第13話 凡庸な男爵家次男は、支援という名の勧誘を見逃せない
前回まで:
ニールは古代史研究会で「平民全体の代表ではなく、一人の学生として発言する」と自分の言葉で立ちました。
一方、王都でのリオネルの噂は領地にも届き、兄エルネストは弟が“旗”にされ始めていることに危機感を抱きます。
主な登場人物:
リオネル・アルバート……男爵家次男。静かに暮らしたいが、火種を見ると放っておけない。
ギルバート・レイヴン……伯爵家嫡男。リオネルの隣に立つ不器用な友人。
クラウス・ヴェルナー……子爵家三男。冷静に政治的な構図を読む。
ニール・ロイド……平民出身の奨学生。自分の言葉で立ち始めている。
セシリア・グランベル……侯爵令嬢。リオネルを見抜くが、所有しない距離を保つ。
マティアス・フォルナー……学生自治会副会長。制度を動かす側の上級生。
ユリウス・クラインベルク……侯爵家嫡男。善意と正しさで人を配置しようとする上級生。
学生自治会からの封書は、朝になっても机の上にあった。
消えていなかった。
当然である。
封書は見なかったことにしても消えない。
問題も、だいたいそうだ。
俺は封書をもう一度開いた。
『本日の古代史研究会に関する報告が、すでに複数届いている。
平民奨学生への政治的接触について、相談制度の対象に含めるべきか検討したい。
明日、可能な範囲で意見を聞きたい。
マティアス・フォルナー』
可能な範囲。
意見を聞きたい。
この二つの言葉は、一見優しい。
だが最近の経験上、優しい言葉ほど後から重くなる。
俺は静かに息を吐いた。
行きたくない。
心から行きたくない。
だが、平民奨学生への政治的接触。
この言葉を見てしまった以上、放っておくのも危うい。
研究会。
勉強会。
学習支援。
交流。
討論。
どれも表向きは綺麗だ。
だが、綺麗な名札がついているからこそ、断りにくい。
そして断れない支援は、支援ではない。
かなり質の悪い勧誘だ。
「アルバート」
横から声がした。
ギルバートだった。
朝から当然のように俺の机の横に立っている。
なぜ最近、この人は俺の封書の気配を察知するのが早いのか。
「今日の自治会には俺も行く」
「なぜご存じなのですか」
「マティアス先輩から俺にも来た」
「なぜレイヴン様にも」
「知らん」
知らないまま来るのか。
だが、たぶん理由は分かる。
ギルバートは、俺の友人として隣に立つと言った。
ならば、俺を含む議題には彼も呼ばれる。
友人という言葉は、温かい。
だが、周囲から見れば関係性の印でもある。
盾になる。
同時に、札にもなる。
レイヴン家の札。
俺はそれが申し訳なくもあり、少しありがたくもあった。
複雑だ。
「リオネル様」
ニールも近づいてきた。
昨日より少し背筋が伸びている。
だが、顔には緊張がある。
「私にも、自治会から同席の依頼が来ました」
「当事者ですからね」
「当事者、ですか」
ニールは少しだけその言葉を確かめるように繰り返した。
「代表ではなく、当事者です」
俺は言った。
ニールの表情が、少しだけ緩んだ。
「はい」
そこへクラウスがやって来た。
いつものように、こちらが呼んだわけではない。
ただ、面倒ごとの気配がすると自然と現れる。
非常に優秀で、少し怖い。
「私も同行するよ」
「ヴェルナー様もですか」
「ギルバート様が行くなら、誰かが火消し役として必要だからね」
「火消し役なら、アルバートがいる」
ギルバートが言う。
クラウスはさらりと返した。
「君はそのアルバート君を火に近づけすぎることがある」
「……否定しづらい」
ギルバートが悔しそうに黙った。
成長している。
以前なら怒っていただろう。
今は自分の危うさを少し分かっている。
それだけで、ずいぶん違う。
「ありがとうございます」
俺が言うと、クラウスは少しだけ笑った。
「礼を言うのは早い。今日の話は、おそらくかなり面倒だ」
「予想はつきます」
「ならいい」
良くはない。
だが、見えているだけましなのかもしれない。
学生自治会室には、すでに数人が集まっていた。
マティアス・フォルナー副会長。
ユリウス・クラインベルク。
セシリア・グランベル。
そして、昨日の古代史研究会の代表であるエルマー・バルク。
さらに、ユリウスの周辺にいるローレンス・ベルティエの姿もあった。
顔ぶれを見た瞬間、帰りたくなった。
これは会議ではない。
火薬庫だ。
俺は礼を取り、席に着いた。
ギルバートが当然のように隣へ座る。
クラウスは俺の反対側。
ニールは少し離れた席に座りかけたが、セシリア嬢が自然に彼へ視線を向けた。
「ロイド様、こちらへ」
セシリア嬢が示したのは、俺たちから見える位置だった。
近すぎない。
遠すぎない。
ただし、発言を求められた時に孤立しない席。
本当に、この人は配置がうまい。
ユリウス先輩の配置とは違う。
彼女の配置は、人を使うためではなく、人が潰れないためのものだ。
彼女もまた、誰かの正しさという重圧を知っているのかもしれない。
だからこそ、俺が必要だと思った逃げ道を、誰よりも早く見つけてくれる。
その違いが、少しだけ救いだった。
マティアス先輩が口を開いた。
「集まってくれてありがとう。今日の議題は、昨日の古代史研究会を受けての相談制度の範囲についてだ」
彼は机の上に数枚の報告書を置いた。
「昨日の研究会について、複数の報告が来ている。ロイド君が平民全体の代表として扱われかけたこと。彼自身がそれを丁寧に拒否し、一学生として意見を述べたこと。その後、複数の上級生が彼に接触したこと」
ニールの肩が少し強張った。
俺はそれを見た。
セシリア嬢も見ていた。
ギルバートも、たぶん見ていた。
「まず確認したい」
マティアス先輩はニールを見た。
「ロイド君。昨日の研究会で、君は不当に扱われたと感じたか?」
良い聞き方だ。
最初から被害者として置かない。
だが、答える余地は残している。
ニールは少し緊張しながらも、はっきり答えた。
「研究会そのものは、学ぶことが多かったです。参加してよかったと思っています」
エルマー先輩が少し安堵した顔をした。
ニールは続ける。
「ただ、平民出身の奨学生として意見を求められた時は、少し怖かったです」
エルマー先輩の表情が硬くなる。
「私は、平民全体の代表ではありません。一学生としてなら発言できます。ですが、代表として扱われると、自分の言葉ではなくなる気がしました」
その言葉は、静かだった。
だが、強かった。
昨日よりもさらに、自分の場所に立っている。
俺は少しだけ安心した。
同時に、少し怖くもなった。
ニールの言葉が、また誰かに使われないか。
その警戒が消えない。
エルマー先輩が頭を下げた。
「ロイド君。その点については、こちらの配慮が足りなかった。申し訳ない」
「いえ」
「いや、謝らせてほしい。事前に確認したにもかかわらず、私は場の流れで“平民出身の奨学生として”と口にした」
エルマー先輩は真剣だった。
少なくとも、悪意はなさそうだ。
だが、悪意がないから問題がないわけではない。
それは最近、嫌というほど分かっている。
ローレンス先輩がゆっくり口を開いた。
「しかし、ここで一つ確認したい。上級生が下級生を研究会や勉強会に誘うこと自体を、相談制度の対象にするのは行き過ぎではありませんか?」
丁寧な声。
だが、言葉の奥には針がある。
「学問の場で出自に応じた意見を求めることは、必ずしも悪意ある政治的接触ではないでしょう」
「その通りです」
俺は言った。
視線が集まる。
言わなければよかった。
いや、言うべきだった。
もう遅い。
「アルバート君」
ローレンス先輩が微笑む。
「君はどう見る?」
また俺か。
本当に、なぜいつも俺なのか。
俺は一度だけ息を吐いた。
「上級生が下級生を誘うこと自体は、問題ではありません」
「では、相談制度の対象にする必要はないと?」
「内容によります」
ギルバートが横で少し笑った気配がした。
クラウスも、眼鏡の奥で目を細めている。
定着しつつある。
非常によくない。
だが便利なので仕方ない。
「問題は、誘いそのものではありません」
俺は続けた。
「断れるかどうかです」
マティアス先輩が反応した。
「断れるか」
「はい」
俺は机の上の報告書を見た。
「研究会、勉強会、交流会。名前は何でも構いません。大事なのは、誘われた側が断った時に不利益を受けないかどうかです」
ローレンス先輩の笑みが少し薄くなる。
「たとえば?」
「成績評価、教師への印象、上級生との関係、派閥からの保護、今後の学習機会。そういったものを匂わせて参加を促すなら、それは支援ではなく圧力です」
部屋が静かになる。
俺は続けた。
「もう一つ。属性を代表させないこと」
「属性?」
「平民出身だから平民全体の意見を、下位貴族だから下位貴族の不満を、女性だから女性全体の気持ちを、奨学生だから能力主義の象徴を」
俺はニールを見た。
「一人の学生に、背負わせてはいけません」
ニールは静かにこちらを見ていた。
その目は、以前より強い。
守られているだけの目ではない。
自分でも立とうとしている目だ。
「三つ目は、発言の再利用です」
「再利用?」
マティアス先輩が聞き返す。
「研究会での発言を、別の場で引用する。派閥の主張に使う。誰かを説得する材料にする。本人の意図と違う文脈で広げる」
匿名の授業。
便利な概念。
俺の言葉が、俺から切り離されて歩き始めたこと。
それを思い出し、少し胃が重くなる。
「言葉は、口から出た後も本人の尊厳とつながっています」
俺は言った。
「本人の同意なく、旗にしてはいけない」
正しさは旗になる。
兄に書いた言葉を思い出す。
今はまだ、兄からの返事は届いていない。
だが、なぜか兄なら同じように言う気がした。
ユリウス先輩が静かに口を開いた。
「では、アルバート君。君の考えでは、相談制度は何を扱うべきかな」
まただ。
この人は、俺の言葉をすぐ制度の骨組みにしようとする。
胃が沈む。
だが、ここで黙れば別の誰かの言葉で制度が作られる。
それはそれで危ない。
「相談制度が扱うべきなのは、思想や派閥の正誤ではありません」
俺は答えた。
「接触の構造です」
「構造」
「はい」
俺は指を三本立てた。
「断れるか。代表扱いされていないか。発言が勝手に使われないか」
マティアス先輩がすぐに紙へ書き留める。
やめてほしい。
いや、必要なのは分かる。
分かるが、書き留められると胃が痛い。
「逆に言えば、この三点が守られているなら、研究会や勉強会を過度に制限すべきではありません」
エルマー先輩が、少しほっとした顔をした。
「学びの機会を潰してはいけませんから」
ニールが小さくうなずく。
彼は昨日、研究会で確かに学んだ。
それも事実だ。
守るためにすべてを閉じるのは違う。
閉じすぎた扉は、別の檻になる。
セシリア嬢が静かに言った。
「つまり、支援そのものを疑うのではなく、支援を断れる余地があるかを見る、ということですわね」
「はい」
「支援は、相手が断れる時に初めて支援になる」
その言葉に、部屋が少し静かになった。
短い。
だが、かなり正確だった。
俺は思わずセシリア嬢を見た。
彼女もまた、誰かの正しさという重圧を知っているのかもしれない。
だからこそ、俺が必要だと思った逃げ道を、誰よりも早く見つけてくれたのだ。
支援という言葉の中に、逃げ道を残す。
それはたぶん、俺がずっと欲しかったものだった。
セシリア嬢は少しだけこちらを見返す。
期待ではない。
確認でもない。
ただ、今の言葉をここに置いた。
そういう目だった。
マティアス先輩が頷いた。
「分かりやすい。相談制度の補助指針として整理できそうだ」
補助指針。
また新しい言葉が出た。
俺は少しだけ頭が痛くなった。
ギルバートが低く言う。
「アルバートの名前は出さないでください」
早い。
とても早い。
だが助かる。
マティアス先輩は苦笑した。
「もちろん、そのつもりだ」
「匿名でも、言葉だけが独り歩きすることがあります」
ギルバートが続けた。
俺は少し驚いて彼を見た。
その言葉は、俺が以前感じたことに近い。
匿名という名の透明な鎖。
名前が隠れていても、考えだけが便利な概念として歩き始める怖さ。
ギルバートは、それを覚えていたのかもしれない。
マティアス先輩は表情を改めた。
「それも含めて配慮する。指針は自治会の責任で出す。個人の助言としては扱わない」
「本当に?」
ギルバートが疑わしそうに聞く。
マティアス先輩は真面目に答えた。
「本当に」
クラウスが横で小さく言った。
「書面に残してもらうといい」
「ヴェルナー様」
「大事だろう?」
大事だ。
非常に大事だ。
俺はマティアス先輩を見た。
「では、明記していただけますか」
「何をかな」
「本指針は学生自治会の責任において作成し、特定の学生個人の意見として扱わない、と」
マティアス先輩はすぐに頷いた。
「分かった。入れよう」
ユリウス先輩が微笑んだ。
「君は、本当に自分の言葉が使われることに慎重だね」
「最近、慎重でなければならないことが増えましたので」
「私のせいかな」
「内容によります」
ユリウス先輩は小さく笑った。
笑い事ではない。
いや、少し笑い事にしないとやっていられないのかもしれない。
ローレンス先輩が腕を組んだ。
「ですが、相談制度にこうした指針が入ることで、上級生の活動が萎縮する恐れはありませんか?」
「あると思います」
俺は答えた。
ローレンス先輩が少し意外そうな顔をする。
否定されると思っていたのだろう。
「あります。だからこそ、何でも相談対象にするべきではありません」
「では境界は?」
「本人が困っているかどうかです」
単純だ。
だが、ここが一番大事だ。
「本人が断れない、代表扱いが苦しい、発言を勝手に使われそうで怖い。そう感じた時に相談できる窓口があるべきです」
俺はニールを見た。
「逆に、本人が学びたいと思って参加しているなら、周囲が勝手に保護対象として取り上げるべきではありません」
ニールは小さく息を吐いた。
たぶん、その言葉に少し安心したのだろう。
守られることも、時に代表にされることと同じくらい重い。
本人の意思を消すなら、保護もまた支配になる。
ユリウス先輩がゆっくり頷いた。
「つまり、本人の意思を中心に置く」
「はい」
「ただし、本人が言い出せない場合は?」
痛いところを突く。
俺は少し黙った。
本人の意思を中心に置く。
綺麗な言葉だ。
だが、本人が言えないこともある。
怖い。
断れない。
困っている。
助けてほしい。
それを言えないから、問題は大きくなる。
俺自身がそうだ。
「その場合は」
俺は言葉を探した。
「周囲が代わりに決めるのではなく、本人が言える場所を作るべきです」
セシリア嬢が静かにこちらを見る。
「たとえば、相談者本人に直接確認する。複数人の前ではなく、一対一、もしくは信頼できる同席者を選べる形で」
マティアス先輩が書き留める。
「そして、相談者が“問題にしたくない”と言った場合は、原則としてそれを尊重する。ただし、明確な脅迫や不利益の示唆がある場合は別です」
「なるほど」
マティアス先輩は真剣に頷いた。
その横で、ユリウス先輩がこちらをじっと見ていた。
やめてほしい。
その目は、また何かを見つけた目だ。
「アルバート君」
「はい」
「君の拒絶は、制度設計に向いているね」
胃が沈んだ。
まただ。
また、俺の嫌がることが才能に変換された。
「拒絶を才能にしないでください」
俺は思わず言った。
部屋が静かになった。
言いすぎたかもしれない。
だが、もう言ってしまった。
ユリウス先輩が、瞬きを忘れたように俺を見た。
氷のように怜悧な眼差しの中に、戸惑いに似た揺らぎが走る。
それを、俺は見逃さなかった。
この人は、俺の答えを予想していたのだろう。
だが、俺の拒絶までは、まだ正しく測れていなかった。
「失礼した」
ユリウス先輩は、穏やかに言った。
その声は、前より少しだけ本当に近かった。
謝罪の形だけではない。
少し、考えている。
そう見えた。
だが油断はしない。
この人は、考えた上でまた正しい場所へ人を置こうとする。
「私は、ただ嫌なだけです」
俺は言った。
「誰かが断れない場所に置かれることが。誰かの言葉が勝手に使われることが。誰か一人が属性全体の代表にされることが」
少しだけ息を吸う。
「それを嫌だと思うことまで、役割にされたくありません」
今度こそ、長い沈黙が落ちた。
ギルバートは黙って隣にいた。
クラウスも何も言わない。
ニールは、まっすぐこちらを見ていた。
セシリア嬢は、少しだけ目を伏せた。
マティアス先輩が、静かにペンを置いた。
「分かった」
彼は言った。
「この指針は、自治会の責任で作る。君の言葉を借りるのではなく、こちらが制度として責任を持つ」
「お願いします」
「ただし、内容の確認は頼みたい」
また確認。
俺は遠い目をした。
マティアス先輩はすぐに付け加えた。
「確認以上の役割は頼まない。書面にも残す」
「……その条件でしたら」
ギルバートが横から言った。
「俺も見る」
「なぜですか」
「お前がまた役割を増やされないように」
ありがたい。
ありがたいが、なぜか保護者が増えた気がする。
クラウスが淡々と言った。
「では私も見よう。ギルバート様が見落とす可能性がある」
「おい」
「事実です」
「否定はしないが、言い方があるだろう」
ニールが少し笑った。
その笑いを見て、少しだけ場の空気が緩んだ。
会議はその後、具体的な文面の整理に移った。
マティアス先輩は手際が良かった。
セシリア嬢は、相談者の心理的負担について短く補足した。
クラウスは、貴族間の誤解を避けるための表現をいくつか提案した。
ギルバートは、時々言葉が強すぎたが、要点は外していなかった。
ニールは、自分が昨日感じた怖さを、一学生として言葉にした。
そしてユリウス先輩は、全体を見ていた。
自分の出番を待っているわけではない。
むしろ、珍しく人の言葉を聞いているように見えた。
それが良い兆候なのか、新しい危険なのかは分からない。
分からないので、今は考えないことにした。
会議が終わる頃には、補助指針の骨子ができていた。
『新入生支援・研究会・交流会等における相談対応補助指針』
長い。
非常に長い。
だが、内容は悪くなかった。
一、支援・勧誘の是非ではなく、断れる構造の有無を見ること。
一、出自・性別・家格・奨学生身分などを理由に、個人を属性全体の代表として扱わないこと。
一、研究会・討論会等での発言を、本人の同意なく外部で引用・利用しないこと。
一、相談者本人の意思を中心に置き、周囲が勝手に保護対象化しないこと。
一、明確な圧力や不利益の示唆がある場合は、自治会が介入を検討すること。
整理されている。
かなり整理されている。
そして、俺の胃は痛い。
問題は解決に向かっている。
だが、また制度が増えた。
また言葉が残った。
「アルバート君」
マティアス先輩が言った。
「今日のところは助かった」
「私は内容確認しかしていません」
「そういうことにしておこう」
しておこうでは困る。
本当にそうしてほしい。
ユリウス先輩が立ち上がった。
「アルバート君」
「はい」
「今日は、君を使ったつもりはない」
その言い方に、少し驚いた。
この人が、自分でそこを気にした。
それだけで、少しだけ変化なのかもしれない。
「どうだったかな」
問われる。
難しい。
正直に言えば、少し使われた気はする。
だが、以前とは違う。
少なくとも、こちらの線を見ようとはしていた。
「内容によります」
俺が答えると、ユリウス先輩は小さく笑った。
「厳しいね」
「便利な返事なので」
「では、次はもう少し気をつける」
本当だろうか。
分からない。
だが、そう言ったことだけは覚えておこうと思った。
自治会室を出ると、ギルバートが隣で言った。
「疲れた顔をしている」
「疲れました」
「なら、茶を飲め」
「はい」
素直に答えると、ギルバートが少し驚いた。
「今日は素直だな」
「疲れているので」
「そうか」
クラウスが横で言った。
「素直に疲れたと言えるのは、かなりの進歩だね」
「進歩というより、隠す余力がないだけです」
「それも進歩だよ」
そうだろうか。
分からない。
だが、今日は反論する気力もなかった。
寮に戻ると、俺宛ての荷物が届いていた。
領地からだった。
胸が少しだけ緩む。
母の字で、中に茶葉が入っていることが書かれている。
箱を開けると、柔らかな香りがした。
いつもの茶葉より、少し穏やかだ。
夜に向いている香り。
母らしい。
そして、兄からの手紙が入っていた。
俺は椅子に座り、封を切った。
『リオネルへ。
手紙を読んだ。
ニール・ロイド君が、自分を平民全体の代表ではなく、一人の学生として立てたこと。
それをお前が少し安心したと書いていたこと。
兄として、少し嬉しく思う。』
そこまでは、いつもの兄だった。
優しく、落ち着いていて、俺の報告を丁寧に受け止めてくれる兄。
だが、次の文で、指が止まった。
『ただし、気をつけろ。
正しさは旗になる。
そして今、お前自身が一番大きな旗にされかけている。』
胸の奥を、まっすぐ突かれた気がした。
兄上。
どうして、そんなに分かるのですか。
俺は続きを読む。
『お前は、誰かの代表になる必要はない。
男爵家の代表でも、下位貴族の代表でも、平民奨学生の理解者代表でも、相談制度の象徴でもない。
お前は、リオネル・アルバートだ。
それを忘れるな。』
視界が少し滲みそうになった。
慌てて瞬きをする。
泣くほどのことではない。
泣くほどのことではないはずだ。
だが、その言葉は、王都で浴びたどんな称賛よりも重かった。
そして、軽かった。
荷物ではなく、支えとして重かった。
『お前の笑顔は、昔からよくできている。
だが、兄は知っている。
あれは、誰とでもうまくやるための才能ではない。
誰にも踏み込ませないための壁だ。
その壁が必要だったことも、分かっているつもりだ。
だが、壁は厚くしすぎると、自分も外へ出られなくなる。』
俺は、手紙から目を離した。
自分の頬に触れる。
笑っていない。
たぶん、今は笑っていない。
それだけで、少し息が苦しくなった。
兄は知っている。
俺が笑うほど、内側で扉を閉めていることを。
誰にも悟らせないために、完璧に礼儀正しくなることを。
そして、さらに一文。
『お前が死ぬほど嫌っているその場所で、死ぬほど上手く立ち回っていることを、兄さんは誇りには思わない。
ただ、悲しく思う。』
そこで、完全に手が止まった。
褒められなかった。
上手くやっていることを、褒められなかった。
王都では、皆が俺を評価する。
すごい。
助かった。
有用だ。
必要だ。
貴重だ。
だが、兄だけは悲しんだ。
俺が嫌っている場所で、上手く立ち回れてしまうことを。
そのことが、なぜか一番、胸に来た。
俺は手紙を机に置き、しばらく目を閉じた。
救われた。
とは、思いたくない。
だが、今日は少しだけ、そう思ってしまった。
しばらくして、俺は茶を淹れた。
母の眠りのための葉。
湯を注ぐと、静かな香りが広がった。
祝いの茶ではない。
客をもてなす茶でもない。
眠るための茶。
王都で上手く笑いすぎた俺が、夜だけは少しでも息を抜けるように。
たぶん、母はそう思って送ってくれたのだろう。
兄の手紙を読み返しながら、俺は茶を飲んだ。
温かかった。
翌朝。
学生自治会の掲示板に、新しい告知が貼られていた。
『新入生支援・研究会・交流会等における相談対応補助指針について』
昨日の内容だ。
かなり早い。
さすがマティアス先輩。
そして、文末にはこう書かれていた。
『本指針は、学生自治会の責任において作成したものであり、特定の学生個人の意見として扱わない。』
約束は守られている。
名前はない。
匿名ですらない。
自治会の責任になっている。
それでも、俺には分かる。
俺の言葉が残っている。
断れる支援。
代表にされない権利。
発言を勝手に旗にしないこと。
悪いものではない。
むしろ、必要なものだ。
だが、また少し光は強くなった。
横からギルバートが言った。
「アルバート」
「はい」
「茶、足りているか」
俺は掲示板を見たまま、少し考えた。
昨日なら、足りないと答えただろう。
だが、今日は違った。
鞄の中には、まだ母の茶葉がある。
そして、何度も読み返して少し柔らかくなった、兄の手紙がある。
王都の光は相変わらず眩しい。
けれど、俺の手元には、ちゃんと影で息をつくためのものが残っていた。
完璧に大丈夫ではない。
だが、何もないわけでもない。
「今朝は」
俺は言った。
「少し足りています」
ギルバートは、ほんの少しだけ目を見開いた。
それから、満足そうにうなずいた。
「そうか」
クラウスが横で小さく笑った。
ニールも、少しだけ笑った。
セシリア嬢は離れた場所からこちらを見て、静かに目を伏せた。
問題は解決した。
少なくとも、指針は形になった。
だが、俺の平穏はまた遠ざかった。
そして、次に迫る影はさらに大きい。
相談制度。
平民奨学生。
研究会。
自治会。
ユリウス先輩。
そして、領地にまで届き始めた王都の火種。
それでも今日は。
少しだけ茶が足りている。
それだけで、昨日よりはましなのかもしれない。
たぶん。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、平民奨学生への政治的接触を、相談制度としてどう扱うかのお話でした。
支援は、相手が断れる時に初めて支援になる。
リオネルの拒絶が形にした新しい指針は、また彼を少し有名な「旗」にしてしまいました。
それでも、兄からの手紙だけは、彼の上手さではなく、本当の姿を見てくれています。
母の茶葉と兄の言葉が、少しでもリオネルの救いになることを願って。
逃げたいのに逃げきれないリオネルを、ブックマークや評価で見守っていただけると嬉しいです。




