第27話 凡庸な男爵家次男は、答えませんを流行らせたくない
前回まで:
公開説明会が行われました。
リオネルは出席しましたが、発言はしませんでした。
問いかけられても、ただ「答えません」と拒みました。
本人にとっては、責任から逃げたいだけの卑怯な沈黙。
けれどその沈黙は、レオンハルト会長によって「答えないことも選んでいい」という実例として扱われてしまいます。
説明会は終わりました。
しかし、リオネルの平穏はまだ戻ってきません。
主な登場人物:
リオネル・アルバート……男爵家次男。自分の「答えません」が妙な広がり方をして胃が痛い。
ギルバート・レイヴン……伯爵家嫡男。卑怯な逃げを、選んだ卑怯さとして尊重する男。茶が濃い。
クラウス・ヴェルナー……子爵家三男。言葉が燃えないように扱う耐火箱。
ニール・ロイド……平民出身の奨学生。「答えないこと」に救われた一人。
セシリア・グランベル……侯爵令嬢。沈黙と責任の境界を見る。
レオンハルト・ヴァイス……生徒会長。沈黙さえ運用する静かな怪物。
オスカー・フェルン……学院新聞同好会編集長。沈黙を見出しにしたがる情報の人。
翌朝。
学院の廊下で、俺は最悪の言葉を聞いた。
「その理由、聞いてもいい?」
「答えません」
軽い。
あまりにも軽い。
まるで流行語のような調子だった。
俺は足を止めた。
止めたくなかった。
止めたら負けだと思った。
だが、止まってしまった。
廊下の端で、下級生二人が笑っている。
一人が昨日の俺の真似をしたらしい。
もう一人が「おお、出た」と笑っていた。
悪意はない。
たぶん。
むしろ、説明会で印象に残った言葉を冗談交じりに使っているだけだ。
それが嫌だった。
俺の「答えません」は、冗談ではなかった。
勇気でもなかった。
正義でもなかった。
ただ怖くて、責任を取りたくなくて、喉が潰れそうになって、それでも説明したくなくて、最後に絞り出した言葉だった。
それが翌朝には、廊下で軽く使われている。
言葉は、持ち主の体温を失うのが早すぎる。
「アルバート様」
下級生の一人が俺に気づいた。
二人とも慌てて頭を下げる。
「お、おはようございます」
「おはようございます」
俺は礼を返した。
たぶん、顔色は悪い。
間違いなく悪い。
「昨日の説明会、すごかったです」
やめてほしい。
「答えません、って……あれ、格好よかったです」
違う。
違う。
格好よくない。
格好よくあってはいけない。
俺は、少しだけ喉が詰まった。
「格好よいものではありません」
声が思ったより低く出た。
下級生の顔が強張る。
まただ。
また傷つけた。
だが、ここで笑って流せば、この言葉はさらに軽くなる。
「答えないことは、相手を黙らせるための言葉ではありません」
俺は言った。
「まして、格好をつけるためのものでもありません」
下級生たちは、そこで初めて黙った。
俺の声が低かったからではない。
たぶん、俺の目を見たからだ。
そこにあったのは、怒りというより、疲労だった。
深く、底の見えない疲労。
そして、自分の喉を削って出した言葉を、廊下の冗談にされた者の、どうしようもない拒絶だった。
下級生の一人が、わずかに息を呑む。
彼らはようやく、自分たちが踏んだものが、ただの流行語ではなかったことに気づいたらしい。
「本当に答えたくない時、答えられない時、自分を守るために使うものです」
また言っている。
朝からもう言っている。
最悪だ。
「……すみません」
下級生の一人が小さく言った。
「軽く使いました」
「責めているわけではありません」
いや、少し責めている。
自分でも分かる。
でも、責めたいのは彼らではない。
自分だ。
あの場で「答えません」と言った自分だ。
俺の逃げが、言葉になって、他人の口に渡っている。
それが怖い。
「ただ」
俺は続けた。
「言葉には、使われ方があります」
下級生たちは頷いた。
俺は、その場を離れた。
背中に視線を感じる。
たぶん、また意味がついた。
“答えません”の本人が、答えませんの使い方を注意した。
最悪だ。
もう、本当に最悪だ。
「朝から燃えているね」
角を曲がったところで、クラウスがいた。
なぜいる。
本当に、なぜいつもいる。
「おはようございます」
「おはよう。今の、すぐ広がると思うよ」
「やめてください」
「広がるよ。“答えませんは格好つける言葉ではない”って」
「やめてください」
「かなり良い補足だった」
「やめてください」
クラウスは少し笑った。
「でも、必要だと思う」
その一言で、俺は黙った。
必要。
本当に嫌な言葉だ。
必要なものほど、俺の胃に悪い。
「昨日の今日だからね。言葉はしばらく歩くよ」
「歩かないでほしいです」
「もう走ってるかも」
「最悪です」
クラウスは肩をすくめた。
「答えません、は強い。短いし、使いやすいし、覚えやすい」
分かっている。
だから怖い。
「短い言葉は、すぐに持ち主から離れる」
クラウスは言った。
「君の胃には悪いけど」
「私の胃に良いものは、この学院に存在しますか」
「レイヴン家の茶?」
「毒です」
「でも飲むんだろう?」
否定できなかった。
かなり悔しい。
教室に着く頃には、予想通り噂は広がっていた。
「答えませんって、使っていいのかな」
「理由を聞かれた時だけじゃない?」
「でも先生に宿題忘れた理由を聞かれて“答えません”は駄目だろ」
「それは駄目だろ」
駄目だ。
それは駄目だ。
当たり前だ。
だが、当たり前を当たり前として共有するには、言葉がいる。
そして言葉を置くと、また制度になる。
俺は席に座り、机に額をつけたくなった。
つけなかった。
この学院では、机に額をつけることすら意味になる気がする。
「顔色が悪い」
横から声がした。
ギルバートだった。
「おはようございます」
「おはよう。顔色が悪い」
いつもの挨拶。
安定している。
安定していることが救いになり始めているのが怖い。
「“答えません”が流行りかけています」
俺が言うと、ギルバートの眉が寄った。
「流行り?」
「冗談で使っている下級生がいました」
「殴るか」
「殴らないでください」
即答した。
「言葉の問題を拳で解決しないでください」
「拳は分かりやすい」
「分かりやすさだけでは駄目です」
「そうか」
ギルバートは少し考えた。
「では、俺が言う。“答えません”を軽く使うな」
「レイヴン様が言うと重すぎます」
「そうか」
「はい」
「難しいな」
「本当に」
ギルバートは腕を組んだ。
「だが、必要なら誰かが言うべきだ」
その通りだった。
その通りだから嫌なのだ。
昼前には、問題が具体的になった。
食堂前で、上級生と下級生が言い合っていた。
「昨日の備品移動、なぜ来なかった?」
「答えません」
「それは違うだろう。担当だっただろう」
「理由は言わなくていいって説明会で」
空気が凍った。
俺も凍った。
違う。
それは違う。
全然違う。
答えないことと、引き受けた役割の確認から逃げることは違う。
断る権利と、約束を破った事実の確認は違う。
違うのに。
言葉だけが先に走ると、こうなる。
俺は足を止めた。
また止まった。
本当に、止まるな。
止まるな、俺。
だが、下級生の顔が青かった。
彼はたぶん、本当に怖いのだ。
上級生に責められて、言葉が出なくて、昨日聞いた「答えません」に飛びついた。
悪意ではない。
でも、間違っている。
上級生も怒っている。
当然だ。
備品移動をすっぽかされたなら、困る。
この火は小さい。
だが、放っておくと広がる。
俺は心の中で、かなり汚い言葉を吐いた。
そして歩いた。
「失礼します」
二人がこちらを見る。
やめてほしい。
見ないでほしい。
だが、もう遅い。
「アルバート様」
下級生の声が震えた。
俺は、その震えに胃が痛くなった。
「私は、裁定者ではありません」
まず言った。
先に言わなければならない。
「ですので、どちらが正しいかを決めることはできません」
上級生が少し不満そうな顔をした。
それはそうだろう。
俺が口を挟んでおいて、決めないと言っているのだから。
「ただ、一点だけ」
言うな。
言うな。
言えばまた残る。
でも、言わなければ誤解が残る。
最悪だ。
「答えないことは、事実確認をすべて拒む魔法ではありません」
二人が黙った。
「自分の内心、理由、感情、言いたくない事情。それらを無理に説明しなくていい場面はあります」
俺は言った。
「ですが、引き受けた役割があるか。実際に来たか。来なかったことで誰かが困ったか。そういう事実の確認は、別です」
また説明している。
また長い。
本当に嫌になる。
「理由を言わなくても、“行けませんでした”“次からは事前に連絡します”“今できる対応をします”といった返事はできます」
下級生は目を伏せた。
「……行けませんでした」
小さな声だった。
「すみません。怖くなって、答えませんと言えばいいのだと思いました」
上級生は、少し息を吐いた。
「理由を無理に聞くつもりはなかった。ただ、来ないなら事前に知らせてほしかったんだ」
「はい」
「次からは、来られないだけでいい。理由までは聞かない」
少しだけ、空気が緩んだ。
よかった。
そう思ってしまった。
駄目だ。
よかったと思うな。
俺が何かを収めたと思えば、また自分の役割になる。
俺は一歩下がった。
「では、私は失礼します」
逃げる。
今度こそ逃げる。
しかし、背後でクラウスの声がした。
「今の、かなり大事だったね」
やはりいた。
本当に、なぜいる。
「聞いていましたか」
「聞こえた」
「忘れてください」
「無理だね」
「努力してください」
「努力はするよ。ただ、たぶん自治会案件だ」
胃が沈んだ。
「やめてください」
「“答えない権利”と“事実確認”の境界。これは整理しておかないと、絶対に揉める」
分かっている。
分かっているから嫌なのだ。
「私の名前を出さずに」
「もちろん」
「かなり薄めて」
「水にする」
「お願いします」
そこまで言って、自分で気づいた。
俺はまた、クラウスに運ばせようとしている。
耐火箱に入れて、火を渡している。
「……すみません」
「何が?」
「また、頼っています」
クラウスは少しだけ笑った。
「頼られているんじゃないよ」
「違うのですか」
「使われ方を選んでる」
クラウスは軽く言った。
軽い声だった。
だが、ほんの少しだけ、目の奥が楽しそうに見えた。
リオネルという火を、彼は怖がっていない。
むしろ、退屈な日々の中で、ようやく扱い甲斐のある火を見つけたような顔をしている。
善意だけではない。
友情だけでもない。
彼もまた、自分の軽さを燃やせる場所を選んでいるのだ。
「君の重すぎる言葉をそのまま放っておく方が、たぶん危ない。僕が持つ方がましな時は、持つ」
「それは、負担では」
「負担だよ」
即答だった。
「でも、負担を負担と分かった上で持つなら、それは僕の選択だ」
やめてほしい。
そういうことを言われると、また胸が熱くなる。
本当にやめてほしい。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
クラウスは軽く笑った。
その軽さが、少しだけありがたかった。
午後。
予想通り、学生自治会から呼び出しが来た。
『説明会後の運用補足について。
出席任意。
発言不要。
欠席理由不要。』
もう、この三点セットを見るだけで胃が反応する。
条件反射だ。
最悪である。
行きたくない。
だが、行かなければ俺の言葉だけが薄められ、また形になる。
行っても形になる。
なら、せめて歪み方を見届けるしかない。
自治会室には、レオンハルト会長、マティアス先輩、クラウス、セシリア嬢、ニール、ギルバートがいた。
オスカー先輩もいた。
帰ってほしい。
「説明会後、いくつか誤用が出ている」
レオンハルト会長が言った。
早い。
本当に早い。
「“答えません”を、責任回避や事実確認の拒否に使おうとする例だ」
俺の胃が痛む。
「申し訳ありません」
反射的に言っていた。
レオンハルト会長がこちらを見る。
「君が謝ることではない」
「私の言葉です」
「君の言葉ではなくなった」
その通りだった。
何度も聞いた。
言葉は本人の手から離れる。
離れた言葉は、他人の口で別の形になる。
「それでも、発端ではあります」
「発端と責任は同じではない」
レオンハルト会長は淡々と言った。
正しい。
たぶん正しい。
だが、正しいから楽になるわけではない。
セシリア嬢が静かに言った。
「沈黙は、自分を守るためのものです。他人に負担を押し付けるためのものではありません」
その通りだ。
「答えないことで相手に事実確認の負担を残すなら、それは支援ではなく、別の圧力になります」
ニールが手を挙げた。
「でも、怖くて何も言えない人もいると思います」
「はい」
セシリア嬢が頷く。
「だからこそ、“理由は言えないが、事実は認める”という形が必要になります」
理由は言えない。
でも、事実は認める。
それは大事だ。
本当に大事だ。
ギルバートが言った。
「約束を破ったなら、それは認めろ」
強い。
非常に強い。
「理由を話すかどうかは別だ。だが、行かなかったものを行ったことにはできない。壊したものを壊していないことにはできない」
分かりやすい。
とても分かりやすい。
ギルバートらしい。
「答えない権利は、事実を消す権利ではない」
部屋が静かになった。
言った。
またギルバートが本質を殴った。
レオンハルト会長が頷く。
「採用する」
早い。
やはり早い。
マティアス先輩のペンが走る。
鎖の音。
いや、手すりの音かもしれない。
もう判別できない。
クラウスが続けた。
「それに加えて、“理由を聞かない”側の対応も必要だね」
「具体的には?」
「事実確認は短く。理由確認は任意。再発防止は一緒に考える。ただし、相手の内心を暴こうとしない」
うまい。
本当にうまい。
「たとえば、“来られなかったことは分かりました。次に来られない時は事前連絡だけください。理由は不要です”みたいに」
分かりやすい。
とても分かりやすい。
そして、また文例になる。
俺は軽く頭を抱えた。
「アルバート」
レオンハルト会長が言った。
来た。
来たが、今日はもう逃げる気力が薄い。
「過不足は」
やはり。
俺は目を閉じた。
何も見えなければ、過不足も見えない。
そう思いたい。
だが、見えてしまう。
「……“答えません”という定型句を推奨しない、と入れてください」
言ってしまった。
まただ。
「理由を言わない権利はありますが、あの言葉そのものを合言葉や合図のように扱うと、意味が強くなりすぎます」
部屋が静かになる。
「“答えません”は、最後の手段に近い。普段使いの言葉にしない方がいいと思います」
普段使いの言葉。
俺の悲鳴が、普段使いになってはいけない。
「代わりに、“理由は控えます”“今は話せません”“事実だけお伝えします”など、複数の言い方を示した方がいい」
また具体例。
また文案。
本当に、どうしようもない。
「採用する」
レオンハルト会長が言った。
「“答えません”を標準句として推奨しない。理由を述べない場合の表現を複数提示する。記録」
ペンの音。
俺は胃を押さえた。
オスカー先輩が微笑む。
「“答えません”を答えにしない、ですか。良い見出しですね」
「しないでください」
俺とクラウスとセシリア嬢の声が重なった。
ギルバートが一拍遅れて言った。
「するな」
強い。
オスカー先輩は肩をすくめた。
「努力します」
信用できない。
会議の結果、夕方には補足掲示が出た。
早い。
本当に早い。
『説明会後の運用補足』
一、答えない権利は、事実を消す権利ではありません。
一、理由を話すかどうかと、事実確認に応じることは別です。
一、理由を言えない場合も、「行けませんでした」「対応できませんでした」「事実のみ認めます」などの表現が可能です。
一、“答えません”という表現は強い拒絶として受け取られやすいため、標準句として推奨しません。
一、確認する側は、理由を強制せず、必要な事実だけを短く確認してください。
一、沈黙は、自分を守るためのものであり、他人に負担を押し付けるためのものではありません。
また長い。
また正しい。
また残る。
掲示板の前で、生徒たちが読んでいる。
「答えません、推奨されないのか」
「強い言葉なんだな」
「理由は控えます、くらいでいいってことか」
「事実は認める、理由は言わない……なるほど」
反応は悪くない。
悪くないから、嫌だ。
また一つ、学院は賢くなった。
また一つ、俺の悲鳴が形を変えて掲示板に貼られた。
俺は掲示板を見上げながら、少しだけ吐き気を覚えた。
「答えません」は、俺のものではなくなった。
そして今度は、俺自身がその言葉を封じる側に回っている。
何なのだ、これは。
自分の逃げ道に、自分で注意書きを立てている。
「滑りやすいので走らないでください」とでも書いている気分だ。
逃げ道なのに。
走らせてほしい。
逃げ道くらい、全力で走らせてほしい。
その日の夜。
寮の机の上には、紙がなかった。
扉の下にもない。
静かだった。
最近、静かな夜が逆に怖い。
俺は椅子に座り、深く息を吐いた。
今日もまた、何かが補足された。
昨日の俺の沈黙は、今日には注意書き付きの運用になった。
正しい。
たぶん正しい。
でも、息苦しい。
逃げ道に標識が立つ。
標識が増える。
標識の下に注意書きが貼られる。
そして誰かが言う。
こちらが正式な逃げ道です、と。
正式な逃げ道。
最悪の言葉だ。
扉が叩かれた。
もう驚かない。
「ギルバートですか」
「そうだ」
開けると、ギルバートが茶器を持って立っていた。
定例外交圧力。
今日は、少しだけ待っていた自分がいた。
そのことに気づいて、胸が冷えた。
「今日は、来ると思っていました」
俺が言うと、ギルバートは少しだけ目を細めた。
「なら、正しい判断だ」
「正しくしないでください」
「では、濃い判断だ」
「意味が分かりません」
「俺にも分からん」
相変わらずだった。
ギルバートは茶を淹れた。
濃い。
本当に濃い。
「今日は何の茶ですか」
「レイヴン家による、答えません乱用防止外交圧力だ」
「用途が細かいですね」
「必要に応じて変わる」
「便利すぎます」
「便利なら使え」
「私は便利なものに警戒心があります」
「知っている」
ギルバートは短く言った。
「だから、俺が勝手に使う」
やめてほしい。
そういう言い方は、本当にやめてほしい。
俺が選んで受け取ったことにならないように、彼は勝手に差し出す。
押し付け。
外交圧力。
定例。
そういう名目をつけて、俺の罪悪感を少し薄める。
優しさを、優しさの顔で置かない。
それが、俺には受け取りやすい。
受け取りやすくなっている。
本当に危ない。
「卑怯だろうが、何だろうが」
ギルバートは茶器を置きながら言った。
「お前がそこにいるなら、それでいい」
「……それは、随分と雑な肯定ですね」
「雑でいい」
彼は真顔だった。
「細かく整えた言葉は、お前を追い詰めることがある。なら、雑に言う」
やめてほしい。
そんな雑な優しさを、正確に差し出さないでほしい。
俺は茶を飲んだ。
苦い。
濃い。
温かい。
そして、喉が少しだけほどける。
毒だ。
分かっている。
それでも、今日はもう抗う力がなかった。
「アルバート」
ギルバートが言った。
「お前の言葉は、勝手に歩く」
「はい」
「なら、歩いた先で転ばないように、柵を作るしかない」
「その柵を作るたびに、私の逃げ道が正式になります」
「そうだな」
否定しない。
本当に否定しない。
「嫌です」
「そうだろうな」
「でも、放っておくのも嫌です」
「そうだろうな」
「最悪です」
「そうだな」
返事が単調すぎる。
だが、少しだけ楽だった。
慰められないことが、今日はありがたかった。
「明日は」
ギルバートが言った。
「少し休め」
「予定はありません」
「予定がないなら、休め」
「予定がないと、また何か入ります」
「なら、俺が塞ぐ」
「何で塞ぐのですか」
「茶で」
「やめてください」
少し笑ってしまった。
完璧ではない笑いだった。
ギルバートは何も言わなかった。
それが、やはりありがたかった。
問題は解決した。
答えない権利の誤用は、補足された。
“答えません”は標準句ではなくなった。
理由を言わず、事実だけ認める道も示された。
生徒たちは少しだけ理解した。
たぶん。
だが、俺の平穏はまた死んだ。
俺の悲鳴には、注意書きがついた。
俺の沈黙には、補足運用がついた。
俺の逃げ道には、また標識が増えた。
俺は茶を飲んだ。
濃い。
本当に濃い。
けれど、今日はその濃さに少しだけ縋った。
明日の俺が、どうかこの温かさを忘れていますように。
そう願った。
だが、手の震えは少しずつ収まっていた。
忘れたいのに。
もう、身体の方が先に覚え始めている。
たぶん。
その時、扉の下から紙が差し込まれた。
俺は動きを止めた。
ギルバートも紙を見る。
「読むか」
「読みたくありません」
「だろうな」
それでも拾う。
差出人は、学生自治会ではなかった。
学院長室。
俺は、しばらく紙を見つめた。
『公開説明会後の一連の運用について、学院長より話を聞きたいとのこと。
リオネル・アルバート、ギルバート・レイヴン、セシリア・グランベル、クラウス・ヴェルナー、ニール・ロイド。
明日放課後、学院長室へ。』
学院長。
その文字を見た瞬間、軽い眩暈がした。
学生自治会の補足運用では終わらない。
掲示板の注意書きでは済まない。
これは、学院そのものの記録に上がる。
俺が逃げるために作ったはずの道が、ついに学院の歴史として舗装されようとしている。
逃げ道が、正式な制度になる。
標識どころではない。
石畳が敷かれ、門が建ち、誰かが名前をつける。
冗談ではない。
俺は、ただ逃げたかっただけなのに。
また、大きい火種が来た。
俺は紙を持ったまま、深く息を吐いた。
ギルバートが茶を差し出す。
「飲め」
「今ですか」
「今だ」
俺は受け取った。
濃い。
苦い。
温かい。
そして、悔しいことに。
少しだけ、必要だった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、公開説明会後の学院の反応回でした。
リオネルが絞り出した沈黙は、一晩で誰かの冗談になり、誰かの責任逃れにもなりかけました。
言葉は、持ち主の手を離れると体温を失います。
それを食い止めるために、また注意書きを増やし、逃げ道を舗装していくリオネル。
誰より自由になりたいはずの彼が、誰より制度に縛られ、制度を強固にしていく皮肉を描いた回でした。
そして、ギルバートの茶という外交圧力は、ついにリオネルの喉に「必要」だと思わせ始めています。
次回、ついに学院長室へ。
逃げ道の行き先は、さらに大きな制度へ向かってしまうのか。
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