第18話 凡庸な男爵家次男は、善意の旗を降ろしたい
前回まで:
本人同意に関する議論の中で、リオネルは「私の名前で語らないでください」と告げました。
それは感謝の暴走に対する拒絶であり、自分という個を守るための悲鳴でした。
しかし、リオネルの拒絶はまた新しい指針となり、彼の言葉はますます学院内で意味を持ち始めます。
主な登場人物:
リオネル・アルバート……男爵家次男。誰にも好かれたくないが、言葉だけが勝手に歩き始めている。
ギルバート・レイヴン……伯爵家嫡男。リオネルの沈黙を守ろうとしているが、その守り方が政治的な意味を持ち始めている。
クラウス・ヴェルナー……子爵家三男。火種の構造を読む参謀役。
ニール・ロイド……平民出身の奨学生。自分の言葉で立とうとしている。
セシリア・グランベル……侯爵令嬢。リオネルを好意ではなく「利用」として支える距離感の持ち主。
エルマー・バルク……古代史研究会の上級生。熱心だが、その熱心さが火種になった。
レオンハルト・ヴァイス……生徒会長。制度の運用で線を引く人物。
翌朝、学院の掲示板には、昨日の議事要旨が正式に貼り出されていた。
『本人同意に関する暫定運用案』
一、同意は署名のみをもって成立したものとは扱わない。
一、断れる状態であったかを確認する。
一、取材者と同意確認者は可能な限り分ける。
一、掲載前の撤回を認める。
一、本人の同意なく、特定個人の思想・意見を代弁してはならない。
一、支援・勧誘そのものを禁じるものではなく、断れる余地を明示した誘い方を推奨する。
よくできている。
本当に、よくできている。
だから、嫌だった。
悪いものなら否定できる。
間違っているなら直せる。
だが、良いものは残る。
残って、人に読まれる。
読まれて、人の中で形を変える。
そしていつの間にか、俺の手の届かない場所で使われ始める。
掲示板の前では、数人の下級生が真剣な顔で文面を読んでいた。
その中に、昨日、俺の名前で語ろうとした少年もいる。
彼は今日は黙っていた。
だが、黙っているだけで、落ち着いているわけではなさそうだった。
胸元に何か紙を抱えている。
嫌な予感がした。
こういう時の嫌な予感は、だいたい当たる。
当たらなくていいのに、よく当たる。
「アルバート様」
少年がこちらに気づき、頭を下げた。
俺も礼を返す。
周囲の視線が動いた。
ギルバートが隣に立つ。
彼は今日も黙っている。
黙って、ただ隣にいる。
以前なら、その沈黙に少し安心しただろう。
今は、その沈黙に周囲が意味をつけているのが分かる。
レイヴン家嫡男が隣に立っている。
リオネル・アルバートは、レイヴン家の保護下にある。
そんな言葉になりかけている。
ギルバート本人は、たぶん俺の望み通りに動けていると思っている。
実際、間違ってはいない。
間違っていないから、苦しい。
少年は、手に持った紙を少しだけ持ち上げた。
「昨日のことを、皆で話し合いました」
「そうですか」
話し合うのは良いことだ。
自分の言葉で立つのは良いことだ。
そう思いたい。
だが、紙束を見るだけで胃が重い。
「アルバート様の名前は使いません」
少年は、先回りするように言った。
「昨日、そう言われましたから」
胸が痛んだ。
俺が傷つけた相手が、俺の言葉を守ろうとしている。
それは良いことのはずなのに、痛い。
「ですが、考え方は大切だと思うのです」
考え方。
便利な言葉だ。
名前を使わなくても、考え方なら使える。
本人の名前を掲げなくても、思想として持ち運べる。
「それで、私たちは決めました」
少年の横にいた令嬢が続けた。
「今週の上級生主催の茶会や研究会は、いったん全て辞退しようと」
息が止まった。
「すべて、ですか」
「はい」
令嬢は不安そうに、それでも真剣に頷いた。
「本当に断れるのか、自分たちで試してみようと思ったのです」
別の下級生が言う。
「これまでは、誘われたら行くしかないと思っていました。でも、断るための理由はいらないと知りました。だから、まず断ってみるべきだと」
違う。
そうではない。
断るための理由はいらない。
それは、行きたくない時に断れるための言葉だ。
行きたいものまで断るための合図ではない。
断る権利は、断る義務ではない。
俺はそう言おうとした。
だが、その瞬間、ギルバートが低く言った。
「アルバートは、そんなことを望んでいない」
少年たちの顔が強張った。
周囲の視線が、いっせいにギルバートへ向く。
レイヴン家嫡男が、リオネルの意志を語った。
その形になった。
ギルバートは俺を守ろうとした。
彼は本当に、ただ俺の名前が使われるのを止めようとした。
だが、今の一言でまた意味が増えた。
アルバート本人は語らない。
代わりにレイヴン家が語る。
レイヴン家がアルバートの意思を保証する。
最悪だ。
「レイヴン様がそうおっしゃるなら……」
少年が小さく言った。
その声には、怯えが混じっていた。
ギルバートの顔がわずかに変わる。
彼も今、気づいたのだろう。
自分の言葉が、ただの友人の言葉では済まないことに。
俺は胸の奥を押さえたい気持ちをこらえ、口を開いた。
「レイヴン様の言葉として受け取らないでください」
全員がこちらを見る。
ギルバートも、驚いたように俺を見た。
申し訳ない。
でも、ここで言わなければならない。
「今のは、私を守ろうとしてくださった言葉です。ですが、私の意思を代弁するものではありません」
ギルバートの表情が一瞬、痛そうに歪んだ。
それを見るのがつらい。
彼は悪くない。
悪くないのに、俺は今、彼の守り方を否定した。
「アルバート……」
「すみません」
俺は小さく言った。
それから、下級生たちへ向き直る。
「断る権利は、断らなければならない義務ではありません」
声が少し震えた。
だが、止めなかった。
「行きたいなら、行っていいのです。学びたいなら、学んでいい。誘われて嬉しいなら、その気持ちまで疑わなくていい」
令嬢が戸惑ったように言う。
「でも、それでは、また断れない空気が戻るのでは」
「戻さないための指針です」
俺は言った。
「けれど、全てを拒むための旗ではありません」
旗。
またその言葉を使っている。
嫌になる。
俺はどれだけ旗が嫌いなのか。
いや、嫌いなのは旗ではない。
人を旗にすることだ。
「あなた方が本当に行きたくないなら、断ってください。でも、私の考えを守るために断るのなら、それは違います」
少年が紙束を握りしめる。
「では、これは」
「あなたの言葉で書いたものなら、あなたのものです」
俺は紙束を見た。
「でも、そこに私の名前や、私の指針という意味が混じっているなら、使わないでください」
言いながら、自分でも分かっていた。
また傷つけている。
彼らは一生懸命考えたのだろう。
自分たちなりに、昨日のことを受け止めて。
その結果を、俺は否定している。
自分の名前を守るために。
少年は少し黙った。
それから、ゆっくり紙束を胸元へ下ろした。
「……考え直します」
「はい」
「自分の言葉にします」
「それがいいと思います」
少年は頭を下げた。
令嬢たちも、それに続く。
彼らは去っていった。
背中は小さかった。
昨日よりも小さく見えた。
俺はまた、誰かを傷つけた。
「今のは必要だった」
クラウスが言った。
いつの間にか来ていたらしい。
相変わらず、面倒な場面に現れるのがうまい。
「必要だったとしても、痛くないわけではありません」
「だろうね」
クラウスは否定しなかった。
その方が、少しだけ楽だった。
ギルバートは黙っていた。
いつものように前を向いていない。
俺の横で、少し視線を落としている。
「レイヴン様」
俺が声をかけると、彼は短く答えた。
「悪かった」
「違います」
「いや、悪かった」
ギルバートは拳を握っていた。
「俺は、お前の沈黙を守ったつもりだった」
「はい」
「だが、俺が話すと、お前の沈黙に俺の家の色がつく」
その通りだった。
だが、本人の口から聞くと胸が痛い。
「難しいな」
ギルバートは低く言った。
「黙っても意味がつく。話しても意味がつく」
「はい」
「では、どう守ればいい」
分からない。
俺にも分からない。
守られたいのかすら、分からない。
ただ、彼の問いが本物であることだけは分かった。
「たぶん」
俺は言葉を探した。
「毎回、間違えながら考えるしかないのだと思います」
ギルバートはしばらく黙っていた。
それから、何かを決めたように頷いた。
「分かった。間違えながらでも、考える」
その目は、妙に決然としていた。
俺は、少しだけ胃が重くなった。
この人はたぶん、また余計な覚悟を固めた。
しかも、それが俺のためだと信じている。
とてもありがたい。
そして、とても怖い。
「それは、かなり難しいと思います」
俺はそう返すのが精一杯だった。
「だが、やる」
彼はそう言った。
その言葉は重かった。
期待の鎖ではなく、隣に置かれた石のような重さだった。
動かない。
だが、こちらを縛るためではない。
俺は小さく頷いた。
「ありがとうございます」
ギルバートは少しだけ救われたような顔をした。
その顔を見て、また少し怖くなる。
俺の言葉ひとつで、この人の表情が変わる。
関係とは、どうしてこんなに面倒なのか。
その日の昼前、古代史研究会の部屋の前を通りかかった。
通りかかった、というのは嘘かもしれない。
気になっていた。
エルマー先輩の言葉が、ずっと引っかかっていたからだ。
新指針が出てから、研究会に来なくなった下級生がいる。
誘われることで、初めて入れる子もいる。
その言葉が、胸の奥に残っていた。
研究会の部屋の扉は開いていた。
中では、エルマー先輩が一人で資料を整理していた。
机の上には、丁寧に写された古代文字の写本。
新入生向けに噛み砕かれた解説書。
茶菓子まで用意されている。
だが、椅子は空いていた。
いくつも。
俺は扉の前で足を止めた。
入るべきではない。
ここで声をかければ、また何かになる。
だが、見てしまった。
見なければよかった。
見てしまった以上、胸の奥がざわつく。
エルマー先輩がこちらに気づいた。
「ああ、アルバート君」
穏やかな声だった。
責める色はない。
だから、余計に痛い。
「失礼しました。通りがかっただけです」
「構わないよ」
彼は少し笑った。
「今日は静かだろう?」
俺は答えられなかった。
エルマー先輩は、机の上の資料を軽く整えながら言った。
「本当は、今日来る予定だった一年生が三人いたんだ。でも、しばらく様子を見たいと連絡があってね」
「……申し訳ありません」
口から出ていた。
エルマー先輩は目を丸くした。
「なぜ君が謝るんだい」
なぜ。
そう聞かれると困る。
俺のせいだと思ったからだ。
俺が余計なことを言ったから。
俺が断れる構造なんて言ったから。
俺が本人同意なんて話に関わったから。
「私の言葉が、研究会の活動を萎縮させたのではないかと」
エルマー先輩は少し困ったように笑った。
「違うよ」
「ですが」
「違う」
今度は、少しだけ強かった。
エルマー先輩は資料を置き、俺を見た。
「私の誘い方が、彼らにとって断りにくかったのだと思う。君の言葉がなければ、それに気づかなかった」
それは、感謝の言葉だった。
まただ。
やめてほしい。
感謝されると、逃げ場がなくなる。
「でも」
エルマー先輩は続けた。
「正直に言うと、少し寂しい」
胸が詰まった。
「学ぶ場を開いているつもりだった。喜んでもらえると思っていた。でも、もしかすると私は、自分が教えたい気持ちを優先していたのかもしれない」
「そんなことは」
「あるよ」
彼は苦笑した。
「熱心さも、相手が受け取れなければ圧になる。今回、身に沁みた」
俺は何も言えなかった。
「だから、次からはこう書くつもりだ」
エルマー先輩は一枚の紙を見せた。
そこには、研究会の案内文が書かれていた。
『参加は自由です。見学のみ、途中退出、次回以降の辞退も可能です。返信がない場合も不利益はありません。興味がある方だけ、気軽にどうぞ。』
丁寧だ。
とても丁寧だ。
そして、少しだけ寂しい。
以前より距離がある。
安全になった。
その代わり、熱が少しだけ薄くなった気がした。
「良い案内文だと思います」
俺が言うと、エルマー先輩は笑った。
「ありがとう」
また感謝だ。
俺は、感謝されるたびに少しずつ削られていく気がした。
「君は、少し顔色が悪いね」
「そうでしょうか」
「そうだね。茶を飲むといい」
最近、誰も彼も茶を勧めてくる。
俺はそんなに茶で保っているように見えるのだろうか。
たぶん見えるのだろう。
「ありがとうございます」
俺は礼をして、その場を離れた。
廊下に出ると、胸の奥がひどく重かった。
指針は悪くない。
エルマー先輩も悪くない。
下級生たちも悪くない。
誰も悪くない。
それなのに、何かが少しずつ変わっている。
誰かが守られるたびに、誰かが遠慮する。
誰かの逃げ道ができるたびに、誰かの入口が狭くなる。
俺は何をしているのだろう。
見たくないものから逃げるために言葉を置いた。
その言葉が、別の誰かの道を変えている。
午後。
学生自治会から呼び出しがあった。
またか。
もう驚かなくなっている自分が嫌だ。
呼び出し文には、こうあった。
『本人同意の暫定運用に関し、下級生側から共同辞退の動きがあるとの報告あり。
支援・勧誘そのものを萎縮させないための補足文を検討する。
傍聴は任意。
レオンハルト・ヴァイス』
共同辞退。
やはり、あの紙束だ。
俺は封書を見つめた。
行きたくない。
本当に行きたくない。
だが、行かなければ、また誰かが俺の名前で語るかもしれない。
いや、名前はもう使わないかもしれない。
だが、考え方として使われる。
思想として持ち運ばれる。
名前がなくても、俺の輪郭は残る。
「行くのか」
ギルバートが尋ねた。
「行かないと、また燃えそうです」
「俺も行く」
少し間があった。
ギルバートは続けた。
「ただし、今日はお前の代わりには話さない」
「はい」
「俺の立場で話す」
その言葉に、少しだけ驚いた。
俺のためではなく、自分の立場で。
それは、昨日の俺が言ったことに近い。
自分の言葉で話せ。
ギルバートもまた、それを受け取ったのかもしれない。
「お願いします」
俺が言うと、ギルバートは頷いた。
今度は、誇らしげではなかった。
少し怖がっている顔だった。
その方が、ずっと安心した。
自治会室には、いつもの面々がいた。
マティアス先輩。
レオンハルト会長。
クラウス。
セシリア嬢。
ニール。
エルマー先輩。
ローレンス先輩。
そして、数人の下級生代表。
下級生代表。
その言葉だけで、胃が痛い。
彼らは代表になりたかったのだろうか。
それとも、周囲に押し出されたのだろうか。
もう、それを考えるだけで疲れる。
レオンハルト会長が口を開いた。
「今日の議題は一つだ。断る権利を、断る義務にしないための補足運用」
的確すぎる。
まるで、俺の胸の中をそのまま言葉にされたようだった。
怖い。
この人は本当に怖い。
ローレンス先輩が腕を組む。
「上級生側としては、現在の流れに懸念があります。研究会や茶会の誘いが、すべて圧力のように扱われかねない」
エルマー先輩は静かに頷いた。
下級生側の少年が、少し強張った顔で言う。
「ですが、私たちは断る練習をしたいのです」
「練習は必要だ」
レオンハルト会長が言った。
「だが、全員で一斉に断ることは、練習ではなく運動になる」
少年が息を呑む。
「運動には旗が必要になる。そして旗になった言葉は、また誰かを縛る」
俺は、手を握った。
まただ。
俺の話だ。
俺の名前で語られること。
俺の拒絶が旗になること。
レオンハルト会長は、こちらを見なかった。
見なかったまま、続ける。
「断る権利は、個人に戻す。集団で持ち運ぶものではない」
マティアス先輩が書き取る。
クラウスが補足した。
「全員辞退、全員参加、どちらも危険です。大切なのは、個別に選べることです」
セシリア嬢が続ける。
「誰かと同じ選択をしない自由も、守られるべきです」
ニールが、静かに言った。
「私は、断れるようになりたいです。でも、学びたいと思った時に、周りから“なぜ行くのか”と責められるのも怖いです」
その言葉は、まっすぐだった。
断ることだけではない。
参加することもまた、守られなければならない。
リオネルの中で、何かが少しだけほどけた。
そうだ。
それを言えばよかった。
俺ではなく、ニールが言ってくれた。
それでいい。
いや、それがいい。
ギルバートが手を挙げた。
部屋の空気が少し硬くなる。
彼自身もそれを感じたのか、一度だけ息を吸った。
「俺は、誘う側の立場もあると思う」
意外だった。
ギルバートが上級生側を気遣うとは思わなかった。
「俺が誰かを訓練に誘う時、それは相手を見込んでのこともある。断られるのは構わない。だが、誘っただけで圧力だと言われれば、次から誰も誘えなくなる」
レイヴン家嫡男の言葉だ。
重い。
だが今回は、俺の代弁ではない。
彼自身の言葉だった。
「だから」
ギルバートは少し言葉を探した。
「断る側だけでなく、誘う側も、相手が断れるように誘う技術を学ぶべきだと思う」
部屋が静かになった。
俺はギルバートを見た。
彼は少し耳が赤かった。
慣れないことを言った顔だ。
クラウスが微かに笑う。
「良い意見です」
ギルバートが少しだけむっとした。
「なぜお前に言われると腹が立つ」
「照れ隠しですね」
「違う」
場の空気が少し緩んだ。
レオンハルト会長が頷いた。
「補足文に入れよう。支援・勧誘を行う側にも、断れる余地を残す誘い方を求める。断る側には、参加する自由も同等に認める」
また制度になる。
だが、今度は少し違った。
俺が言ったわけではない。
ニールが言った。
セシリア嬢が言った。
クラウスが整えた。
ギルバートが、自分の立場で言った。
俺は黙っていた。
黙っていても、会議は進んだ。
それは救いのはずだった。
なのに、どこか寂しくもあった。
人間とは本当に面倒だ。
必要とされたくないのに、必要とされないと少し不安になる。
そんな自分が嫌になる。
会議が終わった後、レオンハルト会長が俺に声をかけた。
「アルバート」
「はい」
「今日は発言しなかったな」
「はい」
「悪くない」
褒められたのだろうか。
分からない。
「君が黙ることで、他の者が考える余地が生まれた」
それは、たぶん救いだ。
だが同時に、ひどく怖い言葉でもあった。
黙ることまで、運用されている気がした。
「私は、制度の外にいるのではなかったのですか」
思わず言っていた。
レオンハルト会長は、少しだけ目を細めた。
「外にいる」
「ですが、見られてはいます」
「当然だ」
当然。
そう言われると、逃げ場がない。
「制度に組み込まないことと、影響を見ないことは違う」
レオンハルト会長は静かに言った。
「君は役職ではない。だが、影響はある。影響があるものを見ないのは、運用者の怠慢だ」
救いではない。
これは救いではない。
この人は、俺を役職にはしない。
だが、影響として見る。
制度の外に置いたまま、必要な時に確認する。
便利なジョーカー。
その言葉が頭をよぎった。
俺は、どこにも置かれていないようで、最も逃げにくい場所に置かれているのではないか。
「ご配慮、感謝いたします」
完璧な敬語が出た。
自分で分かる。
壁だ。
レオンハルト会長も、たぶん分かっている。
「今日は茶を飲め」
「……はい」
なぜ皆、最終的に茶を勧めるのか。
それだけ俺が分かりやすいのかもしれない。
寮に戻る途中、セシリア嬢が隣ではなく、少し斜め前を歩いた。
いつもの距離。
「アルバート様」
「はい」
「今日は、あなたを利用せずに済みました」
その言い方に、少しだけ息が楽になる。
「それは良かったです」
「ですが、次は分かりません」
「怖いことをおっしゃいますね」
「利用すると申し上げましたので」
冷たい言葉。
でも、温度はある。
それが分かってしまうのが、少し怖い。
「その方が助かります」
俺は言った。
「助けたいと言われるより、ずっと」
セシリア嬢は、こちらを見なかった。
ただ、小さく頷いた。
「では、そうします」
それだけだった。
その夜。
俺は兄への手紙を書こうとして、やめた。
今日は書けなかった。
兄なら分かってくれる。
そう思うのが怖かった。
兄にまで、自分の言葉を委ねてしまいそうで。
兄はきっと、俺を責めない。
だから余計に、書けなかった。
俺は母の茶葉を淹れた。
湯気が上がる。
今日は、朝よりも少し落ち着いていた。
問題は解決した。
断る権利は、断る義務ではないと整理された。
誘う側にも、断れる余地を残す礼儀が求められた。
ギルバートは、自分の言葉で話した。
ニールは、自分の怖さを言葉にした。
セシリア嬢は、俺を利用すると言った。
レオンハルト会長は、俺を制度の外に置いたまま見ている。
全部、少しずつ進んでいる。
良い方へ。
たぶん。
だが、俺の平穏はまた遠ざかった。
善意の旗を降ろそうとしたら、今度は「個人に選択を戻す」という新しい旗が立ちかけている。
俺は茶を飲んだ。
温かい。
今日は少しだけ、足りている。
そう思った瞬間、机の上に置いた封書が目に入った。
差出人は、クラインベルク侯爵家。
ユリウス先輩。
俺は、しばらく封書を見つめた。
今日は、もう十分ではないか。
本当に十分だ。
だが、封を切らないわけにもいかない。
中には、短い文面。
『君の拒絶を尊重するための条件を、こちらで整えた。
その上で、一度だけ話がしたい。
断る理由は不要だ。
ユリウス・クラインベルク』
俺は、手紙を机の上に置いた。
逃げ道がある。
断る理由もいらない。
こちらの拒絶は尊重されている。
完璧だ。
完璧に、逃げ道が整えられている。
だからこそ、怖かった。
拒絶を尊重された結果、拒絶する理由が奪われた。
逃げ道はある。
断る権利もある。
理由を言わなくてもいい。
それなのに、断りづらい。
ユリウス先輩は、俺の「逃げたい」という本能すら、理屈で塗りつぶしてくる。
これは悪意ではない。
だから、余計に逃げにくい。
俺は、湯気の消えかけた茶を見下ろした。
今日は、足りていると思った。
だが、どうやら足りていなかったらしい。
たぶん。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、断る権利が「断らなければならない義務」になりかけるお話でした。
リオネルの言葉に救われた下級生たちが、その言葉を守ろうとする。
けれど、その善意はまた別の誰かの入口を狭めてしまう。
ギルバートは自分の立場で言葉を置き、ニールは参加する自由も怖さとして語り、セシリアは今回も「利用」という形でリオネルの負担を軽くしようとしました。
そして最後には、ユリウスからの手紙。
リオネルの拒絶を尊重した上で逃げ道を整えてくる、最も厄介な善意が近づいています。
逃げたいのに、逃げ道ごと攻略されていくリオネルを、ブックマークや評価で見守っていただけると嬉しいです。




