第4話 凡庸な男爵家次男は、相談役にはなりたくない
前回まで:
リオネルは、侯爵令嬢セシリアの友人アメリアが抱えていた“笑顔の裏の苦しさ”に関わることに。
今回は、学生自治会と騎士家の生徒が絡むお話です。
主な登場人物:
リオネル・アルバート……男爵家次男。静かに暮らしたいが、人間関係の火種を見つけると放っておけない。
ニール・ロイド……平民出身の奨学生。成績優秀だが、その優秀さが周囲の嫉妬を呼びやすい。
翌朝。
俺は、机の上を見て安堵した。
封書がない。
レイヴン伯爵家の封書もない。
グランベル侯爵家の封書もない。
ロッセ伯爵家からの茶葉もない。
何もない。
なんて素晴らしい朝だろう。
俺は心の底からそう思った。
ようやく普通の学院生活が始まる。
授業を受け、食堂で食事をし、図書室で少し本を読み、寮へ戻る。
そういう平穏な一日。
俺が望んでいたのは、それだけだ。
「アルバート様」
その声が聞こえた瞬間、俺は静かに目を閉じた。
平穏は、短かった。
振り向くと、アメリア・ロッセ伯爵令嬢が立っていた。
昨日、笑顔の裏に抱えていた苦しさを、少しだけ言葉にできた令嬢だ。
彼女は両手で小さな包みを持っていた。
「昨日のお茶、いかがでしたか?」
「大変良い香りでした」
実際、良い茶葉だった。
兄からの手紙に「まず一度、茶を飲め」と書かれていたこともあり、昨夜はありがたく飲ませてもらった。
火種の後始末として届いた茶葉であることを除けば、非常に良い茶だった。
アメリア嬢はほっとしたように笑った。
昨日までの笑顔より、少しだけ肩の力が抜けている。
それは良いことだ。
本当に良いことだ。
ただし、その隣にセシリア・グランベル侯爵令嬢がいることを除けば。
「アルバート様」
セシリア嬢は優雅に微笑んだ。
「今日のお昼も、お茶をご一緒しませんか?」
「なぜ、そうなるのでしょうか」
「お兄様から、茶を飲むように言われたのでしょう?」
「兄の言葉が、なぜグランベル様の中で茶会の開催理由になっているのですか」
「よい言葉は、皆で実行したほうがよろしいかと」
よくない。
少なくとも、俺にとってはよくない。
「申し訳ありませんが、本日は少し静かに過ごしたく」
「リオネル様」
今度は横から声がした。
ニール・ロイドだった。
平民出身の奨学生で、最近なぜか俺に話しかけることが増えた少年である。
彼は少し困った顔をしていた。
「どうしました」
「実は、少し相談したいことが」
相談。
その言葉を聞いた瞬間、俺の心は静かに沈んだ。
セシリア嬢が、ほんの少し楽しそうにこちらを見る。
アメリア嬢は心配そうに俺を見る。
やめてほしい。
そういう目で見られると、断りにくくなる。
俺は小さく息を吐いた。
「内容によります」
最近、この言葉を使う回数が増えている。
非常によくない傾向だ。
ニールは声を落とした。
「昨日の古代史の件で、少し騎士家の方々から目をつけられてしまったようで」
ああ。
なるほど。
昨日、ニールは皆の前で古代史の試験問題について見事な説明をした。
それ自体は良かった。
平民出身の奨学生として、実力を示せた。
ギルバートも彼を認めた。
クラウスも表面上は引いた。
だが、問題はそこではない。
貴族学院には、学問で認められることを喜ぶ者ばかりではない。
特に騎士家の子弟にとって、机上の知識で自分たちの誇りを傷つけられることは、時に剣で負けるより面倒な火種になる。
「具体的には?」
「戦術基礎の予習会で、私が意見を言ったのですが……」
ニールが言いかけたところで、教室の入口に影が差した。
「リオネル・アルバート殿はいるか」
低い声。
振り向くと、そこに立っていたのは背の高い上級生だった。
濃い青の制服。
襟元には学生自治会を示す銀の徽章。
整った顔立ちだが、目に隙がない。
周囲の生徒たちが、自然と姿勢を正した。
「マティアス・フォルナー様……」
誰かが小さく呟いた。
フォルナー侯爵家の次男。
学生自治会の副会長。
二学年上の実力者。
噂では、学院内の揉め事の処理に長け、教師からも高位貴族からも信頼されている人物らしい。
つまり、面倒ごとの匂いがする。
非常にする。
俺は立ち上がって礼を取った。
「アルバート男爵家次男、リオネルです。何か御用でしょうか」
マティアス先輩は穏やかに微笑んだ。
「少し時間をもらえるかな」
「授業前ですので、短時間でしたら」
「昼休みに自治会室へ来てほしい」
短時間ではなかった。
俺は内心で頭を抱えた。
「理由を伺っても?」
「新入生間の小さな行き違いについてだ。君が適任だと聞いている」
適任。
その言葉が、嫌だった。
誰が言ったのかは分からない。
だが、最近の流れを考えれば、おおよそ想像はつく。
ギルバート。
クラウス。
ニール。
セシリア嬢。
アメリア嬢。
誰か一人というより、複数の噂が合わさった結果だろう。
男爵家の次男なのに、なぜか揉め事の場にいる。
誰かを責めずに話を収める。
高位貴族にも平民にも妙に距離を取られない。
そういう厄介な噂だ。
俺は丁寧に頭を下げた。
「恐れながら、私は自治会の者ではありません」
「もちろん分かっている」
「また、男爵家の次男に過ぎません」
「だからこそだ」
マティアス先輩は笑みを崩さずに言った。
「身分が高すぎれば、相手は構える。低すぎれば、話を聞かれない。その点、君はちょうどいい」
ちょうどいい。
便利な駒に向ける言葉としては、かなり正直だった。
悪意はない。
たぶん、この人は本気でそう思っている。
学院内の火種を処理するために、最も摩擦の少ない人物を使う。
合理的だ。
そして、とても危険だ。
合理的に使われる人間は、気づいた時には逃げ道を失っている。
「昼休み、待っている」
マティアス先輩はそれだけ言うと、教室を出ていった。
残された教室に、妙なざわめきが広がる。
セシリア嬢が、静かに俺を見ていた。
「アルバート様」
「何でしょう」
「今の顔は、逃げたい顔でしたわ」
「常に逃げたいとは思っています」
「では、どうなさいますか」
俺は自分の机を見た。
今朝は何もなかった机。
ようやく平穏が戻ると思った机。
それなのに今は、目に見えない封書が置かれたような気分だった。
俺は小さく息を吐いた。
「話だけ聞きます」
「それは、ほとんど巻き込まれる時の言葉ですわね」
やめてほしい。
分かっていることを言わないでほしい。
昼休み。
自治会室は、学院本館の二階にあった。
広い部屋。
壁に並ぶ書棚。
中央には大きな円卓。
そこにいたのは、マティアス先輩だけではなかった。
ギルバート・レイヴン。
クラウス・ヴェルナー。
ニール・ロイド。
そして、見慣れない男子生徒が一人。
日に焼けた肌。
短く刈った灰色の髪。
体格は良く、手には剣だこがある。
騎士家の子息だろう。
彼は腕を組み、明らかに不機嫌そうな顔をしていた。
「来たか、アルバート」
ギルバートがこちらを見た。
その表情には、少し申し訳なさが混じっている。
つまり、彼も巻き込まれた側らしい。
俺は礼を取った。
「お待たせいたしました」
マティアス先輩が席を示す。
「座ってくれ。君には、少し話を聞いてほしい」
「先に確認させてください」
俺は座る前に言った。
「私はこの場で、何かを裁く立場ではありません」
マティアス先輩の目が、わずかに細くなった。
「もちろんだ」
「また、私の発言を自治会の判断として扱うこともお控えください」
ギルバートが少し目を見開いた。
クラウスは口元を押さえた。
マティアス先輩は、笑みを深めた。
「慎重だね」
「臆病なだけです」
「いや、賢い」
その評価は困る。
賢いと思われると、また仕事が増える。
俺はようやく席に着いた。
マティアス先輩は、騎士家の男子生徒を見た。
「ダリオ・ガードナー。ガードナー騎士爵家の長男だ」
ダリオは軽く顎を上げた。
「ダリオ・ガードナーだ」
「リオネル・アルバートです」
「知っている。最近、あちこちの揉め事に顔を出している男爵家次男だろう」
非常に不名誉な覚えられ方だった。
できれば知らないでいてほしかった。
マティアス先輩が説明する。
「問題は、戦術基礎の予習会で起きた。ロイド君が提出した戦術案が、教師から高く評価された。その際、ガードナー君の案が比較対象になった」
ダリオの眉が動く。
「比較対象ではない。俺の案が、間違いの見本にされた」
ニールが顔を上げる。
「私は、そのようなつもりでは」
「つもりがなくても、結果はそうなった」
ダリオの声には怒りがあった。
だが、怒りだけではない。
恥。
焦り。
そして、恐怖。
おそらく彼は、自分の成績が悪いこと自体より、それを周囲に見られたことを恐れている。
騎士家の長男。
家では剣を期待され、学院では実技も戦術もできて当然と思われる。
その彼が、平民出身の奨学生に戦術で負けた。
しかも、皆の前で。
火種としては十分すぎる。
「俺は、机の上だけで戦場を語るやつが嫌いだ」
ダリオはニールを睨んだ。
「現場では、兵は疲れる。馬は怯える。命令は届かない。補給は遅れる。地図通りになど進まない。それを、紙の上で線を引いて勝った気になるな」
ニールの顔がこわばった。
「私は、地図だけで勝てるとは言っていません」
「なら、なぜ俺の案を否定した」
「否定ではなく、補給線が伸びすぎると」
「それが机上の話だと言っている!」
声が大きくなる。
ギルバートが動こうとした。
俺は視線だけで制した。
ここでギルバートが止めると、伯爵家嫡男が平民奨学生を庇った形に見える。
そうなると、ダリオの面子はさらに傷つく。
俺はダリオを見た。
怒っている。
だが、まだ聞く耳はある。
怒りが言葉になっているうちは、まだ間に合う。
「ガードナー様」
「何だ」
「ロイド君の案は、どこが納得できませんでしたか」
「全部だ」
「全部、では教師に伝わりません」
ダリオの目が鋭くなる。
「俺に教師へ説明しろと?」
「いえ。ご自身の案の強みを、今ここで説明していただきたいのです」
部屋が静かになった。
ダリオは少し戸惑った顔をした。
おそらく、責められると思っていたのだろう。
だが、俺は責めない。
責めても火は大きくなるだけだ。
「強み?」
「はい。ロイド君の案が補給線を重視したものなら、ガードナー様の案には別の意図があったはずです」
ダリオは口を閉じた。
拳がわずかに緩む。
「……俺は、丘陵地帯での敵の動きを想定した」
「続けてください」
「正面から進めば補給は安定する。だが、それでは敵に読まれる。だから俺は、あえて側面の林道を使って、先に高地を取る案を出した」
ニールの表情が変わった。
俺は彼にも視線を向ける。
「ロイド君。その案自体はどう思いますか」
ニールは少し迷った。
だが、正直に答えた。
「高地を取れれば、有利です。敵の動きを制限できます」
ダリオの目が動いた。
ニールは続けた。
「ただ、私は林道の幅と、荷馬車の通行を考えていました。兵だけなら通れても、補給部隊が遅れると思ったのです」
ダリオは黙った。
怒りの熱が、少し下がる。
代わりに、考える顔になっていた。
俺は言った。
「つまり、ガードナー様は戦場の位置取りを重視し、ロイド君は補給の継続性を重視した」
マティアス先輩が、静かにこちらを見ている。
俺は続けた。
「どちらかが間違いというより、前提が違っていたのではありませんか」
「前提?」
ダリオが聞き返す。
「短期決戦なら、ガードナー様の案は強い。敵がこちらの動きを読む前に高地を押さえれば、勝機がある」
ダリオの顔が少し明るくなる。
「一方で、長期戦や補給が滞る状況なら、ロイド君の案のほうが安定する」
ニールも真剣に聞いている。
「教師がどちらを評価したのかは分かりません。ただ、もし教師が“失敗例”として扱ったのなら、それは案そのものではなく、前提条件を明記しなかった点かもしれません」
ダリオは黙った。
ニールも黙った。
ギルバートが小さく息を吐く。
クラウスは、少し面白そうにこちらを見ている。
やめてほしい。
面白がらないでほしい。
ダリオはしばらくして、低い声で言った。
「俺は、平民に負けたと思われたくなかった」
その言葉は、思ったよりも素直だった。
ニールが息を飲む。
ダリオは顔をしかめた。
「家では、剣だけでなく戦術も学べと言われている。騎士家の長男なら当然だと。なのに、初回から教師に間違い扱いされた。しかも、お前の案と比べられて」
ニールは静かに聞いていた。
「腹が立った。だが、たぶん、一番腹が立ったのはお前にではない」
ダリオは視線を落とした。
「自分にだ」
部屋の空気が変わった。
ニールは少しだけ姿勢を正した。
「私は、あなたを笑っていません」
「分かっている」
「ただ、私も少し言い方が硬かったかもしれません」
ニールはそう言ってから、ほんの少し苦笑した。
「知識を示さなければ認められないと思うと、余計に正しさに寄ってしまいます」
ダリオはニールを見た。
「お前も、面倒だな」
「よく言われます」
それは誰にだ。
俺が言いたくなったが、飲み込んだ。
ダリオは腕を組み直し、言った。
「なら、次の予習会で共同案を出す」
「共同案、ですか」
「俺が地形と兵の動きを見る。お前が補給と日数を見る。どちらが正しいかではなく、両方を合わせる」
ニールの目が少し輝いた。
「それは、面白いと思います」
「ただし」
ダリオは指を突きつけた。
「俺の案を“理論上は危険です”みたいな顔で見るな」
「努力します」
「努力ではなく、やめろ」
「では、やめます」
二人の間に、わずかに笑いが生まれた。
火は消えた。
完全ではない。
だが、少なくとも今は燃え広がらない。
俺は小さく息を吐いた。
よかった。
これで帰れる。
そう思った時、マティアス先輩が手を叩いた。
「見事だ」
嫌な予感がした。
非常に嫌な予感がした。
「アルバート君。やはり君には、新入生の相談係として協力してもらいたい」
帰れなかった。
俺は表情を整えた。
「お断りいたします」
部屋の空気が止まった。
ギルバートが目を見開く。
クラウスが小さく笑いを噛み殺す。
ニールは驚いた顔で俺を見る。
マティアス先輩だけが、笑みを崩さなかった。
「理由を聞いても?」
「私個人を相談係にすると、問題が三つ起きます」
「三つ」
「一つ目。相談が私に集中します」
「それは君の能力が評価されるということだ」
「違います。私が潰れます」
マティアス先輩の目が、わずかに動いた。
俺は続けた。
「二つ目。解決した場合、当事者ではなく私が評価されます」
ニールとダリオが、少し表情を変えた。
「今の件も、本来はガードナー様とロイド君が自分たちで言葉を交わしたことに意味があります。私が解決したことになると、お二人の成長が消えます」
ダリオが黙る。
ニールも真剣な顔になる。
「三つ目。失敗した場合、男爵家次男の私に責任を押しつけやすい」
部屋が静まり返った。
これは、言うべきか少し迷った。
だが、言うべきだ。
俺はもう、前世のように何でも飲み込んで笑うつもりはない。
いや、笑ってしまうのだが。
少なくとも、飲み込む量は減らしたい。
「高位貴族同士、あるいは身分差のある問題に、私個人が名前を出して入るのは危険です。成功すれば利用され、失敗すれば切られる。それは、あまり賢い形ではありません」
マティアス先輩は、しばらく何も言わなかった。
やがて、ゆっくりと笑った。
「君は、自分を守る言葉も持っているのだね」
「最近、少し練習中です」
兄上。
見ていますか。
俺は今、火種に手を伸ばした後で、自分の手を引っ込める練習をしています。
できれば褒めてほしい。
マティアス先輩は頬杖をついた。
「では、どうすればいいと思う?」
まただ。
なぜ俺に聞く。
俺はただの男爵家次男だ。
そう思ったが、ここで黙ると本当に相談係にされる。
仕方なく、俺は言った。
「相談を個人ではなく、仕組みにしてください」
「仕組み?」
「はい。相談を受ける場合は、必ず自治会の担当者名を明記する。相談内容によって、立ち会う者を二名以上にする。当事者の同意なく第三者へ広げない。判断を下す場合は、誰の判断かを明確にする」
アメリア嬢に言ったことと同じだ。
責任の所在を曖昧にしない。
誰か一人に押しつけない。
それだけで、火種のいくつかは小さくなる。
「それと」
俺は少しだけ迷った後、付け加えた。
「相談を受ける側にも、断る権利を設けてください」
マティアス先輩の表情が変わった。
「断る権利」
「はい。相談される側にも限界があります。何でも受ける人間ほど、いつか壊れます」
前世の記憶が、少しだけ胸を掠めた。
期待される。
頼られる。
縋られる。
そして、応えられなくなると恨まれる。
あれは、もう嫌だ。
俺は静かに言った。
「人を助ける仕組みが、人を使い潰す仕組みになってはいけません」
部屋に沈黙が落ちた。
マティアス先輩は、初めて笑みを消した。
その目は、先ほどよりもずっと真剣だった。
「君は本当に、面白いな」
「できれば、普通と言っていただきたいです」
「それは難しい」
即答だった。
やめてほしい。
ギルバートが小さく笑った。
「アルバートの普通は、普通ではないからな」
兄と同じことを言わないでほしい。
本当にやめてほしい。
マティアス先輩は立ち上がった。
「分かった。君を相談係にはしない」
俺は心の底から安堵した。
「ありがとうございます」
「ただし、仕組み作りには協力してもらう」
安堵は一瞬で消えた。
「それは、相談係とどう違うのでしょうか」
「個人ではなく仕組みだろう?」
自分の言葉が返ってきた。
非常にまずい。
言質を取られた。
クラウスが今度こそ笑った。
「アルバート君。自分で逃げ道を作ったつもりで、別の扉を開けたな」
「ヴェルナー様、黙っていてください」
「すまない。面白くて」
面白がらないでほしい。
俺は深く息を吐いた。
「協力は、可能な範囲で」
「十分だ」
マティアス先輩は満足そうに頷いた。
「それから、今日の件はガードナー君とロイド君の共同案として教師に再提出してもらう。自治会としては、二人の自主的な学びを支援した、という形にする」
良い落としどころだ。
さすが自治会の副会長。
人を使うのは危険だが、処理能力は高い。
ダリオがニールを見る。
「明日の放課後、時間はあるか」
「あります」
「なら、訓練場の横の戦術室に来い。地形図がある」
「分かりました」
二人は、ぎこちないが確かに頷き合った。
火は消えた。
そして、別の火種が残った。
俺である。
自治会室を出ると、廊下にセシリア嬢が立っていた。
当然のように。
本当に当然のように。
「なぜいらっしゃるのですか」
「偶然ですわ」
「その偶然は、かなり狙っていませんか」
「少しだけ」
認めた。
セシリア嬢は俺の顔を見るなり、微笑んだ。
「相談役にはならずに済みましたか?」
「なぜご存じなのですか」
「マティアス様があなたを見つけたら、そう言い出すと思っておりました」
「先に教えてください」
「教えたら逃げたでしょう?」
「逃げました」
「ですから、教えませんでした」
この人は本当に容赦がない。
俺は頭を押さえた。
「結局、仕組み作りに協力することになりました」
「まあ」
セシリア嬢は楽しそうに目を細めた。
「よかったですわね」
「どこがでしょうか」
「個人で抱え込むより、ずっと良い形です」
それは、そうかもしれない。
兄の手紙にも、誰か一人を巻き込めとあった。
今回は一人どころではない。
自治会まで巻き込んだ。
これは兄の忠告を守ったことになるのだろうか。
なる気もする。
ならない気もする。
「アルバート様」
セシリア嬢が静かに言った。
「あなたは今日、ご自分の線を引きましたね」
俺は少し黙った。
「そう見えましたか」
「ええ」
「うまく引けていましたか」
思わず聞いてしまった。
セシリア嬢は少し驚いた顔をした。
それから、いつもより柔らかく笑った。
「少し危なっかしかったですけれど」
「やはり」
「でも、よく引けていました」
その言葉は、妙に胸に残った。
俺は視線を逸らした。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
なぜだろう。
感謝されるより、褒められるより、今の言葉のほうが少し困る。
自分のために線を引いた。
それを誰かに見られていた。
そして、悪いことではないと言われた。
前世では、あまりなかった感覚だ。
俺は歩き出した。
セシリア嬢も隣を歩く。
「ところで、アルバート様」
「はい」
「相談の仕組みを作るのでしたら、女性側の相談窓口も必要ですわね」
嫌な予感がした。
「それは、私ではなくグランベル様が」
「もちろん、わたくしも協力いたします」
「も、とは?」
「あなたも必要ですわ」
「なぜでしょう」
「男性側の面子を潰さずに話を整えるのは、あなたのほうがお得意ですもの」
逃げ道がない。
また、逃げ道がない。
俺は小さく息を吐いた。
「可能な範囲で」
「ええ。可能な範囲で」
セシリア嬢は満足そうに言った。
その言い方は、まったく信用できなかった。
その夜。
俺は兄への手紙を書いていた。
『兄上。
ご忠告の通り、今回は一人で抱え込まず、自治会を巻き込みました。
結果として、相談役にはならずに済みました。
ただし、相談の仕組み作りに協力することになりました。
これは、兄上の忠告を守ったことになるのでしょうか。』
そこまで書いて、俺は手を止めた。
ならない気がする。
非常にならない気がする。
俺は便箋を新しいものに替えた。
そして、もう少し無難に書く。
『兄上。
学院では、少しずつ知り合いが増えています。
最近、茶を飲む時間の大切さが分かってきました。』
これは嘘ではない。
嘘ではないが、情報が足りない。
足りないほうが平和なこともある。
俺はそう判断した。
その時、扉が叩かれた。
寮の使用人が、封書を一通差し出す。
「アルバート様。学生自治会より、お届け物です」
俺は封書を受け取った。
見なかったことにしたい。
だが封書は、またしても消えない。
中には、丁寧な文字でこう書かれていた。
『相談受付制度の草案について、明日の放課後に打ち合わせを行う。
可能な範囲で参加されたし。
マティアス・フォルナー』
可能な範囲で。
俺はその文字を見つめた。
なぜだろう。
俺の周りの人間は、俺の逃げ道を残しているようで、きれいに塞いでくる。
俺は椅子にもたれ、天井を仰いだ。
静かに暮らしたい。
誰にも頼られたくない。
誰の相談役にもなりたくない。
そのはずだった。
だが今日、俺は自分で言ってしまった。
人を助ける仕組みが、人を使い潰す仕組みになってはいけない、と。
言った以上、見届ける必要がある。
少なくとも、その仕組みが誰か一人を潰さないように。
俺は小さく息を吐き、兄への手紙の最後に一文を書き足した。
『兄上。
茶葉を多めに送っていただけると助かります。』
書いた後で、少しだけ笑ってしまった。
これはきっと、普通ではない。
だが、今の俺には必要なものだった。
まず一度、茶を飲む。
それから考える。
それでも火種が消えないなら、誰かを巻き込む。
兄上。
俺は少しだけ、学んでいます。
たぶん。
翌日。
俺の机の上には、学生自治会からの資料が置かれていた。
表紙には、大きくこう書かれていた。
『新入生相談受付制度 試案』
俺はそれを見て、静かに目を閉じた。
見なかったことにしたい。
だが、資料は消えない。
そして隣の席から、ニールが小さく言った。
「リオネル様。これ、すごいですね」
「すごくありません」
「でも、名前が載っています」
俺は目を開けた。
資料の下のほうに、小さく、しかし確かに書かれていた。
『草案協力者 リオネル・アルバート』
俺はしばらくそれを見つめた。
そして、心の中で兄に詫びた。
兄上。
手遅れかもしれません。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、リオネルが“便利な相談役”にされかける回でした。
人を助ける力があるからこそ、自分一人で抱え込まない線引きも必要になる、という話です。
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