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【連載版】凡庸な男爵家次男は、誰にも好かれたくない 〜前世でモテすぎて疲れた俺、今世は静かに暮らしたいのに学院の火種ばかり見えてしまう〜  作者: 平八
第一章 逃げ道と、石畳の学院

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第2話 凡庸な男爵家次男は、お茶会にも行きたくない

誰にも好かれたくない主人公が、なぜか人間関係の火種ばかり見つけてしまう話。


前回の入学初日から少しだけ続いています。

貴族学院に入学して、二日目。


俺は早くも後悔していた。


何を後悔しているのかと問われれば、答えは一つだ。

昨日、余計なことをした。


いや、正確には、余計なことをせざるを得なかった。


入学式後の交流会で、伯爵家嫡男ギルバート・レイヴンが、平民出身の奨学生ニール・ロイドに嫉妬を向けた。

その場に侯爵令嬢セシリア・グランベルがいたせいで、事態は面倒な形になりかけていた。


俺はそれを見てしまった。

見てしまった以上、放っておけなかった。


結果として、ニールは潰されず、セシリア嬢は巻き込まれた令嬢として傷つかず、ギルバートも嫉妬男として笑われずに済んだ。


火は消えた。


消えたはずだった。


なのに、今朝。


俺の机の上には、一通の封書が置かれていた。


上質な紙。

赤い封蝋。

レイヴン伯爵家の紋章。


俺は、それを見た瞬間に目を閉じた。


見なかったことにしたい。


だが封書は消えない。


隣の席の男子生徒が、興味深そうにこちらを見ていた。


「アルバート、それ……レイヴン家からか?」

「似たようなものです」

「すごいな。入学二日目でもう伯爵家から招待か」


すごくない。


まったくすごくない。


これは栄誉ではない。

火種の匂いがする紙だ。

俺は封を切った。

中には短い文章があった。


『本日、昼休みに東棟の談話室へ来い。茶の件だ。

ギルバート・レイヴン』


来い、か。


お願いでも招待でもない。


命令に近い。


だが、昨日の彼を見ていると分かる。

これは横柄なのではなく、単純に誘い方が下手なのだ。

高位貴族の嫡男として育ち、自分から誰かに歩み寄る言葉を持っていない。

その不器用さが、昨日は嫉妬として表に出た。

そして今日は、封書として俺の机に置かれている。


非常に面倒くさい。


俺は小さく息を吐いた。


「断らないのか?」


隣の男子生徒が聞いてきた。

俺は封書を畳みながら答えた。


「断り方を間違えると、もっと面倒になります」


「……何それ」


俺にも分からない。

ただ、経験上そうなのだ。


昼休み。


東棟の談話室は、学院の中でも高位貴族がよく使う場所だった。


大きな窓。

磨かれたテーブル。

淡い香りのする茶葉。

壁には古い絵画。


いかにも、身分と家格が無言で並ぶ場所だ。

男爵家次男の俺には、できれば縁がないほうがいい。

扉の前で一度だけ深呼吸し、俺は中に入った。


ギルバートはすでに席についていた。


昨日と同じ赤みがかった髪。

背筋は伸びている。

だが、表情はどこか落ち着かない。


そして彼の後ろには、二人の男子生徒が立っていた。


一人は細身で、銀縁の眼鏡をかけた少年。

もう一人は体格がよく、いかにも騎士家の息子といった雰囲気だ。


どちらも、俺を値踏みする目をしている。


ああ。


これは、ただの茶ではない。


「来たか、アルバート」


「お招きいただき、ありがとうございます。レイヴン様」


俺は礼を取った。


ギルバートは少し眉を寄せた。


「昨日のように話せ。妙にかしこまられると気持ちが悪い」


後ろの二人の目が鋭くなる。


主人に対して失礼だ、という目だ。


なるほど。


ギルバート本人より、取り巻きのほうが厄介かもしれない。


「では、失礼のない範囲で」


俺は静かに席に着いた。


茶が出された。


香りは良い。

できれば味わいたかった。


だが、正面の空気がそれを許さない。

ギルバートはカップに手を伸ばしたが、飲まなかった。

視線だけが、微妙に揺れている。


何か言いたい。

しかし、どう切り出せばいいか分からない。


俺は黙って待った。


こういう時、先に助け舟を出しすぎると、相手は自分で言葉を選ぶ機会を失う。


やがてギルバートは、低く言った。


「昨日のことだ」


「はい」


「俺は、ロイドに謝るべきだと思うか」


後ろの二人が、わずかに動いた。


特に眼鏡の少年の目が強くなった。

名前はたしか、クラウス・ヴェルナー。

子爵家の三男だったはずだ。


昨日、ギルバートの近くにいた顔だ。

彼はギルバートを見ていない。


俺を見ている。


つまり、こう思っている。


余計なことを言うな。


俺はカップを置いた。


「謝りたいのですか?」


「質問に質問で返すな」


「大事なことです。謝るべきかどうかより、レイヴン様がどうしたいかのほうが先です」


ギルバートは押し黙った。


後ろの騎士家の少年が口を開きかける。


だが、ギルバートが片手で制した。


「……昨日の俺は、見苦しかった」


「はい」


ギルバートの眉が跳ねた。


クラウスも目を見開く。


だが、俺は続けた。


「ですが、そこで止まれるなら、昨日よりは前に進んでいます」


ギルバートは俺を睨んだ。


しかし、怒ってはいない。


「お前は、遠慮がないな」


「遠慮した言葉が欲しいなら、別の方に聞いたほうがいいです」


「生意気だ」


「よく言われます」


実際には、あまり言われたことはない。


前世では、俺は他人の機嫌を損ねないように生きていた。

けれど今世では、少しだけ違う。

相手の感情を守ることと、耳に心地よい言葉だけを渡すことは、同じではない。


ギルバートはしばらく黙った後、息を吐いた。


「俺は、ロイドに謝る」


クラウスの表情が変わった。


「ギルバート様」


声は丁寧だった。


だが、止める気配がはっきりとある。


ギルバートが振り返る。


「何だ、クラウス」


「恐れながら、平民の奨学生に伯爵家嫡男が頭を下げるなど、周囲にどう見られるか分かりません」


予想通りだった。


ギルバート本人の嫉妬は、昨日ある程度火が消えた。


だが、彼の周囲は違う。


主人の面子。

伯爵家の格。

貴族としての体裁。


そういうものを守ろうとする者たちがいる。


彼らは悪人ではない。


むしろ、忠義がある。


だからこそ厄介だ。


忠義の形を間違えると、主人の失敗を守るどころか、主人をさらに追い詰める。

俺はクラウスに視線を向けた。


「ヴェルナー様は、レイヴン様の名誉を案じておられるのですね」


クラウスはわずかに顎を上げた。


「当然です。レイヴン様は伯爵家の嫡男です。軽々しく下位の者に頭を下げるべきではありません」


「なるほど」


俺はうなずいた。


「では、謝らなかった場合、レイヴン様の名誉は守られますか?」


クラウスの目が細くなる。


「どういう意味です」


「昨日の場にいた者は見ています。レイヴン様がロイド君に嫉妬したように見えたことを」


ギルバートの顔が少し歪む。


だが、止めなかった。


俺は続けた。


「このまま何もしなければ、噂はこうなります。伯爵家嫡男が、侯爵令嬢と話した平民奨学生に嫉妬した。しかも、後始末もしなかった、と」


クラウスは黙った。


「一方で、謝罪の仕方を整えれば話は変わります」


「整える?」


「はい。レイヴン様が感情的になったことを詫びるのではなく、学院で共に学ぶ者として、言葉が強すぎたことを認める。さらに、ロイド君の成績を評価し、今後は互いに学友として切磋琢磨したいと伝える」


俺はギルバートを見る。


「それなら、伯爵家嫡男が平民に頭を下げたのではありません。有能な者を見極め、自らの器を示したことになります」


ギルバートの目が変わった。


クラウスも黙っている。


騎士家の少年は、少しだけ感心したように俺を見ていた。


おそらく、彼は単純でまっすぐなタイプだ。

こういう相手は、言葉より行動を見る。


「つまり、謝罪ではなく、器を見せる場にするということか」


ギルバートが言った。


「結果としては、そうなります」


「お前は本当に、言い方が悪いな」


「よく言われます」


「誰にだ」


「兄に」


嘘ではない。


兄は俺に、時々困ったように笑う。


ギルバートは小さく笑った。


その瞬間、談話室の空気が少し緩んだ。

だが、完全には消えていない。

クラウスの目の奥には、まだ火種が残っている。


主人であるギルバートが謝ると決めた。

ならば、彼はもう直接反対しないだろう。


だが、別の形で動く可能性がある。

俺はそれを、少しだけ嫌な予感として覚えていた。


その予感は、午後の授業前に当たった。


廊下の先で、人だかりができていた。

中心にいるのは、ニール・ロイド。

その前に立っているのは、クラウス・ヴェルナーだった。


俺は足を止めた。


本当に、どうしてこうなる。


クラウスの声は静かだったが、周囲によく通った。


「ロイド君。君は昨日、グランベル様に入学試験の内容を説明していたそうだね」


ニールは緊張した表情でうなずいた。


「はい。質問を受けましたので」


「なるほど。では、試験問題をよほどよく覚えているのだろう。さすが上位合格者だ」


言葉だけなら褒めている。


だが、空気は違う。


周囲の生徒たちが、少しずつ距離を取っている。


クラウスは笑っていた。


丁寧で、上品で、逃げ道の少ない笑みだった。


「ところで、平民出身の君があれほど高得点を取ったことについて、不思議に思う者もいる」


ニールの顔色が変わった。


「それは、どういう意味ですか」


「言葉通りだ。学院の試験は公平だ。だが、公平であるからこそ、疑念があれば晴らしたほうがいい」


まずい。


非常にまずい。


これは、いじめではない。


もっと厄介だ。


疑念という形を借りた、公開処刑だ。


クラウスは、ギルバートの名誉を守るために動いているつもりなのだろう。

平民奨学生の価値を下げれば、昨日ギルバートが嫉妬した相手の格も下がる。

結果として、ギルバートの失態も薄まる。


そう考えたのかもしれない。


愚かだ。


だが、忠義から来ているぶん、単純に叩くとこじれる。


ニールが拳を握っていた。


反論したい。


だが、相手は子爵家の息子。

周囲は貴族ばかり。

ここで感情的になれば、彼のほうが不利になる。


俺はため息を飲み込んだ。


またか。


またなのか。


俺は、本当に目立ちたくないのだが。


「ヴェルナー様」


俺は人だかりの外から声をかけた。


周囲がこちらを見る。


クラウスも振り返った。


「アルバート君」


その声には、わずかに棘があった。


「これはこれは。何か御用かな」


「ええ。少し確認を」


俺はニールの横ではなく、クラウスの少し斜め前に立った。


ニールを庇う位置ではない。

クラウスと対立する位置でもない。

あくまで、話の場に混ざる位置だ。


「ヴェルナー様は、学院の試験に疑念があると?」


クラウスの眉が動く。


「そうは言っていない」


「では、試験を管理した教師陣に疑念があると?」


「それも違う」


「では、ロイド君個人にだけ疑念がある、ということでしょうか」


周囲がざわめいた。


クラウスの表情が固まる。


そのまま行けば、彼は平民奨学生を身分で疑っていることになる。

だが、俺は彼を追い詰めるつもりはない。

追い詰めると、火は大きくなる。


だから、逃げ道を置く。


「失礼しました。ヴェルナー様は慎重な方ですから、不正を疑ったというより、ロイド君の実力を皆の前ではっきりさせておいたほうが、今後彼が余計な疑いを受けずに済むと考えられたのですね」


クラウスの目がわずかに揺れた。


違う。


おそらく、彼はそこまで考えていなかった。

だが、この解釈に乗れば、彼は悪意ある追及者ではなく、場を整えようとした者になる。

クラウスは数秒黙った。


その後、ゆっくりとうなずいた。


「……そうだ。私は、彼のためにも疑念を残すべきではないと言っている」


よし。


最低限、刃の向きは変わった。


だが、これだけでは足りない。


ニールはまだ傷ついたままだ。


そして周囲の生徒たちも、半信半疑の顔をしている。

ここで話を終えると、噂だけが残る。

俺はニールを見た。


「ロイド君」


「……はい」


「昨日、グランベル様に説明していた入学試験の問題は、どの分野ですか」


「古代史の記述問題です」


「覚えていますか」


ニールは一瞬、戸惑った。


だが、すぐにうなずいた。


「はい。設問は、百年前の北方遠征における補給路の失敗について、政治的背景を含めて論じるものでした」


周囲の数人が顔をしかめた。


難しい問題だったのだろう。

俺は続けた。


「では、簡単に説明してもらえますか。私もあの問題は少し気になっていました」


ニールは俺を見た。


その目に、不安と理解が同時に浮かぶ。


ここで説明できれば、彼の実力は示せる。

だが、間違えればさらに傷つく。

俺は小さくうなずいた。


大丈夫だ。


君は、昨日ギルバートの前で感情を飲み込めた。

なら、ここでも飲み込める。

ニールは深く息を吸った。


「北方遠征の失敗は、単純な軍事的敗北ではありません。表向きは冬季の補給不足が原因とされていますが、実際には王都側の貴族派閥が遠征軍への支援を意図的に遅らせたことが大きいと考えられます」


声は少し震えていた。


だが、内容は明快だった。


「遠征を主導したのは当時の第二王子派でした。一方、補給を管理していた財務官僚の多くは第一王子派に近かった。そのため、補給路の整備よりも責任の所在を曖昧にする文書処理が優先され、結果として前線の判断が遅れたのです」


周囲の空気が変わった。


ただの暗記ではない。


理解している。


クラウスの表情も、わずかに硬くなった。

ニールは続けた。


「つまり、北方遠征の失敗は、雪と距離の問題であると同時に、王都の派閥争いが前線を殺した事例です。私は、その点を記述しました」


沈黙。


それから、誰かが小さく息を吐いた。


俺はクラウスを見る。


「見事な説明でしたね」


クラウスは黙っていた。


ここで彼に敗北を認めさせてはいけない。

だから、俺は先に道を作る。


「ヴェルナー様が皆の前で確認してくださったおかげで、ロイド君の実力ははっきりしました。これなら、今後つまらない疑いも出にくいでしょう」


クラウスの口元がわずかに動いた。


悔しさ。


安堵。


そして、引き際を得たことへの迷い。


彼は馬鹿ではない。

ここでさらにニールを攻撃すれば、自分が悪者になる。

逆に、この解釈に乗れば、彼はロイドの実力を証明する場を作ったことになる。


「……そうだな」


クラウスは静かに言った。


「ロイド君。君の説明は、確かに見事だった。疑念は晴れたと言っていい」


ニールは少し驚いた顔をした。


「ありがとうございます」


「だが、貴族学院では知識だけでは足りない。言葉の置き方も学ぶことだ」


「はい」


クラウスはそれだけ言うと、人だかりから離れようとした。


その時だった。


「待て、クラウス」


低い声が廊下に響いた。


ギルバートだった。


彼は人だかりを割って、こちらへ歩いてきた。

顔は険しい。

だが、怒りの向きは定まっている。


クラウスは目を伏せた。


「ギルバート様」


ギルバートはまずニールを見た。


そして、周囲の生徒たちが見ている前で、軽く頭を下げた。


ほんの少し。


貴族としての礼を崩さない範囲で。

だが、それは確かに謝意を示す動作だった。


「ロイド。昨日は、俺の言葉が強すぎた」


廊下が静まり返る。


ニールは目を見開いた。


ギルバートは続けた。


「君がセシリア嬢に説明していたのは、学問の話だった。それを俺が勝手に曲げて受け取った。すまなかった」


ニールはすぐに姿勢を正した。


「いえ。私のほうこそ、距離感に配慮が足りませんでした」


「それについては、今後互いに学べばいい」


ギルバートはそう言った後、少しだけ口元を引き締めた。


「それと、今の説明は見事だった。入学試験上位というのは、噂だけではなかったらしい」


ニールの顔が少し変わった。


驚きと、救われたような表情。


「ありがとうございます」


ギルバートは次にクラウスを見た。


クラウスは頭を下げた。


「申し訳ありません。出過ぎた真似をいたしました」


ギルバートはしばらく黙っていた。


周囲の視線が二人に集まる。

ここでギルバートがクラウスを叱責すれば、クラウスは潰れる。

だが何も言わなければ、また同じことが起こる。


俺は黙って見ていた。


ギルバートがどうするか。

正直、少し興味があった。


やがて彼は言った。


「俺の名誉を案じたのだろう」


クラウスの肩がわずかに震えた。


「……はい」


「だが、俺の名誉は、誰かを下げても上がらない」


その言葉に、クラウスが顔を上げた。


ギルバートは続けた。


「次からは、俺を守るなら、俺が小さく見えない方法で守れ」


廊下の空気が変わった。


クラウスは深く頭を下げた。


「承知しました」


ギルバートはうなずいた。


「それから、ロイド」


「はい」


「今度、古代史の試験について聞かせろ。俺はその設問で少し点を落とした」


周囲がざわめいた。


伯爵家嫡男が、平民奨学生に教えを請う。


だが、そこに屈辱の色はなかった。

むしろ、堂々としていた。


ニールは一瞬だけ戸惑い、それから真剣にうなずいた。


「私でよろしければ」


「頼む」


ギルバートはそう言ってから、ちらりと俺を見た。


その目が、少しだけ誇らしげだった。


どうだ。


今のは悪くないだろう。


そう言っているように見えた。

俺は小さくうなずいた。


悪くない。


かなり悪くない。


昨日の嫉妬男は、一日で少しだけ器を広げた。

それは素直に、良いことだと思う。


ただし。


なぜ俺が、その成長を見届ける位置にいるのか。


そこだけは、まったく納得していない。


人だかりが少しずつ散っていく。


クラウスは去り際に、俺の前で足を止めた。


「アルバート君」


「はい」


「君は、敵に回すと面倒な人間だな」


「よく言われます」


「本当に言われているのか?」


「今、言われました」


クラウスは一瞬だけ黙り、それから小さく笑った。


「なるほど。ギルバート様が君を茶に呼んだ理由が少し分かった」


「それは誤解です」


「誤解ではないと思うが」


やめてほしい。


そういう理解は、本当にやめてほしい。


クラウスは軽く礼をして去っていった。

ニールも、少し迷った様子で俺の前に立った。


「アルバート様」


「リオネルで構いません」


「では、リオネル様。先ほどは、ありがとうございました」


「私は何もしていません」


「それは無理があります」


最近、その返しをされることが増えた気がする。


非常によくない傾向だ。


ニールは少しだけ笑った。


「私は、正直に言うと悔しかったです」


「はい」


「疑われたことも、何も言い返せなかったことも」


「はい」


「でも、あの場で怒っていたら、きっと私は終わっていました」


その通りだった。


だが、それを自分で分かっているなら強い。


俺は言った。


「怒らなかったのは、弱さではありません」


ニールが俺を見る。


「怒る場所を選べる人は、強いです」


ニールは唇を引き結んだ。


その目には、さっきまでとは違う熱があった。


「ありがとうございます。覚えておきます」


ああ。


これは伸びる。


そう思った。


そして同時に、少し困った。


伸びる人間は、周囲の嫉妬も集める。

ニールは今後も火種になる。

本人が悪いわけではない。


ただ、有能で、身分が低く、努力家で、折れない。

それは貴族学院では、十分すぎるほど目立つ要素だった。


ギルバート、クラウス、ニール。


たった二日で、俺は面倒な男子生徒三人と関わってしまった。


非常にまずい。


俺は静かにその場を離れようとした。

だが、廊下の先にセシリア・グランベル侯爵令嬢が立っていた。


いつからいたのか。


分からない。

分からないが、彼女は明らかに一部始終を見ていた顔をしていた。


俺は内心で頭を抱えた。


本当に、この令嬢は間が悪い。


いや、違う。


おそらく、間が良すぎるのだ。


セシリア嬢は俺に近づき、微笑んだ。


「アルバート様」


「グランベル様」


「今日も、何もしていないのですか?」


「はい。私は何も」


「では、そういうことにしておきますわ」


その言い方は、昨日と同じだった。


俺は少しだけ疲れた。


セシリア嬢は廊下の向こうへ視線を向けた。


「レイヴン様、少し変わられましたね」


「元々、悪い方ではなかったのでしょう」


「ええ。ただ、不器用な方です」


「不器用な方は、周囲が扱いを間違えると、悪い方へ転がります」


「では、あなたはそれを止めたのですね」


「たまたまです」


「たまたまで二日続くなら、それはもう才能では?」


兄と同じことを言わないでほしい。


俺は答えなかった。


セシリア嬢は小さく笑った。


「アルバート様。放課後、お時間はありますか?」


嫌な予感がした。


非常に嫌な予感がした。


「何か御用でしょうか」


「ええ。わたくしの友人が、少し困っておりまして」


始まった。


昨日の事件。

今日の廊下。

そして今度は、侯爵令嬢の友人。


俺の静かな学院生活は、どこへ行ったのだろう。


「申し訳ありませんが、私は相談役ではありません」


「存じております」


「では」


「ただ、相談した方の表情が少し楽になる方ではあります」


そう言われると、断りにくい。


ずるい。


この令嬢は、人の逃げ道を塞ぐのがうまい。


「内容によります」


俺はそう答えた。


断っていない。


だが、受けてもいない。


完璧な中間だ。

セシリア嬢は満足そうに微笑んだ。


「では、内容をお伝えするところから始めますわ」


負けた。


今のは、完全に負けた。


その日の夕方。


俺は自室の机に向かい、兄への手紙を書いていた。


内容は、無難な近況報告だ。


学院は大きいです。

授業はまだ本格的に始まっていません。

食堂の料理は悪くありません。

友人は、まだそれほど多くありません。


そこまで書いて、手が止まった。


嘘ではない。


嘘ではないが、正確でもない。


友人かどうかは分からない。


だが、関わりは増えている。


ギルバートは、俺を茶に呼ぶ。

クラウスは、俺を面倒な人間だと認識した。

ニールは、俺に感謝している。

セシリア嬢は、俺を明らかに観察対象にしている。


これは友人ではない。


断じて違う。


だが、平穏でもない。


俺は手紙の最後に、こう書いた。


『兄上。学院生活は、今のところ普通です』


書いた瞬間、兄の声が頭に浮かんだ。


お前の普通は、たまに普通ではないからな。


俺はペンを置いた。


認めたくない。


認めたくないが、兄は正しかったのかもしれない。


翌朝。


俺の机の上には、また一通の封書が置かれていた。

今度は、グランベル侯爵家の紋章だった。

俺はしばらくそれを見つめた。


そして、静かに目を閉じた。


見なかったことにしたい。

だが封書は消えない。


俺は小さく息を吐き、封を切った。


静かに暮らしたい。


ただそれだけの願いが、どうしてこんなに難しいのだろう。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


今回は、前回の「茶の件」と、ギルバート・ニール・クラウスの関係を中心にした話でした。


主人公は相変わらず何もしていないつもりですが、学院生活は順調に静かではなくなっています。


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