第3話 侯爵令嬢の友人は、笑顔のまま助けを求めている
誰にも好かれたくない主人公が、なぜか人間関係の火種ばかり見つけてしまう話、三本目です。
今回は、侯爵令嬢セシリアの友人に関わるお話です。
翌朝。
俺の机の上には、一通の封書が置かれていた。
白い封筒。
薄い金の縁取り。
そして、グランベル侯爵家の紋章。
俺はそれを見た瞬間、そっと目を閉じた。
見なかったことにしたい。
心の底から、見なかったことにしたい。
だが、封書は消えない。
昨日はレイヴン伯爵家。
今日はグランベル侯爵家。
男爵家次男の机の上に、二日続けて高位貴族の封書が置かれている。
どう考えても普通ではない。
だが兄への手紙には、もう書いてしまった。
学院生活は、今のところ普通です、と。
撤回したい。
非常に撤回したい。
「アルバート様」
横から声がした。
振り向くと、ニール・ロイドが立っていた。
平民出身の奨学生。
昨日、ギルバート・レイヴンと少しばかり面倒なことになった少年だ。
彼は封書を見て、少しだけ目を丸くした。
「グランベル家から、ですか」
「似たようなものです」
「それは……すごいですね」
「すごくありません」
「そうでしょうか」
「すごいことにすると、私の胃が痛くなります」
ニールは一瞬きょとんとした後、小さく笑った。
笑えるようになったなら、昨日の一件は少しは良い方向へ進んだのだろう。
それは喜ばしい。
喜ばしいのだが。
俺に関係がある形で喜ばしいのは、非常に困る。
俺は封を切った。
中には、流麗な文字で短くこう書かれていた。
『本日の放課後、南庭園の東屋までお越しいただけますでしょうか。
友人の件で、少しご相談したいことがございます。
セシリア・グランベル』
相談。
その二文字を見た瞬間、俺は封書を閉じた。
閉じたところで、内容は消えない。
友人の件。
少し。
相談。
この三つが揃う時、たいてい少しでは済まない。
前世でもそうだった。
「ちょっとだけ話を聞いて」
「少し相談したいだけ」
「大したことじゃないんだけど」
そう言う人間の話ほど、だいたい大したことだった。
俺は深く息を吐いた。
「リオネル様?」
ニールが心配そうに声をかけてくる。
「いえ、何でもありません」
「そうは見えませんが」
最近、周囲の観察力が上がっていないだろうか。
非常によくない傾向だ。
俺は封書を丁寧に畳み、懐にしまった。
「ただ、放課後に少し用事ができただけです」
「グランベル様からの用事ですか」
「ええ」
「それは、普通の用事ではなさそうですね」
やめてほしい。
君まで兄のようなことを言わないでほしい。
放課後。
南庭園の東屋には、すでにセシリア・グランベル侯爵令嬢がいた。
白い花の咲く庭の中で、彼女は静かに座っていた。
その姿は、絵画のように整っている。
近づく者が自然と背筋を伸ばすような、気品のある令嬢。
だが、俺は知っている。
この人は、かなり鋭い。
そして、厄介なほど人をよく見ている。
「お越しいただき、ありがとうございます。アルバート様」
「お招きいただき、光栄です。グランベル様」
「そのご挨拶、少し距離を取ろうとしていませんか?」
いきなり刺してくる。
俺は微笑んだ。
「礼儀です」
「便利な言葉ですわね」
セシリア嬢は小さく笑った。
東屋の卓上には、茶が用意されていた。
茶器は上品で、菓子も美しい。
だが、俺は知っている。
こういう場で出される茶は、たいてい胃に優しくない話の前置きだ。
セシリア嬢はしばらく黙っていた。
俺も黙っていた。
沈黙は、嫌いではない。
相手が言葉を探している時は、待ったほうがいい。
やがて彼女は、静かに口を開いた。
「わたくしの友人に、アメリア・ロッセという伯爵令嬢がおります」
「ロッセ伯爵家ですか」
「ええ。王都では中堅の家柄です。大きな派閥を持つほどではありませんが、どの家とも角が立たない、穏やかな立場の家です」
なるほど。
その時点で、少し見えた。
角が立たない家。
穏やかな立場。
つまり、使いやすい。
「アメリア様は、誰に対しても柔らかく接する方です。声を荒げることもなく、頼み事をされれば断らず、いつも笑顔で場を整えようとします」
「……良い方なのですね」
「ええ。良い方です」
セシリア嬢はそこで目を伏せた。
「だから、困っています」
良い人だから困っている。
よくある話だ。
良い人は、都合よく使われる。
断らない人は、断らなくてもよい人間だと思われる。
笑って耐える人は、傷ついていない人間だと勘違いされる。
「何が起きているのですか」
俺が尋ねると、セシリア嬢は茶器に視線を落とした。
「明日、新入生の令嬢たちによる小さな読書会があります。表向きは交流と学びの場です」
「表向きは」
「ええ。実際には、どの令嬢がどの輪に入るかを見られる場でもあります」
面倒くさい。
非常に面倒くさい。
貴族学院という場所は、授業が始まる前から人間関係の試験が始まっている。
「その読書会に、平民出身の奨学生であるエリーゼ・ベネット嬢も招かれていました」
「平民出身の奨学生」
昨日のニールと同じ立場だ。
「成績が良く、礼儀も学ぼうとしている真面目な方です。ただ、一部の令嬢たちは、彼女が読書会に参加することを快く思っていません」
「身分ですか」
「身分です」
セシリア嬢は短く答えた。
「その方々は、エリーゼ嬢を直接断るのではなく、アメリア様から伝えさせようとしています」
ああ。
予想通りだ。
断ればアメリアが悪者になる。
引き受ければエリーゼは傷つく。
拒めば上位の令嬢たちから睨まれる。
最低の配置だ。
「なぜアメリア様なのですか」
「アメリア様は、誰とでも穏やかに話せるからです」
セシリア嬢の声に、わずかな苦さが混じった。
「そして、誰に頼まれても断らないからです」
俺は茶に手を伸ばした。
香りは良い。
だが、やはり胃には優しくなかった。
「グランベル様が止めればよいのでは?」
「わたくしが強く止めれば、話は早いでしょう」
「では」
「けれどそれでは、アメリア様はまた“セシリアに庇われた人”になります」
セシリア嬢は静かに言った。
「わたくしは、彼女を助けたい。けれど、わたくしの後ろに隠す形にはしたくありません」
俺は少しだけ彼女を見る目を変えた。
この令嬢は、本当に面倒なほどよく見ている。
助けることと、相手の立場を奪うことは違う。
それを分かっている。
「それで、なぜ私なのですか」
「あなたなら、誰かを悪者にせずに道を作れると思いました」
「買いかぶりです」
「そうでしょうか」
「そうです」
「では、昨日と一昨日の件は?」
「偶然です」
「偶然が二日続いたのですね」
兄と同じことを言わないでほしい。
俺はカップを置いた。
「私は令嬢方の読書会に口を挟める立場ではありません。男爵家次男ですし、そもそも男子生徒です」
「分かっています」
「ならば」
「ですから、読書会そのものではなく、その前の顔合わせに同席していただきたいのです」
嫌な予感がした。
「顔合わせ?」
「本日、この後です」
「この後」
「はい」
「グランベル様」
「はい」
「それは、相談ではなく依頼です」
セシリア嬢は美しく微笑んだ。
「では、依頼いたします」
負けた。
完全に負けた。
この令嬢は、人の逃げ道を塞ぐのが上手すぎる。
俺は小さく息を吐いた。
「内容を見てから判断します」
「それで構いません」
構わない、という顔ではなかった。
最初から連れて行くつもりの顔だった。
しばらく後。
俺は、南庭園に面した小さな温室へ案内された。
そこには、すでに数名の令嬢が集まっていた。
中央に座っているのは、薄桃色の髪をした少女。
穏やかな顔立ち。
柔らかい笑み。
周囲に気を配る視線。
おそらく彼女が、アメリア・ロッセ伯爵令嬢だ。
その隣にいるのは、青いドレスの令嬢。
背筋がまっすぐで、表情は上品だが、目に少し硬さがある。
たぶん、今回の件を主導している側だ。
名は確か、イザベル・カルディア子爵令嬢。
子爵家とはいえ、母方が侯爵家につながるため、学院内ではそれなりに影響力があると聞いた。
そして少し離れたところに、地味な制服姿の少女が立っていた。
茶色の髪。
緊張した手。
けれど目だけはまっすぐ。
彼女がエリーゼ・ベネットだろう。
空気は、すでに張っていた。
表面上は穏やか。
香りの良い茶。
美しい花。
柔らかな笑み。
だが、その下にあるものは少しも穏やかではない。
俺とセシリア嬢が入ると、令嬢たちの視線が集まった。
特に俺への視線は、分かりやすくこう言っていた。
なぜ、男子生徒がここにいるのか。
当然だ。
俺もそう思う。
帰りたい。
心から帰りたい。
セシリア嬢は優雅に言った。
「急に失礼いたします。アルバート様には、明日の読書会で扱う本について少し意見を伺いたく、お越しいただきました」
なるほど。
そう来たか。
俺は軽く礼を取った。
「アルバート男爵家次男、リオネルと申します。お邪魔にならない範囲で失礼いたします」
イザベル嬢が微笑んだ。
「まあ、男爵家の方が読書会の選書にご意見を?」
一見、穏やか。
だが、言葉には棘がある。
男爵家の者が、令嬢たちの読書会に口を挟むのか。
そういう意味だ。
セシリア嬢が口を開く前に、俺は答えた。
「はい。あくまで下位の者が読んでも理解しやすい本という観点で、ご参考になればと」
イザベル嬢の目が少し動いた。
俺は自分を下げた。
これで、彼女は攻撃しにくくなる。
男爵家のくせに出しゃばるな、という棘を、こちらで先に丸めたからだ。
「なるほど。謙虚でいらっしゃいますのね」
「身の程を知っているだけです」
本音である。
この場にいる時点で、身の程からは少し外れている気もするが。
アメリア嬢が静かに立ち上がった。
「アルバート様、本日はありがとうございます」
声は柔らかい。
笑顔も綺麗だ。
だが、指先が白い。
カップの持ち手を強く握りすぎている。
笑顔のまま、助けを求めている人の手だ。
「こちらこそ、お招きいただきありがとうございます」
俺は席に着いた。
その瞬間、イザベル嬢が本題を出した。
「ちょうどよかったですわ。明日の読書会について、少し参加者の整理をしていたところですの」
エリーゼ嬢の肩がわずかに揺れた。
アメリア嬢の笑顔も、ほんの少しだけ固くなる。
イザベル嬢は続けた。
「人数が増えすぎても、落ち着いて本を読めませんでしょう? ですから、今回は参加を遠慮していただく方を決める必要があるのです」
「なるほど」
俺はうなずいた。
「主催はどなたですか?」
イザベル嬢の動きが止まった。
「主催、ですか?」
「はい。参加者を整理するのであれば、その判断は主催者のお名前で伝えたほうがよいかと思いまして」
温室の空気が、少し変わった。
アメリア嬢が俺を見る。
イザベル嬢は微笑みを保ったままだ。
「読書会は、皆で作るものですわ。特定の誰かが主催というほどでは」
「では、誰の判断で参加を遠慮していただくのでしょうか」
沈黙。
イザベル嬢の笑みが、少し硬くなった。
おそらく、彼女はアメリア嬢に言わせるつもりだった。
アメリア嬢が「申し訳ありません、今回は席が足りなくて」とエリーゼ嬢に伝える。
その形なら、イザベル嬢は手を汚さずに済む。
だが、判断者の名を求められると困る。
誰の意思なのかを明確にしなければならないからだ。
俺はさらに続けた。
「もちろん、人数の整理自体は悪いことではありません。ただ、理由が曖昧なまま誰かに伝えさせると、伝えた方だけが恨まれます」
アメリア嬢の指が、小さく震えた。
イザベル嬢は目を細めた。
「アルバート様は、ずいぶん実務的な考え方をなさるのですね」
「男爵家の次男ですので。華やかなことより、後で揉めないことを先に考える癖があります」
これは本当だ。
後で揉めることほど、面倒なものはない。
セシリア嬢が、隣で小さく笑った気配がした。
イザベル嬢は少し黙った後、言った。
「では、アルバート様はどうするべきだとお考えですか」
来た。
矛先がこちらに向いた。
ここで間違えてはいけない。
イザベル嬢を悪者にすれば、彼女は反発する。
アメリア嬢を庇いすぎれば、アメリア嬢はセシリア嬢の友人として孤立する。
エリーゼ嬢を特別扱いすれば、彼女への嫉妬が増える。
全員の逃げ道を作る必要がある。
俺は少し考えたふりをした。
本当は、答えはもう決まっていた。
「読書会の趣旨を、先に決めるべきかと思います」
「趣旨?」
「はい。交流が目的なのか、学びが目的なのか。それによって、呼ぶべき方は変わります」
イザベル嬢は黙った。
俺は続ける。
「もし交流が目的であれば、家格や付き合いの近さで席を決めるのも自然でしょう」
一部の令嬢たちが、わずかに安堵した顔をした。
自分たちの考えを否定されなかったからだ。
「ですが、学びが目的であれば、成績上位者を外すのは不自然です。読書会の格を下げることになります」
エリーゼ嬢が息を飲んだ。
イザベル嬢の目が動く。
俺はそこで、彼女に逃げ道を出した。
「おそらくカルディア様は、読書会の質を落としたくなかったのではありませんか?」
「……え?」
「人数が多すぎれば、ただのお茶会になります。けれど学びの場にするなら、発言できる方、内容を深められる方が必要です。だからこそ、参加者の整理を考えられたのでしょう」
イザベル嬢は一瞬、言葉に詰まった。
違う。
たぶん、そこまでは考えていなかった。
だが、この解釈に乗れば、彼女は身分でエリーゼ嬢を排除しようとした令嬢ではなく、読書会の質を考えた令嬢になる。
周囲の令嬢たちも、彼女を見る目を少し変えた。
イザベル嬢はゆっくりと扇を開いた。
「……ええ。もちろんですわ。せっかくの読書会ですもの。質は大切です」
よし。
乗った。
俺はうなずいた。
「であれば、ベネット様には参加していただいたほうがよいかと。入学試験でも優秀な成績だったと聞いております。議論が深まるでしょう」
エリーゼ嬢が目を見開いた。
イザベル嬢は、もう引けない。
読書会の質を重んじると言った直後に、成績優秀者を外す理由がないからだ。
「そうですわね」
イザベル嬢は微笑んだ。
「ベネット様には、ぜひ参加していただきましょう」
温室の空気が、少し緩んだ。
エリーゼ嬢は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼を言う相手が違いますわ。読書会のためですもの」
イザベル嬢はそう言った。
少し棘は残っている。
だが、これでいい。
棘を全部抜く必要はない。
人間関係は、完全に綺麗になどならない。
大事なのは、今ここで誰かが傷つきすぎないことだ。
問題は、アメリア嬢だった。
彼女はまだ笑っていた。
エリーゼ嬢が救われたことで安堵している。
だが、その安堵の下に、別の疲れが残っている。
自分が言わずに済んだ。
それだけでは、彼女は救われない。
また次が来る。
また誰かに頼まれる。
また笑って引き受けてしまう。
俺はアメリア嬢を見た。
「ロッセ様」
「はい」
彼女は柔らかく微笑んだ。
「読書会の案内は、ロッセ様がまとめておられるのですか」
「ええ。皆様がお忙しいので、私が少しだけ」
少しだけ。
そう言う人間ほど、だいたい多く抱えている。
「では、今後は案内文に主催者名と判断者名を明記したほうがよいかもしれません」
「判断者名、ですか」
「はい。ロッセ様が皆様の意見を取りまとめるのは素晴らしいことです。ですが、全員の意見をロッセ様個人の言葉として伝える形になると、ロッセ様だけが責任を負うことになります」
アメリア嬢の笑顔が、少しだけ揺れた。
俺は続けた。
「誰かに何かを伝える時は、“私の考えです”と“皆様の決定です”を分けたほうがよいです」
「……分ける」
「ええ。例えば、こうです」
俺はゆっくりと言った。
「“その件は私一人では判断できませんので、決定された方のお名前でお伝えいたします”」
アメリア嬢が、瞬きをした。
「もう一つ」
俺は続けた。
「“申し訳ありませんが、それを私個人の考えとして伝えることはできません”」
温室の中が静かになった。
それは、ただの言葉だ。
けれどアメリア嬢にとっては、たぶん持っていなかった盾だ。
断る言葉ではない。
相手を攻撃する言葉でもない。
ただ、自分の責任ではないものを、自分の責任にしないための言葉。
アメリア嬢は、口の中で小さく繰り返した。
「私個人の考えとしては、伝えることはできません……」
その声は震えていた。
笑顔はまだ残っている。
だが、目の奥が少しだけ潤んでいた。
セシリア嬢が静かに彼女を見ている。
イザベル嬢は気まずそうに視線を逸らした。
悪意だけではなかったのだろう。
アメリア嬢が断らないから、頼んだ。
彼女が笑うから、大丈夫だと思った。
彼女が受け入れるから、重荷だと気づかなかった。
そういうことは、よくある。
だから厄介なのだ。
明確な悪人がいれば、話は簡単だ。
だが多くの場合、人は少しずつ誰かに負担を渡している。
自分でも気づかないまま。
アメリア嬢は俺に向き直り、深く礼をした。
「ありがとうございます、アルバート様」
「私は何も」
「それは、無理がありますわ」
また言われた。
本当に最近、この返しが増えている。
非常によくない。
その後、読書会の話は驚くほど穏やかに進んだ。
エリーゼ嬢は、当日扱う本について簡潔に意見を述べた。
イザベル嬢は、その意見を表面上は上品に受け止めた。
セシリア嬢は、必要以上に前に出ず、ただ全体を見ていた。
アメリア嬢は、何度か言葉に詰まりながらも、案内文の最後に主催者名を入れることを提案した。
誰も反対しなかった。
火は、いったん消えた。
少なくとも、今日のところは。
帰り際、温室を出たところで、アメリア嬢が俺を呼び止めた。
「アルバート様」
「はい」
彼女は少し迷った後、笑った。
いつもの柔らかい笑顔だった。
だが、さっきまでとは少し違う。
作った笑顔ではなく、息を吐くための笑顔だった。
「私、ずっと大丈夫だと思っていました」
「はい」
「頼まれるのは、信頼されているからだと思っていました」
「それも、間違いではないと思います」
アメリア嬢は目を伏せた。
「でも、少し苦しかったです」
「はい」
「苦しいのに、大丈夫ですと笑ってしまうんです。そうすると、皆様も安心なさって、また頼んでくださる」
「はい」
「私が、悪かったのでしょうか」
俺は首を横に振った。
「悪いというより、言葉が足りなかったのだと思います」
「言葉」
「大丈夫です、以外の言葉です」
アメリア嬢は黙った。
俺は言った。
「大丈夫ではありません、と言うのは難しいです。ですが、“私一人では決められません”なら言えるかもしれません」
彼女は小さくうなずいた。
「はい」
「“少し時間をください”でもいい」
「はい」
「“その言葉は、私から伝えるべきではありません”でもいい」
アメリア嬢は、今度は少し強くうなずいた。
「覚えておきます」
その時、廊下の向こうから一人の男子生徒が歩いてきた。
栗色の髪。
整った制服。
表情は真面目だが、少し硬い。
アメリア嬢が小さく息を止めた。
「オスカー様」
なるほど。
婚約者か。
いや、婚約予定者か。
この学院には、正式か未正式か分かりにくい関係が多すぎる。
オスカーと呼ばれた少年は、俺を見てから、アメリア嬢を見た。
目にあるのは、怒りではない。
不安だ。
だが、その不安が硬い言葉になりそうな顔をしている。
「アメリア。少し話せるか」
「はい」
アメリア嬢は笑った。
まただ。
反射のように笑った。
オスカーの眉が少し動く。
その笑顔を見て、彼はたぶん誤解した。
余裕がある。
自分には本音を見せない。
誰にでも同じ顔をする。
そう受け取ったのだろう。
これは、まずい。
非常にまずい。
オスカーは低い声で言った。
「君は、誰にでもそうやって笑うんだな」
アメリア嬢の顔が固まった。
ああ。
言ってしまった。
悪意ではない。
だが、最悪の言葉だ。
アメリア嬢が一番苦しんでいる場所に、まっすぐ刺さった。
セシリア嬢が動こうとした。
俺は小さく手で制した。
ここで彼女が前に出ると、またアメリア嬢は守られる側になる。
今度は、少しだけ自分で言う必要がある。
アメリア嬢は俯いていた。
指先が震えている。
オスカーも、自分の言葉が強すぎたことに気づいた顔をしていた。
だが、謝る言葉が出てこない。
俺は静かに言った。
「ロッセ様」
アメリア嬢が顔を上げる。
「先ほどの言葉を、使ってみてはいかがですか」
彼女は一瞬、分からない顔をした。
それから、気づいた。
大丈夫です、以外の言葉。
アメリア嬢はゆっくりと息を吸った。
そして、オスカーに向き直った。
「オスカー様」
「……何だ」
「今の言葉は、少し苦しいです」
オスカーの目が見開かれた。
アメリア嬢の声は震えていた。
だが、逃げなかった。
「私は、誰にでも笑いたいわけではありません。ただ、笑っていないと、場を悪くしてしまうと思っていました」
「アメリア」
「でも、それであなたにまで誤解されるのなら、私は少し、笑い方を間違えていたのかもしれません」
オスカーは完全に黙った。
周囲に人は少ない。
だが、セシリア嬢と俺はいる。
本当なら二人きりで話したほうがいい。
だが、今ここで最初の一言が出た意味は大きい。
オスカーは苦しそうに眉を寄せた。
「すまない」
早かった。
良かった。
彼は馬鹿ではない。
「俺は、君が誰にでも穏やかに接するのを見て、勝手に腹を立てていた」
アメリア嬢は黙って聞いている。
「俺には、君が無理をしているようには見えなかった。ただ、俺だけが特別ではないように見えていた」
不安。
嫉妬。
独占欲。
どれも前世で嫌というほど見た感情だ。
だが、それ自体が悪ではない。
問題は、どう扱うかだ。
オスカーは一歩近づき、声を落とした。
「次からは、笑っているかどうかではなく、苦しいかどうかを聞く」
アメリア嬢の目が潤んだ。
「はい」
「だから、君も苦しい時は言ってくれ」
「……練習します」
練習。
それでいい。
いきなり変わる必要はない。
人の癖は、剣の構えと同じだ。
長く続けたものほど、すぐには直らない。
アメリア嬢は、今度こそ少しだけ自然に笑った。
オスカーも、不器用に笑い返した。
火は消えた。
たぶん、完全ではない。
また燻るだろう。
だが、火種を見つける言葉はできた。
それだけで十分だ。
俺は静かにその場を離れようとした。
すると、セシリア嬢が隣に並んだ。
「アルバート様」
「はい」
「今日も、何もしていないのですか?」
「私はほとんど何も」
「ほとんど、になりましたわね」
しまった。
言い方を間違えた。
セシリア嬢は楽しそうに微笑んでいる。
俺は視線を逸らした。
「今回は、ロッセ様がご自分で言われました」
「ええ。その一歩を置いたのは、あなたです」
「買いかぶりです」
「そうでしょうか」
最近、このやり取りにも慣れてきている気がする。
非常によくない。
セシリア嬢は少し歩いてから、静かに言った。
「わたくしは、彼女を助けたいと思っていました。でも、わたくしが前に出れば出るほど、彼女はわたくしの後ろに隠れてしまう」
「優しさが、相手の足を止めることもあります」
「厳しいことをおっしゃいますのね」
「自分にも言っています」
セシリア嬢がこちらを見る。
「あなたも、誰かを助けすぎる方ですものね」
やめてほしい。
その言い方は、少し刺さる。
「私は、火種が大きくなるのが嫌なだけです」
「それは、優しさではないのですか?」
「臆病なのだと思います」
セシリア嬢は黙った。
俺も黙った。
南庭園の夕方の風が、少し冷たかった。
やがて彼女は言った。
「臆病な方は、あの場に残りませんわ」
「逃げ遅れただけです」
「では、逃げ遅れてくださってよかったです」
そういう言い方は、ずるい。
俺は何も返せなかった。
その夜。
俺は自室の机に向かい、兄からの手紙を読んでいた。
そこには、こう書かれていた。
『学院生活が普通とのことだが、お前の普通は昔から少し信用ならない。
火種を見つけても、すぐに手を伸ばすな。
まず一度、茶を飲め。
それでも放っておけないなら、せめて誰か一人を巻き込め』
俺は手紙を見つめた。
兄上。
申し訳ありません。
今日は茶を飲む前に、火種が温室で燃えかけていました。
しかも、誰か一人を巻き込めとのことですが、今回はセシリア嬢に最初から巻き込まれていました。
これは兄の忠告を守ったことになるのだろうか。
ならない気がする。
非常にならない気がする。
俺は返事を書こうとして、手を止めた。
何と書けばいい。
学院生活は、相変わらず普通です。
いや。
さすがに少し無理がある。
伯爵家嫡男。
平民奨学生。
侯爵令嬢。
伯爵令嬢。
婚約予定者。
普通の範囲が、日々広がっている。
俺はしばらく悩んだ末、こう書いた。
『兄上。
ご忠告ありがとうございます。
茶を飲む前に火種を見つけた場合は、どうすればよいでしょうか。』
書いてから、頭を抱えた。
これでは、何かあったと白状しているようなものだ。
いや、実際にあった。
あったのだが、詳しく書くと兄が胃を痛める。
俺は便箋を新しいものに替えた。
そして、今度は無難に書いた。
『兄上。
学院では少しずつ知り合いが増えています。
ご心配には及びません。』
そこで手が止まる。
ご心配には及びません。
本当にそうだろうか。
俺は窓の外を見た。
王都の夜は、領地より明るい。
だが、その明るさの中には、見えにくい影が多い。
人の好意。
嫉妬。
不安。
面子。
孤独。
笑顔の裏の疲れ。
俺は前世で、それらに疲れ果てた。
だから今世では、誰にも好かれたくなかった。
誰の感情にも深く関わりたくなかった。
なのに。
今日、アメリア嬢が初めて「苦しい」と言った時。
少しだけ、よかったと思ってしまった。
その自分が、一番面倒くさい。
俺は手紙の最後に、こう書き足した。
『ただ、兄上の言う通り、茶を飲む時間は大事にしようと思います。』
これなら嘘ではない。
たぶん。
翌朝。
俺の机の上には、小さな包みが置かれていた。
中には、上品な茶葉と短い手紙。
差出人は、アメリア・ロッセ伯爵令嬢だった。
『昨日はありがとうございました。
大丈夫です、以外の言葉を、少しずつ練習してみます。
まずは、お礼を言わせてください。』
俺は包みを閉じた。
そして、静かに天井を仰いだ。
兄上。
茶を飲む時間は、大事にできそうです。
ただし、その茶葉が火種の後始末として届く場合、これは平穏と言えるのでしょうか。
俺には、少し判断がつかない。
その日、昼休み。
セシリア嬢が当然のように俺の席までやって来た。
「アルバート様。今日のお茶は、ロッセ様からのものにいたしましょう」
「なぜご存じなのですか」
「アメリアから聞きました」
「なぜ一緒に飲む流れになっているのですか」
「兄君から、茶を飲めと言われたのでしょう?」
なぜそれを知っている。
いや、俺が昨日少し話した気もする。
失敗した。
本当に失敗した。
俺は目を閉じた。
静かに暮らしたい。
ただそれだけなのに。
どうやら俺の周りでは、火種だけでなく、茶会まで勝手に増えていくらしい。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、セシリアの友人アメリアと、笑顔の裏にある負担を扱う回でした。
主人公は相変わらず何もしていないつもりですが、少しずつ周囲に見つかり始めています。
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