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凡庸な男爵家次男は、誰にも好かれたくない 〜前世でモテすぎて疲れた俺、今世は静かに暮らしたいのに学院の火種ばかり見えてしまう〜  作者: 平八
第一章 逃げ道と、石畳の学院

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第12話 幕間 凡庸な男爵家次男の兄は、王都の噂に胃を痛めている

前回まで:

リオネルは、平民奨学生ニールが「平民全体の代表」として使われかける場面に関わりました。

ニールは自分の言葉で「一学生として発言する」と立ち、リオネルもまた、正しい言葉が誰かの旗にされる危うさを見ます。


今回は、王都から届く噂に頭を抱える兄エルネスト視点です。


主な登場人物:

エルネスト・アルバート……アルバート男爵家長男。真面目で優しい兄。弟リオネルの本質を誰よりも知っている。

リオネル・アルバート……男爵家次男。本人は静かに暮らしたいが、王都でどんどん目立っている。

アルバート男爵……リオネルとエルネストの父。温和だが、家を守る責任者。

アルバート男爵夫人……二人の母。穏やかだが、息子たちの変化には敏感。

エルネスト・アルバートは、朝から胃を押さえていた。


原因は、朝食ではない。


母の焼いたパンはいつも通り美味しかったし、スープも胃に優しかった。


領地の収支報告も、そこまで悪くはない。


今年は麦の出来も悪くない。

隣村との水路の調整も、多少揉めてはいるが解決できる範囲だ。

税の納付についても、父が丁寧に話を通している。


つまり、領地に関しては平穏だった。


問題は、王都である。


もっと正確に言えば、王都にいる弟である。


リオネル・アルバート。


アルバート男爵家次男。


見た目は凡庸。


家柄も、王都の貴族社会で目立つほどではない。


本人の希望は、卒業後に領地へ戻り、兄であるエルネストを補佐しながら静かに暮らすこと。


そのはずだった。


そのはずだったのだ。


エルネストは、机の上に置かれた手紙を見た。


一通は、リオネル本人からの手紙。


もう一通は、王都に出入りしている商人からの近況報告。


そしてもう一通は、父の知人である地方貴族から届いた短い書簡。


三通とも、同じ弟について書かれている。


ただし、内容の温度差がひどい。


まず、リオネル本人の手紙。


『兄上。


本日、ニール・ロイド君が古代史研究会の討論会に参加しました。


彼は、平民全体の代表ではなく、一人の学生として発言すると明言しました。


正しいことは、言い方を間違えると誰かの旗になります。


ですが、彼は自分の言葉で、自分の場所に立ちました。


少し、安心しました。』


エルネストは、ここまで読んだ時点で深いため息をついた。


内容は、良い。


弟らしい。


危うい場を見つけ、誰かの言葉が誰かに奪われないよう支えたのだろう。


リオネルは昔から、そういうところがあった。


目立たない場所で、誰かが壊れる前にそっと手を添える。


そして、何事もなかったような顔をする。


その顔が一番危ないのだが。


問題は、二通目だった。


王都の商人からの近況報告には、こう書かれていた。


『アルバート男爵家のご次男リオネル様について、王都の学院内で少々噂を耳にしました。


平民奨学生の少年を導き、古代史研究会で見事な発言をさせたとか。


また、レイヴン伯爵家のご嫡男ギルバート様が、リオネル様を友人と明言されたそうです。


さらに、グランベル侯爵家のセシリア様とも親しく言葉を交わされているとのこと。


学生自治会の相談制度にも関わり、クラインベルク侯爵家のユリウス様とも直接ご意見を交わされたとか。


いやはや、アルバート家もいよいよ王都で名を上げられる時が来たのではございませんか』


エルネストは、手紙を畳んだ。


そして、額を押さえた。


違う。


違うのだ。


おそらく、ほとんどの事実は間違っていない。


リオネルは平民奨学生の少年に助言したのだろう。

ギルバート・レイヴンとは、何かしらの関係を築いたのだろう。

セシリア・グランベルとも言葉を交わしているのだろう。

学生自治会の相談制度にも関わってしまったのだろう。

ユリウス・クラインベルクとも、何か話したのだろう。


全部、事実なのかもしれない。


だが、ニュアンスが違う。


おそらく、百八十度違う。


リオネルは名を上げたいわけではない。


伯爵家嫡男と親しくなりたいわけでもない。


侯爵令嬢と懇意になりたいわけでもない。


学生自治会の裏に立ちたいわけでもない。


クラインベルク侯爵家に近づきたいわけでもない。


あいつは、ただ静かに暮らしたいだけだ。


兄であるエルネストには、それが痛いほど分かっていた。


「エルネスト」


執務室の扉が開き、父が顔を出した。


アルバート男爵。


温和で、領民からの信頼も厚い。


ただし、政治的な野心は薄い。


アルバート家が今まで穏やかに続いてきたのは、父が過度に目立とうとしなかったからでもある。


「顔色が悪いな」


「父上。王都からの噂です」


「リオネルか?」


「はい」


父の表情が少し緩んだ。


「学院に馴染んでいるのなら、良いことではないか」


普通なら、そうだ。


次男が学院で友人を作り、上級生に評価され、教師にも覚えられる。


喜ばしい。


誇らしい。


そう言うべきなのだろう。


だが、エルネストは素直には喜べなかった。


「馴染んでいる、というより」


「うん」


「見つかっています」


父の表情が変わった。


エルネストは、商人からの手紙を父に渡した。


父は読み進めるうちに、少しずつ眉を寄せた。


「これは……随分と大きな話になっているな」


「はい」


「平民奨学生を導き、伯爵家嫡男の友人となり、侯爵令嬢と親しく、自治会に関わり、侯爵家嫡男と意見を交わす」


父はそこで手紙から目を上げた。


「我が家の次男の話か?」


「残念ながら」


「残念なのか?」


「かなり」


父は少し困ったように笑った。


「リオネルは、そういう子ではないと思っていたが」


「そういう子ではないから、危ないのです」


エルネストは言った。


「野心があるなら、まだ分かりやすい。目的があって近づいているなら、こちらも対処できます。ですが、リオネルは違います」


「火種を見つけてしまう」


父が言った。


エルネストはうなずいた。


「はい。そして、見つけた以上、放っておけない」


父は深く息を吐いた。


「子どもの頃からそうだったな」


「はい」


エルネストは、幼い頃の弟を思い出す。


親戚の集まり。


大人たちが、何気ない言葉で互いの面子を削り合っていた時。


まだ幼かったリオネルは、菓子皿を持って席を移動し、話題を変え、誰も傷つけずに場を緩めた。


誰も気づかなかった。


だが、エルネストだけは見ていた。


あれは偶然ではない。


あいつは、場の温度が上がる前に気づいていた。


誰の声が硬くなったか。

誰の笑顔が引きつったか。

誰がこのままでは傷つくか。


そして、何事もなかったように火を消した。


大人たちは言った。


「リオネルは気が利くね」


「本当に穏やかな子だ」


「誰とでもうまくやれる」


違う。


エルネストは、そのたびに思っていた。


リオネルは、人付き合いが得意なのではない。


人付き合いが怖すぎて、怖く見せない技術だけが異様に磨かれているのだ。


あいつの笑顔は、社交の才能ではない。


壁だ。


誰も傷つけないための壁。


誰にも踏み込ませないための壁。


そして、自分が傷ついていることを悟らせないための壁。


リオネルは昔から、本当に嫌な時ほど表情を崩さなかった。


眉一つ動かさず、誰よりも丁寧な敬語を使う。


周囲はそれを礼儀正しさだと思っていた。


だが、エルネストは知っている。


あれは、弟が心の扉を内側から閉めた合図だ。


本当に嫌だと叫ぶ代わりに、リオネルは完璧に笑う。


助けてほしいと言う代わりに、完璧な敬語を使う。


誰にも触られたくない時ほど、誰から見ても非の打ち所のない礼儀で、その場をやり過ごす。


リオネルは、社交の天才などではない。


極度の社交への恐怖が生んだ、適応の化け物だ。


エルネストは、その言葉を口には出さなかった。


父に言えば、父はきっと悲しむ。


母が聞けば、もっと悲しむ。


だが、兄であるエルネストには分かっていた。


弟の完璧な笑顔は、安心の証ではない。


危険信号だ。


「エルネスト」


父が静かに言った。


「王都での噂は、我が家にとって悪いものではないかもしれない」


「はい」


それは分かっている。


男爵家にとって、伯爵家や侯爵家とのつながりは大きい。


リオネルが高位貴族に覚えられたことは、家の将来にとって利益になる可能性もある。


縁談。

後ろ盾。

官職。

王都での立場。


そういうものが広がるかもしれない。


だが。


「家のために、リオネルを使うつもりはありません」


エルネストは、はっきり言った。


父は少し驚いた顔をした。


それから、ゆっくりとうなずいた。


「もちろんだ」


「申し訳ありません。強い言い方をしました」


「いや、言ってくれてよかった」


父は手紙を机に置いた。


「私も、少し浮かれかけた。リオネルが高位貴族に認められたなら、喜ばしいことだと」


「喜ばしい面もあります」


「だが、あの子がそれを望んでいるかは別だな」


「はい」


父は目を伏せた。


「リオネルは、自分の望みを後回しにする」


「はい」


「あれは優しさでもあるが、危うさでもある」


「その通りです」


親子は、しばらく黙った。


執務室の外から、母の声が聞こえた。


使用人に茶葉の場所を尋ねている。


リオネルに送るためだろう。


最近、母は王都へ送る茶葉の量を増やしている。


おそらく、エルネストが何度も「リオネルには茶を送ったほうがいい」と言ったからだ。


母は理由を深く聞かなかった。


ただ、少し心配そうな顔で良い茶葉を選んでいた。


「あの子は、ちゃんと眠れているのかしら」


母は昨夜そう言っていた。


エルネストは答えられなかった。


リオネルの手紙は丁寧だ。


心配をかけまいとしている。


だが、丁寧すぎる。


あいつの丁寧さは、いつも少し危ない。


感情を整え、相手に不安を与えないよう整え、報告書のように自分の状態を薄める。


その薄められた文面の隙間から、疲労が滲んでいる。


父が三通目の書簡を開いた。


地方貴族からの短い便りだ。


『王都でご次男リオネル殿の名を耳にしました。


学生自治会において、相談制度の整備に助言されたとか。


若くして人をまとめる才をお持ちのようで、羨ましい限りです。


今後、王都でのご活躍を期待しております』


父は読み終え、無言でエルネストに渡した。


エルネストは目を通し、静かに机へ置いた。


期待。


また、その言葉だ。


期待は、外から見れば美しい。


中にいる者からすれば、荷物だ。


「正しさは旗になる」


エルネストは呟いた。


父が聞き返す。


「何だ?」


「リオネルの手紙にありました。正しいことは、言い方を間違えると誰かの旗になる、と」


「リオネルらしいな」


「はい」


エルネストは窓の外を見た。


領地の空は広い。


王都ほど明るくはない。


夜になれば、ちゃんと暗い。


暗さがあるから、人は眠れる。


光に照らされ続ける場所では、人は休めない。


「ですが、今、一番大きな旗になろうとしているのは、リオネル自身かもしれません」


父は黙った。


「平民奨学生を支えた言葉。相談制度を整えた意見。伯爵家嫡男との友情。侯爵令嬢との距離。侯爵家嫡男への拒絶」


エルネストは一つずつ挙げた。


「そのすべてが、誰かにとって都合の良い旗になり得ます」


「リオネルは旗になりたくないだろうな」


「絶対に」


即答だった。


父は苦笑した。


「そこは断言するのだな」


「兄ですので」


「そうか」


父は少しだけ笑った。


だが、その笑みはすぐに消えた。


「では、我々にできることは何だ」


エルネストは考えた。


リオネルをすぐに呼び戻す。


それは不可能ではない。


だが、学院を途中で離れれば、別の意味がつく。


何か問題を起こしたのか。

高位貴族との関係から逃げたのか。

アルバート家が何かを恐れたのか。


リオネルの逃げ道を作るつもりが、逆に火種になる。


父が王都へ抗議する。


それも危険だ。


男爵家が侯爵家や伯爵家に対して過敏に反応したと見られる。


リオネル本人の立場も悪くなる。


では、何もしないのか。


それも違う。


「まず、家としての方針を明確にしておくべきです」


エルネストは言った。


「方針?」


「リオネルは、卒業後に領地へ戻り、私の補佐に入る予定である。少なくとも現時点では、王都での役職や高位貴族家への仕官を望んでいない」


父は頷く。


「その方針を、外から問われた時に揺らがず答えられるようにしておく」


「なるほど」


「もちろん、リオネル本人の希望が変わるなら別です」


変わるだろうか。


エルネストは少しだけ考えた。


リオネルは、変わっているかもしれない。


手紙の文面からも、それは感じる。


ギルバート・レイヴンという友人を、少しずつ受け入れ始めている。


セシリア・グランベルという令嬢に、見抜かれることを完全には拒んでいない。


ニール・ロイドという少年の成長を、少し嬉しそうに報告している。


リオネルは、昔より少しだけ人を信じ始めているのかもしれない。


それは良いことだ。


とても良いことだ。


だが、信じ始めたところに、高位貴族の期待や政治的な価値が覆いかぶされれば、弟はまた笑顔の壁を厚くするだろう。


それが怖い。


「こちらから、リオネルに手紙を書きます」


エルネストは言った。


父はうなずく。


「頼む」


「茶葉も多めに送ります」


「それは母に任せよう」


その時、扉が開いた。


母が茶葉の箱を抱えて立っていた。


「今、私の話をしましたか?」


父とエルネストは同時に黙った。


母は二人を見比べた。


そして、静かに言った。


「リオネルのことですね」


母は鋭い。


普段は穏やかだが、家族のことになるとよく見ている。


エルネストは正直に頷いた。


「王都で、少し目立っているようです」


「良いことではないの?」


父と同じ反応。


だが、母の声にはすでに心配が混じっていた。


「リオネル本人にとっては、良いことばかりではありません」


母は茶葉の箱を机に置いた。


「そうでしょうね」


「母上?」


「リオネルは、目立つことが好きな子ではありませんもの」


母は静かに言った。


「小さい頃からそうでした。誰かが困っているとすぐ気づくのに、自分が困っている時は絶対に言わない」


エルネストは黙った。


「だから、あの子が王都で褒められていると聞くと、少し怖いわ」


母は茶葉を撫でる。


「褒められた分だけ、無理をしていないかしらと思ってしまう」


母もまた、分かっている。


リオネルが褒められるほど無理をする子だと。


母は茶葉の箱を開けた。


「今回は、眠りのための葉を多めに入れておきます」


それは、領地でも特に香りが穏やかで、夜に飲むために使われる茶葉だった。


祝いの席で出す華やかな茶ではない。


客人をもてなすための香り高い茶でもない。


眠るための茶だ。


王都で上手く笑いすぎている息子が、せめて夜だけは息を抜けるように。


母は、一枚一枚を確かめるように茶葉を箱へ詰めた。


「手紙を書きます」


エルネストは言った。


「リオネルが、ちゃんと断れるように」


母は少し笑った。


「それから、ちゃんと甘えられるように、とも書いてください」


「甘えられるように、ですか」


「ええ。あの子は、甘えるのが下手ですから」


本当にその通りだ。


エルネストは苦笑した。


「努力します」


その夜。


エルネストは、自室で弟への手紙を書いた。


机の上には、リオネルからの手紙が置かれている。


何度も読み返したせいで、折り目が少し柔らかくなっていた。


エルネストはペンを取った。


『リオネルへ。


手紙を読んだ。


ニール・ロイド君が、自分を平民全体の代表ではなく、一人の学生として立てたこと。


それをお前が少し安心したと書いていたこと。


兄として、少し嬉しく思う。』


そこまで書いて、手を止めた。


少し嬉しい。


それは本当だ。


リオネルが誰かの成長を喜べている。


それは良い変化だ。


だが、安心だけを伝えるわけにはいかない。


エルネストは続けた。


『ただし、気をつけろ。


正しさは旗になる。


そして今、お前自身が一番大きな旗にされかけている。』


筆先が、少しだけ止まった。


強い言葉だ。


だが、書くべきだ。


『お前は、誰かの代表になる必要はない。


男爵家の代表でも、下位貴族の代表でも、平民奨学生の理解者代表でも、相談制度の象徴でもない。


お前は、リオネル・アルバートだ。


それを忘れるな。』


エルネストは息を吐いた。


リオネルに届くだろうか。


届いてほしい。


『お前の笑顔は、昔からよくできている。


だが、兄は知っている。


あれは、誰とでもうまくやるための才能ではない。


誰にも踏み込ませないための壁だ。


その壁が必要だったことも、分かっているつもりだ。


だが、壁は厚くしすぎると、自分も外へ出られなくなる。』


書きながら、少し胸が痛んだ。


踏み込みすぎかもしれない。


だが、兄だから書けることもある。


エルネストは、少し迷ってから、さらに一文を足した。


『お前が死ぬほど嫌っているその場所で、死ぬほど上手く立ち回っていることを、兄さんは誇りには思わない。


ただ、悲しく思う。』


書いた瞬間、胸の奥が痛んだ。


これは、リオネルにとって痛い言葉になるかもしれない。


だが、必要だと思った。


王都の者たちは、リオネルを褒めるだろう。


すごい。

見事だ。

有能だ。

必要だ。


誰かがそう言うたびに、弟はきっと完璧に笑う。


だから兄だけは、そこを褒めたくなかった。


リオネルが嫌っている場所で、上手く立ち回れてしまうこと。


それは誇ることではなく、悲しいことだと伝えたかった。


『ギルバート・レイヴン様が友人だと言ったのなら、その言葉の重さに苦しむこともあるだろう。


だが、重いものがすべて鎖とは限らない。


支えになる重さもある。


お前がそう思える相手なら、少しだけ頼ってみてもいい。』


次に、セシリアのことを書くか迷った。


侯爵令嬢。


名前を出すだけで、家の者としては緊張する相手だ。


だが、リオネルの手紙に直接名前は多く出ていない。


ただ、行間には彼女の存在がある。


リオネルが「見抜かれた」と書く時。


「一人で背負うものではないと言われた」と書く時。


その相手はおそらく、セシリア・グランベルだろう。


『お前に、一人で背負うものではないと言ってくれる者がいるなら、その言葉は大事にしろ。


ただし、誰の言葉であっても、自分の人生の手綱は渡すな。』


そして、ユリウスのこと。


ここが一番難しい。


エルネストは、手紙の余白を見つめた。


ユリウス・クラインベルク。


侯爵家嫡男。


リオネルを評価し、光を当てている人物。


悪意はないのかもしれない。


むしろ、本当に才能を見つけ、正しい場所へ導こうとしているのかもしれない。


だが、正しさほど怖いものはない。


『クラインベルク様については、兄から軽々しく言える立場ではない。


だが一つだけ。


誰かが「君のためだ」と言って、お前の行き先を決めようとした時は、必ず一度立ち止まれ。


相手が善意であってもだ。


善意は、時に一番断りにくい命令になる。』


ここまで書いて、エルネストはペンを置いた。


強い。


少し強すぎるかもしれない。


だが、リオネルには必要だ。


最後に、いつもの言葉を書く。


『まず茶を飲め。


大丈夫と書けない日は、大丈夫と書かなくていい。


疲れたなら、疲れたと書け。


困ったなら、困ったと書け。


兄は、弟の報告書ではなく、弟の手紙が読みたい。』


書き終えた瞬間、エルネストは深く息を吐いた。


これは、兄として少し踏み込みすぎた手紙かもしれない。


だが、今踏み込まなければ、リオネルはさらに遠くへ行ってしまう気がした。


王都の光の中へ。


誰かの正しさの中へ。


誰かの期待の中へ。


エルネストは、封をした。


そして母が用意した茶葉の箱を確認する。


かなり多い。


少し多すぎるほどだ。


だが、今のリオネルには必要だろう。


むしろ足りないかもしれない。


翌朝。


王都へ向かう便に、手紙と茶葉を託した。


エルネストは見送りながら、胸の奥に小さな不安を抱えていた。


弟の手紙からは、少しずつ変化が感じられる。


それは悪い変化ではない。


ギルバートという友人。

ニールという協力者。

セシリアという理解者。

クラウスという冷静な観察者。


リオネルの周囲には、少しずつ人が増えている。


それは、本来なら喜ぶべきことだ。


だが同時に、周囲に人が増えるほど、期待も増える。


期待が増えるほど、弟はまた笑う。


完璧に。


誰にも心配をかけないように。


誰にも踏み込ませないように。


その笑顔を、王都の者たちは社交の才と呼ぶのだろう。


だが、兄は知っている。


あれは壁だ。


そして、壁の内側で弟がどれほど息を詰めているかを。


「リオネル」


エルネストは小さく呟いた。


「お前は、旗にならなくていい」


領地の風が、静かに吹いた。


王都とは違う、土と草の匂いがする風だった。


その時、使用人が駆けてきた。


「エルネスト様」


「どうした」


「王都より、早馬です」


エルネストは眉を寄せた。


早馬。


嫌な予感がする。


使用人が差し出した封書には、見慣れない紋章が押されていた。


黒い鳥をかたどった紋。


レイヴン伯爵家。


エルネストは、一瞬だけ目を閉じた。


来たか。


封を切る。


中には、丁寧な文字で短く書かれていた。


『アルバート男爵家 エルネスト殿


突然の書状をお許しいただきたい。


貴家ご令弟リオネル・アルバート殿には、学院にて個人的に大きな助けを受けている。


彼を友人と呼ぶことを、どうか無礼とは受け取らないでほしい。


ギルバート・レイヴン』


エルネストは、手紙を読み終えた。


そして、そっと机に置いた。


内容は悪くない。


むしろ、とても誠実だ。


伯爵家嫡男が、男爵家長男にわざわざ礼を尽くしている。


これほど丁寧なことはない。


だが。


普通なら、男爵家が総出で王都へ向かい、門前で平伏して感謝するほどの話だ。


伯爵家嫡男が、男爵家次男を友人と呼びたいと、わざわざ家へ書状を送ってきたのだ。


普通なら、家の誉れである。


普通なら、父も母も涙を流して喜び、領地中に祝いの酒を振る舞ってもおかしくない。


それほどのことだ。


それをリオネルは、きっと手紙の中で、


『少し余計なことをされました』


くらいの温度で済ませるのだろう。


その感覚のずれが、エルネストには一番恐ろしかった。


リオネルは、自分の周りで何が起きているのかを軽く見ているわけではない。


むしろ、見えすぎている。


だが、自分に向けられる好意や恩義の大きさだけを、どこかで低く見積もる。


自分がどれほど誰かの人生に踏み込んでいるのか。


誰かがどれほど本気で自分を友人と呼んでいるのか。


そこだけが、いつも少しずれている。


エルネストは、深く、深く息を吐いた。


「リオネル」


弟の顔を思い浮かべる。


困ったように笑う、あの完璧すぎる笑顔を。


「お前の平穏は、今日も遠そうだな」


問題は解決していない。


むしろ、王都の火は領地にまで届き始めている。


そして次に迫る影は、さらに大きい。


エルネストは胃を押さえながら、母に追加の茶葉を頼みに行くことにした。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


今回は兄エルネスト視点の幕間でした。


王都での出来事は、リオネル本人にとっては「巻き込まれただけ」でも、外から見るとかなり大きな噂になり始めています。


兄だけは、リオネルの完璧な笑顔が社交の才能ではなく、誰にも踏み込ませないための壁だと知っています。


そして、ついにレイヴン伯爵家からも手紙が届きました。


逃げたいリオネルの平穏を、兄エルネストと一緒に見守っていただけると嬉しいです。

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