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凡庸な男爵家次男は、誰にも好かれたくない 〜前世でモテすぎて疲れた俺、今世は静かに暮らしたいのに学院の火種ばかり見えてしまう〜  作者: 平八
第一章 逃げ道と、石畳の学院

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第17話 凡庸な男爵家次男は、自分の名前で語られたくない

前回まで:

学院新聞同好会による「沈黙の傍聴者」特集案は、リオネルたちの働きかけによって、個人ではなく新指針そのものを扱う記事へと変更されました。

しかし、火は消えても煙は残ります。

次の議題は、取材・掲示・新聞等に関する「本人同意」の扱いでした。


主な登場人物:

リオネル・アルバート……男爵家次男。静かに暮らしたいが、言葉が勝手に歩き始めている。

ギルバート・レイヴン……伯爵家嫡男。黙ることでリオネルを守ろうとしている。

クラウス・ヴェルナー……子爵家三男。落としどころを読む参謀役。

ニール・ロイド……平民出身の奨学生。自分の立場から言葉を置けるようになり始めた。

セシリア・グランベル……侯爵令嬢。逃げ道を守るが、好意としては差し出さない。

レオンハルト・ヴァイス……生徒会長。リオネルを制度に組み込まないが、必要な時は見ている。

オスカー・フェルン……学院新聞同好会編集長。記事の力と情報の価値を知る男。

学院新聞は、思ったより早く出た。


朝の掲示板前に、人だかりができている。


そこに貼られていた紙面の見出しは、昨日確認した通りだった。


『断るための理由はいらない――新指針が示した学院の礼儀』


名前はない。


男爵家次男という言葉もない。


沈黙の傍聴者という見出しも、消えている。


そのことに、まず少しだけ息を吐いた。


少しだけだ。


なぜなら、名前がないことと、俺が関係ないことは別だからだ。


見出しを読んだ生徒たちは、口々に話している。


「これ、例の新指針の話だよな」


「理由を言わずに断っていいって、すごいな」


「でも誰が言い出したんだろう」


「自治会じゃないの?」


「いや、アルバート様の考えが元になっているって聞いた」


聞こえている。


とてもよく聞こえている。


やめてほしい。


耳が良くなったわけではない。


最近、自分の名前だけが妙によく聞こえるようになった。


たぶん、精神衛生上かなり悪い。


俺は掲示板から少し離れた場所に立っていた。


隣にはギルバート。


少し後ろにクラウス。


ニールは紙面を真剣に読んでいる。


セシリア嬢は、記事そのものより、周囲の反応を見ていた。


「悪い記事ではないですね」


ニールが静かに言った。


「はい」


それは本当だ。


記事は丁寧だった。


断ることは無礼ではない。

誘う側にも、相手が断れる余地を残す礼儀がある。

取材や掲示においても、本人の発言や立場を勝手に意味づけないことが重要である。


オスカー先輩は、見出しこそ鋭いが、内容はかなり整えていた。


腹立たしいほどに。


情報の扱いがうまい。


だからこそ怖い。


「ですが」


クラウスが言った。


「これでまた議論は広がる」


「でしょうね」


「断るための理由はいらない、という言葉は強い。強い言葉は、便利に使われる」


その通りだった。


便利な言葉は、人に持ち運ばれる。


そして、持ち運ばれるうちに、少しずつ別のものになる。


ギルバートが低く言った。


「お前の名前は出ていない」


「はい」


「なら、よかった」


ギルバートは、本気でそう思っている顔だった。


悪気はない。


むしろ、俺の望みを守れたと思っている。


その顔を見て、胸が少し痛んだ。


彼は俺の沈黙を守ろうとしている。


それはありがたい。


本当にありがたい。


だが、最近、その沈黙の横にいつもレイヴン家嫡男が立っていることが、別の意味を持ち始めている。


「レイヴン様、またアルバート様の隣にいらっしゃる」


「やはりレイヴン家が後ろ盾なのかしら」


「アルバート様ご本人は何もおっしゃらないのに、レイヴン様がいつも……」


聞こえた。


ギルバートには聞こえていないのか。


いや、聞こえていても気にしていないのかもしれない。


彼にとっては、隣に立つことが守ることだ。


でも周囲にとっては、それが囲い込みに見える。


守ることと、所有することは、外から見るとよく似ている。


ギルバートは、ほんのわずかに満足げな顔をしていた。


俺の沈黙を守れている。


たぶん、そう思っているのだろう。


その表情は、ひどく真っ直ぐで、少し誇らしげですらあった。


だからこそ、周囲の視線が痛かった。


あれは友情ではなく、囲い込みに見えている。


守られているだけで、また別の意味がつく。


俺は胃のあたりを押さえたくなった。


「アルバート」


ギルバートがこちらを見る。


「顔色が悪い」


「新聞を読むと体調が悪くなる体質になりつつあります」


「それはよくない」


「本当に」


クラウスが紙面から視線を外さずに言った。


「今日の定例会は荒れるね」


「嬉しそうに言わないでください」


「嬉しくはないよ。ただ、見えやすい火種は対処しやすい」


「見えすぎる火種も嫌です」


「それはそうだ」


セシリア嬢が静かに口を開いた。


「本日の議題は、本人同意でしたね」


「はい」


取材。

掲示。

新聞。

本人同意。


昨日の封書にそう書かれていた。


傍聴は任意。


つまり、行かなくてもいい。


行かなくてもいいはずだった。


だが、記事が出た。


噂も出た。


そして、俺の名前が出ていないのに、俺の名前が囁かれている。


これで行かないのは、怖い。


行けば、もっと怖い。


どちらも怖い。


本当に、選択肢というものはなぜこうも面倒なのか。


その時、背後から小さな声がした。


「アルバート様」


振り返ると、数人の下級生が立っていた。


見覚えのある顔が混じっている。


以前、研究会の誘いで困っていた一年生。

読書会の件で顔を合わせた令嬢。

平民出身の奨学生らしき少年。


彼らはどこか高揚した顔をしていた。


嫌な予感がした。


「新聞、読みました」


一人の少年が言った。


「とても勇気をもらいました」


やめてほしい。


その言葉は、一見温かい。


だが今の俺には、ぬるい泥のように感じる。


「私は何も」


言いかけて、止めた。


何もしていない。


いつもの言葉。


逃げの言葉。


だが今回は、それを言うと逆に嘘になる。


俺は関わった。


確かに関わった。


自分の名前を見出しにされたくないという、それだけの理由で。


「新聞は、学生自治会と新聞同好会が整えたものです」


俺はそう言った。


少年は頷いた。


「はい。でも、あの考え方は、アルバート様が示してくださったものだと聞きました」


誰からだ。


誰がそんなことを言った。


あるいは、誰も言っていないのか。


噂が勝手にそういう形になったのか。


少年の隣にいた令嬢が、胸の前で手を握る。


「私たち、今日の本人同意の会議で、上級生の方々に伝えようと思っています」


「何をですか」


聞きたくなかった。


だが、聞いてしまった。


令嬢は真っ直ぐな目で言った。


「アルバート様の指針に従えば、断れない同意は同意ではない、と」


息が止まった。


俺の指針。


俺の。


今、そう言ったのか。


「そして、上級生からの取材や茶会の誘いは、原則として一度すべて断るべきだと」


「待ってください」


自分でも驚くほど、声が硬かった。


彼らが驚いた顔をする。


俺は言葉を探した。


怒りではない。


恐怖だ。


目の前の彼らは、俺に感謝している。


俺の言葉に救われたと思っている。


だからこそ、その言葉を武器にしようとしている。


俺はそんなことを言っていない。


一度すべて断るべきだなんて、言っていない。


「私は、上級生からの誘いや取材をすべて拒むべきだとは言っていません」


令嬢が戸惑う。


「ですが、断るための理由はいらないと」


「それは、断れない場所に置かれた人のための逃げ道です。誰かを一律に拒絶するための旗ではありません」


旗。


また旗だ。


正しさは旗になる。


兄の手紙の言葉が、胸の奥で重く沈んだ。


少年が少し怯えたように言った。


「でも、私たちはアルバート様の考えを広めたくて」


やめてほしい。


広めないでほしい。


俺の考えを。


俺の名前で。


俺の知らない場所へ。


俺の許可なく。


「広めなくていいです」


声が出た。


少し掠れていた。


彼らが黙る。


ギルバートが、わずかに前に出た。


俺を守ろうとしたのだろう。


だが、今は違う。


これは俺が言わなければならない。


でなければ、俺の名前は俺の外側で生き始める。


「アルバート様……?」


令嬢が不安そうに呼んだ。


俺は、ゆっくり息を吸った。


「私の名前で語らないでください」


その場の空気が、止まった。


言ってしまった。


それは、注意というより悲鳴だった。


「私は、あなた方の代表ではありません。相談制度の象徴でもありません。上級生への反対運動の旗でもありません」


一言ずつ、吐き出す。


言うほど、喉が痛い。


「私の名前を使って、誰かに何かを迫らないでください」


少年の顔から血の気が引いた。


令嬢も、唇を震わせている。


傷つけた。


そう思った。


彼らは俺を攻撃しようとしたわけではない。


むしろ、感謝してくれていた。


助けられたと思って、俺の言葉を信じてくれていた。


その信頼を、俺は拒絶した。


俺は誰かを救った代わりに、今、別の誰かを傷つけているのではないか。


胃の奥が冷たくなる。


「……申し訳、ありません」


少年が頭を下げた。


「そんなつもりでは」


「分かっています」


分かっている。


だから苦しい。


悪意ならよかった。


敵意なら、まだ楽だった。


彼らは善意だった。


だから俺は、自分が加害者になったような気がした。


「困った時は、学生自治会へ相談してください。私ではなく」


俺はそう言うのが精一杯だった。


彼らはもう一度頭を下げて去っていった。


その背中が小さく見えた。


俺は、しばらく動けなかった。


ギルバートが低く言う。


「悪くない。お前は間違っていない」


すぐにそう言ってくれる。


ありがたい。


でも、今は少し苦しかった。


「間違っていないことと、傷つけていないことは別です」


ギルバートは黙った。


クラウスも何も言わない。


ニールが、少しだけ顔を伏せていた。


たぶん、彼には分かる。


誰かの代表にされる怖さと、誰かの希望を拒絶する苦しさの両方が。


セシリア嬢が、静かに言った。


「行きましょう」


「どこへですか」


「学生自治会へ」


彼女は俺を見た。


「今日の議題は、あなたの名前で語られることにも関わります」


行きたくない。


心から行きたくない。


だが、行かなければ、また誰かが俺の名前で語るかもしれない。


俺は、ただ見たくなかった。


誰かが踏みつけられるところを。


誰かが代表にされるところを。


誰かの言葉が奪われるところを。


救いたいわけじゃない。


立派な信念があるわけじゃない。


ただ、見たくない。


見てしまうと、自分の中がざわついて、息ができなくなる。


その不快さから逃げたいだけだ。


それなのに、逃げるための言葉が、また誰かの旗になる。


本当に、どうしようもない。


「行きます」


俺は言った。


ギルバートが頷く。


クラウスも静かに歩き出す。


ニールが隣に並んだ。


セシリア嬢は、一歩半ほど斜め前に立った。


近すぎない。


遠すぎない。


逃げ道を塞がない位置。


学生自治会室には、すでに人が集まっていた。


マティアス先輩。

レオンハルト会長。

ユリウス先輩。

オスカー先輩。

ローレンス先輩。

数名の上級生。

数名の下級生。


そして、エルマー先輩もいた。


古代史研究会の代表。


昨日までなら、俺は彼を「配慮が足りなかった先輩」と見ていただろう。


だが今日は違った。


彼の周囲には、少し距離がある。


以前は研究会の後輩たちがよく彼の周りにいた。


今は、どこか遠巻きだ。


新指針の影響だろうか。


エルマー先輩は悪い人ではない。


熱心に学問を教えようとしていた人だ。


その熱心さが、時に誰かを代表にしてしまった。


だから指針は必要だった。


でも、その指針のせいで、彼は後輩に声をかけづらくなっているのかもしれない。


俺は、誰かを救った代わりに、別の誰かの居場所を削ったのか。


胸の奥が重くなる。


「アルバート君」


マティアス先輩が少し驚いた顔をした。


「傍聴は任意だったが」


「承知しています」


「発言も任意だ」


「はい」


レオンハルト会長が、こちらを見ていた。


静かな灰色の目。


救う目ではない。


測る目だ。


この人は、俺を制度に組み込まない。


だが、必要な時には見ている。


それが救いなのか、別の種類の拘束なのか、まだ分からない。


会議の議題は、取材・掲示・新聞等における本人同意だった。


最初にマティアス先輩が概要を説明した。


「今回の新聞記事の件を受け、今後、個人に関わる取材や掲示、新聞掲載において、本人の同意をどう扱うかを整理したい」


オスカー先輩が手を挙げる。


「新聞側としては、同意の原則には賛成します。ただし、すべての掲載に逐一同意が必要となると、報道の意味がなくなる場合があります」


ローレンス先輩が続ける。


「同意の範囲を広げすぎると、学院内の情報共有も停滞します。本人が署名した場合は同意とみなす、という基準で十分では?」


署名。


紙。


形。


分かりやすい。


だが、分かりやすいものほど怖い。


誰の前で署名するのか。

断れる相手なのか。

断った後に不利益はないのか。

署名した後で怖くなった場合はどうするのか。


考えれば、いくらでも穴がある。


だが、それを言えば、また俺の言葉になる。


また制度になる。


また誰かが俺の名前で語る。


俺は黙った。


黙っていたかった。


ギルバートが隣で、わずかに動く。


何か言いかけたのかもしれない。


だが、止まった。


黙ることで守る。


彼は今、それをしてくれている。


ギルバートは、ほんの少しだけ満足そうだった。


前に出なかった。

俺の代わりに話さなかった。

約束を守れている。


きっと、そう思っている。


その真っ直ぐさが、胸に痛い。


けれど、部屋の端で誰かが囁いた。


「レイヴン様が、またアルバート様を庇っている」


「やはりレイヴン派なのか」


胃が痛い。


守られているだけで、政治的な意味がつく。


ギルバートは誇らしそうですらある。


俺の沈黙を守れていると思っている。


その善意が、いま別の火種になっている。


ニールが手を挙げた。


「発言してもよろしいでしょうか」


マティアス先輩が頷く。


「どうぞ、ロイド君」


ニールは立ち上がった。


「署名したから同意、というのは、少し怖いと思います」


ローレンス先輩が尋ねる。


「なぜかな」


ニールは一瞬だけ息を止め、それでも続けた。


「断れない相手から差し出された紙には、署名してしまうかもしれません」


その声は静かだった。


「それは、本当に同意なのでしょうか」


部屋が少しざわついた。


良い発言だ。


リオネルの言葉ではない。


ニール自身の言葉だ。


俺は少しだけ安心した。


同時に、胸の奥が冷える。


俺が、彼に自分の言葉で立てと言った。


誰かの代表ではなく、一人の学生として話せばいいと。


その結果、ニール君は今、自分の言葉で場を動かしている。


それは、間違いなく成長だった。


そしてその成長が、俺をさらに逃げられない場所へ押し出している。


育ってほしかった。


だが、こんな形で俺の首を絞めるほど立派に育ってほしかったわけではない。


その瞬間、下級生側の一人が勢いよく立ち上がった。


朝、俺に話しかけてきた少年だった。


「その通りです。アルバート様も、そうお考えのはずです」


空気が止まった。


俺の背筋が冷たくなる。


少年は気づいていない。


自分が何をしたのか。


「アルバート様は、これまでも断れる構造を大切にされてきました。ですから、署名があっても圧力があれば無効だと――」


「やめてください」


声が出た。


今度は、朝よりもはっきりと。


少年が固まる。


全員の視線がこちらへ集まる。


最悪だ。


最悪だが、もう止まれなかった。


「私の名前で語らないでください」


静まり返る。


言葉が、部屋の中央に落ちた。


「私が何を考えているかを、私の同意なく代弁しないでください」


喉が痛い。


でも言わなければならない。


これは、本人同意の話だ。


新聞や掲示だけではない。


今まさに、俺の同意なく、俺の名前が使われている。


「あなたが言いたいことがあるなら、あなたの言葉で言ってください」


少年の顔が赤くなり、それから青くなった。


「申し訳、ありません」


「責めているのではありません」


責めている。


いや、責めているように聞こえる。


自分でも分からない。


「ただ、私を旗にしないでください」


それが限界だった。


座る。


手が冷たい。


視線が痛い。


助けを求めたくなる。


だが、誰に。


ギルバートが立ちかけた。


今度は俺が、机の下で小さく手を動かして止めた。


ギルバートは止まった。


苦しそうな顔だった。


彼は俺を守りたい。


でも今、俺が守りたいのは、俺の言葉の輪郭だ。


ニールが静かに口を開いた。


「私は、ロイド・ニールとして話します」


彼の声は震えていた。


だが、逃げていなかった。


「断れない相手から差し出された同意書は、同意ではなく、確認印に近いと思います」


俺は、思わずニールを見た。


言った。


俺が言わなくても、彼が言った。


自分の言葉で。


ローレンス先輩が少し目を細める。


「確認印、か」


ニールは頷いた。


「はい。少なくとも、断った時に不利益がないと分かっていなければ、本当の同意とは言いにくいと思います」


セシリア嬢が続ける。


「加えて、一度同意した後でも、掲載前であれば撤回できる余地が必要ではないでしょうか」


クラウスが静かに補う。


「同意の取得者と確認者を分けるのも一案です。取材者本人が同意を取ると、断りにくい場合があります」


ギルバートは、低く短く言った。


「断った者に不利益を与えた場合は、処分対象にすべきだ」


強い。


少し強い。


だが、必要な強さでもある。


オスカー先輩がペンを回しながら言う。


「新聞側としては、確認者を置かれると手間が増えますね」


「手間と人の尊厳を比べないでください」


セシリア嬢が静かに言った。


オスカー先輩は笑った。


「厳しい」


「必要な厳しさです」


彼女は引かない。


だが、俺の代弁はしない。


自分の立場で言っている。


レオンハルト会長が、それまで黙っていた口を開いた。


「整理する」


場が静まる。


「本人同意は、署名の有無だけでは判断しない。断れる状態であったかを確認する」


マティアス先輩が書き取る。


「同意は、掲載前であれば撤回可能とする」


またペンが動く。


「取材者と同意確認者は、可能な限り分ける」


オスカー先輩が少し肩をすくめる。


「断ったことによる不利益を禁じる」


ギルバートが頷く。


「加えて」


レオンハルト会長は、俺を見た。


「特定個人の思想・意見を、本人の同意なく代弁してはならない」


心臓が、少し嫌な音を立てた。


また制度になる。


俺が今、悲鳴のように言ったことが。


また、指針になる。


レオンハルト会長は、淡々と言った。


「これは新聞や掲示だけではない。会議、討論、請願、いずれにも適用する」


俺は、何も言えなかった。


救われたのか。


縛られたのか。


分からない。


俺はただ、自分の名前を守りたかっただけだ。


それなのに、今、学院では「本人の思想の代弁禁止」が議題に加わっている。


本当に、どうしてこうなる。


会議が終わる頃、エルマー先輩が静かに立ち上がった。


「一つ、よろしいでしょうか」


マティアス先輩が頷く。


「どうぞ」


エルマー先輩は、少し迷ってから言った。


「新指針が出てから、研究会に来なくなった下級生がいます」


部屋が静かになる。


「もちろん、断る自由は大切です。代表扱いをしてしまった私に非があることも分かっています」


その声は落ち着いていた。


だが、少しだけ疲れていた。


「ですが、こちらから声をかけること自体を怖がるようにもなりました。学びたいけれど、自分からは来られない生徒もいます。誘われることで、初めて入れる子もいる」


俺は、息を止めた。


「断れる権利と同じくらい、誘われる機会も必要なのではないかと思います」


誰もすぐには答えなかった。


正しい。


これも、正しい。


俺が見たくなかった圧力の裏側には、誘われることで救われる人もいた。


俺は、誰かを救った代わりに、別の誰かの入り口を狭くしたのかもしれない。


「ありがとうございます、エルマー君」


レオンハルト会長が言った。


「それも運用例に入れる。支援や勧誘を禁じるのではなく、断れる余地を明記した誘い方を推奨する」


エルマー先輩は頭を下げた。


「よろしくお願いします」


その横顔を見て、胸が苦しくなった。


悪い人ではない。


むしろ、熱心な人だ。


俺は、その熱心さが誰かを押し潰す場面を見たくなかった。


でも、熱心さそのものを殺したかったわけではない。


俺は、何をしているのだろう。


会議が終わり、自治会室を出る。


廊下に出た瞬間、足元が少しふらついた。


ギルバートがすぐに腕を伸ばそうとする。


俺は反射的に少し引いた。


ギルバートの手が止まる。


一瞬、傷ついたような顔をした。


それがまた痛かった。


「すみません」


「いや」


ギルバートは短く答えた。


いつもなら、何か言う。


今日は言わなかった。


黙ることで守ろうとしている。


それが分かるから、余計に苦しい。


自治会室を出る直前、エルマー先輩が俺に近づいてきた。


「アルバート君」


「はい」


「……気を使わせてしまったかな。ありがとう」


その言葉に、胸の奥が冷たくなった。


違う。


感謝されることではない。


俺は、あなたの研究会に人が来づらくなる流れを作ったかもしれない。


あなたが善意で差し出していた学びの場を、少し息苦しくしたかもしれない。


それなのに、ありがとうと言われる。


俺は、何を傷つけたのだろう。


「いえ」


それだけ返すのが精一杯だった。


エルマー先輩は穏やかに頭を下げ、去っていった。


その背中は、責めているようには見えなかった。


だから余計に、痛かった。


クラウスが静かに言った。


「今日の君の発言は、かなり危うかった」


「分かっています」


「だが、必要でもあった」


「それは、慰めですか」


「分析だよ」


クラウスらしい。


セシリア嬢が、俺の斜め前に立った。


「アルバート様」


「はい」


「私は、あなたを利用するために隣にいます」


一瞬、意味が分からなかった。


「……何を」


セシリア嬢は、静かな顔をしていた。


「あなたの言葉は、構造を変えます。私はその構造を利用します。私が望む、逃げ道のある学院に近づけるために」


冷たい言い方だった。


まるで、利益のために隣にいると言っているような言葉。


だが、不思議と呼吸が少し楽になった。


あなたのために。


守りたいから。


助けたいから。


そう言われるより、ずっと楽だった。


利用する。


その言葉なら、まだ受け止められる。


期待ではない。


好意でもない。


少なくとも、そういう形にしてくれている。


「それなら」


俺は言った。


「少し安心します」


セシリア嬢は、ほんの少しだけ目を伏せた。


「そうですか」


読者が見ていれば、きっと分かるのだろう。


これは彼女なりの優しさだと。


だが、俺はまだ、それを優しさとして受け取らなくて済む。


それがありがたかった。


その日の夕方、掲示板に仮の議事要旨が貼られた。


『本人同意に関する暫定運用案』


一、同意は署名のみをもって成立したものとは扱わない。

一、断れる状態であったかを確認する。

一、取材者と同意確認者は可能な限り分ける。

一、掲載前の撤回を認める。

一、本人の同意なく、特定個人の思想・意見を代弁してはならない。

一、支援・勧誘そのものを禁じるものではなく、断れる余地を明示した誘い方を推奨する。


よくできている。


かなり、よくできている。


だからこそ、胸が重い。


俺の悲鳴が、また一行になっている。


掲示板の前で、朝の少年が立っていた。


俺に気づくと、深く頭を下げた。


「アルバート様。先ほどは、申し訳ありませんでした」


俺は何と返せばいいのか分からなかった。


「私、自分の言葉で話せるようになります」


少年はそう言った。


「アルバート様の名前ではなく」


それは良いことだ。


本当に良いことだ。


なのに、胸が痛い。


俺が傷つけたから、彼は学んだ。


そう考えてしまう。


「……無理はしないでください」


それだけ言った。


少年は頷いて去っていく。


俺は掲示板を見上げた。


誰かが救われる。


誰かが傷つく。


別の誰かが学ぶ。


そのたびに、俺の言葉は制度になり、俺の逃げ道は少しずつ狭くなる。


俺は救いたいわけじゃない。


ただ、見たくないだけだ。


誰かが潰されるところを。


誰かの名前が勝手に使われるところを。


そして今は、自分の名前が自分の外で歩き回るところを。


寮に戻ると、机の上に兄の手紙を置いた。


今日は読み返さなかった。


読めなかった。


兄なら、分かってくれるだろう。


そう思うことが、今日は少し怖かった。


兄なら分かってくれる。


その優しい確信すら、俺をどこかへ追い込む時がある。


俺は母の茶葉を淹れた。


湯気が上がる。


いつもより多めにした。


それでも足りるかは分からない。


今日、俺は自分の名前を守った。


その代わりに、誰かの善意を傷つけた。


問題は解決した。


本人同意の扱いは整理された。


だが、俺の平穏はまた死んだ。


そして、次に迫る影はさらに大きい。


俺の名前で語る者。

俺の沈黙を守ろうとする者。

俺を利用すると宣言する者。

俺を制度の外に置いて使おうとする者。


全部、悪意ではない。


だから、逃げにくい。


俺は茶を飲んだ。


温かい。


でも今日は、少し苦かった。


たぶん。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


今回は、取材・掲示・新聞などに関する「本人同意」の回でした。


ただし本当の火種は、リオネル本人の同意なく、リオネルの名前や考えが語られてしまうことでした。


「私の名前で語らないでください」


それは、感謝の暴走に対する拒絶であり、リオネルが自分という個を守るための悲鳴でもありました。


誰かを救う一方で、別の誰かを傷つけるかもしれない。

リオネルの逃げ道は、また少し複雑になっていきます。


逃げたいのに、善意と感謝に追い詰められていくリオネルを、ブックマークや評価で見守っていただけると嬉しいです。

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