第19話 凡庸な男爵家次男は、完璧な逃げ道を信用できない
前回まで:
断る権利が「断らなければならない義務」になりかけたことで、リオネルはまた善意の扱いに苦しみました。
ギルバートは自分の立場で発言し、ニールは参加する自由も怖いと語り、セシリアは「利用」という形で距離を保ちます。
そして最後に、ユリウスから手紙が届きました。
主な登場人物:
リオネル・アルバート……男爵家次男。逃げたいのに、逃げ道ごと整えられている。
ユリウス・クラインベルク……侯爵家嫡男。悪意なく、人を正しい場所へ導こうとする。
ギルバート・レイヴン……伯爵家嫡男。リオネルの沈黙を守ろうとする友人。
クラウス・ヴェルナー……子爵家三男。政治的な構図を読む参謀役。
セシリア・グランベル……侯爵令嬢。リオネルを好意ではなく「利用」という形で支える。
レオンハルト・ヴァイス……生徒会長。制度の外側からリオネルの影響を見ている。
ユリウス先輩からの手紙は、短かった。
短いのに、重かった。
『君の拒絶を尊重するための条件を、こちらで整えた。
その上で、一度だけ話がしたい。
断る理由は不要だ。
ユリウス・クラインベルク』
俺は、机の上に置いたその紙を何度も見た。
何度見ても、文面は変わらない。
悪意はない。
命令でもない。
呼び出しでもない。
逃げ道はある。
断る理由もいらない。
返事をしなくても、おそらく責められない。
完璧だった。
完璧に配慮されていた。
だからこそ、断りづらい。
雑な命令なら断れた。
権力を笠に着た呼び出しなら、警戒できた。
上級生としての圧をかけてきたなら、ギルバートやクラウスに相談して、自治会へ持ち込むこともできた。
だがこれは違う。
ユリウス先輩は、俺が嫌がるものを一つずつ取り除いている。
理由を求めない。
出席を強制しない。
立場を固定しない。
断る余地を残す。
拒絶を尊重された結果、拒絶する理由が奪われた。
逃げ道はある。
あるのに、逃げにくい。
これが一番怖い。
ユリウス先輩は、俺の「逃げたい」という本能すら、理屈で塗りつぶしてくる。
俺は机の上の茶を見た。
昨夜、多めに淹れた母の茶葉は、もう冷めていた。
冷めた茶は、少し苦い。
今の俺にはちょうどよかった。
翌朝。
俺は手紙を鞄に入れたまま、教室へ向かった。
見せるつもりはなかった。
だが、隠すつもりもなかった。
そして、隠すつもりがない時ほど、周囲にはなぜかばれる。
「アルバート」
ギルバートが俺を見るなり言った。
「顔色が悪い」
最近、最初の挨拶がそれになっている。
よくない。
「おはようございます、レイヴン様」
「顔色が悪い」
「挨拶を返してください」
「おはよう。顔色が悪い」
一応、返してはくれた。
改善なのかどうかは分からない。
クラウスが横から言った。
「何か届いたね」
「なぜ分かるのですか」
「君が鞄を触る頻度がいつもより多い」
怖い。
この人は本当に、観察の方向を間違えている。
「また封書か」
ギルバートの表情が硬くなる。
「差出人は」
俺は少し迷った。
言わない選択もある。
だが、言わないことで勝手に守られるのも、また火種になる。
最近それを嫌というほど学んだ。
「クラインベルク様です」
空気が、ほんの少し変わった。
ギルバートの眉間に皺が寄る。
クラウスは静かに目を細めた。
「ユリウス様か」
「はい」
「内容は?」
聞かれて、俺は返答に詰まった。
内容。
内容は、ある。
だが、ここでそのまま読むと、また別の意味がつく。
ギルバートは怒るだろう。
クラウスは分析するだろう。
俺は二人に守られるだろう。
そして周囲からは、また「レイヴン家とヴェルナー家がアルバートを囲っている」と見られる。
本当に、何をしても面倒だ。
俺は鞄から手紙を取り出し、二人に渡した。
「読んでください。ただし、私の代わりに怒らないでください」
ギルバートは少しだけむっとした。
「怒るかどうかは内容による」
やめてほしい。
それは俺の台詞だ。
だが、今それを言う余力はなかった。
ギルバートとクラウスは手紙を読んだ。
ギルバートは黙った。
クラウスも黙った。
この沈黙はあまり良くない沈黙だ。
「……丁寧だな」
ギルバートが言った。
「はい」
「だから腹が立つ」
正直である。
クラウスは手紙を返しながら言った。
「非常に厄介だね。君の拒絶の条件を、かなり正確に学習している」
「学習」
「うん。ユリウス様は、君の嫌がる圧を取り除いている。だが、取り除いた結果、君が断りづらくなるところまでは、おそらく分かっている」
分かっている。
やはり、分かっている。
「悪意ではない」
クラウスは続けた。
「だから厄介だ」
ギルバートが手紙を睨む。
「俺も行く」
「だめです」
即答した。
ギルバートが驚いた顔をする。
「なぜだ」
「レイヴン様が同席すると、また意味がつきます」
ギルバートは言葉を失った。
俺は続けた。
「レイヴン家がアルバートを守っている。クラインベルク家とレイヴン家が、男爵家次男を巡って牽制している。そう見られます」
「……そうか」
ギルバートは、悔しそうに拳を握った。
「では、俺は何もできないのか」
その声が少し痛かった。
彼は守りたいのだ。
だが、守ろうとするだけで色がつく。
そのことを、彼自身も学び始めている。
「何もできないわけではありません」
俺は言った。
「私が戻ってきた時、茶を勧めてください」
ギルバートは真剣に頷いた。
「分かった」
本当に真剣に頷いた。
それでいいのか。
いや、今はそれでいい。
たぶん。
クラウスが少し笑った。
「私は?」
「状況を分析しすぎず、必要な時だけ教えてください」
「難しい注文だね」
「レイヴン様の“余計なことを言わない”よりは簡単かと」
「否定しづらいな」
ギルバートが不満そうにこちらを見た。
少しだけ空気が緩んだ。
その時、セシリア嬢が教室の入口からこちらへ歩いてきた。
彼女は俺の表情を見て、すぐに何かを察したらしい。
本当にこの人は察しがいい。
「クラインベルク様ですか」
「なぜ分かるのですか」
「今のアルバート様は、光を見た時の顔をしていらっしゃいます」
俺は少し黙った。
光。
眩しすぎるもの。
照らされると、逃げ場が消えるもの。
「手紙が来ました」
俺は短く説明した。
セシリア嬢は聞き終えると、静かに言った。
「同席は必要ですか」
ギルバートがすぐに反応した。
「必要なら俺が」
「必要ありません」
俺は二人を止めた。
セシリア嬢は、少しだけ目を伏せた。
「そうですか」
「はい」
「では、利用されてきてください」
その言い方に、少しだけ息が楽になった。
「ひどい言い方ですね」
「私が同席しない理由を、あなたのためとは言わないためです」
セシリア嬢は静かに言った。
「私は、あなたが戻ってきた後に、その情報を利用します」
「それなら、まだ安心できます」
「では、そういうことで」
セシリア嬢は、それだけ言って視線を外した。
冷たい言葉だった。
だから、俺は少しだけ息ができた。
ただ、彼女が踵を返した時、手袋に包まれた指が一瞬だけ強く握られていた。
俺はそれに気づかなかったふりをした。
気づけば、また何かを受け取らなければならない気がしたからだ。
昼休み。
ユリウス先輩との面会場所は、学院中庭の東屋だった。
密室ではない。
人目はある。
だが、人の声が届きすぎるほど近くもない。
逃げようと思えば逃げられる。
立ち話でも済ませられる。
茶会ではない。
席は二つだけ。
片方にユリウス先輩が座っていた。
完璧だ。
本当に、完璧に条件が整えられている。
俺は近づき、礼を取った。
「クラインベルク様」
「来てくれてありがとう、アルバート君」
ユリウス先輩は穏やかに微笑んだ。
その笑顔は、以前より少し控えめに見えた。
光を弱めている。
たぶん、意図的に。
それがまた怖い。
「断っても構わなかった」
「はい」
「理由も不要だった」
「はい」
「それでも来てくれた」
俺は少し沈黙した。
ここで「来ざるを得ませんでした」と言えば、相手を責めることになる。
だが、黙ればまた飲み込まれる。
「断る理由が見つかりませんでした」
俺は正直に言った。
ユリウス先輩の目が、わずかに揺れた。
「それは、配慮が足りなかったかな」
「いいえ」
俺は首を振った。
「配慮が完璧すぎました」
言ってから、少し胃が痛くなる。
ユリウス先輩は、しばらく俺を見た。
「なるほど」
その「なるほど」が嫌だ。
観察された気がする。
理解された気がする。
そして、理解されたものは次から対策される。
違う。
足りなかったのではない。
この人は、今、俺が「完璧すぎる配慮」に恐怖したことすら覚えた。
次はきっと、完璧すぎない配慮を用意してくる。
逃げ道を塞ぐのではなく、逃げ道の形を少しずつ変えながら、俺が逃げられない場所を探してくる。
誠実に。
丁寧に。
善意で。
それが、何より怖かった。
「座るかい」
「立ったままで構いません」
「もちろん」
すぐに引く。
本当に、すぐに引く。
こちらの拒絶を尊重している。
尊重されているから、余計に逃げ場がない。
「今日は、君を説得しに来たわけではない」
ユリウス先輩は言った。
「確認したいことがある」
「何でしょうか」
「私は、君を追い詰めているかな」
直球だった。
あまりにも直球で、一瞬答えられなかった。
ユリウス先輩は続ける。
「以前、君は“拒絶を才能にしないでください”と言った。あれから、考えた」
「はい」
「君は、自分の拒絶が役割になることを恐れている」
「……はい」
「そして私は、君の拒絶を見て、なおそれを制度や運用に活かそうとする」
分かっている。
この人は分かっている。
分かっていながら、やめるとは言わない。
「それは、君にとって暴力に近いのではないか」
風が通った。
東屋の外で、誰かの笑い声が遠くに聞こえる。
俺は、答えを探した。
暴力。
そう言われると強すぎる。
ユリウス先輩は俺を殴っていない。
命令もしていない。
むしろ配慮している。
尊重しようとしている。
だが、その配慮が、俺の逃げたい本能を囲んでいく。
「悪意がない分、逃げにくいです」
俺は言った。
ユリウス先輩は黙った。
「悪意なら、拒めます。命令なら、距離を取れます。失礼なら、失礼だと分かります」
俺は視線を落とさないようにした。
「でも、クラインベルク様は、私の嫌がるものを丁寧に取り除いてくださる」
「それは悪いことかな」
「悪くありません」
だから困る。
「悪くないから、逃げにくいのです」
ユリウス先輩は目を細めた。
「君は、本当に難しいね」
「自覚はあります」
「いや」
彼は少しだけ苦笑した。
「あきれているのではない。私が単純だったのだと思った」
それは意外だった。
ユリウス先輩が、自分を単純と言うとは思わなかった。
「私はこれまで、相手が嫌がる理由を取り除けば、話し合えると思っていた」
「普通はそうだと思います」
「だが、君の場合は違う」
彼は静かに言った。
「理由を取り除くこと自体が、君の拒絶を追い詰める」
正確すぎて、胃が痛い。
「はい」
ようやく、それだけ答えた。
ユリウス先輩は少しだけ空を見た。
「それでも、私は君と話したい」
来た。
本題だ。
「なぜですか」
「君の視点は、学院に必要だから」
また必要。
必要という言葉は、俺にとってかなり危険な単語になりつつある。
表情に出たのか、ユリウス先輩はすぐに言い直した。
「いや。言い方が悪いね」
彼は少し考えた。
「君を必要だと言うと、君自身を消費することになる」
「はい」
「では、こう言おう。君の見ている痛みを、私はまだ見落とす」
それは、少しだけ違った。
必要ではなく、見落とす。
自分の不足を認める言葉。
「私は、強者の側にいる。断ることの怖さを、知識としては理解しても、体感としては持たない」
ユリウス先輩は、俺を見た。
「だから、君が見ているものを知りたい」
俺は喉の奥が詰まった。
ずるい。
その言い方は、ずるい。
才能を使わせろではない。
導かせろでもない。
正しい場所へ置くでもない。
自分には見えないものを、知りたい。
そう言われると、断る理由がまた一つ消える。
「それを知って、どうされるのですか」
俺は聞いた。
「使う」
即答だった。
あまりに率直で、逆に少し息が楽になった。
「学院の運用に使う。派閥の暴走を止めるために使う。場合によっては、私自身の判断を修正するために使う」
ユリウス先輩は、穏やかな声で続ける。
「私は、君を利用したい」
その言葉は、セシリア嬢の「利用」と似ているようで、全く違った。
セシリア嬢の利用は、俺の負担を軽くするための冷たい布だった。
ユリウス先輩の利用は、もっと大きい。
政治的で、合理的で、逃げ場のある言葉の姿をした鎖だった。
「正直ですね」
「君には、曖昧に言う方が不誠実だと思った」
それは正しい。
正しい。
本当に正しい。
だからつらい。
「私は、利用されたくありません」
「だろうね」
ユリウス先輩は頷いた。
「だから、条件を考えた」
また条件。
俺は少しだけ身構えた。
ユリウス先輩は一枚の紙を取り出した。
「君に役職は与えない。会議への出席も求めない。返答義務もない。名前も出さない。発言の引用もしない。必要がある時だけ、私から質問を送る。君は答えなくていい。答える場合も、短文でいい。撤回も可能」
完璧だ。
あまりにも完璧だ。
吐き気がした。
「……それは」
俺は声を絞った。
「私専用の逃げ道ですか」
「そうとも言える」
「違います」
俺は思わず言った。
「それは、逃げ道ではありません」
ユリウス先輩が目を止める。
「では、何かな」
「私専用の窓口です」
言った瞬間、胃の奥が冷えた。
「名前がなくても、役職がなくても、私に向けて開かれた穴です。そこから、必要な時だけ私を見つけることができる」
風が止まったような気がした。
「私は制度に組み込まれていない。でも、制度の外側に私専用の通路ができる」
レオンハルト会長の言葉が脳裏をよぎる。
制度の外。
影響を見る。
運用する。
「それは、逃げ道ではありません。見えにくい入口です」
ユリウス先輩は、紙を見下ろした。
長い沈黙だった。
珍しく、本当に言葉を探しているように見えた。
「……そうか」
彼は静かに言った。
「私はまた、君を置こうとしていたのか」
置く。
その言葉に、胸が少し刺さる。
「はい」
俺は言った。
「たぶん」
ユリウス先輩は苦笑した。
今度の苦笑は、前より少し深かった。
「手強いね、君は」
「私は逃げたいだけです」
「そうだね」
「手強いのではなく、逃げ足が悪いだけです」
「逃げ足が悪い?」
「逃げたいのに、火を見ると足が止まります」
言ってから、失敗したと思った。
それは、俺の弱点だ。
ユリウス先輩は、それを聞き逃さない。
案の定、彼の目が少しだけ変わった。
「だから、君は逃げきれない」
「今のは忘れてください」
「忘れない」
即答だった。
最悪だ。
「ただし、使い方は考える」
「使わないでください」
「それは難しい」
本当に、率直すぎる。
「私は、見つけた価値を見なかったことにはできない」
ユリウス先輩は言った。
「君が火を見て足を止める人間なら、その火が何なのか知りたいと思ってしまう」
「それが、私には怖いのです」
「分かる」
「本当に?」
少し強く出てしまった。
だが、もう遅い。
「分かる、という言葉を簡単に使わないでください。分かると言われると、次に置かれる場所が決まる気がする」
ユリウス先輩は黙った。
俺は続けた。
「私を理解した上で、使わないでください」
それは、たぶん今日一番言いたかったことだった。
理解されることが怖い。
理解されれば、より正確に扱われる。
より正確に扱われることは、より逃げにくくなることだ。
前世でもそうだった。
俺の笑い方。
断り方。
曖昧な沈黙。
疲れている時の返事。
それを“分かっている”と言われるたびに、逃げ道が一つずつ塞がれていった。
「アルバート君」
ユリウス先輩の声は、少し低かった。
「私は、君を傷つけているね」
「はい」
言った。
言ってしまった。
ユリウス先輩が息を止めたのが分かった。
言った瞬間、胸の奥が嫌な音を立てた。
この人は、俺を傷つけようとしているわけではない。
高潔で、誠実で、自分の間違いを認めようとしている。
その人に向かって、俺は「あなたは私を傷つけている」と告げた。
それは必要な言葉だった。
けれど、必要なら何を言っても許されるのか。
俺の方が、よほど傲慢で残酷なのではないか。
そんな考えが、喉の奥に苦く残った。
「でも」
俺は続けた。
「あなたは、私を傷つけるために来ているわけではありません」
「そうだね」
「だから、余計に厄介です」
ユリウス先輩は、ゆっくりと紙を折った。
そして、懐にしまった。
「この案は取り下げる」
少しだけ、息が戻った。
「ありがとうございます」
「ただし」
来た。
「私は、君と話すことを諦めたわけではない」
やはり来た。
「そうでしょうね」
「次は、君専用の窓口を作らない」
「はい」
「君を置かない」
「できれば」
「だが、君が火を見て足を止めた時、その火を私も見る方法を考える」
結局、考えるのか。
この人は本当に諦めない。
「それは、また私を巻き込む話では」
「そうかもしれない」
「否定してください」
「嘘はつきたくない」
最悪だ。
誠実で、最悪だ。
「では、今日はここまでにしよう」
ユリウス先輩は立ち上がった。
「君は、十分に話した」
十分。
確かに十分だった。
俺の胃はもう限界に近い。
「最後に一つだけ」
まだあるのか。
俺は静かに身構えた。
ユリウス先輩は、いつもの光を少しだけ弱めた顔で言った。
「君は、自分の拒絶を守るために、人を傷つける覚悟を持ち始めている」
胸が冷えた。
「それは、強さだと思う」
「違います」
俺はすぐに否定した。
「私は、傷つけたくないだけです。でも、傷つけずに済む方法が分からない」
「なら、それを探すべきだ」
「また、そうやって正しい場所へ導こうとする」
ユリウス先輩は、一瞬だけ言葉を失った。
それから、苦笑した。
「本当に、手強い」
「逃げたいだけです」
「覚えておくよ」
その言葉に、俺は少しだけ警戒した。
覚えられると、次に使われる。
だが今のユリウス先輩の声は、以前より少しだけ人間らしかった。
完璧な正しさを持て余している声だった。
それでも油断はしない。
絶対にしない。
「では、失礼します」
俺は礼を取った。
逃げるように東屋を離れる。
いや、実際に逃げた。
背中にユリウス先輩の視線を感じた。
追っては来なかった。
そこだけは、ありがたかった。
教室へ戻る途中、ギルバートが廊下の端に立っていた。
本当に茶を用意していた。
小さな携帯用の茶筒まで持っている。
どこから持ってきたのか。
「終わったか」
「終わりました」
「茶は」
「飲みます」
即答だった。
ギルバートは満足そうに頷いた。
だが、すぐに真顔になる。
「殴る相手はいるか」
「いません」
「本当に?」
「本当に」
「ならいい」
良くはない。
だが、少しだけ笑ってしまった。
クラウスも横から現れる。
「どうだった?」
「完璧な逃げ道を提示されました」
「それはひどい」
クラウスはすぐに理解した。
「拒否したのかい」
「窓口にされるのは嫌だと伝えました」
「よく言えたね」
「言わないと、専用窓口ができそうだったので」
「それは言うべきだ」
セシリア嬢も、少し離れたところから歩いてきた。
「利用されましたか」
「されかけました」
「回避できましたか」
「一時的には」
「では、今日は十分です」
その言い方が、とてもセシリア嬢らしかった。
助かったとは言わない。
守れたとも言わない。
十分。
その程度が、今はちょうどいい。
「ただ」
俺は言った。
「ユリウス先輩は、諦めていません」
「でしょうね」
三人の声が、妙にそろった。
やめてほしい。
全員が分かっているのが怖い。
その日の夕方。
寮に戻ると、机の上には何もなかった。
封書はない。
手紙もない。
呼び出しもない。
久しぶりに、何もない机だった。
俺はしばらくそれを見た。
何もない。
素晴らしい。
何もないというのは、こんなに美しいものだったのか。
俺は母の茶葉を淹れた。
今日は、いつもより少し薄めにした。
濃い茶が必要な日だと思っていた。
だが、帰ってきた今は、少しだけ違う。
俺は、言えた。
私を理解した上で、使わないでください。
あれは、かなり危ない言葉だった。
侯爵家嫡男に向かって言う言葉ではない。
だが、言わなければ、俺専用の見えない入口が作られていた。
問題は解決した。
少なくとも、ユリウス先輩の案は取り下げられた。
俺は、専用窓口にされずに済んだ。
だが、俺の平穏はまた死んだ。
ユリウス先輩は諦めていない。
レオンハルト会長は俺の影響を見ている。
ギルバートは間違えながら守ろうとしている。
セシリア嬢は俺を利用すると言っている。
クラウスはたぶん全部面白がりながら胃に悪い分析をしている。
そして俺は、火を見ると足が止まる。
自分でそれを言ってしまった。
最悪だ。
自分の弱点を、ユリウス先輩に渡してしまった。
俺は茶を飲んだ。
薄い。
けれど、温かい。
今日は、少しだけ足りている。
そう思った時、窓の外で鐘が鳴った。
夕刻の鐘。
一日が終わる音。
何も起きないまま、今日は終わってほしい。
そう願った。
だが、扉の下から、一枚の紙が差し込まれた。
俺は動きを止めた。
嘘だろう。
今日はもう終わっていいはずだ。
恐る恐る紙を拾う。
それは、学院新聞同好会の号外予告だった。
『特集予定:逃げ道は誰のためにあるのか――匿名座談会開催へ』
俺は、紙を見つめた。
匿名。
その言葉は、一見やさしい。
名前を出さない。
誰かを特定しない。
発言者を守る。
だが、匿名だから安全だとは限らない。
名前がなくても、言葉には匂いが残る。
俺の言葉も。
俺の拒絶も。
俺の逃げ道も。
誰かの発言としてではなく、材料として切り分けられ、並べられ、見出しにされるかもしれない。
匿名。
座談会。
逃げ道。
誰のためにあるのか。
問題は解決した。
ユリウス先輩の案は取り下げられた。
でも、別の火種が来た。
新聞同好会。
オスカー先輩。
あの人は、火を消されたのではない。
火の向きを変える人だ。
俺は茶を見た。
今日は、少しだけ足りていると思った。
どうやら、気のせいだったらしい。
たぶん。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、ユリウスとの対峙回でした。
リオネルの拒絶を尊重し、断る理由も不要にし、逃げ道まで整えてくる。
悪意ではなく「完璧な善意」だからこそ、逃げ場がなくなる恐怖。
「私を理解した上で、使わないでください」
リオネルは必死の悲鳴で「専用窓口」にされることを拒みましたが、ユリウスはまだ諦めていません。
そして最後には、新聞同好会からの新たな火種。
逃げ道をめぐる話は、また別の方向へ広がっていきそうです。
逃げたいのに、逃げ道そのものが議題になってしまうリオネルを、ブックマークや評価で見守っていただけると嬉しいです。




