幕間 凡庸な男爵家次男の兄は、弟の普通を信じていない
今回は兄エルネスト視点の幕間です。
学院で静かに暮らしているつもりの弟と、領地でその手紙を受け取った兄のお話です。
弟から手紙が届いた。
差出人は、リオネル・アルバート。
アルバート男爵家の次男であり、私の弟だ。
私は執務机の上に置かれた封書を見て、思わず手を止めた。
「リオネル様からですか?」
隣で書類を整理していた家令のマルクが、静かにそう尋ねてくる。
「ああ。学院に着いてから初めての手紙だ」
「それは何よりです。リオネル様はお元気でしょうか」
「そうだな」
私は封蝋を切りながら、少しだけ笑った。
元気かどうか。
それは正直、あまり心配していない。
弟は病弱ではない。
喧嘩っ早くもない。
無駄に自分を大きく見せようとする性格でもない。
では、何を心配しているのか。
決まっている。
リオネルが、自分のことを普通だと思っていることだ。
私は手紙を開いた。
几帳面な文字が並んでいる。
『兄上。学院生活は、今のところ普通です』
私はそこで読むのを止めた。
そして、静かに目を閉じた。
終わった。
何かあったな。
「若様?」
マルクが不思議そうに私を見る。
私は手紙を机に置き、深く息を吐いた。
「マルク」
「はい」
「リオネルが、“普通です”と書いている」
「それは……」
マルクの顔が、わずかに曇った。
長くアルバート家に仕えている彼は、よく分かっている。
リオネルの言う普通が、普通だった試しはほとんどない。
マルクは恐る恐る尋ねた。
「学院で、何か問題が起きたのでしょうか」
「おそらくな」
「しかし、まだ入学して二日ほどでは?」
「リオネルなら十分だ」
そう言った瞬間、自分で少し嫌になった。
私は弟を疑っているわけではない。
むしろ、信じている。
信じているからこそ、分かる。
あいつは、火種を見つける。
そして、見つけてしまえば放っておけない。
その性分は、幼い頃から何も変わっていない。
思えば、最初に違和感を覚えたのは、リオネルが五歳の頃だった。
父と母が、珍しく言い争っていた。
原因は、冬の備蓄についてだった。
父は領民への配給を厚くしたい。
母は屋敷と使用人たちの分も守るべきだと言う。
どちらも正しかった。
だからこそ、話は少しずつ熱を帯びていった。
私は当時まだ幼く、ただ二人の間で固まっていた。
そこへ、小さなリオネルがやって来た。
両手で盆を持っていた。
中には、茶が三つ。
まだ危なっかしい手つきだった。
母が驚いて言った。
「リオネル、どうしたの?」
弟は言った。
「お茶です。喉が渇くと、言葉が痛くなるので」
父も母も黙った。
私はその時、子供らしくない言い方だと思った。
だが、弟は何食わぬ顔で茶を置いた。
そして、父には蜂蜜を少し多めに入れた茶を。
母には香りの落ち着く薬草茶を。
私には、熱すぎない薄めの茶を出した。
父は甘いものを口にすると、少し気が緩む。
母は香りの強い茶を飲むと、呼吸が深くなる。
私は熱い茶が苦手だった。
リオネルは、それを見ていた。
五歳で。
ただ、見ていた。
その後、父と母の言い争いは自然と落ち着いた。
父が言った。
「まずは数字を見直そう」
母が答えた。
「ええ。足りないなら、私の衣装代を少し削りましょう」
冬は無事に越せた。
屋敷も、領民も。
父と母は、あれを偶然だと思っていた。
私は違うと思った。
あいつは、分かっていたのだ。
誰がどの言葉で傷つくか。
誰がどの温度で冷静さを失うか。
誰に何を渡せば、場の空気が変わるか。
そして、それを大したことだと思っていなかった。
次に確信したのは、リオネルが八歳の時だ。
領地の東に、二つの村がある。
上流のラト村。
下流のミーネ村。
その年は雨が少なく、水路の配分を巡って揉め事が起きた。
上流のラト村は、自分たちの畑を守るために水門を多く開けたい。
下流のミーネ村は、それでは自分たちの麦が枯れると訴える。
父は仲裁に向かった。
私は跡継ぎとして同行した。
リオネルも、なぜかついてきた。
本人は「兄上の荷物持ちです」と言っていたが、荷物などほとんど持っていなかった。
現地では、村長同士が激しく言い合っていた。
「上流が水を止めれば、下流は死ぬ!」
「先に死ぬのはこっちだ! 畑が枯れたら税も納められん!」
父は何とか落ち着かせようとした。
だが、どちらも切実だった。
私は必死に考えた。
どうすればいい。
どうすれば双方が納得する。
その時、リオネルが私の袖を引いた。
「兄上」
「どうした」
「あの二人、たぶん水の話だけをしていません」
「何?」
「ラト村の村長は、去年の橋の修理でミーネ村に人手を出したことをまだ覚えています。ミーネ村の村長は、その時の礼が足りなかったと分かっているから、余計に強く出ています」
私は絶句した。
「なぜ分かる」
「ラト村の村長が怒る時、何度も橋のほうを見ています。ミーネ村の村長は、そのたびに目を逸らしています」
八歳の子供が見るところではない。
私はそう思った。
だが、試してみる価値はあった。
私は父に耳打ちした。
父は少し驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。
そして、村長たちに言った。
「去年の橋の修理について、まず礼を言うべき相手がいるのではないか」
空気が変わった。
ミーネ村の村長は、苦虫を噛み潰したような顔をした。
だが、やがて頭を下げた。
「……あの時は、助かった。礼が遅れた」
ラト村の村長は、しばらく黙っていた。
それから、鼻を鳴らした。
「分かればいい」
そこから話は、驚くほど早かった。
水門の開閉時間を分ける。
干ばつが続く間だけ、男爵家の倉から種麦を一部貸し出す。
橋の補修には、今年は両村から同じ人数を出す。
水の話をする前に、面子の話を片付ける。
それだけで、村同士の争いは収まった。
帰り道、父はリオネルに尋ねた。
「なぜ気づいた?」
弟は首を傾げた。
「怒っている人は、だいたい今怒っていることだけで怒っているわけではないので」
父は黙った。
私はその横顔を見て、思った。
この弟は、やはり少しおかしい。
もちろん、悪い意味ではない。
むしろ、助かっている。
助かっているのだが。
本人にその自覚がまるでない。
そこが一番恐ろしい。
リオネルが十二歳の時には、もっと妙なことがあった。
領都で小さな収穫祭が開かれた日だ。
隣領の騎士家の子息たちも招かれていた。
年の近い子供同士で、剣術の簡単な試合をすることになった。
私は跡継ぎとして参加した。
結果は、まあ、悪くなかった。
だが問題は、その後だった。
騎士家の三男が、私に負けた腹いせに、弟へ絡んだ。
「お前は出ないのか? 兄の後ろに隠れているだけか?」
私はすぐに止めようとした。
だが、リオネルはにこりと笑った。
「私は剣が得意ではありませんので」
「男爵家の男がそれでいいのか?」
「兄上が強いので、私は別のところで役に立てればいいかと」
相手は余計に苛立った。
自分が私に負けたことを、弟の言葉が逆に刺激してしまったのだ。
まずい。
そう思った時、リオネルが続けた。
「ですが、先ほどの踏み込みはとても速かったですね。兄上も一瞬、反応が遅れていました」
騎士家の三男が止まった。
「……分かるのか」
「はい。最後の一合、剣先だけ見れば兄上が勝っていましたが、足運びはあなたのほうが鋭かったです」
私は内心で驚いた。
確かにそうだった。
私は剣では勝った。
だが、踏み込みの鋭さでは彼に一瞬遅れていた。
リオネルは見ていたのだ。
相手の負けた悔しさと、認めてほしい部分を。
騎士家の三男は、少し黙った後、そっぽを向いた。
「……見る目はあるじゃないか」
それから彼は、私にもう一度試合を申し込んできた。
今度は、きちんと礼をして。
後に彼は、アルバート家と親しい騎士になった。
今では領境の警備でよく助けてくれている。
彼は今でも言う。
「エルネスト殿に負けた日ではなく、リオネル殿に足運びを褒められた日を覚えている」と。
弟は、そのことを忘れている。
完全に忘れている。
本人に聞けば、おそらくこう言うだろう。
「そんなこと、ありましたか?」
あったのだ。
大いにあった。
こちらは忘れたくても忘れられない。
そういうことが、リオネルには多すぎる。
「若様」
マルクの声で、私は現実に戻った。
「手紙の続きを読まれないのですか」
「ああ、読む」
私は再び弟の手紙に目を落とした。
『学院は大きいです。授業はまだ本格的に始まっていません。食堂の料理は悪くありません。友人は、まだそれほど多くありません』
友人は、まだそれほど多くありません。
私はその一文を見て、頭を押さえた。
「マルク」
「はい」
「これは、すでに何人かいるという意味だな」
「おそらく」
「入学して二日で?」
「リオネル様ですから」
マルクの返答は早かった。
私は椅子にもたれた。
「友人の家格が問題だ」
「普通のご学友ではないと?」
「リオネルが“まだそれほど多くない”と書く時は、数より質が危ない」
「質、でございますか」
「高位貴族が混ざっている可能性がある」
マルクは沈黙した。
そして、静かに言った。
「侯爵家、あるいは伯爵家あたりでしょうか」
「やめてくれ。現実味がある」
私は手紙をもう一度読んだ。
文章は落ち着いている。
不自然なほど落ち着いている。
つまり、何かを隠している。
いや、隠しているつもりはないのだろう。
リオネルにとっては本当に普通なのだ。
少し人の相談に乗った。
少し誰かの面子を守った。
少し揉め事を避けた。
その程度に思っている。
だが、学院は領地の小さな村ではない。
王族に近い者。
侯爵家。
伯爵家。
騎士家。
平民出身の奨学生。
それぞれの家の思惑。
その火種に弟が触れれば、どうなるか。
私は想像して、胃が重くなった。
その時、執務室の扉が開いた。
入ってきたのは父だった。
「エルネスト、リオネルから手紙が来たそうだな」
「はい、父上」
「元気そうか?」
私は手紙を父に渡した。
父は読み始めた。
そして、例の一文で止まった。
『学院生活は、今のところ普通です』
父は黙った。
しばらくして、ぽつりと言った。
「……普通か」
「はい」
「リオネルの普通か」
「はい」
父は手紙を閉じた。
そして、真剣な顔で言った。
「念のため、学院に様子を聞くべきか?」
「やめましょう」
私は即答した。
父が驚く。
「なぜだ」
「こちらが動くと、リオネルが余計に目立ちます」
「それもそうか」
「それに、あいつは助けを求める時は求めます」
たぶん。
いや、求めるだろうか。
少し自信がなくなった。
リオネルは、自分の苦労を苦労だと思わないところがある。
人の感情を整えること。
火種を消すこと。
相手の面子を守ること。
あいつにとっては、それが呼吸のようになっている。
だから、周囲が気づいた時には、すでにいくつもの面倒ごとを抱えている可能性がある。
父は椅子に腰かけ、ゆっくりと息を吐いた。
「エルネスト。お前は、リオネルをどう見ている」
「弟です」
「それはそうだ」
「そして、アルバート家に必要な人間です」
父は静かにうなずいた。
「領主向きではないな」
「はい」
私は迷わず答えた。
リオネルは、人の感情を読みすぎる。
領主は時に、誰かに恨まれる決断をしなければならない。
弟はそれができないわけではない。
だが、できてしまう分だけ、自分の中に傷を溜める。
だから、領主には向かない。
だが、補佐には向いている。
交渉。
調停。
面子の調整。
不満の芽の発見。
誰にも気づかれない小さな傷の手当て。
そういう場所で、リオネルは恐ろしいほど力を発揮する。
本人は、ただ穏やかに過ごしたいだけなのに。
「リオネルは、私の隣にいてくれるだけでいいと思っていました」
私は言った。
「だが、学院で見つかるかもしれません」
「誰にだ」
「人を見る目のある者に」
父は黙った。
それが何を意味するか、父にも分かっている。
男爵家次男のリオネルが、ただの凡庸な少年であれば問題ない。
だが、高位貴族に能力を見抜かれれば、話は変わる。
王都に引き抜かれる。
侯爵家の側近候補として目をつけられる。
王族の派閥に巻き込まれる。
あるいは、婚姻で囲い込まれる。
本人が最も嫌がりそうな未来ばかりだ。
父は重々しく言った。
「まずいな」
「はい」
「本人は気づいていると思うか?」
「気づいていたら、“普通です”とは書きません」
父と私は、同時にため息をついた。
マルクが静かに茶を出してくれる。
その香りで、少しだけ呼吸が整った。
その時、母が執務室に入ってきた。
「リオネルから手紙が来たのでしょう?」
母は少し弾んだ声だった。
父が手紙を渡す。
母は嬉しそうに読み始めた。
そして、しばらくして微笑んだ。
「まあ。普通に過ごしているのね。よかったわ」
父と私は顔を見合わせた。
母は気づいていない。
いや、違う。
気づいていないふりをしているのかもしれない。
母は昔から、リオネルに対してだけ少し甘い。
「母上」
私が声をかけると、母はにこりと笑った。
「大丈夫よ、エルネスト」
「何がでしょう」
「あの子は、昔から自分で思っているより人に好かれる子ですもの」
それが大丈夫ではないのです。
そう言いかけて、私は飲み込んだ。
母は手紙を胸に当てた。
「けれど、あの子は人に好かれることを少し怖がっているでしょう」
私は目を伏せた。
母も気づいていたのだ。
リオネルは、好意を受け取るのが下手だ。
感謝されると困る。
頼られると逃げたがる。
褒められると話題を変える。
まるで、誰かの感情を受け取った瞬間に、それが自分の責任になると思っているように。
母は窓の外を見た。
「学院で、あの子が自分のために笑える相手ができるといいわね」
それは、父にも私にもない視点だった。
私たちは弟が巻き込まれることを心配している。
だが母は、弟が誰かと出会うことを願っている。
強い人だ。
私はそう思った。
「そうですね」
私は静かに答えた。
本当にそうなればいい。
リオネルが誰かの火種を消すだけでなく、
リオネル自身の中にある何かを、誰かが少しだけ軽くしてくれればいい。
だが。
その相手が侯爵令嬢や伯爵家嫡男である必要はない。
そこだけは、強く思う。
私は机に向き直り、返事を書くことにした。
何を書けばいいか、少し迷った。
『学院生活が普通とのこと、安心しました』
違う。
安心していない。
『困ったことがあれば、すぐに知らせるように』
これも違う。
リオネルは困ったことを困ったこととして認識しない。
私はペンを止めた。
そして、少し考えてから書き始めた。
『リオネルへ。
手紙を読んだ。
学院生活が普通とのことだが、お前の普通は昔から少し信用ならない。
誰かの相談に乗るなとは言わない。
困っている者を見捨てろとも言わない。
ただし、自分一人で場を整えようとするな。
人の面子を守るのが上手いお前は、自分の面子を後回しにしがちだ。
相手を傷つけないようにするあまり、自分が疲れていることに気づかないところがある。
兄からの頼みだ。
学院では、火種を見つけても、すぐに手を伸ばすな。
まず一度、茶を飲め。
それでも放っておけないなら、せめて誰か一人を巻き込め。
お前が誰かを支えるように、お前も誰かに支えられていい。
父上も母上も元気だ。
領地も今のところ平穏だ。
ただ、東の水路については、去年お前が言っていた通り、下流側の不満が少し出始めている。
帰省したら、また話を聞いてほしい。
エルネスト』
書き終えてから、私は自分で苦笑した。
結局、私も弟を頼っている。
火種に手を伸ばすなと言いながら、領地の火種を見てくれと書いている。
兄としてどうなのだろうか。
だが、仕方ない。
私は兄であると同時に、次期領主でもある。
そして、リオネルは私の弟であると同時に、アルバート家にとって得がたい補佐役なのだ。
封をしようとした時、ふと手が止まった。
最後に一文だけ、書き足した。
『それと、友人ができたなら、今度紹介してくれ』
これくらいならいいだろう。
そう思って封をした。
しかし翌日、私は少し後悔することになる。
王都へ向かう商人から、学院の噂を聞いたのだ。
曰く。
入学早々、レイヴン伯爵家の嫡男が、平民奨学生に謝意を示したらしい。
曰く。
その場には、グランベル侯爵家の令嬢もいたらしい。
曰く。
その空気を整えたのは、どこかの男爵家の次男らしい。
私はその話を聞いた瞬間、額に手を当てた。
遅かった。
手紙は遅かった。
弟は、もう火種に手を突っ込んでいた。
しかも、伯爵家。
侯爵家。
平民奨学生。
三つ同時に。
マルクが横で静かに言った。
「若様」
「何だ」
「リオネル様の“普通”でしたね」
「言うな」
「はい」
私は窓の外を見た。
遠く王都の方角には、薄い雲がかかっている。
リオネル。
お前は今、自分の学院生活が少しずつ普通でなくなっていることに気づいているだろうか。
いや、気づいていないのだろう。
だからこそ、心配なのだ。
私は机に戻り、二通目の手紙を書く準備をした。
今度は、短くするつもりだった。
『リオネルへ。
伯爵家と侯爵家と平民奨学生が同じ噂に出てくる学院生活は、普通とは言わない。
兄より』
そこまで書いて、私は少し迷った。
厳しすぎるだろうか。
いや、これくらいでちょうどいい。
あいつには、これくらい言わなければ伝わらない。
私は封をした。
そして、家令に渡した。
「マルク。急ぎで頼む」
「かしこまりました」
マルクが部屋を出ていく。
一人になった執務室で、私は小さく笑った。
弟は、凡庸な顔に生まれた。
自分でもそう思っている。
だが、私は知っている。
リオネル・アルバートは、決して凡庸ではない。
剣で人を倒すわけではない。
魔法で敵を焼き払うわけでもない。
誰よりも美しい顔で人を惑わすわけでもない。
ただ、人の感情が壊れる前の小さな音を聞き取る。
そして、その音が聞こえてしまえば、見捨てられない。
それは強さだ。
だが、同時に弱さでもある。
だから私は、兄として願う。
どうか学院で、弟が誰かを支えるだけで終わらないように。
弟の「普通ではない普通」を、笑って指摘してくれる誰かがいるように。
そして、できれば。
できれば、その誰かが、あまり面倒な家格の相手ではありませんように。
そう願った直後、私は自分で首を振った。
無理だな。
リオネルだぞ。
きっともう、手遅れだ。
私は深く息を吐き、次の書類に手を伸ばした。
領地の仕事は山ほどある。
水路の調整。
収穫祭の準備。
税の見直し。
隣領との境界確認。
静かな領地など、どこにもない。
ただ、それでも私は思う。
いつかリオネルが戻ってきた時、この場所があいつにとって息をつける場所であるように。
そのために、私は私の仕事をしよう。
弟が学院で火種を消しているなら、兄は領地で火種を減らす。
それが、アルバート家の長男である私の役目だ。
そう思っていたところへ、扉の外からマルクの声がした。
「若様。東の村長お二人が、至急お話ししたいと」
私は固まった。
東の村。
水路。
去年からの不満。
私は天井を仰いだ。
リオネル。
帰省はいつだ。
私は静かに立ち上がった。
そして、弟に似た笑みを作る。
本当は、あまり得意ではない。
だが、今はやるしかない。
「通してくれ」
扉が開く。
村長たちの硬い顔が見える。
私は一度だけ深呼吸した。
喉が渇くと、言葉が痛くなる。
幼い弟の声が、ふと蘇った。
「まずは、茶を出そう」
私がそう言うと、マルクが少しだけ笑った。
そうして私は、弟のいない領地で、弟が残していったやり方を真似ることにした。
認めるのは少し悔しいが。
どうやら私もまた、リオネル・アルバートに助けられているらしい。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回は兄エルネスト視点の幕間でした。
主人公リオネルの“普通ではない普通”を、領地側から見る息抜き回です。
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