第26話 凡庸な男爵家次男は、公開説明会で正解になりたくない
前回まで:
公開説明会の発言者調整が行われました。
リオネルは代表発言者から外されましたが、名前がないことで逆に「不在」に意味がつき始めます。
出席しても意味がつく。
欠席しても意味がつく。
レオンハルト会長に「どちらの意味なら耐えられるかを選べ」と言われたリオネルは、公開説明会に出るかどうかを迫られました。
主な登場人物:
リオネル・アルバート……男爵家次男。出席しても欠席しても意味がつくなら、せめて自分で燃え方を選びたい。
ギルバート・レイヴン……伯爵家嫡男。家名の重さを隠さずに話すことを選んだ。茶が濃い。
クラウス・ヴェルナー……子爵家三男。燃え方を選ぶしかないと理解している耐火箱。
ニール・ロイド……平民出身の奨学生。平民代表ではなく、一人の学生として話す。
セシリア・グランベル……侯爵令嬢。支援が支配に変わる境界を見ている。
レオンハルト・ヴァイス……生徒会長。公開説明会を運用する静かな怪物。
オスカー・フェルン……学院新聞同好会編集長。不在も沈黙も余白として見る男。
公開説明会の日が来た。
来なくていい。
本当に、来なくていい。
だが、日付というものは残酷である。
どれだけ胃が痛くても、朝は来る。
どれだけ逃げたくても、鐘は鳴る。
そして、どれだけ出席したくなくても、学院の掲示板には予定通りこう貼られていた。
『各指針・標準文案・具体例集・練習運用に関する公開説明会』
俺の名前はない。
発言者一覧にもない。
役割にもない。
それなのに、掲示板の前の生徒たちは、俺の姿を見つけると少しだけ空気を変えた。
「アルバート様、来られるのかな」
「昨日、出席されるか未定って聞いたけど」
「名前がないのに来たら、それはそれで意味あるよな」
やめろ。
本当にやめろ。
何もしていない。
まだ何もしていない。
それなのに、出るか出ないかだけで意味が増えていく。
意味とは、どこにでも繁殖する雑草か何かなのか。
「顔色が悪い」
隣から声がした。
ギルバートだった。
「おはようございます」
「おはよう。顔色が悪い」
いつもの挨拶。
もはや安心すらある。
それが怖い。
「出るのか」
「出席はします」
ギルバートの目が少しだけ動いた。
「話すのか」
「話しません」
「そうか」
「一番後ろに座ります。出口に近い場所で」
「逃げるためか」
「はい」
はっきり言った。
ギルバートは少しだけ黙った。
それから、深く頷いた。
「分かった」
止めない。
責めない。
励まさない。
それがありがたくて、少し苦しかった。
「逃げることを前提に出席するのは、卑怯でしょうか」
俺が言うと、ギルバートは首を傾げた。
「卑怯だろう」
即答だった。
ひどい。
だが、少し笑いそうになった。
「ですが、止めないのですね」
「止めない」
「なぜ」
「お前が選んだ卑怯さだからだ」
ギルバートは、そう言った。
責めるでもなく、慰めるでもなく。
むしろ、ほんの少しだけ誇らしそうに。
やめてほしい。
俺は最低な逃げを選んだつもりだった。
責任を取りたくなくて、答えずに済ませたいだけだった。
それなのに、この人はそれを、俺が自分で選んだ一つの形として受け止めている。
最低な逃げに、居場所を与えないでほしい。
「ありがとうございます」
「礼を言うところか?」
「分かりません」
「俺も分からん」
ギルバートは真顔だった。
その真顔に、少しだけ救われた。
救われたと思った瞬間、危ないと思った。
だが、今日はもう、その一つ一つを否定している余裕がなかった。
講堂は、想像以上に人が多かった。
学生自治会が用意した席はほぼ埋まっている。
研究会、同好会、下級生、上級生、教師。
そして、学院新聞同好会。
オスカー先輩は、壇上近くの記録席にいた。
俺が後方の端に座ると、彼はこちらを一度だけ見た。
ほんの少し、口元が動いた。
まるで、
出席という名の不在も、悪くありませんね。
そう言いたげな目だった。
最悪だ。
欠席すれば余白。
出席しても後方なら余白。
結局、俺は余白から逃げられないらしい。
俺は椅子に座った。
出口が近い。
窓も近い。
逃げ道はある。
逃げ道があるだけで、少しだけ呼吸ができる。
レオンハルト会長が壇上に立った。
ざわめきが静まる。
彼は、いつものように静かな声で言った。
「本日は、各指針、標準文案、具体例集、練習運用についての公開説明会を行う」
会場が静かになる。
「初めに確認しておく。今日の説明会は、誰か一人の思想を学院に広める場ではない」
よし。
良い。
非常に良い。
「この運用は、複数の立場からの意見、失敗、懸念、修正によって作られたものだ。したがって、本日の発言者は、身分、属性、学年、家門全体を代表しない」
ニールの肩が、少しだけ動いたのが見えた。
「一人の学生として、一つの立場から話す。それ以上でも以下でもない」
レオンハルト会長の視線が、会場全体を渡る。
俺の方は見ない。
それがありがたい。
ありがたいのに、見ないことにも意味がある気がしてしまう。
本当に、どうしようもない。
「また、発言者への個別接触は禁止する。質問は書面で受け付け、学生自治会が整理する」
その一文に、会場が少しざわついた。
安全のための措置。
同時に、囲い込みにも見える措置。
どちらにも見える。
レオンハルト会長は続けた。
「では、制度運用の説明から始める」
説明会は、粛々と進んだ。
まず、レオンハルト会長が制度全体を説明した。
断る権利。
本人同意。
匿名性。
標準文案。
具体例集。
断る練習と断られる練習。
どれも、聞けば聞くほど整っている。
整いすぎている。
それは良いことだ。
同時に、少し怖いことでもある。
整った道は歩きやすい。
だが、歩きやすい道には、人が集まる。
人が集まれば、標識が増える。
標識が増えれば、やがて「こちらを通るべきだ」と言われる。
逃げ道は、気づけば正式な入口になる。
俺は手元を握った。
次に、エルマー先輩が話した。
「私は、誘う側として話します」
彼の声は少し緊張していた。
「正直に言えば、指針ができた直後、私は誘うことが怖くなりました」
会場が静かになる。
「相手を圧迫してしまうのではないか。熱意を伝えること自体が、相手に負担になるのではないか。そう思いました」
良い人だ。
本当に良い人だ。
だからこそ、この人が語る意味は大きい。
「ですが、誘わないこともまた、相手の機会を奪うことがあると気づきました」
その通りだ。
「だから私は、誘うことをやめるのではなく、相手に選ぶ余地を残す形を学ぶことにしました。断られた時の寂しさは、自分で持ち帰るものだと思っています」
会場の視線が、ギルバートに少し向いた。
ギルバートは動じなかった。
偉い。
いや、偉いというのもおかしい。
だが、彼は本当に少しずつ変わっている。
次に、ニールが立った。
会場の空気が少し変わる。
平民出身の奨学生。
その肩書きは、どうしても彼について回る。
だが、ニールは最初に言った。
「私は、平民代表ではありません」
静かな声だった。
けれど、よく通った。
「奨学生全体の口でも、下級生全体の口でもありません。一人の学生として話します」
会場が静まり返った。
俺は、息をするのを忘れかけた。
ニールは続ける。
「私は、断りたいと思っても、言葉が出ないことがありました。相手が上級生だったり、家格の高い方だったりすると、断っていいと書かれていても、本当に断っていいのか分からなくなることがあります」
彼は、一度だけ手元の紙を見た。
「でも、断る権利があると明記されたこと、理由を言わなくてもいいと示されたこと、練習で失敗してもいいと分かったことは、私には助けになりました」
その声は震えていた。
だが、折れていない。
「ただ、私はまだ怖いです。だからこそ、怖いまま話しています。怖くなくなった人の話ではなく、怖いままでも選べるようになった一人の話として聞いてください」
胸が熱くなった。
これは良い言葉だ。
とても良い。
そして、俺のものではない。
ニールの言葉だ。
そのことに、少しだけ救われた。
救われたと思った。
今は、否定しなかった。
次に、ギルバートが立った。
講堂の空気が変わる。
伯爵家嫡男。
レイヴン家。
その重さは、隠しようがない。
ギルバートは、それを隠さなかった。
「俺は、伯爵家レイヴンの嫡男として話す」
最初から重い。
だが、逃げていない。
「俺のような立場の人間が誘えば、多くの者は断りにくい。俺がそのつもりでなくても、相手には圧になる」
彼は淡々と言った。
「だから、重い側の人間は、自分の重さを知らなければならない」
会場は静かだった。
「断られた時、不満を持つことはある。残念に思うこともある。だが、その不満を相手に処理させるな」
あの言葉が来る。
俺は少しだけ身構えた。
「断られた時の不満は、誘った側が持ち帰る」
会場の空気が揺れた。
短い。
強い。
そして、やはりギルバートらしい。
「持ち帰れないなら、誘うな」
さらに強い。
本当にこの人は、核心を剣で叩き割る。
「以上だ」
短い。
本当に短い。
だが、会場には十分すぎるほど残った。
セシリア嬢が次に立った。
「支援は、相手が断れる時に初めて支援になります」
その一文だけで、場が静まる。
「相手のためという言葉は、時にとても危険です。相手のためだと思うほど、相手が断れない形になっていないか、確認しなくなるからです」
声は穏やかだった。
だが、内容は鋭い。
「手を差し伸べる側は、差し伸べた手を取らない自由も、相手に残しておかなければなりません」
俺は、少しだけ息を吐いた。
セシリア嬢は、いつも逃げ道を言葉にする。
それが救いであり、同時に怖い。
オスカー先輩は、情報と記録について話した。
「匿名とは、名前を消すことではありません」
会場の一部が、少し身じろぎした。
「文脈、言い回し、所属、出来事。それらが残れば、人は特定されます。記録する側は、発言の熱を残しながら、個人が燃えない形を考えなければなりません」
まともだ。
かなりまともだ。
だから余計に怖い。
「また、不在も情報になります」
来た。
俺の胃が沈む。
「名前がないこと、発言しないこと、出席しないこと。それらにも意味が付与されます。情報を扱う者は、その余白に何を置くかにも責任を持つべきです」
オスカー先輩の視線は、俺の方を見なかった。
見なかったのに、見られている気がした。
最悪だ。
クラウスは、最後に構成補佐として短く話した。
「今日の発言は、誰か一人の正解ではありません」
彼は軽く言った。
「もし分かりやすい一人を探したくなったら、その時点で少し立ち止まってください」
会場の空気が、少し変わった。
「分かりやすい名前にまとめると、楽です。でも、楽なまとめ方は、たいてい誰か一人に重荷を乗せます」
クラウスは笑った。
軽い笑みだった。
でも、目は笑っていなかった。
「今日の説明会は、重荷を分けるためのものです。誰か一人に戻すためのものではありません」
うまい。
本当にうまい。
耐火箱。
そう思った。
彼は俺の名前を出さずに、俺に乗りかけている重さを少しだけ分けた。
説明が終わる。
質疑応答に入った。
質問は書面のみ。
それは決まっている。
はずだった。
だが、場というものは、予定通りには進まない。
一人の上級生が立ち上がった。
顔には見覚えがない。
おそらく、どこかの研究会代表だろう。
「書面でなく、直接確認したいことがあります」
レオンハルト会長が静かに言った。
「質問は書面で受け付ける」
「ですが、これは全体に関わることです」
嫌な予感がした。
こういう時の嫌な予感は、本当に当たる。
「今回の指針について、アルバート様ご本人は、どうお考えなのですか」
会場の空気が止まった。
俺の呼吸も止まった。
来た。
ついに来た。
上級生は続けた。
「発言者一覧にお名前がないのは承知しています。しかし、ここまでの議論に大きく関わってこられた方です。ご本人の見解がないまま説明会が終わるのは、不自然ではありませんか」
視線が集まる。
一斉に。
背中が冷たくなる。
出口は近い。
逃げられる。
逃げたい。
今すぐ逃げたい。
だが、立ち上がれば意味になる。
座っていても意味になる。
黙っていても意味になる。
答えても意味になる。
全部、意味になる。
ギルバートが動きかけた。
俺は、わずかに手を上げた。
止めた。
自分でも驚いた。
ギルバートも止まった。
会場の視線が、さらに集まる。
嫌だ。
本当に嫌だ。
俺は立ち上がらなかった。
座ったまま、声だけを出した。
「答えません」
短い。
冷たい。
会場がざわついた。
「なぜですか」
上級生が問う。
俺は、喉が詰まりそうになるのをこらえた。
理由を言えば、また説明になる。
説明すれば、また思想になる。
だから、言わない。
視線が集まる。
一つではない。
十でもない。
講堂中の視線が、細い針のように皮膚に刺さってくる。
逃げ道は、すぐ後ろにある。
出口は近い。
なのに、講堂の天井が巨大な蓋のように降りてきて、俺をこの場に閉じ込めている気がした。
息が浅くなる。
喉が狭くなる。
説明しろ。
答えろ。
お前の考えを出せ。
そんな無言の圧が、胸の奥に溜まっていく。
これは勇気ではない。
立派な拒絶でもない。
溺れかけた人間が、酸素を求めて水面を叩くようなものだ。
「答えません」
二度目。
冷たい。
卑怯だ。
我ながら卑怯だと思う。
皆の前で、説明を拒んでいる。
ここまで関わっておいて。
ここまで火を見つけておいて。
最後だけ、答えない。
卑怯者だ。
それでいい。
立派な象徴になるよりは、卑怯者の方がまだいい。
会場のざわめきが広がる。
「どうして……」
「せっかく来ているのに」
「やっぱり、裏で動いていたから?」
「責任を取りたくないのか?」
刺さる。
刺さる。
かなり刺さる。
だが、俺は黙った。
唇の内側を噛んだ。
ギルバートの拳が握られているのが見えた。
ニールが青い顔をしている。
セシリア嬢は、俺ではなく会場を見ている。
クラウスは、少しだけ目を伏せていた。
そして、レオンハルト会長が立った。
「今のやり取りが、本日の説明会の要点だ」
会場が静まった。
「本人が答えないと言った。理由を言わなかった。それで終わりだ」
静かな声だった。
だが、講堂の奥まで届いた。
「理由を求めるな。納得できる説明を要求するな。相手が答えないと決めた時、その沈黙を不誠実と決めつけるな」
レオンハルト会長の声は変わらない。
冷静で、静かで、逃げ場がない。
「アルバートが今日、何を考えているか。それを知りたい者は多いだろう。だが、知りたいことと、答えさせる権利があることは違う」
会場は静まり返っていた。
「この指針は、まさにそのためにある」
俺の拒絶が、使われた。
まただ。
俺は答えなかった。
卑怯に逃げた。
その逃げさえ、制度の説明に使われた。
この男は、俺の死に体の拒絶すら剥製にして、博物館に飾るのか。
まだ息をしている傷口に、名札をつける。
これは「沈黙の権利」です、と。
正しい。
たぶん、正しい。
だからこそ、吐き気がした。
俺の尊厳が、公共の益という綺麗な棚に並べられていく。
だが、今回は少し違った。
俺が答えなかったことで、誰かが答えずに済む。
たぶん。
そう思ってしまった。
思ってしまった自分が、また嫌だった。
上級生は、ゆっくりと座った。
「失礼しました」
小さな声だった。
責めるような声ではなかった。
むしろ、少し気づいたような声だった。
それが余計に苦しい。
俺は責められた方が楽だったのかもしれない。
説明会は、その後も続いた。
書面質問に、レオンハルト会長が答える。
エルマー先輩が補足する。
ニールが一言だけ自分の経験を添える。
ギルバートは、断られた側の態度について短く答える。
セシリア嬢が支援の境界を言う。
クラウスが言葉を軽くする。
オスカー先輩が記録上の注意を述べる。
俺は座っていた。
何も言わなかった。
逃げなかった。
いや、逃げたのだろう。
答えないことで逃げた。
逃げながら、そこにいた。
それは、一番みっともない形だった。
説明会が終わった時、拍手はなかった。
それが良かった。
拍手があれば、何かが完成してしまう。
代わりに、講堂には静かなざわめきが残った。
考えている音だった。
誰かが、誰かを責める音ではなかった。
少なくとも、今は。
レオンハルト会長が閉会を告げる。
「本日の内容は、後日、学生自治会より書面で共有する。発言者への個別接触は禁止する。質問は窓口へ」
淡々としている。
本当に淡々としている。
生徒たちが席を立つ。
俺は、最後まで座っていた。
立つタイミングを失っただけかもしれない。
それとも、立った瞬間にまた視線を浴びるのが怖かったのかもしれない。
たぶん、両方だ。
「アルバート」
ギルバートが来た。
声は低い。
怒っているのではない。
たぶん。
「逃げたな」
「はい」
俺は答えた。
「逃げました」
「見事に逃げた」
ひどい。
だが、少しだけ笑いそうになる。
「軽蔑しましたか」
ギルバートは首を振った。
「いや」
「なぜ」
「俺には、ああいう逃げ方はできない」
その言葉は、褒めているのか分からなかった。
「俺なら、怒って説明していた。黙れと言っていた。お前を庇ったつもりで、たぶんお前に俺の家の色をつけていた」
その通りだ。
たぶん、そうなっていた。
「だから、止められてよかった」
ギルバートはそう言った。
俺は、少しだけ視線を落とした。
「私は、怖かっただけです」
「そうだろうな」
「責任を取りたくなかっただけです」
「そうかもしれない」
「卑怯でした」
「卑怯だった」
本当に容赦がない。
だが、なぜか楽だった。
「それでも」
ギルバートは少しだけ間を置いた。
「お前が答えなかったから、答えないことが許された」
俺は顔を上げた。
「それは、レオンハルト会長が説明したからです」
「そうだな」
「私は何もしていません」
「何もしなかった」
ギルバートは頷いた。
「今日は、それでよかったんだろう」
やめてほしい。
そういうことを言うのはやめてほしい。
胸が少し熱くなる。
まただ。
また、温かくなる。
毒だ。
これは毒だ。
だが、喉が渇いていた。
クラウスが近づいてきた。
「お疲れ」
「疲れました」
「今日の君は、かなりひどかったよ」
「分かっています」
「でも、ひどかったから助かった部分もある」
「褒めないでください」
「褒めてない。事実確認」
本当に、この人は言い方がうまい。
セシリア嬢も近づいた。
「答えない、という選択をされましたね」
「逃げただけです」
「はい」
否定しない。
この人たちは、本当に否定しない。
その否定しなさが、少しだけ救いで、少しだけ怖い。
「逃げたまま、そこにいました」
セシリア嬢は言った。
「それは、難しいことだと思います」
難しい。
そうなのだろうか。
俺には、ただ情けないだけに思える。
ニールは、少し遅れて来た。
「アルバート様」
「はい」
「私、さっきのやり取りで、少し分かりました」
「何をですか」
「答えないことも、本当に選んでいいんだと」
その言葉は、かなり深く刺さった。
「アルバート様が、答えなかったから」
違う。
俺は、そんな立派なことをしたのではない。
ただ怖くて、逃げて、説明を拒んだだけだ。
だが、ニールの顔は少しだけ晴れていた。
それを見て、俺は何も言えなくなった。
オスカー先輩が最後に近づいてきた。
来なくていい。
本当に来なくていい。
「今日の記事は、難しいですね」
「書かないでください」
「説明会そのものは記録します。ただし、君の沈黙をどう扱うかは慎重に考えます」
「扱わないでください」
「扱わないことも、扱い方の一つです」
最悪だ。
やはり最悪だ。
オスカー先輩は微笑んだ。
「ですが、今日の君は、紙面に直接置くには向きません」
「では、どこにも置かないでください」
「努力します」
信用できない。
本当に信用できない。
その日の夜。
寮に戻ると、机の上に紙はなかった。
扉の下にも、何もなかった。
静かだった。
あまりにも静かで、逆に怖い。
俺は椅子に座った。
手が少し震えていた。
答えません。
あの短い言葉が、まだ喉に残っている。
冷たい言葉だった。
ひどい言葉だった。
でも、必要な言葉だったのかもしれない。
そう思いかけて、すぐにやめた。
必要だったと思うな。
正しかったと思うな。
また自分を許す理由になる。
その時、扉が叩かれた。
「ギルバートだ」
知っていた。
もう、知っていた。
扉を開けると、ギルバートは茶器を持っていた。
「定例外交圧力だ」
「今日は、特に濃そうですね」
「当然だ」
「なぜ」
「逃げた後の茶は濃い」
「意味が分かりません」
「俺にも分からん」
分からないのに言うな。
だが、ギルバートは真剣に茶を淹れた。
茶は、やはり濃かった。
苦かった。
温かかった。
俺は一口飲んだ。
喉が、少しだけほどけた。
毒を飲んでいる自覚はある。
これは依存だ。
答えなかった罪悪感を、誰かの茶で薄めようとしている。
卑怯だ。
本当に卑怯だ。
それでも、喉が渇いて仕方がなかった。
「アルバート」
ギルバートが言った。
「今日は、眠れ」
「命令ですか」
「外交圧力だ」
便利すぎる。
俺は少しだけ笑った。
笑ってしまった。
完璧ではない笑い方だった。
ギルバートは何も言わなかった。
それがありがたかった。
問題は解決した。
公開説明会は終わった。
俺は代表にならなかった。
発言もしなかった。
質問にも答えなかった。
卑怯に逃げた。
その逃げ方が、答えない権利の実例になってしまった。
問題は解決した。
だが、俺の平穏は死んだ。
たぶん、明日から俺はまた別の名前で呼ばれる。
答えなかった人。
沈黙した人。
拒絶を実演した人。
何でもいい。
もう、何でもいいから、俺をそっとしておいてほしい。
俺は茶を飲んだ。
濃い。
濃すぎる。
だが、今日はその濃さが、少しだけありがたかった。
明日の俺が、どうかこの温かさを忘れていますように。
そう願いながら、俺はまた一口、毒を飲んだ。
けれど、手はまだ微かに震えていた。
その震えが残っている限り、俺はこの苦い茶を求め続けるのだろう。
逃げたい。
忘れたい。
縋りたくない。
それでも、喉が渇く。
たぶん、これが今日一番の敗北だった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
ついに、公開説明会が開催されました。
リオネルは、ついに「答えないこと」を選びました。
誰かに認められるためでも、制度を完成させるためでもなく、ただ怖くて、責任を取りたくなくて、逃げ出したい一心で放った言葉。
けれど、その卑怯な逃げ方すらも、レオンハルトの手によって「沈黙の権利」という美しい標本にされてしまいます。
ニールの勇気、ギルバートの重さ、セシリアの境界、クラウスの耐火箱。
仲間たちがそれぞれに「正しさ」を背負う中、一人だけ「卑怯」を握りしめて座り続けるリオネル。
逃げれば逃げるほど、その足跡が道になってしまう彼の胃痛ライフを、今後も見守っていただけると嬉しいです。
次回、説明会を終えた彼らに、学院はどう反応するのか。




