第11話 平民奨学生は、正しさだけでは身を守れない
前回まで:
ユリウス・クラインベルクは、リオネルの才能に「光を当てる」ことで、教師や上級生たちの視線を集め始めました。
リオネルは「領地で兄を支える人生を腐るとは思っていない」「私は火消しの道具ではない」と線を引きますが、今度は彼の意見が匿名のまま授業に使われることになります。
主な登場人物:
リオネル・アルバート……男爵家次男。静かに暮らしたいが、火種を見ると放っておけない。
ニール・ロイド……平民出身の奨学生。優秀だが、その正しさが政治的に使われかけている。
ギルバート・レイヴン……伯爵家嫡男。リオネルの隣に立つ不器用な友人。
クラウス・ヴェルナー……子爵家三男。政治的な空気を冷静に読む少年。
セシリア・グランベル……侯爵令嬢。リオネルの危うさを静かに見ている。
ユリウス・クラインベルク……侯爵家嫡男。善意で人を正しい場所へ導こうとする上級生。
正しいことは、強い。
だが、正しければ安全というわけではない。
むしろ、正しい言葉ほど危ない時がある。
なぜなら、正しい言葉は旗になるからだ。
誰かが掲げる。
誰かが集まる。
誰かが敵を作る。
そして、最初にその言葉を口にした人間だけが、矢面に立たされる。
前世でも、何度も見た。
誰かのために言った言葉が、別の誰かの攻撃材料になる。
ただ困っている人を庇っただけなのに、いつの間にか派閥の中心に置かれる。
正しいことを言ったはずなのに、その正しさの責任だけを背負わされる。
だから俺は、正しさをあまり信用していない。
正しいかどうかより、誰が、どこで、何のためにその言葉を使うのか。
そちらのほうが、ずっと重要なことがある。
その朝。
ニール・ロイドは、俺の机の前に立っていた。
手には一通の封書。
見慣れない封蝋。
ただし、紙質は良い。
つまり、嫌な予感がする。
最近、紙質の良い封書はだいたい胃に悪い。
「リオネル様」
「はい」
「少し、ご相談してもよろしいでしょうか」
相談。
また相談。
だが、ニールの顔はいつもより硬かった。
これは軽い話ではない。
俺は小さく息を吐いた。
「内容によります」
近くの席で、ギルバートがわずかに反応した。
おそらく、また言ったな、と思っている。
実際、また言った。
だが、この言葉は便利だ。
すぐに頷かない。
すぐに拒絶もしない。
中身を見てから判断する。
最近の俺にとって、かなり重要な防壁である。
ニールは封書を差し出した。
「古代史研究会から、正式に参加の案内をいただきました」
「以前お話ししていた研究会ですね」
「はい」
俺は封書を開き、文面に目を通した。
『古代史研究会 特別討論会へのご案内』
表題からして、少し危険だった。
ただの研究会ではない。
討論会。
しかも、特別。
俺は続きを読む。
『議題:血統と能力――学院における評価のあり方について』
俺はそこで読む手を止めた。
終わった。
これは、かなり終わっている。
「リオネル様?」
ニールが不安そうに俺を見る。
俺は封書を机に置いた。
「ニール君」
「はい」
「これは、古代史研究会ではありません」
「え?」
「少なくとも、この議題は古代史だけではありません」
封書には、古代王朝における官吏登用制度や、血統貴族と実務官僚の関係について討論すると書かれていた。
表面上は学問だ。
古代史だ。
だが、実際の議題は違う。
血統と能力。
学院における評価。
そこに、平民出身の奨学生であるニールを呼ぶ。
つまり、彼に何を言わせたいのかは明白だった。
血統ではなく能力で評価すべき。
その言葉を、平民出身の優秀な奨学生に言わせたいのだ。
正しい。
たしかに正しい。
学院は学ぶ場であり、能力を評価する場所であるべきだ。
だが、その言葉は貴族社会では刃になる。
血統を重んじる者への批判。
世襲の立場への疑義。
下位貴族や平民出身者の不満の象徴。
ニールが望んでいなくても、彼の言葉は旗にされる。
俺は封書を畳んだ。
「参加したいのですか」
ニールは少し迷った。
「議題自体には、興味があります」
「はい」
「古代王朝の官吏登用制度については、以前から調べたいと思っていました。血統だけではなく、試験や実績で人材を登用した時代があったことも知っています」
「良い関心だと思います」
「ですが」
ニールは唇を引き結んだ。
「私がそれを話すと、別の意味になる気がします」
よく見えている。
以前より、ずっと危うさに敏感になっている。
俺は小さくうなずいた。
「その感覚は、かなり正しいです」
ニールの顔が少しだけ曇る。
「では、参加しないほうがいいのでしょうか」
「そこは、すぐに決めないほうがいいです」
「なぜですか」
「参加しないことにも意味がつくからです」
ニールは息を飲んだ。
そう。
参加すれば、平民奨学生が血統批判をしたと言われる可能性がある。
参加しなければ、貴族社会に遠慮して口をつぐんだと言われる可能性がある。
どちらも面倒だ。
こういう場は、招かれた時点で半分巻き込まれている。
本当に嫌な仕組みだ。
ギルバートが低い声で言った。
「誰が主催だ」
ニールは封書の下部を確認した。
「古代史研究会の代表、エルマー・バルク様です」
「バルク男爵家か」
クラウスがいつの間にか近くに来ていた。
本当にこの人は、政治の匂いがする場所に自然と現れる。
「ヴェルナー様、ご存じですか」
俺が尋ねると、クラウスは軽くうなずいた。
「バルク男爵家は、文官家系だ。高位貴族ではないが、王都の実務官僚に縁がある。能力主義寄りの家だね」
「つまり?」
ギルバートが問う。
クラウスは封書を見る。
「平民奨学生を表に立てて、血統貴族を批判したいわけではないと思う。ただし、“能力ある者を引き上げるべき”という空気を作りたい可能性はある」
「それは悪いことなのか」
ギルバートの問いは率直だった。
クラウスは少し肩をすくめる。
「悪いことではない。だから厄介なんだ」
その通りだ。
悪なら拒絶しやすい。
だが、正しいことは拒絶しにくい。
能力ある者を評価する。
身分にかかわらず学ぶ機会を与える。
それは正しい。
だが、その正しさのために、ニールが看板にされるなら話は別だ。
俺はニールに向き直った。
「ニール君」
「はい」
「正しいことを言う時ほど、その言葉を誰が使うかを見たほうがいいです」
ニールは黙った。
「あなたが“能力で評価されるべきだ”と言ったとして、それを聞いた人が“平民出身者は血統貴族を否定している”と広めるかもしれません」
「私は、そんなつもりは」
「分かっています」
俺は言った。
「ですが、言葉は口から出た後、必ずしも本人のものではいられません」
自分で言って、少し胸が痛んだ。
匿名の参考意見。
便利な概念。
俺の言葉も、すでに俺から離れ始めている。
名前が出なくても、言葉は歩く。
そして時に、勝手に武器になる。
「では、私は何も言わないほうがいいのでしょうか」
ニールの声は、少し苦しかった。
その気持ちは分かる。
学びたい。
話したい。
考えを述べたい。
それなのに、政治的に使われるから黙れと言われる。
それはあまりに不自由だ。
「いいえ」
俺は首を横に振った。
「言わないほうがいい、ではありません」
「では?」
「言い方と、置き場所を選ぶべきです」
「置き場所」
「はい」
言葉は、どこに置くかで意味が変わる。
自室での独り言。
友人との会話。
教師への質問。
公開討論の場。
上級生主催の研究会。
同じ言葉でも、置かれた場所で重さが変わる。
「まず、参加前に確認しましょう」
俺は言った。
「あなたは、平民奨学生の代表として呼ばれているのか。それとも、古代史に関心のある一学生として呼ばれているのか」
ニールは目を見開いた。
「それは、大事ですね」
「かなり大事です」
「もし、代表としてと言われたら?」
「断るべきです」
俺は即答した。
「あなた一人が、平民全体を代表する必要はありません」
ニールは、少しだけ息を止めた。
おそらく、その可能性を考えていなかったのだろう。
いや、考えてはいたが、言葉にできなかったのかもしれない。
平民出身。
奨学生。
優秀。
その肩書きがあるだけで、周囲は勝手に代表にする。
本人が望んでいなくても。
「あなたは、ニール・ロイドです」
俺は言った。
「平民全体の口ではありません」
ニールの目が揺れた。
「……はい」
その返事は、いつもより少し低かった。
何かに耐えるような声だった。
ギルバートが腕を組み、低く言った。
「必要なら、俺も同席する」
「レイヴン様」
ニールが驚く。
ギルバートは少し視線を逸らした。
「お前のためというより、アルバートがまた火種を見つけて倒れそうだからだ」
なぜ俺が倒れる前提なのか。
いや、最近の状況を考えると否定しきれない。
クラウスが淡々と言った。
「ギルバート様が同席すると、話がレイヴン家対バルク家に見える可能性があります」
「では、どうする」
「見学者としてなら、ありです。表に出ない形で」
ギルバートは少し不満そうだったが、うなずいた。
「分かった」
素直だ。
本当に、この人は少しずつ学んでいる。
俺はニールに封書を返した。
「まずは、返信しましょう」
「どのように書けば」
「こうです」
俺は紙を取り、下書きを作った。
『ご案内ありがとうございます。
古代史研究会の議題には大変関心があります。
参加にあたり、念のため確認させてください。
私は平民出身の奨学生ではありますが、平民全体を代表して発言する立場ではありません。
一学生として、学問上の意見を述べる形であれば参加を検討いたします。
また、発言内容を研究会外で引用・紹介する場合は、事前に確認いただけますと幸いです。』
書き終えると、ニールはじっとその文面を見つめた。
「これなら、失礼ではないでしょうか」
「失礼ではありません。むしろ丁寧です」
クラウスが横から言った。
「かなり良い。相手の面子を潰さずに、利用される余地を狭めている」
「ありがとうございます」
「ただし」
クラウスは俺を見る。
「これをニール君が自力で書いたと思われたら、彼の評価が上がる。君が書いたと見抜かれたら、また君の影が広がる」
やめてほしい。
分かっていることを言わないでほしい。
俺は少し考えた。
「では、ニール君の言葉に直しましょう」
「私の言葉に?」
「はい。少し硬すぎます」
ニールは真剣にうなずいた。
そこから俺たちは、文面を調整した。
俺が作った骨組みに、ニール自身の言葉を入れる。
丁寧だが、逃げ腰ではない。
慎重だが、卑屈ではない。
学びたい気持ちは示す。
代表扱いは断る。
完成した文面を見て、ニールは少しだけ笑った。
「これなら、自分の言葉だと思えます」
「それが大事です」
俺は言った。
「他人の言葉で身を守ると、あとで動けなくなります」
自分で言って、また胸が痛んだ。
俺は、誰かにそう言ってほしかったのかもしれない。
前世で。
その日の放課後。
古代史研究会から返事が来た。
対応は早かった。
封書には、こう書かれていた。
『ご懸念はもっともです。
ロイド君を平民全体の代表として扱う意図はありません。
一学生としての学問的意見を歓迎します。
発言内容を研究会外で扱う場合は、事前に確認します。』
表面上は、かなり誠実な返事だった。
だが、添えられていた一文が少し気になった。
『なお、当日は血統貴族側の意見として、上級生数名にも発言を依頼しています。公平な討論の場になるでしょう。』
公平。
その言葉が、少し引っかかった。
公平という言葉は、時に残酷だ。
丸腰の子供と武装した大人を同じ場所に立たせて、
「同じルールだから公平だ」と言うための免罪符になることがある。
もちろん、今回がそうだと決めつけるわけではない。
だが、平民出身の一年生と、場慣れした上級貴族たちを同じ卓に置き、
「公平な討論」と呼ぶことに、俺は少しだけ冷たいものを感じた。
「行きます」
ニールは言った。
顔は緊張している。
だが、逃げる顔ではなかった。
「一学生として」
「はい」
「なら、行きましょう」
俺がそう言うと、ニールは驚いた顔をした。
「リオネル様も?」
「見学です」
「でも」
「一人で行くより、火種が見えやすいので」
ギルバートが横で言った。
「俺も行く」
クラウスも続ける。
「では、私も。ギルバート様が火種になった時のために」
「おい」
ギルバートが眉を寄せる。
俺は少しだけ笑ってしまった。
不謹慎かもしれない。
だが、このやり取りは少し楽だった。
古代史研究会は、図書館棟の小講義室で行われた。
室内には、十数人ほどの学生がいた。
上級生が多い。
文官家系らしい落ち着いた雰囲気の者もいれば、明らかに血統貴族としての誇りを持っている者もいる。
中央の席にいたのが、エルマー・バルクだった。
柔らかい茶髪。
丸眼鏡。
穏やかな笑み。
男爵家の出身だが、立ち居振る舞いはかなり洗練されている。
「ロイド君、来てくれてありがとう」
「お招きいただき、ありがとうございます」
ニールは丁寧に礼を取った。
エルマー先輩は俺たちのほうも見る。
「アルバート君、レイヴン君、ヴェルナー君も。見学歓迎だよ」
歓迎。
本当に歓迎しているのか。
それとも、見られても問題ないという姿勢を示したいのか。
どちらにしても、悪い対応ではない。
俺たちは後方の席に座った。
ギルバートは俺の隣。
クラウスはその反対側。
なぜか最近、この配置が自然になりつつある。
よくない。
いや、少しだけ良いのかもしれない。
分からない。
研究会は、最初は本当に学問的だった。
古代王朝における官吏登用制度。
血統貴族の役割。
実務官僚の台頭。
地方統治の安定と能力評価。
内容は興味深い。
ニールの目も輝いている。
彼は本当に学ぶことが好きなのだ。
それは、守られるべきものだと思った。
やがて、討論は本題へ移った。
エルマー先輩が言う。
「では、学院における評価についても少し考えてみたい。血統と能力、どちらを重んじるべきか」
来た。
空気が少し変わる。
一人の上級生が発言した。
金髪の、いかにも由緒ある家の出身に見える少年だ。
「血統は、単なる生まれではありません。家が積み上げてきた責任と教育の証です。能力だけで評価するなら、家が担ってきた責務を軽んじることになる」
筋は通っている。
次に別の学生が言った。
「ですが、血統だけで能力のない者が上に立てば、下の者が苦しみます。学院はせめて、能力を正当に評価する場であるべきです」
こちらも正しい。
正しさ同士が向かい合っている。
こういう場は危ない。
どちらも正しいからこそ、少し言葉を間違えれば相手の誇りを刺す。
エルマー先輩がニールを見る。
「ロイド君。平民出身の奨学生として、君はどう思う?」
来た。
言った。
平民出身の奨学生として。
約束と少し違う。
悪意か。
うっかりか。
どちらでもいい。
危険だ。
ギルバートが動きかけた。
俺は机の下で軽く手を動かして制した。
ここは、ニールがどう答えるかを見るべきだ。
ニールは一瞬だけ表情を硬くした。
だが、すぐに姿勢を正した。
「申し訳ありません」
静かな声だった。
「私は、平民出身の奨学生ではありますが、平民全体を代表して発言することはできません」
室内が静かになった。
ニールは続ける。
「ですので、一学生として答えます」
よし。
俺は心の中でうなずいた。
かなり良い。
ニールはゆっくりと言葉を選んだ。
「私は、能力で評価されることは大切だと思います」
一部の学生が反応する。
血統貴族側の学生が少し身構えた。
ニールは続けた。
「ですが、能力だけで人を測ることにも危うさがあると思います」
今度は、能力主義寄りの学生が意外そうな顔をする。
「血統ある家に生まれた方々は、幼い頃から多くの教育と責任を背負っているはずです。それは私にはないものです」
金髪の上級生が、少しだけ表情を変えた。
ニールは彼を見て、きちんと続けた。
「一方で、血統がない者にも、学ぶ力や努力があります。それを最初から見ないのも、学院としては損失だと思います」
損失。
ユリウス先輩がよく使いそうな言葉だ。
だが、ニールの言葉には少し違う響きがあった。
人を道具として見る損失ではない。
可能性を潰すことへの損失。
「ですから、どちらか一方で決めるのではなく」
ニールは息を吸った。
「与えられたものを、どう使うかで評価されるべきだと思います」
部屋が静まり返った。
良い答えだった。
とても良い。
血統を否定しない。
能力も否定しない。
責任と努力の両方を見る。
そして何より、誰かの旗になりにくい。
ニールは、続けた。
「血統ある方が、その血統をただの権利としてではなく責任として使うなら、それは尊いと思います」
金髪の上級生がまっすぐニールを見る。
「能力ある者が、その能力を誰かを見下すためではなく、役に立てるために使うなら、それも尊いと思います」
今度は、能力主義寄りの学生が目を伏せた。
「私は、まだどちらも十分には持っていません。血統もなく、能力も学び始めたばかりです」
ニールは少しだけ笑った。
「ですから、まずは学びたいです。誰かの代表ではなく、一人の学生として」
その言葉で、場の空気が変わった。
正しさが、少し柔らかくなった。
旗ではなく、椅子になった。
誰かを立たせる旗ではなく、誰かが座って考えられる椅子に。
俺は、少しだけ息を吐いた。
ギルバートが小声で言った。
「良い答えだな」
「はい」
クラウスも静かにうなずく。
「かなり良い。誰にも喧嘩を売らず、誰にも媚びていない」
その通りだった。
エルマー先輩は少し黙っていた。
やがて、柔らかく笑った。
「ありがとう、ロイド君。非常に誠実な意見だった」
誠実。
それは本当だと思う。
だが、エルマー先輩の目には、少しだけ計算も見えた。
この答えもまた、使える。
そう思ったかもしれない。
俺はそこまで疑ってしまう自分に、少し嫌気が差した。
だが、疑う必要はある。
研究会が終わった後、ニールは数人の学生に囲まれた。
「良い意見だった」
「君の考えは面白い」
「今度、参考文献を紹介しよう」
好意的な声。
その中に、別の熱が混じっていないか。
俺は少し離れて見ていた。
彼らの目には、純粋に新しい知識を喜ぶ光だけではなかった。
自分たちの主張に使える、都合の良い正論。
それをきれいな声で語れる、便利なマイク。
そんな熱が、ほんの少し混じっていた。
ニールの答えは、たしかに場を救った。
だが、救う答えほど、次の誰かに使われる。
それがたまらなく嫌だった。
すると、エルマー先輩が俺に近づいてきた。
「アルバート君」
「はい」
「ロイド君の返答、君が助言したのかな」
来た。
俺は微笑んだ。
「ロイド君自身の言葉です」
「骨組みは?」
「彼自身のものです」
嘘ではない。
少なくとも、今の答えはニール自身の言葉だった。
俺は、彼に代表ではないと言っていいと伝えただけだ。
いや。
それだけではないかもしれない。
だが、全部俺の言葉にされては困る。
ニールの言葉を、俺の影で塗り潰すべきではない。
エルマー先輩は、少しだけ目を細めた。
「君は、上手いね」
「何がでしょう」
「相手の言葉を奪わずに、相手が言える場所を作る」
それは、褒め言葉だった。
だが、少し怖かった。
また見つかった。
そんな気がした。
「買いかぶりです」
「そうかな」
「そうです」
俺は丁寧に頭を下げた。
「本日は、良い学びの場をありがとうございました」
これ以上踏み込まれる前に、会話を閉じる。
エルマー先輩は、それ以上追ってこなかった。
その点は、ありがたかった。
帰り道。
ニールは少しぼんやりしていた。
「大丈夫ですか」
俺が尋ねると、彼は苦笑した。
「大丈夫、とは言い切れません」
良い。
その返事は良い。
「緊張しました」
「でしょうね」
「でも、言えました」
「はい」
「私は、平民全体の代表ではないと」
「はい」
ニールは少し立ち止まった。
「それを言っていいのだと、思っていませんでした」
俺は黙った。
「平民出身だから、平民のために言わなければならない。奨学生だから、機会をくれた人たちに応えなければならない。優秀だと言われるなら、正しいことを言わなければならない」
ニールは、少しだけ目を伏せた。
「そう思っていました」
期待だ。
ここにも、期待がある。
期待は貴族だけのものではない。
平民出身の奨学生にも、別の期待が乗る。
同じ出自の者の希望。
機会を与えた者の評価。
能力主義を掲げる者たちの旗。
ニールもまた、背負わされかけていた。
「正しいことを言うのは、悪いことではありません」
俺は言った。
「ですが、正しいことを言うために、自分を旗にする必要はありません」
ニールは俺を見る。
「旗に」
「はい。人は、旗を見て集まります。ですが、旗は風雨にさらされます。矢も飛んできます」
ニールは少し笑った。
「リオネル様らしい表現ですね」
「そうでしょうか」
「はい」
ギルバートが横から言った。
「アルバートは火とか旗とか、たとえが物騒だな」
「平穏に暮らしたい人間の語彙ではありませんね」
クラウスが淡々と付け加える。
ひどい。
だが、否定はできなかった。
その時、廊下の向こうからセシリア嬢が歩いてきた。
彼女は俺たちを見ると、少しだけ微笑んだ。
「皆様、研究会の帰りですか」
「はい」
ニールが少し緊張しながら答える。
セシリア嬢はニールを見た。
「良い発言だったと聞きました」
「もう聞いたのですか」
俺が思わず言うと、セシリア嬢は静かに微笑む。
「学院の噂は馬より速いのでしょう?」
俺の言葉だ。
なぜ覚えているのか。
いや、覚えているだろう。
この人は、そういう人だ。
ニールは少し照れたように頭を下げた。
「ありがとうございます」
セシリア嬢は柔らかく言った。
「誰かの代表ではなく、一人の学生として学びたい。とても大切な言葉だと思います」
ニールの表情が少し緩んだ。
その言葉は、彼にとって救いになったようだった。
セシリア嬢は次に俺を見た。
「アルバート様」
「はい」
「あなたも、お疲れさまでした」
「私は何もしていません」
「そう言うと思いました」
なぜ先に読まれるのか。
セシリア嬢は少しだけ首を傾げた。
「ですが、言葉を奪わず、言葉を置ける場所を作るのは、何もしていないとは言いません」
エルマー先輩と似たことを言われた。
胸の奥が少しざわつく。
また見つかる。
また役割になる。
そう思った瞬間、セシリア嬢は一歩引いた。
「ただし、それはあなた一人が背負うものでもありません」
その一文で、少し呼吸が戻った。
救われた。
とは、思いたくない。
思いたくないのに、喉元に突きつけられていた見えない刃が、ほんの数ミリだけ遠のいたような気がした。
本当に、この人は距離の取り方がうまい。
見抜く。
だが、囲わない。
指摘する。
だが、役割にしない。
それが、少しだけありがたかった。
その夜。
俺は兄への手紙を書いていた。
『兄上。
本日、ニール・ロイド君が古代史研究会の討論会に参加しました。
血統と能力についての議題でした。
彼は、平民全体の代表ではなく、一人の学生として発言すると明言しました。』
そこまで書いて、手を止める。
ニールの顔を思い出す。
緊張していたが、逃げなかった。
正しいことを、旗にされない形で言った。
それは、かなり難しいことだ。
『正しいことは、言い方を間違えると誰かの旗になります。
ですが、彼は自分の言葉で、自分の場所に立ちました。
少し、安心しました。』
書きながら、俺は少しだけ笑った。
兄にこんな報告をしている時点で、俺の学院生活はもう普通ではない。
それでも、今日は悪いことばかりではなかった。
ニールは、自分を代表にされることを拒んだ。
ギルバートは、横で黙って見守ることを覚えた。
クラウスは、相変わらず冷静に毒を吐いた。
セシリア嬢は、見抜いたうえで一歩引いた。
悪くない。
そう思いかけて、俺は筆を止めた。
悪くないと思ってしまうことが、少し怖い。
関係が増える。
信頼が増える。
期待が増える。
その先に何があるかを、俺は知っている。
だが、今世のすべてが前世と同じとは限らない。
そう思いたい自分もいる。
最後に、こう書いた。
『ご心配には及びません。
今日は、茶を飲む前に少しだけ良い日だったと思えました。
ただし、明日もそうとは限らないので、茶葉はやはり多めにお願いします。』
封をして、俺は息を吐いた。
その時、扉が叩かれた。
寮の使用人が封書を持っていた。
嫌な予感がした。
良い日だったと思った直後に封書が来るのは、だいたい良くない。
「アルバート様。学生自治会よりお届け物です」
学生自治会。
俺は封書を受け取った。
中には、短い文面。
『本日の古代史研究会に関する報告が、すでに複数届いている。
平民奨学生への政治的接触について、相談制度の対象に含めるべきか検討したい。
明日、可能な範囲で意見を聞きたい。
マティアス・フォルナー』
俺は、しばらくその文面を見つめた。
可能な範囲。
意見を聞きたい。
まただ。
また、火種が制度に戻ってきた。
問題は解決した。
ニールは自分の言葉で立った。
だが、俺の平穏はまた死んだ。
そして次に迫る影は、少しずつ大きくなっている。
平民奨学生への政治的接触。
相談制度。
自治会。
上級生。
ユリウス。
すべてが、ゆっくりと一本の線でつながっていく。
俺は天井を見上げた。
「兄上」
思わず声に出た。
「茶葉、やはり足りないかもしれません」
翌朝。
俺が教室に入ると、ニールがこちらを見て、少しだけ笑った。
昨日より、背筋が伸びている。
それを見て、俺は少し安心した。
その横で、ギルバートが当然のように言った。
「アルバート。今日の自治会には俺も行く」
「なぜご存じなのですか」
「マティアス先輩から俺にも来た」
「なぜレイヴン様にも」
「知らん」
クラウスが横で淡々と言った。
「もう君たちは、まとめて扱われ始めているのかもしれないね」
やめてほしい。
本当にやめてほしい。
俺は静かに目を閉じた。
正しさだけでは身を守れない。
昨日、ニールにそう伝えた。
だが、どうやら俺自身も、まだうまく守れてはいないらしい。
それでも。
ニールが自分の言葉で立てたなら、昨日の火消しには意味があった。
そう思うことにした。
たとえ、その火消しがまた新しい火種になったとしても。
俺は小さく息を吐き、いつものように答えた。
「内容によります」
ギルバートが少し笑った。
クラウスも肩をすくめた。
ニールも、少しだけ笑った。
その笑いが、今朝は少しだけ軽かった。
だから、まあ。
今日も何とかなるかもしれない。
たぶん。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、ニールが「平民奨学生の代表」として使われかけるお話でした。
正しいことを言うのは大切です。
ですが、その正しさを誰が、何のために使うのか。
リオネルはそこに危うさを見ています。
ニールは少しずつ、自分の言葉で立てるようになってきました。
そしてリオネルの平穏は、相変わらず少しずつ遠ざかっています。
逃げたいのに逃げきれないリオネルを、ブックマークや評価で見守っていただけると嬉しいです。




