。


だが、名前を載せていいとは言っていない。


絶対に言っていない。


俺は資料を裏返した。


そこにも、しっかりと俺の名前があった。


『草案協力者 リオネル・アルバート』


裏にも書く必要があるのか。


何のために。


「リオネル様」


横から声がした。


ニール・ロイドだった。


平民出身の奨学生で、最近なぜか俺に話しかけることが増えた少年である。


彼は資料を見て、少し目を輝かせた。


「すごいですね。正式な制度の草案に名前が載るなんて」


「すごくありません」


「そうでしょうか」


「すごいことにすると、私の逃げ道がなくなります」


ニールは一瞬きょとんとした。


それから、少し困ったように笑う。


「リオネル様らしいですね」


やめてほしい。


その言い方は、俺を理解している人間の言い方だ。


理解されると、距離が近くなる。


距離が近くなると、面倒が増える。


前世で学んだことの一つである。


俺は資料を丁寧に折り畳もうとした。


その時、教室の入口のほうから声が聞こえた。


「あ、あの方ですわ」


「草案協力者のアルバート様?」


「相談制度を作った方なのでしょう?」


違う。


違う違う違う。


作っていない。


少し口を挟んだだけだ。


少し口を挟んだ結果、名前を載せられただけだ。


俺は心の中で否定したが、声には出さなかった。


否定の仕方を間違えると、かえって目立つ。


だから、聞こえなかったふりをした。


すると、今度は別の方向から声がした。


「アルバート。お前、今度は自治会にまで手を出したのか」


ギルバート・レイヴンだった。


伯爵家嫡男。


初日に嫉妬で火を噴きかけ、翌日には平民奨学生のニールに謝意を示した男である。


最近、少しずつ周囲の見方が変わってきている。


良い方向に。


それは素直に喜ばしい。


ただし、俺に話しかける回数が増えたことを除けば。


「手は出していません」


「名前が載っているぞ」


「載せられました」


「同じではないのか?」


「まったく違います」


ギルバートは資料を覗き込み、少し笑った。


「お前らしいな。相談役にはならないと言いながら、制度のほうに名前が残るとは」


「笑い事ではありません」


「俺は少し面白い」


「レイヴン様」


「何だ」


「性格が悪くなっておられませんか」


「お前に感化されたのかもしれん」


非常に心外だった。


俺はそこまで性格が悪くない。


たぶん。


ギルバートの後ろから、クラウス・ヴェルナーも顔を出した。


子爵家の三男で、ギルバートの取り巻きの一人だった少年だ。


最近は、取り巻きというより、ギルバートを冷静に支える側に少しずつ変わり始めている。


「アルバート君。おめでとう」


「何がですか」


「これで君も、正式に学院の面倒ごとに名前を刻んだわけだ」


「不吉な言い方をしないでください」


「事実だろう?」


否定できないのが腹立たしい。


その時、寮の使用人ではなく、学生自治会の腕章をつけた上級生が教室へ入ってきた。


嫌な予感がした。


非常に嫌な予感がした。


上級生は俺の前で立ち止まり、丁寧に礼をした。


「リオネル・アルバート殿。マティアス副会長がお呼びです」


「今ですか」


「はい。可能な範囲で、とのことです」


可能な範囲。


またそれか。


俺の周囲の人間は、最近この言葉を便利に使いすぎている。


可能な範囲、と言えば逃げ道を残しているように見える。


だが実際には、可能な範囲をこちらに決めさせることで、断る罪悪感を押しつけてくる。


高度な罠だ。


俺は小さく息を吐いた。


「授業までなら」


上級生はうなずいた。


「承知しました」


ギルバートが横から言った。


「行くのか」


「行かないと、また別の火種になりそうなので」


「お前は本当に火種に敏感だな」


「できれば鈍感に生まれたかったです」


本音だった。


心からの本音だった。


学生自治会室には、すでにマティアス・フォルナー先輩がいた。


二学年上。

侯爵家次男。

学生自治会副会長。


穏やかな笑みを浮かべているが、隙がない。


人を動かすことに慣れている目だ。


俺は礼を取った。


「お呼びでしょうか」


「来てくれて助かったよ、アルバート君」


「まず一点、確認してもよろしいでしょうか」


「何かな」


「資料に私の名前が載っていました」


「載せたね」


悪びれない。


まったく悪びれない。


俺は少しだけ深呼吸した。


「私は、掲載を了承しておりません」


「君の意見を草案に反映したから、協力者として明記した」


「相談制度の第一条に、本人の同意なく名前を出さない、と追加したほうがよろしいかと」


マティアス先輩は一瞬きょとんとした後、声を出して笑った。


「なるほど。これは一本取られた」


笑い事ではない。


本当に笑い事ではない。


「失礼。次回から確認しよう」


「ぜひお願いします」


「ただ、今日呼んだのはその件ではない」


分かっていた。


分かっていたが、心は沈んだ。


マティアス先輩は机の上から一枚の紙を取り上げた。


「相談制度の試運転として、早速相談が届いた」


早すぎる。


制度はまだ試案ではなかったのか。


「試運転なのでは?」


「試運転だからこそ、受けた相談をどう扱うかを検討したい」


「それは自治会の仕事では」


「もちろんそうだ。だから、草案協力者の意見を聞きたい」


まただ。


草案協力者という言葉が、俺の首に紐のようにかかっている。


俺は椅子に座るよう促され、仕方なく腰を下ろした。


マティアス先輩は紙を俺の前に置いた。


そこには、綺麗な文字でこう書かれていた。


『読書会にて、平民出身の奨学生エリーゼ・ベネット嬢が、貴族令嬢に恥をかかせる発言をした。

学院の秩序を乱す行為であり、今後の読書会への参加を見直すべきではないか。

匿名希望』


俺は黙ってその文章を読んだ。


二度読んだ。


そして、紙を机に戻した。


「これは相談ではありません」


マティアス先輩の目が、わずかに動いた。


「理由を聞こうか」


「相談ではなく、処分を求める訴えです」


「なるほど」


「しかも匿名で、誰が、どの発言によって、どのように傷ついたのかが曖昧です」


マティアス先輩は黙って聞いている。


俺は続けた。


「このまま扱うと、相談制度は初日から“誰かを排除するための箱”になります」


「厳しいね」


「厳しくしなければ危険です」


前世でも見たことがある。


相談。

告発。

被害の訴え。

助けてほしいという声。


それらは本来、誰かを守るためのものだ。


だが、使い方を間違えれば、誰かを刺す道具にもなる。


匿名であることは、弱い人を守る盾になる。


同時に、責任を負わずに誰かを攻撃する覆面にもなる。


どちらとして扱うか。


最初の一件で間違えれば、この制度はすぐに壊れる。


「アルバート君」


マティアス先輩は、少し真剣な声になった。


「君なら、どう扱う?」


「まず、匿名相談と匿名告発を分けます」


「ほう」


「助けを求める相談は匿名でも受ける。ただし、誰かに処分や制限を求める場合は、原則として具体的な事実確認が必要です」


「つまり、匿名のままではエリーゼ嬢の参加を止める根拠にはしない」


「当然です」


俺は即答した。


「これで参加を止めれば、次から気に入らない相手を匿名で追い落とせるようになります」


「君は、本当に物事の嫌な使われ方をよく考えるね」


「考えたくて考えているわけではありません」


前世で散々見た。


好意の名を借りた束縛。

心配の名を借りた監視。

正義の名を借りた攻撃。

相談の名を借りた支配。


言葉は、綺麗なほど危ない時がある。


「では、事実確認をするか」


マティアス先輩が言った。


「はい。ただし、エリーゼ様を呼び出して問い詰める形にはしないほうがいいです」


「なぜ?」


「それをすると、“やはり問題があったらしい”という空気が残ります」


「では?」


「読書会の運営改善という形で、関係者全員から話を聞くのがよいかと」


マティアス先輩は、少し楽しそうに目を細めた。


「君は、本当に逃げ道を作るのが上手い」


「逃げ道がない場所では、人はだいたい悪い選択をします」


「経験則かな」


「一般論です」


「そういうことにしておこう」


そういうことにしておいてほしい。


本当に。


放課後。


俺はまた、自治会室にいた。


帰りたい。


心から帰りたい。


だが、今回は俺一人ではなかった。


マティアス先輩。

セシリア・グランベル侯爵令嬢。

アメリア・ロッセ伯爵令嬢。

エリーゼ・ベネット。

そして、読書会に参加していた数名の令嬢。


その中には、昨日から少し気になっていた令嬢もいた。


ミリア・ハーゼン男爵令嬢。


淡い金髪をきっちりまとめた、小柄な少女だ。


家格は俺と同じ男爵家。


ただし、彼女は王都に近い家の出身で、社交への意識がかなり高いと聞く。


表情は穏やかに整えている。


だが、指先が落ち着かない。


視線が、エリーゼ嬢に向かってはすぐ逸れる。


ああ。


この子か。


そう思った。


もちろん、決めつけてはいけない。


だが、火種の匂いはする。


マティアス先輩が場を整えた。


「本日は、読書会の運営について確認したいことがあり、集まってもらった。誰かを責める場ではない。今後、参加者全員が安心して学べる場にするための話し合いだ」


上手い。


さすがに場慣れしている。


マティアス先輩は俺を見る。


なぜ見る。


俺は視線を逸らした。


セシリア嬢が静かに口を開いた。


「昨日の読書会では、古典詩の解釈について意見交換をいたしました。その中で、少し言葉の受け取り方に行き違いがあったようです」


エリーゼ嬢が背筋を伸ばした。


「私の発言でしょうか」


彼女はまっすぐだった。


怖くないわけではないだろう。


だが、逃げない目をしている。


その強さは長所だ。


同時に、嫉妬を呼ぶ理由にもなる。


ミリア嬢の指が、さらに落ち着かなくなった。


アメリア嬢が、少し心配そうに周囲を見る。


昨日よりは、自分一人で背負おうとしていない。


それは良い変化だ。


セシリア嬢が続けた。


「エリーゼ様は、詩の一節について、従来の解釈とは異なる意見を出されました」


「はい」


エリーゼ嬢はうなずいた。


「私は、あの詩が恋愛ではなく、故郷を失った人の哀しみを詠んだものではないかと述べました」


「その意見自体は、興味深いものでした」


セシリア嬢は言った。


「ですが、その際に“この解釈のほうが自然だと思います”とおっしゃいましたわね」


エリーゼ嬢の表情が少し曇る。


「はい」


「その言葉が、先に別の解釈を述べていた方には、“自分の意見が不自然だと言われた”ように聞こえたのかもしれません」


なるほど。


事実としては、小さい。


だが、貴族令嬢の場では小さくない。


先に意見を述べた者の面子。

平民出身者から訂正されたように見える形。

周囲の視線。

笑って受け流せばよかったのに、それができなかった自分への羞恥。


それらが重なると、火種になる。


マティアス先輩が全体を見た。


「その時、どなたが別の解釈を述べていたのかな」


沈黙。


ミリア嬢が、わずかに息を飲んだ。


そして、小さく手を上げた。


「……私です」


声は震えていた。


だが、逃げなかった。


俺は少しだけ感心した。


匿名のまま隠れることもできたはずだ。


それをしなかった。


いや、できなかったのかもしれない。


だが、どちらにせよ、ここからが大事だ。


マティアス先輩が穏やかに言った。


「ハーゼン嬢。あなたは、エリーゼ嬢の発言をどう受け取りましたか」


ミリア嬢は唇を噛んだ。


「私の意見を、間違いだと言われたように感じました」


エリーゼ嬢がすぐに顔を上げた。


「そのつもりはありませんでした」


「分かっています」


ミリア嬢は、思ったより早くそう言った。


だが、その目には涙が浮かびかけている。


「でも、分かっていても、恥ずかしかったのです」


エリーゼ嬢は黙った。


ミリア嬢は続けた。


「皆様の前で、平民出身の方に、私の意見より自然だと言われた。そう聞こえてしまって……私は、何も言えなくなりました」


その場が静かになる。


誰もすぐには言葉を出せなかった。


身分があるから傷つかないわけではない。


平民出身だから常に弱者というわけでもない。


人は、いろいろな場所で傷つく。


ミリア嬢は男爵家の令嬢だ。


高位貴族から見れば下位。

だが、平民出身者から見れば貴族。


彼女が学院で守ろうとしているものは、おそらく多くない。


貴族令嬢であること。

礼儀を知っていること。

社交の場で失敗しないこと。


その小さな誇りを、彼女は必死に握っている。


そこへ、平民出身で優秀なエリーゼ嬢が現れた。


学問では勝てない。

セシリア嬢にも認められている。

アメリア嬢とも話せる。


では、自分には何が残るのか。


そういう恐怖が、見えた気がした。


エリーゼ嬢は、少し迷ってから言った。


「私は、あなたを恥ずかしめるつもりはありませんでした」


「分かっています」


ミリア嬢の声が少し強くなる。


「それが、余計に苦しいのです」


エリーゼ嬢が目を見開いた。


「あなたは悪気がない。実際、きっと悪くない。だから私は、自分が惨めに感じたことを責める相手がいなかった」


ミリア嬢の声が震えた。


「平民出身なのに、ではなく、平民出身でもあれほど堂々と意見を言えるあなたが羨ましかったのです」


それは、かなり正直な言葉だった。


場の空気が変わった。


匿名の訴えとして届いた時は、ただエリーゼ嬢を排除しようとする悪意に見えた。


だが、実際にはその奥に、劣等感があった。


もちろん、劣等感があるから匿名で相手を追い落としていいわけではない。


それは別だ。


ここを混ぜてはいけない。


俺は静かに口を開いた。


「ハーゼン様」


ミリア嬢がこちらを見る。


「はい」


「今のお話は、とても大事なことだと思います」


彼女の目が揺れた。


責められると思っていたのかもしれない。


「ただし」


俺は言葉を続けた。


「匿名でエリーゼ様の参加を見直すよう求めたことは、別の問題です」


ミリア嬢の顔が青ざめた。


周囲の令嬢たちも息を飲む。


俺は強く言いすぎないよう、声を整えた。


「傷ついたことを相談するのは、悪いことではありません。ですが、傷ついたからといって、相手の居場所を奪う方向へ話を運ぶのは危険です」


ミリア嬢は俯いた。


「……はい」


「相談は、助けを求めるためのものです。誰かを追い出すためのものではありません」


マティアス先輩が、静かにこちらを見ている。


セシリア嬢も、俺を見ている。


見ないでほしい。


今、かなり目立っている。


本当に嫌だ。


だが、ここは言わなければならない。


最初の一件だ。


ここで曖昧にすると、相談制度そのものが歪む。


「もし次に同じようなことがあれば、“自分がどう感じたか”を相談してください。“相手をどう処分してほしいか”ではなく」


ミリア嬢の肩が震えた。


「私は……エリーゼ様を追い出したかったわけでは」


「はい」


「でも、結果的には、そういう言葉になっていました」


「はい」


俺はうなずいた。


「そこに気づけるなら、まだ間に合います」


ミリア嬢は顔を上げた。


その目には涙が浮かんでいた。


だが、泣き崩れるほどではない。


踏みとどまっている。


「エリーゼ様」


ミリア嬢は、小さく頭を下げた。


「申し訳ありませんでした。私は、あなたの言葉で傷ついたことを、あなたの居場所を奪う理由にしようとしていました」


エリーゼ嬢は、すぐには答えなかった。


それでいい。


すぐに許す必要はない。


謝罪されたからといって、傷ついた側が即座に微笑む義務はない。


エリーゼ嬢は少し考えた後、言った。


「私も、言葉の選び方が足りませんでした」


「そんなことは」


「いいえ」


エリーゼ嬢は首を横に振った。


「私は、正しさを伝えることばかり考えていました。相手がどう受け取るかまでは、見ていませんでした」


その言葉に、ミリア嬢が顔を上げる。


エリーゼ嬢は続けた。


「次からは、“私はこうも読めると思います”と言います。“このほうが自然です”ではなく」


ミリア嬢は、何度も小さくうなずいた。


「ありがとうございます」


火は消えた。


少なくとも、今ここで燃え上がることはない。


だが、まだ終わっていない。


マティアス先輩が口を開いた。


「今回の件を踏まえ、相談制度には補足を加える」


全員の視線が彼に集まる。


「匿名相談は受け付ける。ただし、特定の人物への処分や参加制限を求める場合は、事実確認と記名を原則とする」


マティアス先輩は俺をちらりと見た。


「そして、相談者の感情と、相手への処分要求は分けて扱う」


良い。


かなり良い。


俺は心の中でうなずいた。


これなら、相談は守れる。


同時に、悪用も防ぎやすくなる。


セシリア嬢が静かに言った。


「女性同士の読書会でも、今後は発言の前に一つ約束を置きましょう」


「約束、ですか」


アメリア嬢が尋ねる。


セシリア嬢はうなずいた。


「意見を変えることは、恥ではない。知らないことを聞くことも、恥ではない。違う解釈を出すことは、相手を否定することではない」


良い言葉だ。


セシリア嬢は本当に、場を整えるのが上手い。


そして、俺より堂々としている。


できれば全部任せたい。


心から任せたい。


アメリア嬢が少し微笑んだ。


「では、読書会の最初にその約束を読み上げましょうか」


エリーゼ嬢もうなずいた。


「私も、そのほうが発言しやすいです」


ミリア嬢は小さな声で言った。


「私も……質問しやすくなると思います」


よかった。


これで、読書会は少しだけ良い場になる。


俺はようやく息を吐いた。


帰れる。


今度こそ帰れる。


そう思った時だった。


マティアス先輩が言った。


「では、アルバート君。今の内容を制度の補足文としてまとめてくれるかな」


帰れなかった。


俺はゆっくりとマティアス先輩を見た。


「なぜ私が」


「一番分かりやすく整理していたから」


「自治会でお願いします」


「もちろん自治会で整える。だが、叩き台があると助かる」


「私は草案協力者であって、書記ではありません」


「では、草案補足協力者ということで」


増えた。


役職のようなものが増えた。


非常によくない。


セシリア嬢が口元を押さえている。


笑っている。


確実に笑っている。


俺はため息を飲み込んだ。


「……短くであれば」


「助かる」


まただ。


また助けてしまった。


いや、今回は制度のためだ。


誰か一人が潰れないための仕組みのためだ。


そう自分に言い聞かせる。


言い聞かせないと、やっていられない。


話し合いが終わり、自治会室を出ると、廊下でミリア嬢が俺を待っていた。


彼女は俺を見ると、慌てて頭を下げた。


「アルバート様」


「ハーゼン様」


「先ほどは、ありがとうございました」


「私は礼を言われる立場ではありません」


「いいえ」


彼女は首を横に振った。


「叱っていただけて、助かりました」


叱ったつもりはない。


だが、たぶん彼女にはそう聞こえたのだろう。


ミリア嬢は、少し恥ずかしそうに言った。


「私は、エリーゼ様が怖かったのだと思います」


「怖い、ですか」


「はい。平民出身なのに、ではなく……私よりずっと自由に見えたのです」


自由。


その言葉は、少し意外だった。


「私は貴族令嬢なのだから、こう振る舞わなければならない。恥をかいてはいけない。間違えてはいけない。そう思っていました」


「はい」


「でも、エリーゼ様は、知らないことは知りたいと言い、思ったことを言葉にしていました。それが、とても怖くて、羨ましかった」


なるほど。


身分の差ではない。


自由に見える者への嫉妬。


それもまた、よくある火種だった。


「自由に見える人が、本当に自由とは限りません」


俺は言った。


ミリア嬢が顔を上げる。


「エリーゼ様にも、エリーゼ様の不自由があります。平民出身だからこそ、間違えた時に“やはり平民は”と言われる怖さがあるはずです」


ミリア嬢は黙った。


「だから、どちらが楽かではなく、どちらも違う場所で苦しいのだと思います」


「違う場所で、苦しい」


「はい」


ミリア嬢はその言葉を、そっと繰り返した。


そして、少しだけ笑った。


「覚えておきます」


「私の言葉など、話半分で」


「それは難しいです」


なぜだ。


話半分でいい。


本当に。


ミリア嬢が去った後、今度はセシリア嬢が現れた。


当然のように。


本当に当然のように。


「アルバート様」


「グランベル様。今日はもう何もありませんよね」


「ええ。今日は」


今日は。


その言葉が怖い。


俺は無言で歩き出した。


セシリア嬢は隣に並ぶ。


「今日のあなたは、少し厳しかったですわね」


「そうでしたか」


「ええ。でも、必要な厳しさでした」


俺は少し黙った。


「私は、厳しくするのが苦手です」


「そうは見えませんでした」


「見えないようにしただけです」


セシリア嬢は俺を見た。


「では、なぜ言えたのですか」


「最初の一件だったからです」


「制度の?」


「はい」


俺は足を止めた。


窓の外には、夕方の光が差している。


「最初に使い方を間違えると、その後ずっと歪みます。相談という言葉で誰かを追い出せるようになったら、この制度はすぐ壊れます」


「だから、止めた」


「はい」


「では、それは火消しというより、火がつかないように薪の置き方を変えたのですね」


この人は、時々妙に分かりやすい言い方をする。


俺は小さく笑ってしまった。


「そうかもしれません」


セシリア嬢は少し目を細めた。


「今、笑いましたわね」


「気のせいです」


「いいえ。笑いました」


「見なかったことにしてください」


「できません」


本当に厄介な人だ。


セシリア嬢は静かに言った。


「アルバート様。あなたは、誰かの感情が壊れる前の音が聞こえるのでしょうね」


胸の奥が、少し冷えた。


初日に似たようなことを言われた。


まるで、人の感情が壊れる場面を何度も見てきた人のようだと。


この人は、少しずつ近づいてくる。


俺の見せたくない場所に。


「買いかぶりです」


「そういうことにしておきますわ」


いつもの返し。


だが、今日は少しだけ柔らかかった。


「ですが」


セシリア嬢は続けた。


「音が聞こえる方にも、耳を塞ぎたい時はありますでしょう」


俺は答えられなかった。


その通りだった。


聞こえるから助ける。


見えるから動く。


だが、聞こえないほうがよかったと思う時もある。


見えないほうが、ずっと楽だったと思う時もある。


前世でも。


今世でも。


俺は静かに言った。


「あります」


言ってから、自分で驚いた。


認めるつもりはなかった。


だが、言葉は出ていた。


セシリア嬢は、何も言わなかった。


ただ、隣を歩いていた。


それが少しありがたかった。


励まされるより。

褒められるより。

何かを聞かれるより。


黙って隣にいられるほうが、楽な時がある。


俺は、また厄介なことに気づいてしまった。


この人の距離の取り方は、少し危険だ。


近すぎない。

遠すぎない。

踏み込む時は踏み込み、引く時は引く。


前世で俺が散々身につけたはずの距離感を、この令嬢は自然にやっている。


非常によくない。


気を許しそうになる。


それは、よくない。


自室に戻った俺は、机に向かった。


兄への手紙を書くためだ。


最近、兄への手紙が懺悔文のようになっている気がする。


気のせいだと思いたい。


俺は便箋にペンを走らせた。


『兄上。


相談制度の試案に、私の名前が載りました。


抗議はしました。


今後は本人の同意なく名前を載せないという条項を提案しました。』


ここまで書いて、少し手が止まる。


続けて書いた。


『また、相談制度の初回で、匿名相談の扱いについて話し合いました。


相談は、誰かを守るための盾であって、誰かを刺すための剣ではない。


そういう内容を、制度に入れることになりました。』


書いてから、俺は眉を寄せた。


これは、どう見ても普通ではない。


学院生活の報告ではない。


制度設計の報告だ。


男爵家次男の新入生が、なぜ入学早々に相談制度の補足条項を書いているのか。


自分でも分からない。


俺は便箋を見つめた。


破りたい。


非常に破りたい。


だが、兄にはある程度正直に書いたほうがいい。


後から噂で聞くほうが、兄の胃に悪い。


たぶん。


俺は最後に一文を足した。


『ご心配には及びません。今回は、一人で抱え込まず、自治会とグランベル様を巻き込みました。』


書いた瞬間、また手が止まった。


グランベル様。


侯爵令嬢。


兄がこの名前を見たら、どう思うだろう。


おそらく、頭を抱える。


いや、絶対に抱える。


俺はしばらく悩んだ。


そして、その一文を消した。


代わりにこう書いた。


『ご心配には及びません。今回は、一人で抱え込まず、複数名で対応しました。』


嘘ではない。


嘘ではないが、かなり情報を削った。


兄上、すみません。


これは優しさです。


たぶん。


翌朝。


俺の机の上には、また資料が置かれていた。


見なかったことにしたい。


しかし資料は消えない。


表紙には、昨日より少しだけ増えた文字があった。


『新入生相談受付制度 試案・補足版』


そして下には、こう書かれていた。


『草案協力者 リオネル・アルバート』


さらに、その横に小さく追記されていた。


『補足条項協力者 リオネル・アルバート』


俺はしばらく、それを見つめた。


名前が増えている。


役割も増えている。


本人同意の条項は、どこへ行った。


その時、横からニールが言った。


「リオネル様。すごいですね。肩書きが増えています」


「すごくありません」


「でも、正式に認められている感じがします」


「認められるたびに、平穏が遠ざかっています」


ギルバートが後ろから資料を覗き込んだ。


「アルバート。今度は補足条項協力者か」


「読み上げないでください」


クラウスが笑いを堪えている。


「そのうち、相談制度顧問になるかもしれないな」


「絶対になりません」


セシリア嬢が教室の入口からこちらを見ていた。


そして、にこりと微笑んだ。


「アルバート様」


嫌な予感がした。


「次の補足条項について、少しご相談が」


俺は静かに目を閉じた。


相談。


また相談。


俺は誰にも好かれたくなかった。


誰にも頼られたくなかった。


ただ、兄を支えて、領地で静かに暮らすつもりだった。


それなのに。


俺の名前は、今日も資料に載っている。


火種は消えない。


むしろ、制度になって増えている気さえする。


俺は小さく息を吐いた。


「内容によります」


そう答えた瞬間、周囲の数人が笑った。


非常によくない。


完全に、いつもの返事として覚えられている。


俺の静かな学院生活は、今日も静かではない。


そして机の上の資料は、何度見ても消えていなかった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


今回は、相談制度が“誰かを守る盾”ではなく“誰かを刺す剣”として使われかけるお話でした。


リオネルは相談役になりたくないのに、肩書きだけが少しずつ増えています。


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