第21話 凡庸な男爵家次男は、正解として回収されたくない
前回まで:
学院新聞同好会による匿名座談会は、学生自治会の確認を経て実施されました。
リオネルは参加しなかったものの、匿名性に関する書面を提出し、その内容は学生自治会の内部基準へと取り込まれます。
名前は出ない。表にも出ない。
それでも、リオネルの言葉は見えない場所に残り始めていました。
主な登場人物:
リオネル・アルバート……男爵家次男。逃げたいのに、言葉だけが学院の正解として広がっていく。
ギルバート・レイヴン……伯爵家嫡男。茶の濃さで自分の立場を証明し始めた不器用な友人。
クラウス・ヴェルナー……子爵家三男。自分の軽さを武器として使う参謀役。
ニール・ロイド……平民出身の奨学生。自分の言葉で立つことを覚え始めている。
セシリア・グランベル……侯爵令嬢。リオネルを「利用」という形で支える。
レオンハルト・ヴァイス……生徒会長。リオネルを制度の外に置いたまま、その影響を運用する。
オスカー・フェルン……学院新聞同好会編集長。不在すら編集する情報のプロ。
翌朝、学院新聞の最新号が掲示板に貼り出された。
『逃げ道は誰のためにあるのか――匿名座談会が示した新しい礼儀』
見出しは、思っていたより穏やかだった。
煽ってはいない。
誰かを責めてもいない。
匿名座談会で出た声を整理し、断る側と誘う側の両方に配慮した内容になっている。
良い記事だった。
かなり、良い記事だった。
だから、嫌だった。
悪い記事なら怒れた。
偏った記事なら否定できた。
だが、これは良い。
良いから残る。
良いから読まれる。
良いから、使われる。
掲示板の前で、生徒たちが記事を読んでいる。
「これ、分かりやすいな」
「断る側だけじゃなくて、誘う側の書き方も載っている」
「研究会の案内文、これに変えた方がいいかも」
「匿名の話も怖いな。名前を消せばいいってものじゃないんだ」
俺は少し離れた場所で、その声を聞いていた。
聞きたくないのに、耳に入る。
記事の中には、こうあった。
『匿名性は、単に名前を消すことではない。
立場、所属、出来事、言い回しなど、発言者を特定し得る文脈も含めて調整される必要がある。
ただし、調整しすぎれば、声そのものの痛みが失われる。
匿名性を守ることと、声を消すことは同じではない。』
俺は、目を閉じたくなった。
ほとんど俺の書いた内容だった。
いや、違う。
俺の文章そのものではない。
学生自治会の内部基準をもとに、新聞同好会が記事用に整えた言葉だ。
だから俺の言葉ではない。
俺の名前もない。
俺の立場もない。
それなのに、読めば分かる。
少なくとも、俺には分かる。
自分の嫌がった言葉が、綺麗に磨かれて、学院の正解として掲示板に貼られている。
「よくできているな」
隣でギルバートが言った。
「はい」
「嫌そうだな」
「はい」
「よくできているのにか」
「よくできているからです」
ギルバートは少し考え込んだ。
最近の彼は、すぐに結論を出さない。
それは大きな成長だ。
だが、隣で真剣に考え込まれると、それはそれで重い。
「お前の名前は出ていない」
「はい」
「だが、お前の言葉は残っている」
「はい」
「それが嫌なのか」
俺は少し迷った。
嫌だ。
確かに嫌だ。
だが、それだけではない。
「嫌です。でも、間違っているとも思えません」
「厄介だな」
「はい」
本当に厄介だった。
記事は誰かを救うだろう。
匿名でなければ話せなかった生徒も、これで少し楽になるかもしれない。
誘う側も、断らせる余地を学べるかもしれない。
それは良いことだ。
良いことのはずだ。
それなのに、俺の胸の奥には、妙な重さが残っている。
「アルバート君」
声をかけられた。
振り向くと、オスカー先輩が立っていた。
いつもの銀縁眼鏡。
いつもの整った微笑。
手には、刷りたての新聞が数部。
来なくていい。
本当に、来なくていい。
「読んでいただけましたか」
「はい」
「どうでした?」
「よくできていると思います」
俺が答えると、オスカー先輩は満足そうに笑った。
「それはよかった」
「褒めてはいません」
「分かっています。ですが、君が“よくできている”と言うなら、それは十分な評価です」
嫌な読み方をする。
この人は、人の言葉の温度を測るのがうまい。
「私の書面を使いましたね」
「学生自治会の内部基準を参考にしました」
「同じことでは」
「違います」
オスカー先輩は、さらりと言った。
「君個人の言葉としては使っていません。学生自治会の確認を経た運用基準として扱っています」
形式上は正しい。
正しいから、文句をつけにくい。
「俺の言葉ではなくなった、ということですか」
思わず、一人称が乱れた。
オスカー先輩の目が、ほんの少しだけ動く。
「そうですね」
彼は静かに言った。
「君の言葉ではなくなった」
胸の奥が冷える。
「それは救いでしょうか」
「場合によります」
それを言うな。
それは俺の最後の防御だったはずだ。
オスカー先輩は、少しだけ声を落とした。
「個人の名前から切り離された言葉は、本人を守ることがあります」
「はい」
「同時に、本人の手からも離れます」
「はい」
「新聞は、そういうことをします」
堂々と言う。
本当に、この人は堂々と言う。
悪びれない。
嘘もつかない。
だから厄介だ。
「君の言葉を君のものとして扱えば、君は燃える。君の言葉を学院の言葉として扱えば、君は少し守られる」
オスカー先輩は新聞を軽く持ち上げた。
「ただし、その言葉は残る」
「見えない鎖になります」
「見えない道にもなります」
その返しは、少しずるかった。
鎖。
道。
どちらにもなる。
だから、否定しにくい。
「フェルン様」
俺は言った。
「あなたは、私がいないことまで編集しました」
オスカー先輩の笑みが深くなる。
「ええ」
認めた。
「それが一番、記事として安定しましたから」
「人を素材として見すぎでは」
「学院新聞同好会の編集長ですので」
本当に、ひどい。
だが、彼の言葉には妙な職業倫理があった。
人を軽く扱っているのではない。
重すぎるから、紙面の上で配置を考えている。
それが分かるから、余計に嫌だ。
「君という素材は、表に置くには火力が強すぎる」
「素材と呼ばないでください」
「失礼しました」
謝罪は早い。
だが、たぶん考え方は変わっていない。
「では、こう言い換えましょう。君は、紙面に直接置くより、余白に残した方が強い」
余白。
それは、何もない場所ではない。
読者が勝手に意味を置く場所だ。
名前がないからこそ、
「ここにはアルバート様の意志があるのではないか」
「この一文の奥に、あの人の考えがあるのではないか」
と、勝手に探される。
俺を紙面から消すことは、俺を消すことではない。
むしろ、見えない場所に置くことで、勝手な偶像を作る余地を与えることでもある。
この人は、俺を記事にしなかった。
だが、余白に置いた。
「余白にも置かないでください」
「努力します」
努力。
信用しづらい言葉だ。
オスカー先輩は、最後に一部の新聞を差し出した。
「保存用にどうぞ」
「いりません」
即答した。
オスカー先輩は楽しそうに笑った。
「でしょうね」
そして、その新聞をクラウスへ渡した。
「ヴェルナー君、君なら持っていても燃えにくいでしょう」
クラウスは、いつの間にか横にいた。
本当に、どこから現れるのか。
「僕を耐火箱みたいに扱わないでください」
「近い役割では?」
「否定しづらいですね」
クラウスは新聞を受け取った。
軽く持っている。
たった紙一枚なのに、俺が持てば重い。
クラウスが持つと、少しだけ軽く見える。
「君は本当に便利ですね」
俺が言うと、クラウスは肩をすくめた。
「褒め言葉として受け取っておくよ」
「褒めたつもりはありません」
「知っている」
クラウスは新聞を折りたたみながら言った。
「重い言葉をそのまま持つと、持った人間まで燃える。僕くらいの軽さで持つ方が、たぶん安全なんだ」
その声は、冗談めかしていた。
だが、目は笑っていなかった。
彼は自分の軽さを分かっている。
子爵家三男。
中心には立たない。
だが、端から端へ言葉を運ぶにはちょうどいい。
「クラウス様は、それでよろしいのですか」
俺が聞くと、彼は少しだけ笑った。
「僕はね、使われること自体は嫌いじゃないんだ」
意外な答えだった。
「使われ方を選べるなら」
その一言で、クラウスという人間が少し見えた気がした。
クラウスは、折りたたんだ新聞を軽く持ち上げた。
「君の言葉は、そのままだと重すぎるんだよ。誰が持っても、持った人間の立場まで燃える」
「私は発火物ですか」
「近いね」
笑っているのに、目は笑っていなかった。
「だから、僕がただの事務的な書類みたいに薄めて運ぶ。熱を少し逃がして、燃えない場所まで持っていく」
その言い方は軽かった。
だが、軽く言うために、彼が自分の重さを削っているようにも見えた。
クラウス・ヴェルナーは、自分が中心になれない立場を知っている。
だからこそ、中心に置かれると燃えるものを、端へ運ぶ術を知っている。
俺は少しだけ、この人を共犯者のように思った。
「僕の軽さは、僕の武器だよ」
クラウスは言った。
「重すぎる君の言葉を運ぶには、ちょうどいい」
「やはり褒められている気がしません」
「褒めているよ。半分くらいは」
半分。
十分だ。
たぶん。
昼前には、記事の影響が出始めていた。
古代史研究会の案内文が、掲示板の端に貼り出されている。
『見学のみ歓迎。途中退出可能。返信なしでも不利益はありません。興味のある方だけ、どうぞ』
エルマー先輩の案内文だ。
以前より柔らかい。
距離がある。
でも、昨日見た時より少しだけ温度が戻っている気がした。
その下に、小さな手書きの追記がある。
『質問だけでも歓迎します。古代文字は、最初の一文字だけでも面白いです。』
少し笑った。
エルマー先輩らしい。
熱を完全には消していない。
断れる余地を残しながら、自分の好きなものへの熱も残している。
それは、たぶん良い形だ。
良い形なのに、胸が痛い。
俺の言葉が関わっている。
そう思うだけで、少し苦しい。
別の掲示板には、剣術訓練会の案内も出ていた。
筆跡からして、ギルバートではない。
だが、文面が妙に不器用だった。
『参加自由。断ってよい。途中退出もよい。無理に来る必要はない。ただし、来るなら真面目にやれ。』
誰だ。
いや、ギルバートだ。
たぶんギルバートだ。
名前はないが、あまりにもギルバートだった。
俺は思わず額を押さえた。
「何だ」
隣にいた本人が言う。
「これ、レイヴン様ですか」
「そうだ」
「匿名性がありません」
「名前は書いていない」
「文体で分かります」
ギルバートは少し考えた。
「難しいな、匿名」
「本当に」
だが、少しだけ笑ってしまった。
ギルバートは真剣にやっている。
自分の立場で誘い、自分の言葉で断れる余地を残している。
不器用だが、嘘はない。
その不器用さが、少し救いだった。
午後、学生自治会から短い連絡が来た。
『本日放課後、匿名性に関する補足運用を各研究会・同好会へ共有する。
出席不要。
意見不要。
レオンハルト・ヴァイス』
出席不要。
意見不要。
いい言葉だ。
とてもいい言葉のはずだ。
それなのに、胸の奥が少しざわついた。
俺がいなくても進む。
俺の意見はもう不要。
内部基準として整理され、学生自治会が共有する。
これ以上ないほど理想的だ。
俺は自由になったはずだ。
なのに、胸の奥にまた小さな空洞ができる。
必要とされたくない。
必要とされないと寂しい。
その感情が、また顔を出しかけた。
駄目だ。
これは依存だ。
居場所を求めるな。
必要とされることを、存在の証明にするな。
前世で何度も、それで逃げ道を失った。
「君なら分かってくれるよね」
「君にしか頼めない」
「君がいてくれないと困る」
そう言われるたびに、俺は自分の輪郭を少しずつ相手に渡してしまった。
必要とされることは、甘い。
甘いから危険だ。
俺は深く息を吐いた。
その時、セシリア嬢が近づいてきた。
「アルバート様」
「はい」
「今日は利用しません」
「それは助かります」
「ただ、観察はします」
「それは助かりません」
セシリア嬢は、ほんの少しだけ微笑んだ。
「必要とされなくて寂しそうなお顔をしていらっしゃいました」
やめてほしい。
見抜かないでほしい。
「そのような顔はしていません」
「そうですか」
「はい」
「では、そういうことにしておきます」
この人は、追及しない。
それがありがたい。
そして、少しだけ怖い。
追及しないこともまた、理解の形だからだ。
「私は」
言いかけて、止まった。
セシリア嬢は待っている。
待たれると、言葉が逃げにくい。
「私は、必要とされたくないのです」
「はい」
「でも、必要とされないと、少しだけ不安になる」
言った。
言ってしまった。
セシリア嬢は、驚かなかった。
「それは、自然なことだと思います」
「自然にしないでください」
「では、不自然ということにしますか」
「それも嫌です」
セシリア嬢は少しだけ目を伏せた。
「では、今は名前をつけないでおきましょう」
その言葉に、少しだけ呼吸が楽になった。
名前をつけない。
分類しない。
解釈しない。
ただ、そこに置いておく。
それは、優しさだった。
だが同時に、少しだけ恐ろしかった。
彼女は、俺が自分に絶望する権利すらも、優しく奪っていく。
「これは依存だ」
「これは弱さだ」
「これは失敗だ」
そう決めつけて、自分を罰する逃げ道を、彼女は静かに塞ぐ。
責めないことも、時に逃げ場をなくすのだと知った。
「ありがとうございます」
「利用価値のある観察でしたので」
「そういうことにしておきます」
俺は少しだけ笑った。
完璧ではない笑い方で。
放課後、匿名性の補足運用は各研究会・同好会へ共有された。
俺は出席しなかった。
代わりに、クラウスが戻ってきて報告してくれた。
「大きな反発はなかったよ」
「そうですか」
「ただ、オスカー先輩が少し楽しそうだった」
「それは不穏です」
「うん。不穏だった」
クラウスは新聞を机に置いた。
保存用にいらないと言ったのに、結局ここへ来た。
「持って帰ってください」
「僕が持つより、君の部屋に置いた方が安全かなと思って」
「なぜですか」
「君が嫌がって開かないから」
理屈は分かる。
納得はしたくない。
ギルバートが遅れてやってきた。
手には茶器。
嫌な予感がする。
「茶を淹れる」
「まだ頼んでいません」
「俺の立場で淹れる」
「その理論、継続するのですか」
「する」
ギルバートは真顔だった。
「俺が淹れる茶だ。濃さは俺が決める」
「それは横暴では」
「これは、親愛の茶ではない」
ギルバートは真顔で言った。
「では何ですか」
「レイヴン家による外交的な圧力だ」
「茶で?」
「茶で」
意味が分からない。
ギルバートは、当然のように続けた。
「俺が勝手に淹れ、俺が勝手に濃くし、俺の責任でお前に飲ませる。だから、お前は気負わず飲め」
「それは理屈として成立していますか」
「している。文句があるなら、アルバートではなくレイヴン家に言え」
友情。
親愛。
心配。
そういう言葉を使われると、俺は重くなる。
だが、レイヴン家による外交的な圧力と言われると、なぜか少しだけ飲みやすかった。
この人は、たぶん気づいている。
俺が好意を好意のまま受け取れないことに。
だから、家名という公的な鎧を着せて、茶を差し出している。
茶の濃さで。
本当に、意味は分からない。
だが、ありがたいと思ってしまった。
「分かりました。では、レイヴン家に苦情を入れる覚悟でいただきます」
「よし」
よし、ではない。
ギルバートが淹れた茶は、やはり濃かった。
ただ、不思議と悪くはなかった。
俺の母の茶葉が強いのか。
ギルバートの謎の覚悟が強いのか。
どちらかは分からない。
クラウスが小声で言う。
「今のは、新しい解決法なのかな」
「たぶん違います」
セシリア嬢が、ほんの少しだけ笑った。
ニールも笑った。
部屋の空気が、少し緩んだ。
夜。
机の上には、今日の新聞と、レオンハルト会長からの文面と、クラウスが持ってきた補足運用の写しが並んでいた。
並べたくないのに、並んでいる。
『逃げ道は誰のためにあるのか』
『匿名性に関する補足運用』
『出席不要。意見不要。』
どれも、俺を少し楽にするためのものだった。
どれも、俺の平穏を少しずつ遠ざけるものでもあった。
問題は解決した。
匿名座談会の記事は良い形でまとまった。
各研究会も、誘い方を見直し始めた。
ギルバートは、匿名性の難しさを少し学んだ。
クラウスは、軽さを武器に言葉を運んだ。
セシリア嬢は、名前をつけずに感情を置いてくれた。
全部、悪くない。
むしろ、かなり良い。
だが、俺の平穏はまた死んだ。
俺が逃げるために置いた言葉は、また正解として回収された。
見えない場所で、制度になった。
見える鎖より、見えない鎖の方が外しにくい。
俺は濃い茶を飲んだ。
やはり濃い。
だが、今日は少しだけ、その濃さがありがたかった。
その時、扉の下からまた紙が差し込まれた。
俺は動きを止めた。
本当に、扉の下という仕組みを禁止してほしい。
恐る恐る拾う。
差出人は学生自治会。
『次回議題予告。
各研究会・同好会・上級生主催行事における、誘い方の標準文案について。
希望者のみ傍聴可。
発言不要。
欠席理由不要。
レオンハルト・ヴァイス』
俺は紙を見つめた。
標準文案。
つまり、テンプレートだ。
誘い方の正解が作られる。
断れる余地のある誘い方。
匿名性への配慮。
撤回可能。
不利益なし。
全部、正しい。
正しいからこそ、また残る。
俺は茶を見た。
濃い茶が、もう半分になっていた。
レイヴン家嫡男の茶は、濃すぎる。
だが、今夜だけは少し足りないかもしれない。
たぶん。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、匿名座談会の記事が公開された後のお話でした。
名前を隠しても、文脈は残る。
不在であっても、存在感は残る。
リオネルにとっては、表に出ないことすらも「編集」されてしまう回でした。
リオネルの言葉は、またしても学生自治会の内部基準となり、見えない場所で制度になっていきます。
クラウスは「軽さ」を武器に言葉を運び、ギルバートは茶の濃さで謎の覚悟を示し、セシリアはリオネルの寂しさに名前をつけずに置いてくれました。
逃げたいのに、逃げるための言葉が次々と正解として回収されていくリオネルを、ブックマークや評価で見守っていただけると嬉しいです。




