表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
凡庸な男爵家次男は、誰にも好かれたくない 〜前世でモテすぎて疲れた俺、今世は静かに暮らしたいのに学院の火種ばかり見えてしまう〜  作者: 平八
第一章 逃げ道と、石畳の学院

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

29/30

第28話 凡庸な男爵家次男は、逃げ道を公道にされたくない

前回まで:

公開説明会を終えた翌日、リオネルの「答えません」は一晩で軽く使われ始めました。

その誤用を止めるため、またしても補足運用が作られ、リオネルの悲鳴には注意書きが増えます。

そして夜、届いたのは学院長室への呼び出し。


逃げ道は、学生自治会の運用を越え、学院そのものの記録へ進もうとしていました。


主な登場人物:

リオネル・アルバート……男爵家次男。逃げ道を作ったつもりが、学院の歴史にされそうで胃が痛い。

ギルバート・レイヴン……伯爵家嫡男。定例外交圧力の茶を淹れる。濃い。

クラウス・ヴェルナー……子爵家三男。リオネルの言葉を薄めて運ぶ耐火箱。

ニール・ロイド……平民出身の奨学生。自分の言葉で立ち始めた。

セシリア・グランベル……侯爵令嬢。支援と支配の境界を見る人。

レオンハルト・ヴァイス……生徒会長。制度を運用する静かな怪物。

学院長……学院そのものを背負う、さらに静かな権力者。

学院長室という場所は、静かだった。


静かすぎた。


廊下の音が、扉の前で途切れる。


人の声も、足音も、紙の擦れる音も、そこから先には入れない。


まるで、学院の中にあるのに、学院から切り離された部屋のようだった。


俺は扉の前に立ち、軽く息を吸った。


胃が痛い。


いつも通りだ。


むしろ、胃が痛くない日の方が不安になる気がする。


隣にはギルバート。


後ろにクラウス、セシリア嬢、ニール。


少し離れて、レオンハルト会長。


呼び出された全員が揃っている。


「顔色が悪い」


ギルバートが低く言った。


「おはようございます」


「放課後だ」


「では、こんにちは」


「顔色が悪い」


もはや時間帯に左右されないらしい。


「学院長室に呼ばれて、顔色が良い人間の方が珍しいと思います」


「それもそうだ」


ギルバートは真剣に頷いた。


その真剣さが、少しだけありがたい。


ありがたいと思ってしまう自分が、やはり怖い。


クラウスが軽く笑った。


「ここまで来ると、逃げ道の行き止まりという感じだね」


「やめてください」


「でも、行き止まりには扉がある。開けるしかない」


「開けたくありません」


「開けないことにも意味がつくよ」


最悪だ。


本当に最悪だ。


セシリア嬢が静かに言った。


「入室そのものに意味がつくなら、せめて中で何を受け取るかを選ぶしかありません」


「受け取りたくありません」


「それも選択です」


便利だ。


だが、今日はその便利さが少しだけ痛い。


ニールは緊張した顔で立っていた。


「アルバート様」


「はい」


「私、ここにいていいのでしょうか」


「呼ばれていますので」


「そう、ですよね」


彼の手は少し震えていた。


俺は、何か言おうとしてやめた。


求められていない助言はしない。


俺たちが作った言葉が、こういう場面で自分の口を塞ぐ。


良いことなのか、悪いことなのか、もう分からない。


扉の向こうから声がした。


「入りなさい」


低くも高くもない。


大きくも小さくもない。


ただ、逆らう余地だけがない声だった。


レオンハルト会長が扉を開ける。


学院長室に入った瞬間、俺は理解した。


ここは、褒められる場所ではない。


責められる場所でもない。


もっと厄介だ。


判断される場所だ。


学院長は、机の向こうに座っていた。


年齢は父より少し上だろうか。


白髪交じりの髪を後ろへ撫でつけ、皺の刻まれた顔に穏やかな表情を浮かべている。


だが、その目は穏やかではなかった。


一学生を見る目ではない。


問題児を見る目でもない。


珍しい薬草か、扱いを誤れば毒になる鉱石か、見たことのない火薬を観察するような目だった。


俺は、その視線だけで胃が重くなった。


「よく来た」


学院長は言った。


「公開説明会の記録は読んだ。学生自治会の補足運用も確認した」


褒めない。


謝らせない。


まず、記録。


そういう人だ。


「よく燃えたな」


学院長は、まるで天気の話でもするように言った。


レオンハルト会長が静かに頭を下げる。


「想定内の範囲で収めました」


「収めた、か」


学院長はわずかに笑った。


「延焼しなかった、という意味ではそうだろう」


延焼。


火事として見ている。


間違ってはいない。


だが、その火の中心に何度も立たされた側としては、かなり嫌な表現だった。


学院長の視線が、俺に向いた。


「リオネル・アルバート」


「はい」


声が、少し硬くなった。


「君の名は、今回の正式記録には残さない」


一瞬、息が止まった。


残さない。


その言葉に、胸の奥が少しだけ軽くなる。


名前は残らない。


役職もない。


発言録にもならない。


なら、逃げられるのではないか。


そんな浅い期待が、喉元まで上がった。


学院長は、その浅さを見透かしたように続けた。


「君を表彰しない。君に役職も与えない。特別顧問、相談役、自治会補佐、いずれの肩書きにも置かない」


救いだ。


それは救いのはずだった。


だが、学院長の声には、優しさよりも運用の冷たさがあった。


「君を役職に置けば、皆が君の顔を見る。君が黙れば、制度も黙ったように見える。君が倒れれば、制度も倒れたように見える」


学院長は淡々と言った。


「だから君は、制度の外に置く」


制度の外。


それは、俺が望んでいた場所のはずだった。


なのに、言われた瞬間、背筋が冷えた。


外に置く。


それは自由ではない。


外側に固定される、ということでもある。


レオンハルト会長と同じだ。


この人も、救いの形をした檻を作る。


学院長は、机の上の書類を一枚持ち上げた。


「ただし、今回の運用は学院の正式な暫定指針として預かる」


来た。


来ると思っていた。


それでも、実際に聞くと胃が沈む。


「断る権利。本人同意。匿名性。標準文案。具体例集。断る練習および断られる練習。沈黙と事実確認の区別」


学院長は一つずつ読み上げる。


俺の逃げ道が、項目になっている。


標識になっている。


石畳になっている。


「学生自治会の範囲に留めるには、よくできすぎている」


よくできすぎている。


それは、最悪の褒め言葉だった。


「学院全体で扱う。教師側にも共有する。研究会、同好会、寮運営にも段階的に適用する」


ニールが小さく息を呑んだ。


セシリア嬢は、表情を変えなかった。


クラウスはわずかに目を細めた。


ギルバートは、黙って俺の隣に立っていた。


俺は声を出した。


「では」


喉が乾いていた。


「では、私は関係ありませんね」


言った瞬間、自分でも情けないと思った。


逃げ方が雑だ。


しかし、雑でも逃げたい。


「私は役職もなく、名前も記録に残らず、指針は学院が預かる。なら、今後は学院と学生自治会で運用してください」


頼む。


そうしてくれ。


俺を外してくれ。


俺の名前を消してくれ。


俺の存在を消してくれ。


学院長は、少しだけ目を細めた。


「関係がない者の言葉は、ここまで人を動かさない」


静かだった。


だが、扉が閉まる音より重かった。


「……私は、何も」


「何もしない者の周囲に、これほど多くの運用は生まれない」


学院長の声は責めていない。


だからこそ逃げ場がない。


「君が何を望んでいたかは、問わない」


問わない。


理由を聞かない。


それは、俺たちが作った逃げ道の一つだった。


だが、権力者が使うと、こんなにも怖い。


「学院を良くしたかったわけではないのだろう」


その言葉に、胸が少しだけ跳ねた。


「静かに過ごしたかった」


息が止まる。


学院長は、俺を見ている。


一学生ではなく、未知の劇薬を見るように。


「違うか」


違わない。


違わないから、答えたくなかった。


「……答えません」


気づけば、そう言っていた。


部屋の空気が、ほんの少しだけ動いた。


ニールがわずかにこちらを見る。


ギルバートは動かなかった。


クラウスは、かすかに笑いそうになって、やめたようだった。


学院長は、初めて少しだけ笑った。


「よろしい」


よろしい。


何がだ。


「それでいい。今の答えも、記録には残さない」


安心していいのか分からない。


全く分からない。


学院長は書類を置いた。


「君の思考の出所には興味がない」


心臓が、嫌な跳ね方をした。


思考の出所。


その言葉は、まるで皮膚の下を細い刃でなぞられたようだった。


前世。


現代。


異質な視点。


そのどれを指しているのか、学院長は言わない。


たぶん、知らない。


だが、この人は気づいている。


リオネル・アルバートという男爵家次男の中に、この学院の常識とは少し違う構造があることを。


「古い賢者の言葉に、こういうものがある」


学院長は、ふと思い出したように言った。


「人は、門を作るために逃げることがある」


俺の背筋に、細い冷気が走った。


その言葉は、この世界のものなのか。


それとも、もっと別の場所から流れ着いたものなのか。


まさか。


そう思った瞬間、学院長はもうその話題から目を離していた。


「だが」


学院長は続けた。


「その結実は、学院の利益として私が預かる」


結実。


構造。


俺ではない。


俺という人間ではない。


俺の恐怖でも、拒絶でも、吐き気でもない。


そこから生まれた形だけが、学院に回収される。


俺は、やっと理解した。


これは表彰ではない。


救済でもない。


収穫だ。


「君を称えない」


学院長は言った。


「君を使わない」


少し間を置く。


「だが、君から生まれた構造は使う」


吐き気がした。


あまりにも正しい。


あまりにも冷たい。


俺は、名前を残されたくなかった。


役職も欲しくなかった。


褒められたくもなかった。


その全部を叶えられた。


その上で、逃げ方だけが残る。


完璧な敗北だった。


「学院長」


セシリア嬢が静かに口を開いた。


「その扱いは、アルバート様個人への負担を減らすものですか。それとも、学院にとって都合の良い距離を取るものですか」


まっすぐな問いだった。


俺は思わずセシリア嬢を見た。


学院長は笑わなかった。


「両方だ」


正直だった。


「個人の名に紐づければ、彼は壊れる。制度の名に紐づければ、制度が残る。ならば制度に移す」


セシリア嬢は、ほんの一瞬だけ俺を見た。


そして、誰にも気づかれないほど微かに唇を噛んだ。


彼女は理解したのだと思う。


これは、俺を守る形をしている。


けれど同時に、俺の逃げ道を学院に差し出す形でもある。


彼女はそれを止められない。


その痛みを、たぶん誰より早く理解してしまった。


「承知しました」


承知するのか。


いや、彼女は理解しただけだ。


納得ではないかもしれない。


ギルバートが低い声で言った。


「アルバート本人には、何も求めないのですか」


学院長はギルバートを見る。


「求めない」


「本当に」


「少なくとも、公式には」


公式には。


嫌な言葉だ。


ギルバートの眉が動いた。


学院長は続ける。


「君たちは、彼の周囲にいるのだろう」


その言い方は、確認ではなかった。


「ならば、公式でない部分は君たちの問題だ」


ギルバートの目が少しだけ鋭くなった。


「学院は、そこまで踏み込まないと」


「踏み込めば、それもまた制度になる」


ギルバートは黙った。


返せない。


正しい。


また正しい。


本当に正しいものは、なぜこんなにも人を黙らせるのか。


クラウスが軽く手を挙げた。


「確認しても?」


「どうぞ」


「今回の正式指針に、アルバートの発言録や原案は添付されませんか」


「されない」


「個人名の記載は」


「ない」


「では、外部から照会があった場合は」


外部。


その言葉に、嫌な予感がした。


学院長の目が、ほんの少しだけ鋭くなる。


「学院として回答する」


「アルバート家には」


「必要があれば、学院から伝える」


必要があれば。


つまり、必要が生まれる可能性がある。


クラウスは微笑んだ。


「承知しました」


軽い声だった。


だが、目は笑っていなかった。


ニールが、おずおずと手を挙げた。


「私からも、よろしいでしょうか」


「どうぞ」


「この指針で、助かる人はいると思います」


ニールの声は震えていた。


それでも、逃げなかった。


「でも、アルバート様が苦しそうなのも、分かります」


やめてほしい。


ここでそれを言われると、俺の喉が詰まる。


「だから、その……」


ニールは一度言葉を探した。


「学院のものになるなら、誰か一人のものにしないでください」


学院長は、少しだけ目を細めた。


「続けなさい」


「アルバート様のものでも、私たちのものでも、強い人たちのものでもなくて、困った時に使える道具にしてください」


道具。


その言葉は、少しだけ胸に落ちた。


道具なら、まだいいのかもしれない。


信仰でも、旗でも、祭壇でもなく。


道具。


使いたい時に使い、不要なら置いておけるもの。


学院長は静かに頷いた。


「良い理解だ」


ニールの肩が少しだけ下がった。


褒められている。


だが、重くはない。


学院長は褒め方すら運用しているのかもしれない。


恐ろしい人だ。


レオンハルト会長が口を開いた。


「学院長。正式指針への移行は、学生自治会側で草案を整えます」


「任せる」


「ただし、アルバート個人への照会は遮断します」


「当然だ」


当然。


その当然が、ありがたい。


ありがたいのに怖い。


レオンハルト会長は俺を見なかった。


見ないまま、俺を守る形を置いた。


やはり静かな怪物だ。


学院長は最後に俺を見た。


「リオネル・アルバート」


「はい」


「君は、学院を変えた」


やめてほしい。


「いいえ」


反射的に否定した。


「私は、変えたくありませんでした」


言ってしまった。


部屋が静まる。


俺はもう、隠せなかった。


「私は、ただ静かに過ごしたかっただけです」


言った瞬間、胸が冷えた。


これが本音だ。


あまりにも情けない本音だ。


救いたかったわけではない。


正したかったわけでもない。


学院を良くしたかったわけでもない。


ただ、見たくない火を見てしまって、放っておけず、でも責任は取りたくなくて、逃げ道を作った。


それだけだ。


学院長は、表情を変えなかった。


「そうだろうな」


否定しない。


責めない。


褒めない。


ただ、見抜いている。


「だが、動機の清らかさと、結果の有用性は別だ」


最悪だ。


本当に最悪だ。


「君が善意で動いたかどうかは、学院にとって重要ではない。構造が有用かどうかが重要だ」


「私は、人間です」


自分でも驚くほど低い声だった。


学院長は頷いた。


「だから、君の名は残さない」


「……」


「そして学院は、構造を残す」


逃げ場がない。


本当に、どこにも逃げ場がない。


人間としては隠す。


構造としては使う。


それは、最も俺の望みに近い形で、最も俺を逃がさない形だった。


「以上だ」


学院長は書類を閉じた。


「正式指針は、暫定運用として一月後に見直す。学生自治会は草案を整え、教師会へ提出しなさい」


「承知しました」


レオンハルト会長が頭を下げる。


「アルバート」


呼ばれた。


俺は、もう何を言われても胃が痛む気がした。


「君に求めることはない」


救いの言葉。


のはずだった。


「だが、君がまた火を見つけてしまった時、黙るかどうかは君が選べ」


選べ。


また、それだ。


「君を使わない。君を止めもしない」


学院長の目が、静かに俺を見ていた。


「君が逃げることも、火の前で足を止めることも、学院は記録しない」


記録しない。


でも、見ている。


それが分かった。


俺は頭を下げた。


「……承知しました」


それ以外、言えなかった。


学院長室を出ると、廊下の空気が少しだけ軽かった。


いや、軽いのではない。


ただ、さっきまでいた部屋の空気が重すぎただけだ。


俺は壁に手をついた。


ほんの少しだけ。


本当に、ほんの少しだけ。


足元が揺れた。


「アルバート」


ギルバートの声がした。


「大丈夫です」


言いかけて、止まった。


大丈夫ではない。


大丈夫と言うと、また便利な顔になる。


俺は息を吐いた。


「……大丈夫では、ありません」


言った。


言ってしまった。


ギルバートの表情が少しだけ変わった。


クラウスが黙って視線を逸らす。


セシリア嬢は何も言わない。


ニールは、泣きそうな顔で口を閉じている。


誰も、すぐには慰めなかった。


ありがたかった。


ありがたくて、苦しかった。


自分一人の沈黙すら、守りきれなかった。


答えない権利も、断る権利も、本人同意も、匿名性も。


俺が逃げるために見つけた穴は、すべて学院のものになった。


俺は一人で耐えることを諦めたのだ。


その自覚が、胸の奥に沈む。


重い。


情けない。


でも、もう限界だった。


俺はギルバートを見た。


「レイヴン様」


「何だ」


声が、少しだけ掠れた。


「茶を……いただけますか」


言った。


言ってしまった。


これまで差し出されていたものを、初めて自分から求めた。


敗北だ。


屈服だ。


一人で立つことを、少し諦めた音だった。


ギルバートは何も言わなかった。


勝ち誇らなかった。


嬉しそうにも、悲しそうにも見せなかった。


ただ、いつものように真顔で言った。


「濃いぞ」


俺は、少しだけ笑った。


完璧ではない笑いだった。


「知っています」


その返事が、思ったよりも自然に出た。


寮の部屋で、ギルバートが茶を淹れた。


クラウスも、セシリア嬢も、ニールも、部屋には入らなかった。


廊下で別れた。


たぶん、気を遣ったのだろう。


あるいは、これ以上意味を増やさないためかもしれない。


ギルバートは、無言で茶器を置く。


湯気が上がる。


濃い。


間違いなく濃い。


レイヴン家の伝統が重いのだろう。


今日は、それを突っ込む気力がなかった。


ギルバートは、何も言わずに茶器を差し出した。


受け取る時、一瞬だけ指先が触れた。


反射的に引こうとして、引けなかった。


熱い茶器よりも、その一瞬の体温の方が、ずっと危険なものに思えた。


人との距離を取るために、俺はずっと笑顔の壁を作ってきた。


なのに今は、その壁の外から差し出された温度を、拒めなかった。


俺は茶を飲んだ。


苦い。


熱い。


濃い。


それでも、喉が少しだけほどけた。


毒だ。


分かっている。


これは依存だ。


自分から求めた以上、もう言い訳はできない。


でも、今日はそれでいいと思ってしまった。


思ってしまった自分を、責める力も残っていなかった。


問題は解決した。


断る権利は残った。

答えない権利も残った。

本人同意も、匿名性も、標準文案も、練習運用も、学院の中に形として残った。


たぶん、誰かは救われる。


それは良いことだ。


良いことのはずだ。


だが、俺の平穏は死んだ。


名前は残らなかった。

役職も与えられなかった。

表彰もされなかった。


それなのに、俺の逃げ方だけが、学院の中に残った。


逃げ道を作ったつもりだった。


窓の外には、学院の石畳が見えた。


月光に照らされたそれは、白く、冷たく、どこまでも続いているように見えた。


誰かが歩くための道。


誰かが迷わないための道。


そして、俺が逃げるために見つけたはずの道。


それが今、学院の景色の一部になっている。


けれど気づけば、その道には標識が立ち、石畳が敷かれ、学院の記録に載ろうとしている。


逃げ道は、公道になった。


俺は、ただ逃げたかっただけなのに。


ギルバートの淹れた茶は、今日も濃かった。


そして悔しいことに、その濃さだけが、少しだけ俺を眠らせた。


俺の平穏は、死んだ。


あるいは。


俺の平穏の場所が、あの苦い茶の中にしか残らなかったというべきか。


たぶん。

ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。


第1章「逃げ道と、石畳の学院編」、これにて一区切りです。


リオネルは、ついに「逃げるための沈黙」すら、学院のシステムとして回収されてしまいました。


名前は出ない。

役職もない。

表彰もない。


けれど、彼が作った「型」だけが、冷徹な権力者の手で舗装されていく。


誰一人としてリオネルを責めていないのに、これほどまでに居心地が悪く、逃げ場のない結末になりました。


最後に彼が自ら求めた「茶」は、救いであり、同時に敗北の味でもあります。


第2章では、この「舗装された逃げ道」が学院の外へと漏れ出し、さらに厄介な火種を呼び込むことになります。


逃げたいリオネルと、彼を追い詰める「正しさ」の物語を、引き続き見守っていただけると嬉しいです。


ブックマーク、評価、感想などで応援いただけると、リオネルの胃がほんの少しだけ保護されます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ