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凡庸な男爵家次男は、誰にも好かれたくない 〜前世でモテすぎて疲れた俺、今世は静かに暮らしたいのに学院の火種ばかり見えてしまう〜  作者: 平八
第一章 逃げ道と、石畳の学院

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第20話 凡庸な男爵家次男は、匿名に匂いを残したくない

前回まで:

ユリウスは、リオネルの拒絶を尊重し、逃げ道まで整えた上で接触してきました。

しかし、その完璧な配慮は、リオネルにとって「私専用の窓口」にしか見えません。

何とか専用窓口化を拒んだリオネルでしたが、その日の終わり、学院新聞同好会から新たな号外予告が届きます。


『逃げ道は誰のためにあるのか――匿名座談会開催へ』


主な登場人物:

リオネル・アルバート……男爵家次男。匿名でも言葉には匂いが残ることを知っている。

オスカー・フェルン……学院新聞同好会編集長。火を消すのではなく、火の向きを変える情報のプロ。

ギルバート・レイヴン……伯爵家嫡男。守りたいが、自分の重みを少しずつ理解し始めている。

クラウス・ヴェルナー……子爵家三男。匿名性の危うさも政治的に読む。

ニール・ロイド……平民出身の奨学生。匿名であっても特定される怖さを知る。

セシリア・グランベル……侯爵令嬢。声を守ることと、声を消すことの違いを見ている。

レオンハルト・ヴァイス……生徒会長。情報の扱いも運用として見る人物。

匿名。


その言葉は、思っていた以上に広がるのが早かった。


朝の掲示板前では、学院新聞同好会の号外予告を見た生徒たちが、いくつもの小さな輪を作っていた。


『逃げ道は誰のためにあるのか――匿名座談会開催へ』


大きく書かれたその見出しは、嫌になるほど目立っていた。


匿名座談会。


名前を出さずに話せる場。


一見、優しい。


とても優しい。


誰かを責めない。

誰かを特定しない。

立場を明かさずに意見を出せる。

声の小さい者でも語れる。


だからこそ、怖い。


匿名という覆いは、人を守ることもある。


だが同時に、発言を発言者から切り離し、都合よく並べ替えることもできる。


誰が言ったか分からない言葉は、誰のものでもなくなる。


誰のものでもない言葉は、記事の材料になる。


俺は、掲示板から少し離れた場所でその予告を見ていた。


隣にギルバート。


今日は、ほんの少しだけ距離がある。


彼が自分で調整しているのが分かる。


ありがたい。


だが、その距離にまで周囲が意味をつけそうで、もう何をしても胃が痛い。


「匿名なら、安心できる者もいるだろう」


ギルバートが言った。


「はい」


それは事実だ。


「だが、お前は嫌そうだ」


「匿名でも、安全とは限りません」


「名前が出ないのにか」


「名前が出なくても、分かることがあります」


ギルバートは眉を寄せた。


「どういう意味だ」


クラウスが、いつの間にか横に立っていた。


「立場、言い回し、所属、過去の出来事。名前がなくても、人は文脈で特定される」


本当に、この人は現れる場所が的確すぎる。


クラウスは掲示板を眺めながら続けた。


「たとえば“平民出身の奨学生として”と書けば、かなり絞られる。“古代史研究会で代表扱いされた新入生”と書けば、もうほとんど分かる」


俺は小さく頷いた。


「匿名とは、名前を消すことではありません」


言いかけて、止めた。


危ない。


また言葉になりかけた。


俺が言えば、また誰かが拾う。


だが、クラウスは俺の途中の言葉を拾わなかった。


代わりに、少しだけ目を細めて言った。


「匿名は、特定できる文脈まで消して初めて匿名になる」


言われた。


俺が言わずに済んだ。


助かった。


同時に、少しだけ悔しい。


いや、悔しいのはおかしい。


俺は言いたくなかったのだから。


本当に、人間は面倒だ。


「クラウス」


俺は言った。


「それ、学生自治会で言ってください」


「君の代わりに?」


「いいえ。ヴェルナー様の意見として」


クラウスは少し笑った。


「了解。僕の意見として言おう」


その言い方に、少しだけ息が楽になった。


最近、俺の周囲の人間は、少しずつ自分の言葉で話すようになっている。


良いことだ。


とても良いことだ。


そのはずなのに、俺は時々、その流れに置いていかれるような不安を覚える。


勝手だ。


必要とされたくないのに、必要とされないと寂しい。


そんな自分が嫌になる。


……いや、違う。


これはただの依存だ。


いけない。


誰かに必要とされることを、居場所と勘違いするな。


そこから全部、また始まってしまう。


「アルバート様」


声がした。


振り返ると、ニールが立っていた。


手には、学院新聞同好会の予告紙がある。


顔色は少し悪い。


「おはようございます、ロイド様」


「おはようございます」


ニールは予告紙を見た。


「匿名座談会、参加しようか迷っています」


「行きたいのですか」


「分かりません」


正直な答えだった。


「話したいことはあります。でも、匿名でも、私だと分かる気がして」


その通りだ。


ニールは平民出身の奨学生。


ここ最近の指針で何度も関係している。


彼が少しでも具体的な話をすれば、分かる者には分かる。


「話したいことがあるなら、話す権利はあります」


俺は慎重に言った。


「でも、話さなければならない義務はありません」


ニールは少しだけ笑った。


「最近、その二つを分けるのが難しいです」


「私もです」


本当に。


権利と義務は、時々そっくりな顔をしている。


逃げ道と入口も、時々そっくりな形をしている。


セシリア嬢が、静かにこちらへ歩いてきた。


彼女は予告紙を一瞥し、すぐに状況を理解したようだった。


「匿名座談会ですか」


「はい」


「新聞同好会らしいですね」


その声には、怒りよりも警戒があった。


「彼らは、火種を記事にするのが仕事ですから」


「火種を記事にする」


ギルバートが低く言う。


「だから潰すべきではないのか」


「潰すと、潰されたことが記事になります」


クラウスが即答した。


「では、どうすればいい」


「火がどちらへ向くかを見る」


嫌な言い方だ。


だが、正しい。


その時、掲示板の周囲が少しざわついた。


人垣が割れる。


学院新聞同好会の編集長、オスカー・フェルン先輩が現れた。


銀縁の眼鏡。


整った微笑。


手には、号外予告の束。


こちらを見つけると、彼はまっすぐ歩いてきた。


来なくていい。


本当に来なくていい。


「おはようございます、皆さん」


「おはようございます、フェルン様」


俺は礼を取った。


完璧すぎないように。


だが、乱れすぎないように。


最近、この調整にも疲れてきた。


オスカー先輩は俺を見て、微笑んだ。


「予告、届きましたか」


「扉の下から差し込まれていました」


「確実に届くようにと思いまして」


やめてほしい。


確実に届かなくていい。


「今回の座談会について、確認したいことがあります」


俺は先に言った。


オスカー先輩の笑みが少し深くなる。


「抗議ではなく?」


「確認です」


「いい言葉ですね」


前にも聞いた。


この人は、同じ言葉を使いながら少しずつ距離を測ってくる。


「匿名座談会とのことですが、発言者が特定される可能性への配慮はされていますか」


オスカー先輩は、少し楽しそうに俺を見た。


「されています」


「具体的には」


「名前、家名、所属、研究会名、学年、身分、具体的な事件名は原則伏せる。発言はそのまま引用せず、必要に応じて要約する。掲載前に、本人確認を行う」


悪くない。


かなり整っている。


やはり、この人は浅くない。


「ただし」


来た。


「発言の熱まで消すと、記事として死にます」


オスカー先輩は淡々と言った。


「匿名性を守るために言葉を削りすぎれば、そこにあった痛みや怒りまで消える。新聞として、それは避けたい」


セシリア嬢が静かに言う。


「痛みを残すことと、本人を危険に晒すことは別です」


「もちろん」


オスカー先輩は頷いた。


「だから、今回は座談会の前に学生自治会へ形式確認を依頼しています」


俺は嫌な予感がした。


「学生自治会へ」


「はい。レオンハルト会長にも確認済みです」


やはり。


レオンハルト会長が絡んでいる。


制度と運用の匂いがする。


「それで」


オスカー先輩は俺を見る。


「アルバート君には、参加しないでいただきたい」


予想外だった。


「……参加しない?」


「はい」


「私を呼びに来たのではなく?」


「違います」


オスカー先輩は、はっきりと言った。


「君がいると、座談会が君の場になります」


胃の奥が冷えた。


「君が発言しなくても、周囲は君を見る。君が黙っていても、その沈黙に意味がつく。君が退席しても、その退席が記事になります」


やめてほしい。


その通りだ。


「だから、来ないでください」


あまりにも率直だった。


そして、少しだけ楽だった。


来なくていい。


むしろ来るな。


それは、久しぶりに聞く種類の拒絶だった。


なのに、安心しきれない。


オスカー先輩は、悪びれもせずに続けた。


「それに、君という素材は、生のまま置くには強すぎる」


「素材」


「ええ。君がそこにいるだけで、発言者は君を意識する。読者も君を探す。なら、君は不在の方がいい」


オスカー先輩は、紙面の余白を見るような目で俺を見た。


「不在という形で置いた方が、記事全体が引き立ちます」


背筋が冷えた。


来るなと言われた。


それは本来、俺にとって救いのはずだった。


だが、この人は俺を拒絶しているのではない。


俺がいないことまで、編集している。


「私がいないことも、記事になりますか」


俺が尋ねると、オスカー先輩は微笑んだ。


「なるでしょうね」


最悪だ。


「ただし、記事にはしません」


「なぜですか」


「今回は、君を扱う記事ではないからです」


その言葉を信じていいのか。


分からない。


オスカー先輩は続けた。


「今回、私が扱いたいのは“逃げ道”です。誰が作ったかではなく、誰のためにあるのか」


「それでも、私の言葉が材料になる可能性はあります」


「あります」


即答。


本当に正直だ。


「君の言葉は、すでに学院内で流通している。断る理由はいらない。本人の名前で語るな。断る権利は義務ではない。これらはもう、君の手を離れています」


胸が重くなる。


分かっていた。


分かっていたが、他人の口から言われるときつい。


「ですが」


オスカー先輩は、少しだけ声を落とした。


「だからこそ、記事の中で個人の所有物として扱わない。思想としても、誰か一人の旗としても扱わない。そこは約束します」


「約束」


「新聞屋の約束です。信用するかは任せます」


信用できるのか。


分からない。


だが、オスカー先輩は少なくとも、嘘で安心させようとはしていない。


そこがまた厄介だ。


「それで、なぜ私に直接?」


「君が後から知ると、また胃を痛めるでしょう」


なぜ知っている。


いや、見れば分かるのか。


最近、俺の胃痛は学院内の共通認識になりつつあるのではないか。


非常に不本意だ。


ギルバートが低く言った。


「アルバートの胃を痛めると分かっていて、なぜやる」


オスカー先輩は、ギルバートを見た。


「必要だからです」


「誰に」


「話せなかった者に」


ギルバートは黙った。


オスカー先輩は続ける。


「匿名でなければ話せない者はいます。名前を出さずに、ようやく言えることもある。その声を拾うのが新聞同好会の仕事です」


正しい。


また正しい。


本当に、正しいものは厄介だ。


「ただし」


クラウスが口を開いた。


「匿名で集めた声は、編集者の手でいくらでも方向づけられます」


「その通りです」


「だからこそ、編集の基準が必要です」


「同感です」


オスカー先輩は笑った。


「そのために、学生自治会を挟む」


「新聞同好会だけでは足りないと?」


「新聞同好会だけでは、記事として面白い方へ流れる可能性がある」


自覚があるのか。


あるのなら、なおさら怖い。


「だから、外部の確認がいる」


外部。


自治会。


制度。


また、制度だ。


レオンハルト会長が好きそうな話である。


「アルバート君」


オスカー先輩は、俺に向き直った。


「君には来ないでほしい。ただし、もし形式上の危険を見つけたなら、学生自治会へ伝えてください」


「私に直接ではなく?」


「はい。私に直接言うと、君がまた記事の内側に入ります」


この人まで、それを言う。


怖い。


だが、少しだけ助かる。


「分かりました」


俺は言った。


「私は参加しません」


言えた。


理由は添えなかった。


オスカー先輩は満足そうに頷いた。


「ありがとうございます」


感謝された。


参加しないことに感謝された。


これは楽なのか。


それとも、また何かに利用されたのか。


分からない。


本当に分からない。


昼休み。


学生自治会室では、匿名座談会の形式確認が行われることになった。


俺は行かないつもりだった。


参加しないと言ったのだから、形式確認にも行かない。


それでいい。


そのはずだった。


だが、レオンハルト会長から届いた短い文面が机に置かれていた。


『匿名座談会の形式確認を行う。


君の出席は不要。


ただし、君が不安視する点がある場合は、書面で受け取る。


理由は不要。


レオンハルト・ヴァイス』


出席不要。


書面で受け取る。


理由不要。


整っている。


整いすぎている。


また、俺のためのようで、俺を運用するための通路ができている。


だが今回は、少し違う。


書面だけ。


直接出なくていい。


名前も出ない。


俺が関わったことも、おそらく表には出ない。


それでも、関わる。


制度の外に置かれたまま、影響だけ渡す。


便利なジョーカー。


その言葉がまた頭をよぎる。


俺は便箋を前にして、しばらく固まった。


書くべきか。


書かないべきか。


書けば、また俺の意見になる。


書かなければ、匿名の危うさを見過ごすことになる。


本当に、この二択ばかりだ。


俺はペンを取った。


『匿名は、名前を消すだけでは成立しません。』


書いて、すぐに嫌になった。


また名言のようなものを書いている。


やめたい。


非常にやめたい。


だが、これを書かなければ伝わらない。


俺は続けた。


『発言者が特定される属性、所属、出来事、口調、固有の言い回しも、必要に応じて調整すべきです。


ただし、調整しすぎると発言者の痛みが消えます。


匿名性を守ることと、声を消すことは同じではありません。


掲載前の確認と、撤回の余地を残してください。』


ここまで書いて、手が止まった。


よくできている。


まただ。


なぜ俺は、嫌な時ほどよくできた文章を書いてしまうのか。


兄が見たら、悲しむだろうか。


お前が嫌っている場所で、嫌っているほど上手く立ち回っていることを、兄さんは誇りには思わない。


ただ、悲しく思う。


その言葉が、胸に刺さる。


俺は最後に一文だけ足した。


『なお、この意見は私個人のものとして扱わず、学生自治会の形式確認の一材料としてください。』


書いた瞬間、自分で乾いた笑いが出そうになった。


個人のものとして扱うな。


だが、俺が書いている。


矛盾している。


それでも、そう書くしかない。


俺は封をした。


そして、ギルバートに渡した。


「これを、学生自治会へ」


ギルバートは封書を受け取った。


「俺が?」


「はい」


「俺が持っていくと、また意味がつかないか」


成長している。


ものすごく成長している。


そして、その成長が少し嬉しい。


少し怖い。


「では、クラウス様に」


クラウスが横から受け取った。


「僕が持っていくよ。子爵家三男の配達なら、まだ意味は軽い」


「自分で言うことですか」


クラウスは封書を受け取ると、軽く肩をすくめた。


「重すぎる言葉を運ぶには、僕のような軽い人間がちょうどいい」


「ご自分で軽いとおっしゃるのですか」


「子爵家三男だからね。重すぎず、軽すぎず、ちょうどいい場所に落とせる」


クラウスは、冗談のように言った。


だが、その目は笑っていなかった。


この人は、自分の立場の軽さを、恥ではなく道具として扱っている。


俺という火種を、そのまま投げ込めば燃える場所へ、少しだけ温度を下げて運ぶために。


「助かります」


俺が言うと、クラウスは微かに笑った。


「どういたしまして。火傷しない程度に運んでくるよ」


夕方。


匿名座談会は、予定通り行われた。


俺は行かなかった。


図書館にも行かなかった。


寮の部屋にいた。


部屋の扉を閉め、机の上に茶を置き、何も読まずに座っていた。


参加しない。


見に行かない。


聞きに行かない。


そう決めた。


だが、外の音が気になる。


廊下を歩く足音。

遠くの鐘の音。

窓の外の話し声。


全部が座談会の噂に聞こえる。


何もしていないのに疲れる。


何もしないのは、こんなにも難しい。


茶は、すぐに冷めた。


しばらくして、扉が叩かれた。


嫌な予感がした。


こういう時の嫌な予感は、当たる。


「アルバート」


ギルバートの声だった。


少しだけ安心して、少しだけ胃が痛んだ。


扉を開けると、ギルバート、クラウス、ニール、セシリア嬢が立っていた。


なぜ全員いる。


「座談会は」


「終わった」


ギルバートが言った。


「どうでしたか」


四人は、少し顔を見合わせた。


この間が怖い。


クラウスが口を開いた。


「荒れなかった」


「それは良かったです」


「ただ、かなり重かった」


それは良くない。


ニールが静かに言った。


「匿名だから、話せた人がいました」


「そうですか」


「でも、匿名だからこそ、怖いこともありました」


ニールは少しだけ息を吸った。


「ある発言がありました。“ある人の言葉に救われたが、その人の名前を使おうとして傷つけてしまった”と」


俺は動きを止めた。


それは。


「名前は出ませんでした」


ニールはすぐに言った。


「誰のことかも、明記されませんでした」


「でも、分かる人には分かる」


俺が言うと、ニールは黙った。


それが答えだった。


セシリア嬢が続ける。


「ですが、掲載時にはかなり抽象化されることになりました。個人の出来事ではなく、“救われた言葉を旗にしてしまう怖さ”として扱う形です」


俺は息を吐いた。


助かった。


いや、助かったのか。


分からない。


俺の出来事は、また抽象化されて記事になる。


名前はない。


だが、材料にはなる。


「フェルン先輩は何と?」


クラウスが答えた。


「君の書面を見て、“匿名性を守ることと、声を消すことは同じではない、か。良い見出しだが、使うと怒られそうだ”と言っていた」


やめてほしい。


絶対に使わないでほしい。


「使わないそうだよ」


「本当に?」


「今のところは」


今のところ。


非常に信用ならない言葉である。


ギルバートが腕を組んだ。


「匿名座談会には、上級生側の声もあった」


「どんな声ですか」


「誘うのが怖くなった、と」


胸が重くなった。


「断られるのは構わない。だが、誘うこと自体を圧力と言われるのが怖い。だから、声をかけないようになった、と」


エルマー先輩の話と同じだ。


やはり、そういう声は一つではなかった。


「それから」


ギルバートは少し言いにくそうにした。


「誘われなくなって寂しい、という下級生の声もあった」


俺は目を閉じた。


誰かの逃げ道が、誰かの入口を狭める。


まただ。


またそこに戻る。


「でも」


ニールが言った。


「その声が出たことで、断る側だけではなく、誘われる側の自由も話題になりました。行きたいときに行けることも、断ることと同じくらい大切だと」


それは良いことだ。


本当に良いことだ。


俺がいなくても、話は進んだ。


俺がいなくても、声は集まった。


匿名でなければ出なかった声もあった。


なら、匿名座談会には意味があったのだろう。


意味があった。


だからこそ、オスカー先輩はまた強くなる。


俺がいなくても、声は集まった。


俺がいなくても、話は進んだ。


それは救いのはずだった。


なのに、胸の奥に、ほんの小さな空洞のようなものができた。


必要とされたくない。


なのに、必要とされないと少しだけ寂しい。


そんな自分が嫌だった。


……いや、違う。


これはただの依存だ。


いけない。


誰かに必要とされることを、居場所と勘違いするな。


そこから全部、また始まってしまう。


「アルバート様」


セシリア嬢が静かに言った。


「今回、あなたが行かなかったことにも意味がありました」


「やめてください」


反射的に言ってしまった。


セシリア嬢は少しだけ目を伏せた。


「失礼しました」


「いえ」


俺は額に手を当てた。


「すみません。意味があると言われると、最近少し気分が悪くなるのです」


「でしょうね」


クラウスがさらっと言った。


「君は存在だけで意味が発生しすぎている」


「本当に嫌な言い方ですね」


「でも事実だ」


否定できないのが腹立たしい。


ギルバートが真剣な顔で言った。


「茶は」


「飲みます」


「もう冷めている」


「淹れ直します」


「俺がやる」


「いえ、自分で」


「俺の立場で茶を淹れる」


「何ですか、その立場は」


ギルバートは真顔だった。


「俺が淹れる茶だ。濃さは俺が決める」


「それは横暴では」


「文句があるなら、アルバートではなくレイヴン家に言え」


意味が分からない。


だが、妙に堂々としていた。


守ることに意味がつくなら、その意味ごと引き受ける。


そう言われている気がした。


茶の濃さで。


なぜ茶の濃さでそこまで政治的な覚悟を示せるのかは、本当に分からない。


「では、お願いします」


ギルバートは満足そうに頷いた。


クラウスが小声で言う。


「今のは、新しい解決法なのかな」


「たぶん違います」


セシリア嬢が、ほんの少しだけ笑った。


ニールも笑った。


部屋の空気が、少し緩んだ。


その夜、学院新聞同好会から座談会の掲載前確認が学生自治会へ回った。


俺のところへは来なかった。


来ないように、と伝えていたからだ。


なのに、机の上には一枚の紙があった。


差出人は、レオンハルト会長。


『君には掲載前確認を回さない。


ただし、形式確認で提出された君の書面は採用した。


匿名性に関する補足運用として、学生自治会の内部基準に加える。


君の名は出さない。


レオンハルト・ヴァイス』


俺は天井を見上げた。


またか。


また制度になった。


今度は内部基準。


表には出ない。


名も出ない。


だが、残る。


俺の言葉は、表に出ないところでも制度になるらしい。


それは救いなのか。


それとも、より逃げにくい場所へ沈んだだけなのか。


分からない。


俺は紙を畳んだ。


母の茶葉を淹れる。


ギルバートが淹れてくれた茶は、少し濃すぎた。


だが、悪くはなかった。


自分の立場で淹れた茶、ということにしておこう。


問題は解決した。


匿名座談会は荒れずに終わった。


声は集まり、記事は調整される。


俺は参加しなかった。


名前も出ない。


だが、俺の平穏はまた死んだ。


匿名性の補足運用が、学生自治会の内部基準になった。


俺の言葉は、もう掲示板だけでなく、見えない場所にも残り始めている。


見えない鎖は、見える鎖より外しにくい。


俺は茶を飲んだ。


濃い。


本当に濃い。


レイヴン家嫡男は、茶葉の量を覚えるところから始めた方がいい。


そう思って少し笑った。


その時、窓の外で風が鳴った。


机の上の紙が、わずかに揺れる。


『匿名性に関する補足運用』


俺は目を閉じた。


逃げ道は誰のためにあるのか。


誰のためかは分からない。


ただ、少なくとも俺の逃げ道は、また少し狭くなった。


たぶん。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


今回は「匿名」をテーマにした座談会でした。


名前を隠せば安全かと思いきや、リオネルにとっては「不在すらも利用される」という新たな難問が突きつけられます。


匿名性は、特定できる文脈まで消して初めて成立する。


リオネルが良かれと思って書いた助言は、またしてもレオンハルトの手によって「内部基準」へと姿を変え、見えない制度の鎖になっていきます。


そしてギルバートは、なぜか「茶の濃さ」で自分の立場を証明し始めました。


逃げたいのに、逃げるための言葉が次々と「正解」として回収されていくリオネルを、ブックマークや評価で見守っていただけると嬉しいです。

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