幕間 兄は、弟の逃げ道が石畳になったと知る
第1章後の幕間です。
前半は兄エルネスト視点。
後半は学院長とレオンハルト会長の密談です。
リオネルの名前は残りませんでした。
けれど、彼の逃げ方だけは学院に残りました。
その知らせは、王都の外にも静かに届き始めます。
アルバート男爵領の朝は、王都より静かだ。
鳥の声がして、窓の外では使用人が庭の落ち葉を掃いている。
厨房からは焼きたてのパンの匂いがした。
いつも通りの朝。
けれど、エルネスト・アルバートの胃は、朝から少し重かった。
理由は、机の上に置かれた三通の手紙である。
一通は、学院からの正式な通知。
一通は、王都にいる知人から届いた噂まじりの報告。
そしてもう一通は、レイヴン伯爵家嫡男、ギルバート・レイヴンからの手紙だった。
エルネストは、まず学院からの通知を読んだ。
そこには、新しい暫定指針について記されていた。
断る権利。
本人同意。
匿名性。
標準文案。
練習運用。
沈黙と事実確認の区別。
文面は整っていた。
整いすぎていた。
そして、不自然なほど個人名がなかった。
「……あいつだな」
エルネストは、低く呟いた。
弟の名前はどこにもない。
リオネル・アルバートという文字は、一つもない。
だが、関わっていないはずがなかった。
この妙に実務的で、妙に逃げ道にこだわり、妙に人を追い詰めないための穴を残す構造。
あいつ以外に、こんな気持ちの悪い優しさを作る者がいるか。
エルネストは額を押さえた。
「名前がないことに、安心しているだろうな」
きっと、リオネルは少し安心したはずだ。
表彰されなかった。
役職を与えられなかった。
記録にも名が残らなかった。
それだけなら、リオネルは胸を撫で下ろしただろう。
だが、同時に怯えている。
名前は残らない。
けれど、逃げ方だけが残った。
それがどれほど気持ち悪いことか、エルネストには分かる。
いや、分かってしまう。
「あいつは、逃げることすら誰かの役に立ったら、逃げられなくなる」
エルネストは、二通目の手紙を開いた。
王都の知人からの報告は、案の定、余計な熱を帯びていた。
――王立学院にて、新しい学生間指針が整えられたらしい。
――身分差による勧誘、発言圧力、本人同意、匿名記録などを扱うもので、かなり先進的だ。
――表向きには学生自治会と学院長名義だが、どうも裏にアルバート家の次男がいるらしい。
――彼はレイヴン伯爵家嫡男、グランベル侯爵令嬢、ヴェルナー子爵家三男、平民奨学生らと近しい。
――ただし本人の名は、指針には出ていない。
――名前を出さずに制度だけを残すとは、なかなかの立ち回りだ。
エルネストは、そこで手紙を机に置いた。
「違う」
声が出た。
立ち回りではない。
あいつは、たぶんそんな器用なことをしたかったのではない。
逃げたかっただけだ。
自分が責任を取りたくなくて、目立ちたくなくて、誰かの代表にされたくなくて、必死で逃げ道を探した。
その逃げ道が、たまたま誰かを救った。
その結果、学院に残った。
それだけだ。
それなのに、王都の目には違って映る。
名前を出さずに制度だけを残した、知略ある男爵家次男。
どんな怪物だ。
どんな野心家だ。
どんな手札を隠しているのだ。
きっと、そう見られる。
エルネストは、深く息を吐いた。
「馴染んでいる、というより」
いつか自分で書いた言葉が、また胸の奥に浮かんだ。
「見つかっています、か」
リオネルは王都に馴染んでいるのではない。
見つかっている。
隠れようとして、隠れ方が上手すぎて、逆に見つかっている。
逃げようとして、逃げ道を整えすぎて、その道に人が集まっている。
笑えない。
まったく笑えない。
エルネストは、三通目を手に取った。
ギルバート・レイヴンからの手紙。
封蝋は丁寧だった。
文面も、以前と同じく誠実すぎるほど誠実だった。
――リオネル・アルバート殿は、学院における一連の運用に関して、多大な負担を負った。
――本人はそれを望んでいない。
――役職も名誉も望んでいない。
――むしろ、それらを避けるために沈黙を選んだ。
――しかし、その沈黙さえも制度に回収された。
――私は、彼の意思に反して何かを背負わせたかもしれない。
――それでも、彼が倒れないよう、できる限り側にいるつもりだ。
――なお、茶は濃い方がよいらしい。
最後の一文で、エルネストはしばらく固まった。
「……茶?」
茶とは何だ。
いや、文脈から察するに、たぶん本当に茶なのだろう。
しかし、この真面目な手紙の最後に茶。
しかも濃い方がよいらしい。
エルネストは手紙の最後の一文を見つめたまま、眉間に皺を寄せた。
「レイヴン伯爵家といえば、剣と鉄の家門だったはずだが」
濃い茶。
なぜ、伯爵家嫡男から届いた誠実な手紙の結論が、茶の濃さなのか。
いつからレイヴン家は、剣ではなく茶葉の重さで友誼を示す家門になったのだろう。
いや、違う。
たぶん、これはギルバート・レイヴンという男なりの、不器用な誠実さなのだ。
弟は、王都で何をしているのか。
いや、何をされているのか。
エルネストは、しばらく目を閉じた。
そして、少しだけ笑った。
苦笑だった。
「レイヴン殿は、本当に不器用な方らしい」
だが、悪くない。
少なくとも、悪い人間ではない。
リオネルが自分から茶を求めたのなら、それは相当なことだ。
あいつは、助けを求めるのが下手だ。
大丈夫です、と言う。
問題ありません、と笑う。
完璧な敬語を使う。
本当に嫌な時ほど、眉一つ動かさない。
それが限界の合図だと、家族だけが知っている。
エルネストは、椅子の背にもたれた。
「リオネルのあの笑顔は、社交の才能ではない」
何度も思った言葉が、また口をつく。
「壁だ」
誰にも入ってきてほしくないから、完璧に笑う。
誰にも自分の本音を触らせたくないから、相手が望む礼儀を先に差し出す。
社交が得意なのではない。
社交という戦場で、傷つかないために適応しすぎただけだ。
適応の化け物。
エルネストは、弟の幼い頃を思い出した。
母の後ろに隠れながら、来客には完璧に挨拶をする小さな弟。
褒められると、少しだけ表情を固くする弟。
「立派ですね」と言われるたび、目の奥だけが少し遠くなる弟。
あの頃から、そうだった。
リオネルは、褒められることが苦手だった。
期待されることが嫌いだった。
それなのに、一番期待に応える顔をしてしまう。
「父上に伝えなければ」
エルネストは手紙をまとめ、執務室へ向かった。
父は、すでに朝の書類に目を通していた。
エルネストが手紙を差し出すと、父は黙って読んだ。
一枚目。
二枚目。
三枚目。
読み終えるまで、父は何も言わなかった。
最後に、深く息を吐いた。
「使うな」
短い言葉だった。
エルネストは頷く。
「はい」
「家のために、リオネルを使うな」
「分かっています」
「王都から問い合わせが来ても、慎重に返せ。リオネルが学院で何をしたかではなく、学院が何を正式運用したかを答えればいい」
「はい」
父は、机の上に手紙を置いた。
「リオネルは、家の駒ではない」
その言葉に、エルネストの胸が少しだけ熱くなった。
そうだ。
リオネルは、家の駒ではない。
男爵家の名を上げるための便利な次男ではない。
王都で有力者と繋がった、使える人脈でもない。
逃げたがっている弟だ。
できるだけ静かに暮らしたいと願っている、ただの弟だ。
「母上にも伝えます」
エルネストが言うと、父は少しだけ表情を和らげた。
「茶葉を増やすだろうな」
「おそらく」
母は、当然のように茶葉を増やした。
しかも、領地でも特に鎮静効果が強い、眠りのための葉を選んだ。
「王都では、眠れているのかしら」
母はそう言って、丁寧に包みを整えた。
「この子は、疲れている時ほど何も言わないから」
その通りだった。
リオネルは、本当に疲れている時ほど、助けを求めない。
完璧に笑う。
完璧に礼を言う。
完璧に大丈夫そうな顔をする。
そして、家族だけが気づく。
ああ、今、あいつは悲鳴を上げている、と。
エルネストは、弟へ手紙を書くことにした。
長く書きすぎてはいけない。
リオネルは長い心配を読むと、きっと申し訳なさで潰れる。
だから、短く。
核心だけを。
エルネストはペンを取った。
――リオネルへ。
――学院の指針のことを聞いた。
そこで一度、手が止まる。
褒めてはいけない。
偉かったと書いてはいけない。
頑張ったな、と書くことすら、今のリオネルには重いかもしれない。
エルネストは、少し考え、続けた。
――お前の名前が残らなかったことに、兄さんは少し安心した。
――そして、名前が残らなかったのに逃げきれなかったであろうことに、胸が痛くなった。
ペン先が紙を滑る。
――お前が死ぬほど嫌っているその場所で、死ぬほど上手く立ち回っていることを、兄さんは誇りには思わない。
――ただ、悲しく思う。
エルネストは、そこで一度目を閉じた。
これは、リオネルに届くだろうか。
届いてほしい。
届きすぎて、傷つけたくはない。
でも、誰か一人くらいは言わなければならない。
上手くやれていることを、褒めない者が必要だ。
――お前が完璧に笑っている時、兄さんはお前の胃の音が聞こえるような気がしてならない。
――誰にも迷惑をかけまいとして、誰より静かに壊れていく音だ。
――だから兄さんは、お前が上手くやれていることを、簡単には褒めたくない。
書き終えて、エルネストはしばらくその一文を見つめた。
少し踏み込みすぎただろうか。
だが、これは家族にしか書けない。
他の誰にも聞こえない音を、兄だけは知っている。
完璧な笑顔の裏で、胃を押さえるように息をしていた弟を、覚えている。
――お前は旗にならなくていい。
――学院に道が残ったとしても、お前自身がその道の標識になる必要はない。
――アルバート家は、お前を家のために使わない。
――帰ってくる場所は残しておく。
そこまで書いて、エルネストは少しだけ苦笑した。
帰ってくる場所。
リオネルは、それすら重いと思うかもしれない。
だから、最後は軽くする。
――母上の茶葉を同封する。
――兄さんは茶の濃さについて詳しくないが、レイヴン殿によると濃い方がよいらしい。
――ならば、少し濃く淹れなさい。
エルネストはペンを置いた。
これでいい。
たぶん。
父は、家のために使わないと決めた。
母は、眠りのための茶葉を包んだ。
兄は、上手くやったことを悲しいと書いた。
それが、アルバート家にできる防波堤だった。
王都の火を消すことはできない。
学院の石畳を剥がすこともできない。
だが、リオネルが戻ってきた時に、道ではなく部屋を用意しておくことはできる。
エルネストは、封をした。
「リオネル」
誰もいない執務室で、兄は小さく呟いた。
「お前の逃げ道が学院のものになっても、帰り道まで奪わせはしない」
その夜。
王立学院の学院長室には、まだ明かりが灯っていた。
机の上には、第1章などという言葉はもちろんない。
そこにあるのは、学生自治会の報告書。
公開説明会の記録。
暫定指針の草案。
そして、数名の学生に関する覚書だった。
学院長は、その中の一枚を指先で押さえた。
リオネル・アルバート。
名前は正式記録に残さない。
だが、覚書にはある。
表に出さないためには、内側で把握しておく必要がある。
それが学院という組織のやり方だった。
扉が叩かれる。
「入りなさい」
入ってきたのは、レオンハルト・ヴァイスだった。
「遅くに失礼します」
「学生自治会長は、夜も働くのか」
「学院長ほどではありません」
レオンハルトは、涼しい顔でそう返した。
学院長は、わずかに笑う。
「草案は」
「明日までに整えます」
「急がなくていい」
「急がなければ、噂が先に制度になります」
「それは困る」
学院長は報告書を閉じた。
「リオネル・アルバートを、どう見る」
レオンハルトは少しだけ沈黙した。
「制度の中に入れると壊れます」
即答に近かった。
「ですが、制度の外に置けば、時折もっとも重要な穴を見つけます」
「便利だな」
「便利に扱えば、壊れます」
「壊れやすい劇薬か」
「劇薬というより、火種です」
レオンハルトは静かに言った。
「近づければ燃える。遠ざければ煙だけが見える。放置すれば、誰かが勝手に祀る」
「祀るか」
学院長は目を細めた。
「本人は最も嫌がりそうだ」
「嫌がります」
「なら、表に出すな」
学院長は言った。
「あの男爵家次男を、表に出すな。だが、目を離すな」
「承知しています」
「彼の名で制度を作るな」
「はい」
「彼の言葉を、彼のものとして残すな」
「はい」
「だが、彼が見つけた穴は塞げ」
「……それが一番、彼に嫌われそうですが」
「好かれる必要はない」
学院長の声は静かだった。
「学院は、学生を守る場所だ。時に、本人の望まない形でもな」
レオンハルトは、わずかに眉を動かした。
「本人を守るために、本人の逃げ道を舗装することもあると」
「そうだ」
「残酷ですね」
「君がそれを言うのか」
学院長は少し笑った。
レオンハルトは否定しなかった。
「私も、彼の沈黙を使いました」
「見事だった」
「褒められることではありません」
「有用だった」
その言葉に、レオンハルトは口を閉じた。
有用。
学院長の言葉は、常に感情より先に機能へ届く。
だからこそ、逃げ場がない。
「アルバートは、人間です」
レオンハルトが言った。
学院長は頷く。
「だから名を残さない」
「構造は使う」
「そうだ」
「彼は、それを最も嫌がるでしょう」
「だろうな」
「それでも、使う」
「使う」
静かな断定だった。
レオンハルトは、しばらく黙った。
やがて言う。
「学院の外が、彼を見つける可能性があります」
「すでに見つけ始めている」
学院長は机の隅に置かれた別の封書を指で叩いた。
封蝋は、王都の高位貴族のものだった。
「問い合わせですか」
「まだ探りだ」
「早いですね」
「火の匂いには、鼻の利く者が多い」
学院長は封書を開いた。
文面は、表面上は丁寧だった。
学院における新指針について、ぜひ詳細を伺いたい。
身分差のある勧誘における本人同意の扱い。
匿名での意見提出と記録の真正性。
発言を拒む権利と、責任追及の線引き。
どれも、学生を守るための問いに見える。
だが、学院長はその裏にある匂いを読んでいた。
断る権利は、政敵からの招待を拒む盾になる。
匿名性は、誰かを刺す刃にもなる。
沈黙の権利は、責任を逃れる煙幕にもなる。
学生の逃げ道として作られたものが、王都では政治の武器として研がれ始めている。
レオンハルトも、文面を一読して目を細めた。
「これは、学生保護への関心ではありませんね」
「半分はそうだろう」
「残り半分は」
「使い道の確認だ」
学院長は封書を机に戻した。
「身分差のある勧誘。本人同意。沈黙の権利。これらは学院の中だけで終わる話ではない」
「外部の派閥が利用しようとする」
「するだろう」
「王家も?」
「いずれ」
レオンハルトは、目を伏せた。
第1章の終わりなど、本人たちには関係ない。
学院の中で道ができれば、外の者がその道を使いたがる。
それだけのことだ。
「アルバート家には」
レオンハルトが問う。
「まだ触れさせない」
学院長は即答した。
「男爵家に直接圧をかければ、彼は折れるか逃げるかする。どちらも扱いにくい」
「守っているのですか」
「学院の利益を守っている」
「両方では」
「両方だ」
昨日と同じ答えだった。
レオンハルトは、少しだけ苦笑した。
「彼に聞かれたら、また傷つきます」
「聞かせるな」
「承知しました」
学院長は、椅子に深く座り直した。
「レオンハルト」
「はい」
「あの男爵家次男は、正義の人間ではない」
「ええ」
「善意の人間でもない」
「本人も、そう思っています」
「だが、穴を見る」
学院長は言った。
「誰かが落ちる穴を、見つけてしまう。そして見つけた穴を、放っておくほど鈍くはない」
「本人は、それを不幸だと思っているでしょう」
「実際、不幸だろう」
学院長は淡々と言った。
「だが、学院にとっては有用だ」
レオンハルトは、返事をしなかった。
有用。
それは正しい。
けれど、人間に向けるには冷たい言葉だった。
学院長は、窓の外に目を向けた。
月光に照らされた石畳の隙間に、小さな雑草が一本だけ伸びている。
普通なら、整えられた学院の景観には不要なものだ。
だが、学院長はそれを抜こうとは思わなかった。
「雑草も、場所によっては土留めになる」
ぽつりと呟く。
レオンハルトが、わずかに眉を動かした。
「アルバートのことですか」
「さあな」
学院長は薄く笑った。
「抜けば綺麗になる。だが、抜いたせいで崩れる土もある」
レオンハルトは、窓の外の石畳を見た。
白い道。
その隙間に、細く残る緑。
邪魔だと切り捨てるには、根が土を掴みすぎている。
「彼を休ませろ」
学院長は言った。
「壊れれば穴が見えなくなる」
「……学院長」
「何だ」
「もう少し、人間味のある言い方はありませんか」
学院長は少し考えた。
「彼を休ませろ」
レオンハルトは、一瞬だけ目を見開いた。
そして、わずかに笑った。
「そちらの方がよろしいかと」
「ならば、そう記憶しておけ」
学院長は書類を閉じた。
「彼を休ませろ。だが、目を離すな」
「難しい注文です」
「君向きだ」
「光栄です」
「本当にそう思っている顔ではないな」
「学院長ほどではありません」
二人の間に、短い沈黙が落ちた。
学院長は、再び窓の外を見た。
月光に照らされた石畳が、白く伸びている。
昼間は多くの学生が歩く道。
今は誰もいない。
しかし、道はある。
一度敷かれた道は、消えない。
「逃げ道は、道になった」
学院長が小さく言った。
「問題は、誰がそこを歩きたがるかだ」
レオンハルトは、その言葉の意味を理解した。
学院の外。
貴族社会。
派閥。
家門。
王都。
いずれ、誰かがこの道を見つける。
そして問うだろう。
この道を作ったのは誰か、と。
レオンハルトは、静かに答えた。
「その時も、彼の名は出しません」
「出すな」
学院長は言った。
「ただし」
「ただし?」
「彼の周囲にいる者たちは、いずれ選ぶことになる」
「何をですか」
「彼を隠すのか。守るのか。使うのか」
静かな言葉だった。
だが、かなり重い。
「ギルバート・レイヴンは、おそらく守ろうとする」
「ええ」
「クラウス・ヴェルナーは、使われ方を選ぶ」
「その通りです」
「セシリア・グランベルは、逃げ道を守る」
「はい」
「ニール・ロイドは、自分の言葉で立つ」
「はい」
「そしてリオネル・アルバートは、逃げたいと言いながら火の前で足を止める」
レオンハルトは、少しだけ目を伏せた。
「だから困るのです」
「だから面白い」
学院長はそう言った。
レオンハルトは、何も返さなかった。
面白い。
その言葉は、リオネルが聞けばきっと嫌がる。
だが、学院長の言う面白さは、娯楽ではない。
構造が動く面白さ。
人が制度を変え、制度が人を変える、その観察者の言葉だった。
それもまた、権力者の冷たさだ。
「下がっていい」
「失礼します」
レオンハルトは頭を下げ、学院長室を出た。
廊下に出ると、少しだけ空気が軽い。
だが、その軽さは、嵐の前のものにも似ていた。
レオンハルトは歩きながら、小さく呟いた。
「アルバート。君の逃げ道は、もう学院の外へ伸び始めている」
本人が聞けば、胃を押さえるだろう。
いや、たぶん茶を求める。
その想像に、レオンハルトは少しだけ苦笑した。
そしてすぐに、表情を戻した。
道は敷かれた。
次に来るのは、その道を歩こうとする者たちだ。
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
本作は、この第14話(幕間)をもちまして、完結とさせていただきます。
リオネルが必死に掘った「逃げ穴」が、家族の愛によって「帰り道」になり、学院長の理によって「公道」になる……。彼が望んでいた「静かな暮らし」とは裏腹に、彼が敷いた道は消えない足跡として残りました。
1章という短い区切りではありますが、リオネルという男の「適応しすぎてしまう歪さ」と、それを囲む人々の思惑をここまで描けたのは、読者の皆様の応援があったからです。
彼の物語はここで一旦幕を閉じますが、この世界のどこかで、彼は今も濃すぎるお茶を飲みながら胃を押さえていることでしょう。
ブックマーク、評価、そして感想を寄せてくださった皆様に、心より感謝申し上げます。
また別の物語でお会いできる日を願っております。




